誓い― 昔語り ―

「イルージアが再びアルデシールと見(まみ)えたとき、彼女はエルディア国軍を率いていた。サレアで女王の下に編まれたものだ」
 フィル=シンはため息を吐いた。
 イルージアが無事に逃げおおせたこと、サレアでルフィシア女王と巡り会い、エルディアを再び起こすための力を得たこと。
 それらを思ったとき、自然と安堵の息がこぼれたのだ。
 しかし祖父はこう続けた。
「だがエルディアが真に復興を遂げるのは、それからさらに六年を有する」
 そして温くなった茶を飲み干すと老人は立った。
「続きはそこに至るまでの五年をおまえが解いてからだな」
「ええ〜っ。ここまできて、まだ五年!」
「たった五年だ」
 肩を落とし俯いたフィル=シンだが、落胆のため息を吐ききると顔を上げた。
「いいわ。そんなこともあろうかと思って、ちゃんとキ・ファ古語の辞書も借りてきたんだから!」
 ザレーディールの手記と、それを補うキ・ファの史書が、今のフィル=シンの道標だ。

 ゆっくりと落ちてゆく日に中庭の影が長く延びている。
 神殿の東の中庭に面したこの部屋は、西棟が午後の日を遮る。
 あと半時ほどで、室内には明かりが必要になるだろう。
 グァンドールの私室に通されたランドゥイスはゆっくりと調度を見回した。
 廊下に映る昼下がりの緩い光のせいか、部屋の雰囲気は随分と静かに感じられた。
 開け放たれた窓からの風がふと微かに香る。
「まあ、可愛らしいこと」
 香りの源を探したランドゥイスが目を留めたのは、窓際の鏡台に飾られた小さな一輪挿しだった。
 白い石で創られたいかにも優しげな様子の品だ。華美ではなく、自己の存在を主張することもなく、それでいて人の目を惹く。
 白い石はガラムのものに似ているが、わずかに黄みを帯びたその色で、もっと東の産であることがランドゥイスにはわかった。
 飾られる花がないことが寂しく思われた。
「花は、飾られませんの?」
「飾る者がなかったのでな。そなたに頼もうか。もっともエルディアではなかなか手に入れるもの難しかろうが」
 まあ、とランドゥイスが笑った。
「今やキ・ファ、エルディア二国の主ともなったお方が謙虚なこと。一言お求めになられれば、いくらでも届けられましょうに」
「今は花を求めるに割く手は持たぬ」
「いつぞやもそのように仰いましたわね」
 数年前後宮を事実上廃止したときにも、グァンドールは同じことを言った。
「よろしゅうございます。承りましたわ。花はわたくしがご用意いたしましょう」
 季節は春だ。しかもここはティエル・カン城。古今東西のあらゆるものが集うと言うこの街で、花を探して見つけられぬことはないだろう。
 もっともグァンドール帝がこの世でただひとつ望んだ花を手に入れる術はもはやない。
 そのことを知る腹心は、姉のような心でそれを胸にのみ留めた。
「これがファ・シィン殿のお部屋でして?」
 問うとグァンドールは苦い笑いを浮かべ答えた。
「先王のかつての居室だ。アルディエート公であったころはここに寝起きしていたらしい。王宮が失われた今は、ここが何かと勝手もよいのでな」
 グァンドールの口数が増える。
 そのことに可笑しさを覚えつつ、でも、とランドゥイスはグァンドールの言葉を遮った。
「でも、ファ・シィン殿がこれらを誂えられましたのでしょう? それにこちらにお住まいでいらしたとも伺っております。でしたら、やはりここは、ファ・シィン殿のお部屋ですわ。ね」
 ランドゥイスの言にグァンドールはいかにも居心地が悪そうに肩をすくめた。
 悋気からの言葉でないことがわかるだけに、どう応じたものか扱いに困るようだった。
 その様子を十分に眺めてからランドゥイスは別のことを問うた。
「それで姫はいかにしてお逃げあそばしましたの?」
 勧められた椅子に掛け、ランドゥイスが話題を変えると年下の主はあからさまにほっとした様子を見せた。
「いかにして捕らえるのかとは聞かぬのか」
「まあ、捕らえるなどと大げさなことを」
「逃げた者を捕らえるのに、他に言い様があるなら聞かせてもらおうか」
「捕らえずとも、お戻りいただけばよろしゅうございますわ」
 わずかの間、押し黙ったグァンドールが目元を和ませる。
「参考までに、お戻りいただく方法もお聞かせいただきたいものだが」
「それは青宮殿下がお考えあそばすこと。わたくしや陛下が煩うことではございません」
「逃げられたことも、そなたが煩うことでもないと思うが」
「ええ、煩いなどしておりませんわ。口惜しくは存じますけれど、わたくしごときが煩ったところで如何とも」
 そこでランドゥイスはグァンドールの他に聞く者はないにもかかわらず声をひそめた。
「ですからこれは、ほんの退屈しのぎ」
 遠路はるばる足を運んだのですもの、それくらいの楽しみは頂きとうございますと、とランドゥイスが続けると、グァンドールは初めくつくつと、直にこらえきれなくなったのか身を折って笑い出した。
「わたしを退屈の慰みにしようなど、もはやそなたくらいしかこの世にはおるまいな」
 この世には。
 かつてグァンドールが「この国には」と言い表したことを知るランドゥイスは、刹那胸に覚えた痛みを抑え穏やかに微笑んだ。
 お気の毒な方。
 微笑みの裏にひらめいた言葉に感づいたのだろうか。グァンドールが物憂げな笑いを返した。

「青宮妃がどのようにして館から抜け出したのかは知らぬ。調べさせてはおるが、おそらくわからぬであろう。長く追求するつもりもない」
「ええ。お逃げあそばした後となっては、無意味でございますものね」
「そうだ。兵への反省を促す程の役にしか立たぬ。だが、それはさておき、あの娘は……青宮妃はわたしにしばしの暇を請いにやってきた。七日ほど前のことだ」
「まあ。なんと惜しい……」
 道があれほどに荒れてはいなければと、ランドゥイスがため息をついた。
「荒れておったな。兵馬が通える最低限は整えてきたつもりであったが、そなたが通えぬのであれば整ったうちには入らぬか」
「まこと、あれではとても街道とは申せませぬ。道とは形ではございません。人が歩み、通い、行き交うことができぬのでは……僭越かとは存じましたが、バルクの弟にも早急に道を整えるよう催促いたしました」
 うむ、とグァンドールが頷いた。
「サイラムは……宰相は何と?」
「春になりましたでしょう? 南が賑わってきたそうですわ。青宮殿下と姫にも、ナスラに赴く前に、ぜひ、ルフティスをお訪ねくださるようにと申しておりました。ルフティスは今、よい季節ですものね。ですからそれまでには道が通うよう手はずを整えるとの返事がございました」
 南の賑わいが何を意味するか、存分に承知の上でランドゥイスはそう応えた。
 ガラが動き始めたのだ。
「何でも随分と東よりの風が吹くそうですわ」
「なるほどな。それはよい」
 小者を近く呼び寄せると手近の紙に一筆したためた。
「青宮にはそなたの供をしてナスラに向かわせるつもりだった。が、南が賑わってきたのであれば、そなたに先んじてまずあれをバルクへ発たせることにしよう。これをアルデシールに。出立は二十日の後だ。青宮妃は今しばらく青宮母のもとに『残す』。バルクにてウェルアードに諮り、ルフティスに向かうよう伝えろ」
 グァンドール帝の書簡を受け取った小者が一礼を残して去る。
 その背を何とはなしに見送って、グァンドールは話を続けた。
「夜半だった。ふと人の気配を感じてそちらをみた。そこに、立っておった」
 グァンドールはランドゥイスの後ろ、たった今小者が出て行った部屋の入り口を目で指した。
 その姿を思い出すかのように、目を眩しげに細める。
「初めは夢か、あるいは幽鬼かと思った」
「どなたかと見紛われまして?」
 ランドゥイスの慰めるような口調にグァンドールは苦笑し、しかし隠すことなく頷いた。
「よく似ておるのでな。……気配が」
「わたくしもお会いしとうございました」
 入り口に掛けられた厚地の幕を見つめ、ランドゥイスはため息とともにそう呟いた。
「楽しみにしておりましたのに……ままならぬこと」
「すまぬな」
 いいえと答え、ランドゥイスが椅子を立った。
「明かりを」と部屋の隅に控える小者に声を掛ける。
 応じて部屋の燭台に火を灯す小者らに、グァンドールが酒肴を用意するよう命じた。

 酒肴が用意されると、
「わたくしがお世話いたします。そなたたちも、しばしお休み」
 そう言ってランドゥイスは用意された盆の一つを小者の手に渡した。
 小者が主の判断を仰ぐ前に、グァンドールがそれに重ねる。
「許す。しばし下がっておれ」
 与えられた肴を押頂き、一礼して部屋の外に控えた小者を見送って、ランドゥイスは瀟洒な彫刻の施された硝子の瓶をとる。そして手馴れた仕種で高杯に酒を注いだ。
 立ち上った香りにランドゥイスの眉尻が下がった。
「まあ。花酒(コルシャ)でございますね。珍しゅうございますこと。陛下はこういった酒は、あまりお好きではないと思っておりましたわ」
 どうぞと差し出された酒を受け取ると口をつけた後でグァンドールは答えた。
「好きではないな。酒としては」
 さようでございますかと聞き流し、ランドゥイスは酒器を盆に戻す。
 次にランドゥイスはいくつかの酒肴を手皿に選び取り盆へと移すと、グァンドールの元へと運んだ。
 本来であればランドゥイスが毒見をした後にグァンドールが口をつけるべきであるが、それについてはグァンドールは何も言わなかった。
 グァンドールが気取りのない動きでそれに手を伸ばす。
 それを待っていたかのようにランドゥイスが言った。
「……まあ、陛下。わたくしにはお勧めくださいませんの?」
 さすがに少々うんざりした表情を浮べ、グァンドールはぞんざいな口調で「好きに飲めばよかろう」と答えた。
「はい」
 主の不興を気にする様子もなく酒器の乗せられた卓の元へとランドゥイスは戻る。酒瓶を取るとわずかに震える手で自らの杯に花酒を注いだ。そっと酒を口に含む。
 目を閉じてゆっくり酒を喫した後、ほうと長い息を吐いた。女の呟きをグァンドールの耳が拾う。
「懐かしい……」
 ランドゥイスの口の端にほんのりと笑みが浮かんだ。
 十五のときにエルディアからキ・ファへと国を移ったランドゥイスにとって、それはおよそ三十年ぶりに口にする花酒(コルシャ)だった。
 閉じられていた瞼があがる。小さな光を湛える目が杯を穏やかに見つめていた。
 何かに気づいた様子でグァンドールが立ち上がった。ランドゥイスへと歩み寄り、卓に置かれていた瓶をとる。
 そしてほんの一口減っただけのランドゥイスの杯に静かに酒を注ぎ足した。
 杯を片手に、目の端を指で拭ったランドゥイスはもう一度小さく「懐かしい」と今度はエルディア語で呟いた。
 かすれるほどに小さな声での呟きだった。
「……長く、待たせた」
「いいえ……いいえ、あっという間でしたわ。まるで昨日のことのよう……」
 それでも杯の酒を見つめる目には、過ぎ去った三十年の月日が映っているのだろう。
「わたくし、道中ランガの城を拝見いたしましたわ」
 ランドゥイスの声には作られた明るさがある。
 崩れ去った城跡は石造りの壁がところどころ残るのみだったが
「中庭に面影がございました。……水を、供えてまいりました」
 ランドゥイスが再び指先で目元をぬぐった。滲んだ涙を見ぬようにグァンドールはランドゥイスに杯を促した。
 情けをかけあう間柄ではない。それぞれの抱える痛みには気づかぬふりをするのが、無言のうちに交わされた約束だった。
 静けさの中で、さらに二杯ほど汲み交わす。
 グァンドールでさえ強さを覚える酒だったが、ランドゥイスは「エルディアの」者らしく、花酒程度には酔った風情は見せなかった。
「ありがとうございます」
「うむ」
「それで」
 と未だ僅かに震える息を整え、ランドゥイスが穏やかに切り出した。
「姫をどなたかと見間違え、陛下はいかがなさいましたの?」
「夢ではなく現のことであると知り、生身の人であることを知り、その後にやっと青宮妃であると気がついた」
 促すように頷いたランドゥイスをグァンドールは誘い、長椅子に並んで掛けた。
「そしてあれは言った。『お父上様にはご機嫌麗しゅう』」
「まあ、父上様と? 兄上様ではなく?」
「そうだ」
 ランドゥイスが可笑しそうに笑う。
「陛下はなんとお応えになられまして?」
「うむ、と」
「ま」
「青宮の母の夫であるから、エルディアの慣習では、間違いでもなかろう。正すほどのことでもあるまい」
 慌てて言い足したグァンドールにランドゥイスが口元を片手で覆った。
「彼の方の『娘』に『父上』と呼ばれれば、それは感無量でしたでしょうとも」
 からかうようなランドゥイスの口調にグァンドールは「そなたにしても同じことではないか」と溢す。
 しかしランドゥイスは「いいえ」と目を丸くした。
「わたくしがあの方にお会いしたころ、わたくしはまだ十をいくつも越えてはおりませんでしたわ。それはもちろんあの方は立派なお方で、幼心にも憧れはいたしましたけれど、あなた様とはお話が違います」
「確たる形があった分、私より思うものも大きいと思うが」
「形を持たぬもののほうが、心に残すものは大きいとも申しますわ」
 何かを言いかけたグァンドールだが、大きく息をこぼすのみに止めた。

「何用かと私は問うた」
 それが精一杯だったとグァンドールは笑う。
「私の動揺を知ってか知らずか、あれは続けてこう申した。『夜分に不躾ではございますが、お父上様には、しばしのお暇を頂きたくご挨拶に参りました』」
「それは、……いよいよ言葉にも詰まりましょうね」
「まさに。呆気に取られるとは、あのことだ」
 グァンドールの浮かべる笑みに苦味は薄い。
 国主としての思惑とはことなり、彼の姫君に逃げられてしまったことに己一人が覚えるものは不快ではない。むしろ鮮やかにこの手をすり抜けていった娘に対し、爽やかな思いさえ覚えている。それを明かすことのできる、ランドゥイスは唯一の相手でもあった。
「やっと平静を取り戻したときには姿がなかった。……これを残して消えた。いや、これを取るために私があの娘から目を離した」
 懐から出したのは指輪だった。
 指輪が卓に置かれたときの小さな固い音がグァンドールの耳にはまだ残っている。
「これは?」

 覚えがございましょう。
 叔母の……ファ・シィンのものです。
 これは王からの花蔦紋(クォル・チュン)ですら身につけることのなかったあの方が、唯一つその身に帯びた品。
 この戦の前に私が譲り受けましたが、これはあなたが持つとよろしい。
 それが彼女の望みであると、私は信じます。

 ファ・シィンによく似た口調で語られたその言葉は、さすがにランドゥイスにであっても明かすことはできなかった。
 グァンドールが飲み込んだ言葉を察したのか、ランドゥイスがその指輪を取った。
「これはわたくしがお預かりしても?」
 女物の指輪はグァンドールが持つには、あまりに不自然だからだ。
「頼む」
 何も問わず、己の望みを察したランドゥイスにグァンドールが軽く頭を下げた。
 懐へと仕舞う前に、ランドゥイスは指輪を軽く見分した。

 銀(しろがね)の指輪はランドゥイスの指にはやや大きいようだ。
 平打ち、梨地。
 一見してそれだけの指輪には、しかし見れば繊細な花の図柄が細い線で掘り込まれている。
 描かれている花は雛罌粟(ひなげし)によく似ていた。
 そしてエルディアの始祖アディナの紋にも似ていることに、エルディアに育ったランドゥイスは気づいていた。
 石は青玉、ただ一石。
 だが、珍しいことに、その石も装飾もその全ては指輪の内、肌に触れる側に用いられていた。

「同じ色でございますわね」
 グァンドールが伏せていた目をランドゥイスに向けた。
「陛下の目と、同じ色ですわ」
 そうか、とだけグァンドールが呟く。
「ええ。青宮殿下も同じ。ナスラの紺青よりも鮮やかでございますのよ。そしてエルディアの青よりも深い。バルクの、グァンドールの色ですわ。美しいこと」
 楽しみでございます、とランドゥイスが笑う。
「殿下はきっと青宮妃のために花蔦紋を作らせましょう。それに青玉を用いるほどの粋があの子にありますかどうか……。ですが花蔦紋には女王(エルディアナ)の御名を戴かなくてはなりませんわ」
 そっと指輪を懐へとしまうと、ランドゥイスは空になったグァンドールの杯に花酒(コルシャ)を注いだ。
「陛下。姫と女王(エルディアナ)には何時この城にお戻りいただけますの?」
「そなたは……」
 グァンドールが笑った。
「優しげに見えて、難しいことばかりをねだる。たった今宿願を果たし、つい先ごろはアルデシールにも難題を出したばかりであろうに。あの姫の心を得てまいれだと? これ以上はない難問だ」
「さあ」
 殿下の首尾はさておき、とランドゥイスは柔らかな笑みを口元に浮かべた。
「陛下は、でも、きっと叶えてくださいますのでしょう?」
 私に再びランガを見せてくださったように、と声にされぬ言葉がグァンドールの胸裏に響く。
「無論。でなくば、消えるのはエルディアだけではない。この国も失われる」
 わずかに為政者としての顔をのぞかせたグァンドールだったが、その表情はすぐさまに消えた。
 花酒の香りの残るため息に、重さはない。
「そなたの言うとおり、わたしはつくづくエルディアの女に甘いようだな」
「陛下、下々ではそれをこう申しますのよ。『今さら何を』と」
「……ランドゥイス」
「はい、陛下」
「今宵は泊まってゆけ。ランガ公の……青宮妃の父君の話が聞きたい」
「お望みとあれば。何からお話いたしましょう。……あの方は、そう、稀に見るキサラの名手でいらっしゃいましたわ。技も巧みでいらっしゃいましたけれど、なによりもその音が。心をふるわす、それはもう美しい音を奏でられる方でございました」
 陛下は水琴をご存知でいらっしゃいまして? ルフティスではよく庭の装飾に用いますの。水が音を奏でる装飾でございますけれど、あの方の奏でるキサラはそれによく似た澄んだ音色をしておりました。ちょうど今時分でございましょうか。天気のよい日には、あの方はランガの城の中庭で、よく二人の妹君にキサラをお聞かせでいらしましたわ。そう、二の姫君は特にキサラに興味をお持ちのご様子で、あの方に熱心に教わっておりました。でも何分まだ小さなお手でございましたから、とても兄君のようには参らず……

「イルージアがティエル・カンを去っておよそひと月の後、青宮はバルクへと向かい、ルフティスに行くのね。ルギアを越えたイルージアを追うことをあきらめた、ということになるのかしら」
 フィル=シンはザレーディールの手記を確かめる。
「青宮母はティエル・カンに残る。そうよね。彼女がイルージアの身を預かったということになっているのだもの。ティエル・カンから動くわけにはゆかないわ。エルディアがキ・ファ帝の統治下にあることを示すためには、グァンドール帝もまたティエル・カンをしばらくは離れることはできない……でも」
 そうか、と声には出さずフィル=シンは呟いた。
「イルージアの目的も最終的にはサキスだもの。別々に追う必要はないんだわ。女王を探せば、おのずからイルージアは見つかる。あるいはイルージアを探せばサキスに辿り着く。それならティエル・カンに在るグァンドール帝が探索を指揮すればよい。だから、エルディアの施政についてはハンに任せたのね。エルディア人のハンなら、エルディアを傾けることはない。グァンドール帝はその分軍略に打ち込める。そして軍頭で兵を動かすのは青宮なんだわ」
 ザレーディールは皇帝及び青宮とエルディアの執政官ハンとの間を繋ぐため、ティエル・カン城市に残る。
「そうねぇ、戦地に在って役に立ちそうではないもの、この人。残すのが賢明だわ」
 ザレーディールが聞けば恥ずかしさのあまり悶死しそうなことを言ってのけたフィル=シンは、忙しく先を読み進める。
「青宮がバルクに留まった期間はおよそふた月。軍勢の半数をバルクに残し、半数でルフティスへ向かう。半数を残したのは、東都ナスラの動きを制するため、ね」
 読み上げ頁をめくろうとして手を止めた。
「サキスやイルージアは知っていたのかしら」
 キ・ファ国がバルクとナスラに分かれそうだったこと、ルフティスではガラ国との戦いが始まろうとしていたこと。
 そして、ガラ国が執拗なまでに東都ナスラへ働きかけていたことを。