持たざる者― ただそこに在りて思う ―

 セラナスが青宮に重用されるのは、余人にはない察しの良さにあった。
 主の思いを察するというのは侍従として当たり前のことのようにも思われる。
 だが、セラナスの「主の思惑を読む」力は、他の侍従たちのそれよりも群を抜いて優れていた。
 キ・ファの慣習に疎いため、儀礼については読みきれぬことも少なからずあったが、純粋に主の心を察するという点では、セラナスに及ぶ者はない。
 長らく青宮の傍付として仕えている年嵩の侍従たちでさえ、時に目を見張る。
 青宮が筆を求める前に墨が、馬をと命じるそのときには馬具が揃えられている。
 着替えも食事も、水の一杯でさえ、青宮の求めに先んじて用意する。
 諸事この調子であったので、このごろは青宮の傍近くには専らセラナスが侍ることになっていた。
 今もまた
「茶器の用意をお願いします。葉はバルクのメルガティカを」
 セラナスがそう言うのであれば、青宮はバルクのメルガティカを所望するのだと誰もが納得していた。
 セラナスが侍従として取り立てられて、ひと月の後である。

 茶器に湯を注ぐ。
 意匠などないに等しい簡素な茶器が青宮の茶器であることを訝しんだこともある。
 それを問うと青宮はこう答えた。
「茶が美しく見える」
 納得した。
 爾来、茶葉が開く瞬間をセラナスも愛でるようになった。
 ガラ国で生まれた茶は、キ・ファ国に渡り文化として花開いた。
 キ・ファの南方には今やガラを凌ぐほど広大な茶畑が広がっているらしい。
 その茶葉をさらに加工して作られたのがメルガティカと呼ばれるバルクの茶だった。
 蒸してやわらかくした茶の葉を幾重にも重ね、中に干した野菊の花を包んだ茶だ。
 ガラ国では用いられることのない、またキ・ファでも香りが薄いとあまり好まれない大きな茶葉で作られている。
 温い湯を注ぐと茶葉はゆっくりと解ける。茶葉に隠されていた野菊が淡い色の花弁を開くと、涼やかな香りが立ち上る。
 グァンドール帝がまだ西方鎮守公であったころ、バルクの街を興すために考え付いた茶だと聞いている。
 キ・ファ国東部と異なり、バルクのあるキ・ファ国西部はアルダ砂漠に程近い。固く乾いた土地は農作には向かない。
 バルク地方南部には豊かな水源もあるのだが、ガランダ(ガラムの裾)と呼ばれるその地は起伏の激しい地で、これもまた農作には不向きだった。
 畢竟、バルクはキ・ファ東部の豊かな穀倉地から、あるいはエルディアのはるか西からもたらされる穀物を、法外な値であがなうしかなかった。
 その金を得るために、バルクはそのときそのときで一番己を高く買ってくれる相手を主とした。
 バルクの民が戦わねばならぬわけは大地の貧しさにあったのだ。
 ただただ飢えを凌ぐために剣を取り続けた。
 その貧しさを打破するためにグァンドール帝が、南部地方から安く茶葉を仕入れ、自生する菊を包んで売ることを思い立ったのだという。
 小菊の持つ甘みが安い茶の行過ぎた渋みを打ち消し、その涼やかな匂いが茶の浅い香りを彩る。目にも美しく、値が手ごろであることもあり、広く人々に受け入れられることとなった。
 一服ずつ丸められた茶は携行にも都合がよいと、エルディアを通う商人たちにも受け入れられ、今では遠くジンガンにも知られている。
 今ではわざわざ品質の良い茶葉を用いたものや、見目良く栽培した色とりどりの小菊を用いたものもあるのだという。
 しかしセラナスが青宮のために煎じる茶は、昔ながらの安い茶葉と野菊で作られた「バルクのメルガティカ」だった。
 優しく儚く立ち上る茶の匂いは、公の纏う香りに似ている。

 青宮と公の婚約を聞いたとき、セラナスは単純に良いことだと思った。
 やがてキ・ファを継ぐ青宮とエルディアの王族が結ばれるなら、両国の戦も速やかに終息するだろうと考えたのだ。
 戦の終結と引換えにエルディアという国は失われるかもしれない。
 しかしエルディアが失われても、この国の民にとって、それが格別に悪いことだとはセラナスには思えなかった。
 セラナスはエルディアの東の果てを見てきた。
 町とも言えぬ町に生きる人々の暮らしは、スゥルであったころの自分と大差なく思えた。
 いや、単純に暮らしぶりだけを比べれば、飼い主のあった己のほうがまだ豊かであったと思う。
 少なくとも食うに困ることはなかった。
 それほどにエルディアの末端は荒んでいたのだ。
 枯れゆく井戸をめぐって争い、僅かばかりのこぼれた雑穀を奪い合う。
 国の荒廃と戦う彼らの目に、キ・ファ国の兵の姿は映らなかった。
 彼らを滅びから救ってくれぬエルディア国軍は、彼らにとって味方ではない。エルディア国軍が味方でないのなら、キ・ファ軍もまた敵ではなかった。
 己の生死とはまったく関わりのないところで交わされる剣戟に興味を抱く余力など、彼らには残っていなかったのだ。
 豊かな、そして温かな秩序の中に築かれたバルクを知ったセラナスには
「これならばキ・ファの統治下にあるほうがよほど生きやすい」
と当然のように感じられたのだった。

 しかし、青宮の供をしてティエル・カン城下の治安を担う隊を見舞ったときのことだった。
 帰り道、聞こえよがしに嘆く声があった。
 叩頭で青宮を見送るティエル・カンの民人のうちから上がった声だった。
 なんと言ったのか、エルディアの言葉に不慣れなセラナスにはわからなかった。
 だからこそ声の主が嘆いているのではなく、嘆くそぶりでキ・ファを、そして青宮を謗っているのだとわかった。
 エルディアの言葉を良く知る青宮付きの随人らが男の処遇を問うように青宮を見たが、青宮は男の前を素通りした。
 声などなかったかのように、青宮は男を一顧だにしなかった。
 すぐ後ろに付き従うセラナスも、それに倣い何事もなかったかのように男の前を通り過ぎる。
 しかし意識の端で男を観察することだけは忘れなかった。
 男は一瞥さえ投げなかった青宮に対し、苦々しげに舌打ちをしていた。
 そのことに怒りは覚えなかった。ただ不思議に思った。
 その男はまだ生きていた。
 五体満足だった。戦で傷を負ったようにも、病んでいるようにも見えなかった。働くための健康な体を持っていた。飢えている様子もない。
 そして理不尽な務めを課す飼い主がいるようにも見えなかった。
 毎日決まって数度の食事を自らの意思でとることができ、何着か以上の着替えを持ち、体を休める時と所も持っているはずだった。おそらく生まれたときから今日まで、それを奪われたことはないと見える。
 そんな男が何を嘆くのか。
 神殿に戻った後もその問いは、セラナスの頭を離れなかった。
 青宮の着替えを手伝うセラナスに、青宮が訊ねた。
「長々と何を考えている」
 ぎょっとして――たとえ一瞬であろうとも主の上に心がないことを、他でもない主に知られるのは失態だ――青宮を仰ぎ見ると、静かな表情の中にわずかに苦笑を含ませて青宮は言った。
「許す。言ってみよ」
 そこでおずおずと、何を失くしたでもないのに何故にああも恨みがましく嘆くのでしょうと問う。
「あの男の言がわかったのか」
「いえ。きっと恨み言だろうと、そんな気がしただけです」
 青宮は頷き、男が何を言ったのかをセラナスに教えた。
「『アディナの血を持たぬものが葬神殿の主とは、神たる王(エルディアル)の嘆きも如何ばかりか』」
「死者は泣きません」
 即答したセラナスから青宮はすいと視線を外した。
 セラナスがそのしぐさに疑問を覚える間もなく、青宮はつぶやいた。
「なるほど持たぬ者には決してわからぬ嘆きであろうな」
 声の突き放した調子にセラナスは動きを止めた。止められた、というべきか。
 着替えの間預かっていた青宮の剣が、途端に重く感じられた。
「築き上げたものが失われる。その苦しみは、築いた者でなくばわからぬ。バルクが失われれば、私も同じように思う」
 青宮の声に寒いものを覚えた。
 バルガンダ(バルクの民)でないものがバルクに座し、我が物のように振舞うそれを想像するだけで不快を覚える、と青宮は言う。着替えを終えた青宮は窓近くに歩み寄り、そこから市街を眺め渡した。
「エルディアの民はアディナの血を引かぬものを国主に迎えたことがない。その彼らが覚える今の苦みは、決して軽いものではなかろう。ましてや我らは異国の者。これを主とせねばならぬ。エルディアは下すべき敵ではあったが、戦が終わった今、本意ではない在り方を強いられるそのことを不憫だと私は思う。尤も」
 そこで青宮は市街からセラナスへと徐に視線を戻した。
「スゥルとして生きてきたおまえにわかろうはずもないが」
 続けられた青宮の静かな声に、セラナスはなけなしの思考さえも奪われた。手が小刻みに震えだす。
「……」
 だが、青宮は顔色を亡くしたセラナス見ると「近くへ」と手招いた。
 言われるままにセラナスは窓辺に立つ青宮の傍らへと歩み寄り、その足元に習慣的に膝を付く。
 窓からの弱い光が青宮の影をやわらかく床に描いている。
 頭上から青宮の声が静かに降りてきた。
「スゥルとは己さえ持たぬ者と聞く。そうした苦しみを知るおまえには、ティエル=カンの民人の嘆きは贅沢にも聞こえよう。しかし人は在りさえすればそれでよいというものではない」
 途端セラナスは在りさえすればよかった過去に、強い羞恥を覚えた。
 恥を恥とも思わなかったことを知らされ、その身は硬直した。
 俯いたままのセラナスに青宮はさらに言葉を重ねた。
「異国に生まれたおまえが、ランガ地方に住む者の暮らしを見、わが国(バルク)に帰すほうがよいと思ってくれたことは誇りに思う。しかし、ならばこそ、いや、なおのことティエル=カンに生きる者への哀れみを知らねばならぬ。今はまた、おまえもバルクのものであるのだから」
 そこに生きながら、己が国のことを知らぬのは不幸である、と青宮は言う。
 そうなのだろうか。そうなのかもしれない。よくわからない。ガラにいたときも、自分は国のことなど何一つ知らなかったのだから。知らないことに疑いを覚えることもなかった。それをこそ哀れと言うのだろうか。
「わからぬか。仕方がない」
 零されたため息に恐怖した。
 唐突に脳裏によみがえったのは、擦り切れるようにして事切れた父親の痩せた手だった。
 青宮の信を失っては、ここで生きて行くことはできない。ここでなければ生きられない。
 謝罪か、弁解か、言葉を紡ごうとしたが歯の根が噛み合わない。喉からは切れ切れに息がこぼれるだけだった。
 しかし青宮は恐怖に震えるセラナスの頭を撫でた。
 十しか違わぬはずのその人の手がとても大きく感じられた。
「よい。時をかけて学べ」
 はい、と答えたつもりだったが、やはり声にはならなかった。
「……持たざる者の傷を、私もよく知るべきであったな。脅すつもりはなかったのだが、すまぬ」
 うなだれたままのセラナスに、青宮は剣を遣すよう促した。
 セラナスが動揺のまま握り締めていた剣を受け取った青宮は、それを改めてセラナスに手渡した。
「礼を言う。私の道を今、おまえが指し示してくれた。その礼にこの剣ではあまりに軽いが」
 真意を測りかねた。呆然と青宮を見上げる。
「今、この戦の最中にあってもっとも手放せぬものであることを思い、私の感謝を受け取ってくれるとありがたい」
 叱責を受けるならばまだわかる。どうして感謝されるいわれがあるのか。
 柔和な眼差しに、ますます混乱した。
「取れ」
 反射的にいただけませんとあげたセラナスの声は裏返っていた。
「だめです。いけません。いただけません。第一わたしが剣を頂いても、それで何のお役に立てるというでもありません……! 勉強はします! 不勉強で申し訳ございませんでした。精一杯、努めます。だから、だからこれは頂けません、どうか、どうかご寛恕ください!」
 狼狽し固辞するセラナスを見て青宮は笑い――その笑みは久しく見たことのなかった清々しいものであった――頷いた。
「では、おまえの剣を預かる。わたしが使うべきを誤るようであれば、よく止めよ」

 そういう青宮であったから、公との間に婚儀が成れば、キ・ファとエルディアの間にも必ず平和が訪れる、と信じていた。

 事はそれほど単純ではなかった、とザレーディールは後に述懐するが、それはまだ少しばかり先の話だ。

 己もこの茶葉のようでありたい、と碗に茶を注ぎつつセラナスは思う。
 ガラ国で生まれ、バルクで身を立てた。いや、常人にとって立てたと言うほどのことではないに違いない。やっている事はスゥルだった昔と比べてとさして変わってもいない。しかしこうしてエルディアのかつての王都で、キ・ファ国青宮の茶を淹れていることの不思議を思うと感慨深かった。
 婚儀の後、公を――妃殿下をともなって凱旋した後には、青宮の奥向きを図ることを言いつかっている。
 もちろん実際に青宮や青宮妃の身の回りを世話するのは侍女らの仕事だが、それらの統括を任されたのだ。
 わたくしでよろしいのでしょうか、と訪ねたところ――それが実に恐れ多い事であったかは、随分経ってから知った。当時は見る間に顔を白くした青宮の表情に「またやってしまったか」と思ったくらいの認識であった――グァンドール帝は笑った。その笑みは今はランガにいる養父に似ていた。
「そなたがよいのだ。そなたでなくば成しえぬ。生粋のバルガンダ(バルクの民)であるそなたでなくば」
 セラナスを生粋のバルガンダと表した一言に、セラナスはグァンドール帝の意向を察した。
 おそらくグァンドール帝はキ・ファという国の在りようを変えるおつもりでいらっしゃる。
 グァンドール帝が多数の妾妃を迎えているにも関わらず、妃らとの間にただ一人の子も成さず、またこれまでに青宮に一人をも妃をも持たせなかった理由にも思い当たった。
 政の中央からトゥーランシヤ朝以前からのキ・ファの官の権を除くために、彼らの根である閨閥を絶つことをお考えなのだ。
「青宮妃」は「バルク遷都」と同じく、キ・ファ国をバルクのものとする布石の一つなのだと理解した。

 バルガンダとは放浪者、国を持たぬ者を意味した。もともとはそれらバルガンダの集う場所を、バルクール(旅する者の場所)と呼んだのだと聞く。
 ゆえにバルガンダは「故国を欲する者」でもあった。さだめを希求する者とも言う。
 キ・ファの古い慣習に捕らわれず、エルディアを倣うことなく、新たに「バルク」を興す。
 バルクでなければ生きられぬ、バルクより他に生きる場を持たぬセラナスを登用するのはそのためだろう。
「かしこまりました」
 その役目を引き受けることが、持たざる者であったわが身を救ってくれた義父やグァンドール帝、なによりも青宮のためになるのであれば、尻込みをしてなどいられなかった。
 むろん任されるものの重さに気後れがないわけではない。
 だが、大して難しくはないだろう。
 そうも思った。
 なぜならセラナスはグァンドール帝の成そうとすることの矢面に在りさえすればいいからだ。
 セラナスがどう謗られようとも、グァンドールがそれを望む限りにおいては敗を喫することはない。
 極論するなら、ただそこに「生きて在り」さえすればいい。
 ただ在り続けるだけでよいならば、己にも成せる。
 いや、在るだけのことにはなれている己は、おそらくバルクの誰よりもそれを上手く成せるだろう。
 成してみせる。
 それよりも旧皇都へ赴いた後も、青宮の元で働ける事が嬉しかった。
 そしてあの美しい人も一緒なのだと思うと、自然顔がほころんだ。

 青宮が目を通してる書簡は青宮母からのものだ。
 淹れた茶をさしだしたセラナスに「うれしそうだな」と青宮が声をかけた。
「はい」
 何がそれほどにうれしいのだか、とわずかに苦味を含む口調で青宮は笑う。
「ランドゥイスさまは」
「こちらにはひと月ほどで着くだろうとのことだ」
 ティエルカンには数日置きに早馬での報がもたらされる。
 バルクを出た青宮母ランドゥイスの無事を報せるものだ。
 数回に一度の割合で、ランドゥイスからグァンドール帝、あるいはアルデシールへと書簡が送られてくる。
 それを受け取るごとに街道や街道沿いの町の守備や復旧を手配する青宮の様子から察するに、ランドゥイスの書簡にはまめまめと旅路の様子が綴られているようだった。
「ではランドゥイス様のお迎えを支度いたしませぬと」
 セラナスがそう言うと、青宮は考える様子を見せた。
「殿下?」
「出迎えは必要ない」
 しかし言葉は「常であれば」と続けられた。
 青宮母とはいえ、ランドゥイスはグァンドール帝の妾妃の一人にすぎない。
 いつも僅かばかりの侍女らとともに、ひっそりと静かにグァンドール帝の宮に迎え入れられるだけだ。迎えの用意などがなされたことはかつてない。
「ですが殿下」
 セラナスは言う。
「陛下のお妃さまの一人ではなく、青宮殿下のただ一人の母君としてお迎えするほうが何かとよろしいのでは。むしろこれを機に、いっそ立后なさってもよいように思われますが」
「エルディアの対面を慮れと言うか」
「無礼を申し上げても?」
 お前の無礼など今に始まった事ではない、と青宮は一笑する。
「おそれいります」
 セラナスが気取った様子で頭を下げた。
「シェクァードの真似か。許す。申してみよ」
「憚りながら、この度のご婚儀はもとより両国の対面のためと承知いたします。いまさら対面を何をと言いたてる要がありましょうか」
「実に無礼だ」
 笑いながら青宮は茶を飲んだ。
「では母上の迎えを手配をする旨の許しを陛下に奏上せねばな。立后までは、不要であろう」
 文箱をと命じられ、セラナスはそれを運んだ。
 青宮に命じられ、蓋を開ける。そこには絹に包まれたカルシュラート公の簪が納められていた。
 公の婚礼のために用意された簪だった。
 ――これは揃いの一部でございましょう
 そう語った商人の言葉が、青宮の耳にも蘇ったのか。
「一揃い、改めて誂えさせるか」
 気のない様子で青宮はそうつぶやいた。
 ランドゥイスがバルクを発ってから、そろそろふた月が経とうとしている。
 当初は青宮母の到着を待って青宮とカルシュラート公イルージア姫の婚約、そして婚儀と進める予定であったが、街道は思った以上に荒れていたようでランドゥイスの歩みは随分と遅れている。
 数日の遅れであるならば、ランドゥイスを待つことも可能だが、ひと月以上遅れるとなっては難しい。
 可及的速やかに青宮と公の縁組が求められているからだ。
 そこで婚約は近々、婚儀についてはランドゥイスの到着を待って、とそれぞれ日取りが改められたのは先日のことだった。
 セラナスは絹に包まれた簪を見る。
 腕の良い職人が寝食を忘れてひと月、それでやっと作られたのがこの簪一本とあの商人は言っていた。
 同様のものを一揃い作らせるとなれば、相当の月日を要するだろう。
 まして此度の婚儀には国の威信も掛かっている。おざなりにはできない。
 もし一部であろうともエルディアの習いに沿うのであれば、それは必ずエルディアを超えるものでなくてはならないのだ。
「ご婚約の日取りまで数日では、およそ難しいかと」
 墨をする手は止めず、セラナスが答えると
「そうだな」
 もとから誂えさせるつもりなどなかったのか、青宮はあっさりと応じ、包みに触れることなくもう一度茶器を取った。
 公との婚約の話が持ち上がって以降、反するでも応じるでもない様子の青宮にセラナスは首を傾げる。
 むろん嫌だと言えるものではないことはわかる。この婚儀は政策なのだから。
 しかし仮に不承不承であっても、ここは喜ばしげな態度を取っておくことが賢明というものではなかろうか。
 青宮がそのように振舞えば、カルシュラート公もそれに応じた姿勢を取らざるを得ない。
 二人が――内実はどうであれ――親しんだ姿を見せればこそ、キ・ファとエルディアの間に漂う剣呑な空気も払拭されようというものだ。
 青宮にその道理がわからないはずもないのに、と思う。
 墨を勧める際に、疑問が口をついて出た。
「殿下はこの度のご婚儀が不服でいらっしゃいますか」
 皇帝の定めた事柄に不服という言葉を用いて問いかけた侍従に目をやることもなく、青宮は取った筆の先を見つめたまま軽い笑みを浮かべた。
「謀反を促すか」
「申し訳ございません」
 セラナスの足りない言葉を青宮が責めることはない。多くの場合、青宮はセラナスの言葉を補って聞き、稀に今のように「その言葉は適切でない」と婉曲に注意を促す。
「公をお迎えすることに何事か障りがおありなのかとお聞きしたかったのです」
 言葉を選びなおすと青宮は奏上文を記す手を止めた。目はいまだ手元に落とされたままだった。
「聞いてどうする」
「いえ」
 聞いてセラナスに何ができるでもない。ただの興味本位だ。
 なぜこんなにも無関心なのか。
 青宮妃を迎えることを考えたときに、公はその相手として上々の部類に入るとセラナスには思えるのだ。
 その理由を一々数え上げるのは省くが、……たとえばガラの姫君などを迎えるよりは、よほどキ・ファ国にとって、そしていずれはその帝位につく青宮にとっても幸いだと確信できる。
 数ある選択肢の中では公は最良の相手であると思われるのに、それを青宮が喜ばぬのはどうしても不思議だった。
 あるいは気に入った女人がすでにあると言うのなら、正妃を迎えた後に妾妃として後宮に入れればよいだけのことだ。
 青宮は書面から目を上げ、筆をおくと、セラナスの問いを検分する様子で椅子の背に身をもたせかけた。
「格別の障りはない。だが喜ばしくは思われぬ」
 格別でない程度には障りがあるのか、と思ったが、相槌は喜べぬ理由をこそ問うことにした。
「どなたかバルクに思われる方でもいらっしゃるのですか」
 その女性が青宮に正妃を迎えることに難色を示しているのならば、青宮の傍より排さねばならない。セラナスはそう考えたが、しかし
「ない」
 即答した青宮がわずかに笑う。
「そういった理由ではない。もっとも妃を迎えるにあたって整えねばならぬこともなくはない。そこは任せる」
 もし難色を示す者があるようであれば排せという命だ。
「畏まりました。では公がお好きではあられませんか」
「嫌うほどには知らぬ」
 それは確かにそうだろう。
 青宮はあの会見以降、公と顔を会わせてはいない。
 婚儀が決められた際も几帳越しに挨拶をしたのみ。以来、決まって二日おきに公のもとにセラナスを使いに出すが、「決まって」というところがいかにも形式的かつ儀礼的だった。
 セラナスを使いに迎える公も特に何を言うでもなく、婚礼の支度は主にセラナスと公の侍女――名はラスティア=エルセスト、ティエル・カンに住む飾り物職人の妻であった。夫は神殿に奉納する銀細工を手がける者でもあり、身元がしっかりしていること、かつて行儀見習いでカルシュラートの館にも出入りしていたことなどから公の傍につけることとなった――の間で進められていた。
「何故でございましょう」
 さて、と、青宮は首をわずかに傾ける。
「特に嫌悪することもないが……あるいはそうと定められたからか」
 そこで青宮は身を起こすと再び筆をとった。
「わたしは陛下の命に従うほかないが、公はそれに反することができる。それが」
「ご不快でいらっしゃいますか」
「いや」
 青宮はわずかに手を止め、ちいさな息をついた。
「案じられる」
 青宮が何を案じているのか。
 先だってのような騒ぎだろうか、あるいは婚儀がなって以降のことだろうか。
 先々にまで内に敵を抱えることになるのかもしれないし、ふとした折に寝首を掻かれないとも限らない。
 それとも、と「案じられそうなこと」が瞬く間に十数件は思い浮かんだ。
 なるほどとセラナスは頷いたが、アルデシールは自嘲めいた笑いをこぼした。
「そうではないが……あの場で斬っておけばこのような憂いは覚えずともすんだとは思う」
「殿下」
 軽口とも思われぬ青宮の思いつめた口調にセラナスは驚いた。
「が、陛下の命とあれば是非もない」
 そのように定められている、と青宮は言い口を噤んだ。
 それ以上はさすがに聞けぬままセラナスは空になった茶器とともに青宮の前を下がった。

 妾妃ランドゥイスがティエル・カン城市を訪れたのはさらに遅れ、それからひと月と半の後だった。
 暖かい日が続くようになり、日差しにも強さを覚えるようになったころであったと記録に残されている。
 このおよそ二十日ほど前には、エルディアの先王の妃リセル・ターガの父である人物、エリスハル=ハンがファーレントより帰還し、ティエル・カンおよびエルディア領内の諸雑事を執るようになっていた。
 ティエル・カンの人々の暮らしは目に見えて落ち着きを取り戻した。そして
 ――公は真に将であられた。
 ザレーディールの手記には、そのように記されている。