司享鳥の歌― 奏者は遷ろうとも ―

 サキスの歩んだ道は記されてはいない。
 辿ったであろうとされる道は語り継がれているが、その道中に彼女が何を見、何を思ったのかは物語の中にさえない。
 それは当時サキスの存在が、今ほどには重要視されていなかったことを意味するのだろう。
「どんな旅だったのかしら」
 呟いたフィル=シンに師である祖父は仄かな笑みを目元に浮かべた。
「これまで負うことのなかった荷を負い、歩くなど思いもしなかった道を歩く。行く先は知らぬ土地。危うい道を辿りながら、行く先々で荒れた街を見る。苦境にあえぐ人々を見る。見ていながら手を差し伸べることはできない。いや、差し伸べる手を持たぬ」
 人と関わることは許されない。
 追われる身とはそういうことだ。
 その時代に綴られたという物語をフィル=シンは知っている。
 幼いころ何度も聞かされたおとぎ話だ。
 捨てられた街、失われた暮らし、砂に消えた道、跋扈する盗賊……その盗賊でさえ、元はエルディアの民だった。
 盗賊の王と呼ばれ近隣を恐怖に陥れた男が、一方では貧しい民を守り横暴な役人や軍人崩れの無法者たちを相手に戦った話もある。
 義賊か、単なる悪党か。簡単に判じることはできない。
 無論、おとぎ話はおとぎ話だ。物語を事実と混同してはならない。けれどそこに語られる背景に嘘はない。
 飢えと渇きと不安に怯える日々がこの国に展開されたことは、紛れもない事実なのだ。
 それらを目の前にしながら何一つできぬままに通り過ぎる苦しみはどれほどのものだろう。
 サキスの胸中を思い切なさを訴える心とは別に、時を隔てた胸にはもうひとつ浮ぶことがあった。
 たとえ誇張されてはいても真実の欠片が潜んでいる。
 花傑伝を指しそのように言った祖父の言葉をフィル=シンは噛みしめる。
「この旅がサキスを王女から女王へと変えた。己が負うものの重さを知り、大きさを知り、なおその責務に挑む心を育てた」
 その詳細が語られることはなかったが、と老人は悪戯めいた表情を作る。
「断片ならわかる」
「どうして?」
 関連する書籍には目を通している。もちろん全てとは言えない。それでも上面を撫でてわからないと判じたのではない。
 驚きに声を裏返した少女に、祖父は笑みを深める。
「フィルの中のエルディアがもう少し時を進めばわかるだろう。今はおまえの持つ時の地図から真実を探してゆこう」
 そんな、と抗議の声をあげようとした少女は口を閉じる。軽く息をついた。
「そうね。焦っちゃいけないんだわ」
「さて、フィルの持つ地図の中で時を進むにもっとも相応しいものはどれだね」
 フィル=シンが逡巡の後に手を伸ばす。机の上に高く詰まれた書物の中からひとつを選んだ。
 意外さを滲ませる声が師の口から漏れた。
 気をよくしたのだろうか、勝気な表情で少女は手にした書を示す。
「ザレーディールの手記よ」
「なぜかな」
「サキスの傍近くに仕えたのは四人。花将、天将、侍女イフェリア、そして王の盾と呼ばれた者。この中で動向が確かに記されているのはただ一人。花将イルージアだけだわ」
 サキスと行動を共にした二人、天将と侍女の足跡は当然明らかでない。
 王の盾と呼ばれることになる者が歴史に姿を現すのは、サキスの挙兵以後のことだ。
 イルージアを追うことがサキスへとつながる、と少女は自信ありげに言う。老人はふむと一言、頷くと茶碗を取った。
「と、思ったの。ダメだったかしら?」
 同じように茶碗をとった少女が師を窺う。
 老人は茶碗を卓に戻し手を伸ばした。弟子の頭をそっと撫でる。
「いや。それがおまえの選んだ地図であるなら、それに沿って案内しよう」
 ザレーディールの手記をフィル=シンから受けとり、どこまで目を通したかと祖父は尋ねた。
「五分の一くらい。難しいのね。キ・ファの古語って」
「助詞がないからな」
「これでどうして誤読しないのかしら」
「事細かな決め事がある。それに則って記し、それに順じて解する」
 面倒ね、と言いかけた少女を老人は窘めた。
「綴られていることを読むからいけない」
 眉根を寄せた少女に、たとえばと老人は微笑む。
「このお茶は冷たくなってその上渋くてかなわない、と言ったとしよう。さてその意味はなんだね」
「新しく淹れなおさないか、でしょ」
 少女は小さく笑い、湯を用意するために椅子から下りた。その小さな背中に老人は言う。声は笑みを含み温かい。
「そう。あるいはこの渋いお茶にあう甘い茶菓があるといい。ごらん」
 振り返った少女の目に映ったのは花を模した砂糖菓子だった。
 少女らしく「わあ」と表情を輝かせる孫に皿をとるように老人は言う。
「どうしたの、それ」
 声を弾ませ皿を差し出した少女に頂き物だよと祖父は応える。皿に並べながら、古い友人に祝い事があったのだと言う。
「玄孫が生まれたのだそうだ」
「きれいねぇ。食べてしまうのがもったいないくらい」
 うっとりと眺めた後で、少女は慌てたように続けた。
「飾っておきましょうって意味じゃないわよ、おじいちゃん」
「飾っておいても良いのだがね」
 いじわるを言わないでと少女が声をあげる。祖父は楽しげに笑った。
「わかっているとも」
 花かごのような皿をうっとりと見つめる少女に老人は言う。
「文字を、言葉を額面どおりに受けとるのは容易い。だが易きにも危うさがある。易さはまことを問う志を挫く。だが易きことの全てが誤まりというでもない。厄介なことだがな」
「歴史を紐解くには事の難易に関わらず問う姿勢が大事なのね」
「何事についてもだよ」
 一息ついて老人は師から祖父のものへと口調を改める。
「さあ、お茶はどうする」
「もちろん熱いお茶を、濃い目に淹れるわ。たっぷりとね」
「では湯が湧くまでの間におまえの読んだ五分の一を聞こう。そしてお茶が入ったら、その五分の一を解いてゆこうか」

 その楽は毎夜聞かれた。
 切々と奏でられるその曲をセラナスは知らない。
 清水を満たした玻璃の高杯を指で弾くようなその音は、琵琶とも琴ともまた異なる響きを持っていた。
 窓の外、その源を追い視線を転じる。静かな闇だけがそこにあった。
 セラナスの目は見えるはずのない音を求めてティエル・カンの夜を探る。
「キサラの音だ」
 青宮が言った。
「キサラ、で、ございますか」
 振り返ると長椅子に身を起こした青宮が、立ち上がるところだった。
 青宮は窓へと歩みながら言う。
「琵琶を少し小ぶりにした程度の半球形の胴を持ち、首は長い。弦は羊腸、十一弦。琵琶とは異なり、指で爪弾く。おまえに届けさせたあれだ」
 言われ思い出した。

 先日の非礼を詫びるため――当初の思惑より、二つ三つ詫びねばならぬことが増えてはいたが――青宮の使いとして、買い求めた耳飾を携え彼女の元を訪った。
 つき返されるのではないかとの予想とは裏腹に、しばらく耳飾を眺めた後、カルシュラート公は静かな声で言った。
「ご厚意感謝いたしますと、青宮殿下にはお伝えください」
 表情のない淡々とした応えではあったが、口調は思いの外やわらかかった。
 先に砂上で聞いた口上のように手厳しくやられるものとセラナスは覚悟していたがそれもなく、取り上げられた簪についても一言も触れることはない。
 侍女にそれを片付けるよう公は命じ、セラナスに軽く頭を下げた。
 多少の拍子抜けを覚えながらも、
「他にご所望のものがございましたら、お申し付けください。後ほど改めてお届けに参ります」
 青宮に教えられたとおりエルディアの言葉で話しかけると、カルシュラート公の青ざめた顔に僅かに笑みが浮ぶ。
「エルディアの言葉が?」
 問いかけられ、慌てて否定した。
「いいえ。実はこれだけしか……その、青宮殿下にそのように申し上げるようにと仰せ……仰せつか……」
 その先をどう続けてよいのかわからなくなってしまった。
 侍従として使えるようになってまだ日も浅い。作法も言葉も付焼き刃だ。
 しかたなく「本当はキ・ファの言葉も得意ではないのです。わたしはガラの生まれなので」とセラナスは白状した。
「職を賜ってからの日も浅く……」
 呆気にとられたのだろう、侍女が視界の隅で動きを止めた。
 必要以外に話しかけたことにか、それとも自分がキ・ファの生まれではないことか。
 あるいは高貴な方への使いを承る者としてはあまりにも不調法だからだろうか。
 しかし常であればありえぬことだろうとも、今は戦時。至れり尽くせりとは参らぬのも仕方ないことと思ってもらうより他はない。
「申し訳ございません」
 会釈したセラナスに
「ガラの」
 呟き、眉元に考える表情を僅かに浮かべた公は言う。
「ではこのほうがよろしい?」
 長らく聞かなかった言葉だった。懐かしむ故郷ではないはずだったが、耳に馴染んだ言葉には痛いほどの郷愁を覚えた。
「ガラの言葉をご存じなのですか」
 辛うじてキ・ファ語で聞き返す。
 キ・ファ語での返答があった。
「ええ。ガラを良く知る者も身近におりましたので。少し前に暇を出しましたが」
「……その方は、今は」
 郷愁を覚える故郷ではないと言いながら、どこかで懐かしむ思いがあったのかもしれない。
 その人物を訪ねてみたいという明確な思惑があったのでもないが、所在を尋ねてしまった。
「サハンにいてくれればよいと思います」
 サハンと聞いてシェル・カンを連想した。シェル・カンの民をサハンに収容したからだ。
 同時にシェル・カンを襲った惨禍を思い出す。煤けた石の窯が日暮れの空に影を描く。鼻の奥にあの臭いが蘇り、胃の底からえずきがこみ上げた。
 青宮についてシェル・カンから街道を北上した。
 早駈けは得意ではなかったが、あの場から一刻も早く、少しでも遠く離れることができるならと皆について必死に馬を走らせた。
 一晩を走りとおし、翌早朝、サハンで馬を下りた。
 生きた人の気配、その営みに、あれほどの安堵を思えたことはない。
 次の馬を用意するまでの僅かな時間で青宮はいくつかの命令を下した。
『生き残りをここへ移せ。大包舎を十ほどあけて被災民を収容せよ。分け与える食糧は兵糧の一部を用いるよう。サハンの民からの徴収は禁じる。いいか、決して民を飢えさせるな。飢えは人心を荒ませ、我らへの敵意を募らせる。兵站が整うまでは多少の苦労を強いることとなるが耐えてくれ。他に入用のものがあれば使いをよこせ。わたしが用立てる』
 命を受けたサハンの大隊長が下がる。その背を見ながら、十はいらぬかもしれぬな、と青宮がこぼした言葉が耳の奥に響く。
 公の側に仕えたその人が、もしシェル・カンにいたのであれば生きてサハンにいるとは思えなかった。
 あるいはサハンにいたのであればと考え、それはないことに気づく。
 いれくれればよい、と公が言ったからだ。
 おそらくは戦火を避け、シェル・カンに移住したのだろう。王都以上の戦災にシェル・カンが見舞われるとは思いもしなかったに違いない。キ・ファ軍でさえ、そのようなことは考えなかったのだから。
 シェル・カンにいたと言わなかったのは、公の青宮への配慮だったのかもしれない。
 窺い見た公の顔にこれといった表情はない。
 無表情というほどに不自然ではない、けれど常人には見られぬ硬質な表情にセラナスは言葉を失った。
 そのまま退出してしまうほうがよかったのかもしれない。
「……公はキ・ファの言葉もお上手でいらっしゃるんですね」
 ようやく紡いだ言葉に、公は笑みを目元に刷く。
 ひょっとしてお上手というのは相応しくない表現だったろうか。
 思いながらも生者の気配のなかった顔に、人らしさが浮んだことに安堵する。
 しかし応えたのは公ではなく公につけた侍女だった。
「姫がお育ちあそばされましたのはバルクにも程近い街でございます」
 姫というのが誰を指すのか即座にわかりかねた。理解して心中で苦笑をもらす。
 王族であることは知っていた。継承権こそ持たぬものの祖母と二人の伯母を国母にもつ類い稀な姫だ。
 それでも姫という呼称は彼女には不釣合いに思えた。
 決して公が姫君らしくないというのではない。セラナスの知る姫君とはあまりにも異なるがゆえに彼女を姫と呼ぶことに違和感を覚えざるを得ないのだ。
 それほどまでにセラナスの目に映るカルシュラート公は「公」であり「将」だった。
「あの、どちらですか」
 ここまで通った道にその街はあったかもしれない。姫君らしからぬ姫君の育った街がどのようなものであったのか、それは他愛のない興味だった。
「ランガです」
 三度血の気が引く思いがした。
 それは当に失われた街だった。セラナスがまだガラにいたころに滅んだ街だ。
 失われてたった数年。すでに砂に埋もれ始めていた廃墟を思い出す。人のいなくなった街はこうも荒れ果てるものかと寒さを覚えたほどだった。
 墓標のように立つ石々は崩れた城壁か。転がる錆びた兜が東進するセラナスたちを恨めしげに見つめていた。
「か、重ね重ねのご無礼、申し訳ございません」
 椅子から下り、セラナスは両手を着いて床に伏せた。スゥルが主に許しを請うための姿勢だった。
 侍従らしからぬ振舞いだとは思ったが、この他には詫び方を知らなかった。
 是とも否とも返されぬ空白に、冷たい汗が流れた。
「キサラをお貸しいただけましょうか」とやわらかな声がかけられる。
 意図をつかみかね公の顔を仰いだ。
 穏やかというにはやはり温度を感じさせず、さりとて冷たいと言うほどの鋭さもない。
 どう応じてよいものかたじろぎを隠せぬまま、公が重ねる言葉を聞く。
「青宮殿下にはどうぞよしなにお伝えくださいませ」
 返すことのできる言葉は「畏まりました」だけだった。

 復命に青宮はさっそくキサラを手配した。
 届けたそれはガラでいうジーダに似た楽器だったが、弦の数が多いこと、弦を擦る弓も叩く撥もないことを不思議に思ったのだった。
 なるほど爪弾く楽器であったのかと得心する。
 エルディアではもっとも好まれる楽器のひとつだ。嗜む者も多いと聞く、と青宮は続けセラナスの横に立つ。
 しばし聞き入った後、青宮は軽く溜め息をついた。
「見事なものだな」
 キサラの音をはじめて聞くセラナスには、その奏が真実見事であるのかはわからない。
 だが胸が痛むほど美しいその響きから心を逸らすのは難しかった。
 絶え間なく注ぎ込まれる音色に溺れてしまいそうだと思う。
「なんという曲なのでしょう。美しいけれど……」
「司享鳥(アズレア)の歌だ」
「アズレア?」
 故人を偲ぶ歌だ、とだけ付け足された。
 つと窓から離れ長椅子に戻る青宮の背をしばし見る。背後から楽がセラナスを包んだ。
 夜風に溶けたキサラの音は囁くように、語りかけるように繰返される。
 心は再び窓の外に向けられる。
 亡き人の魂を慰める歌はガラにもあった。仲間が失われるたびセラナスも歌った。スゥルにただ一つ、歌うことの許された歌でもあった。
 けれどこれは、と思う。
 こんなふうに嘆かれては魂は眠れない。
 彼女の哀しみをそのままに眠ってしまえるはずがない。
 文箱に片付けた公の簪を思い浮かべた。
 彼女は贈り主のために奏でているのだろうか。
 あるいはシェル・カンに消えた懐かしい人々なのかもしれない。
 曲は優しく穏やかであるにも関わらず、なお、哀しみに溢れている。
 ただ聞いているだけで喪失の痛みに侵されてゆく。
 閉めてくれ、という主の声に、セラナスは板戸を降ろし垂布の留めを外す。はらりと落ちるその布を一度手で受け止めて静かに広げた。
 遮られ幽かになったその音が、なお一層心を惹いた。音を求め、意識は留めようもなくそちらへと漂ってゆく。
 青宮が手にする玻璃の高杯をぼんやりと見る。揺れる清水に、これは涙の音だと思う。
 燭を映し淡い金色の光を湛えるそれは、彼女の髪を思いださせた。
 時折色を深めながら揺れる水はその目の色にも似ている。
「夜毎聞かされるのではたまらぬな。とてつもない非道を働いたように思わされる」
 ふとこぼされた哂いまじりの青宮の言に、彼もまたこの音に宿る痛みに耐えかねていることを知る。
 もとより戦は非道なものだ。
 戦であるうえは、道に非ぬも互いに承知。こちらだけが一方的に責められる謂われはない。
 仮に面と向かい詰られたのであるなら、セラナスであってもそのように反駁しただろう。
 だか公は何ひとつキ・ファを責め詰ることはしなかった。
 青宮の使いの問いに誠実な答えを返した。
 返された答えに傷つき、聞かねば良かったと悔やんだのはセラナスの勝手だ。
 公は涙することもなく、嘆くこともなく、なぐさめにと与えられたキサラをただ奏でる。
 それゆえに音に打ちのめされる。
 青宮は手に取った高杯をしばし見つめた後、口をつけることなくそれを卓に戻した。
 片付けるように命じられ、セラナスは深く頭を下げた。

 聞き覚えのある歌だった。
 グァンドールは杯を持つ手を止めて、キサラの音に聞き入った。
 それは葬神殿に刻まれる詩を元に歌われるが、これと定まる歌詞はない。
 だがこの曲にあわせて歌う声を覚えていた。
 キサラの音は戦が終わるごとに、屍の横たわる大地の向こうから風に溶け幽かに流れた。
 その音に戦が終わったことを知る。
 明日からの日々を思い、明日を迎えることなく倒れた者たちを悼んだ。
 曲名も奏者も知らぬままに八年が過ぎた。
 戦の終わりを告げるその曲が、鎮魂の歌であることを知ったのは、十五年前のことだ。
 ランガにて講和した、忘れえぬ日のことでもある。
 奏でる姿を見たのもその一度きり。
 見慣れた白銀の鎧ではなく、出会ったときと同じくよく練られた絹の衣を纏っていた。
 これまでに流された血と、失われた命に。そしてこの後再び剣を交えることのないことを祈り。
 前置いて女はこの曲を奏でた。

 鋼の刃に倒れし君よ
 乾坤に 命捧し者よ
 君が望みたもうたのは 安らかなる日々
 君がただひとつ願いしは 美しき朝
 今 明けぬ夜に身を沈め
 常しえの眠りにつきし君よ
 我がための君の眠りを
 我が永久に守らんことを

 キサラの首を抱くその左腕には深い傷が刻まれていた。
 傷を与えた己を恥じ、戦場に引きずり出した運命を呪った。
 二度と切っ先を向けぬと心に誓い、だが誓いはすでに破られた。
 思えば出会いから別れまで、互いの間には常に戦と死が横たわっていた。
 戦に出会い、戦に語り、戦に分かれた。再びの邂逅はもはやない。
 互いをこのさだめに導いたひとつの死を思う。
 面識はない。一介の兵でしかなかった己と、一国の守りを任されていたその男は、直に剣戟を交えることもなかった。
 しかし男は斃れ、己は男がいずれ手にしたであろうさだめを図らずも手に入れた。
 皮肉な偶然にグァンドールは杯を傾ける。
 花酒(コルシャ)と呼ばれるその酒は、エルディアでは祝い事に振舞われることの多い酒だ。
 果汁にも似た甘さといい、花を思わせる匂いといい、酒に慣れた口にはとても美味いとはいえぬ。
 それでもこの酒を味わう日を心待ちにしていたのは何故だったか。
 辿る記憶の中に、これを初めて味わった日のことが浮びあがる。
 キサラの演奏を終えた女は、グァンドールの杯にこれを注いだ。
 エルディアの酒です。以後は貴国のいずこでもお楽しみいただけるでしょう。
 それに己はなんと応えたのであったか。
 思い出し、自嘲する。なんと儚い約束であったか、と。
 キサラの音に再び耳を傾ける。
 その死によってはじまりを作った男。その血を引く者の奏でる音が、ひどく懐かしいもののように響く。
 ファ・シィンの娘、と呼ばれるその者に対し、にわかに興味を覚えた。
 キサラを奏でる叔母の傍らにあったはずの幼い姿は、すでに忘却の向こうにある。
 よく似ていると思ったことだけが、脳裏に刻まれていた。
「シェル・カンの王女でなくとも、事は足りるな」
 炎上以降、王女は杳として行方が知れぬ。生きているのか、死んでいるのか。
 しかし、すでに手中に納めたあの「娘」で十分に用をなす。
 となれば所在不明の王女に用はない。いっそ死んでいてくれれば面倒もない。もし生きているのであれば
「片付けるか」
 その決断に、痛みは覚えなかった。
 カルシュラートが王位継承権を持たぬことは惜しまれる。だが名立たる王族が死に絶え、他に継承権を持つものがない今ならば、王位につけることすらも不可能ではないだろう。
 王女は死んだと布告する。一生を潜むというならばあえて探すまでもないが、愚かにも王女が名乗りをあげるならば偽者として始末する。そのうえであの娘を暫定的に王位につける。
 国が安定するまでと条件付ければ、エルディアの官も反対はすまい。
 その上でまず停戦に同意させ、その後にキ・ファを宗主国と仰がせるのだ。
 ガラがこれを不服として戦を仕掛けるのであれば、その戦いにはエルディアの軍をもって当らせればよい。自国の防衛だ。熱も入ろう。
 動乱に見舞われる国の天辺に乗せる人形ならば、辺境で安穏と育った王女より王都で軍を率いていた娘のほうが役に立つ。
 あの娘のために槍を取るものは多いだろう。
 無論人形がよからぬことを企まぬよう、補佐という名目の監視を付けざるを得ない。十三の子供を王に据え目付けを設ければ、それが傀儡であることは誰の目にも明らかだ。傀儡の王には人は従わぬ。しかしあの娘ならばその憂いも少ない。
 アルデシールに娶わせるにもさほど時を置かずに済む。
 囚われの身であることを良しとせず、自害を目論んだことはアルデシールから聞いていた。
「よく似たものだな」
 杯を置き、己の手を見る。命が惜しければ取れと伸ばした手はあっけなく払われた。
 間違えたのだ。手を取らせようとするのならば、当人や血を同じくする者の命ではなく
「民の安寧だったか」
 あの娘もおとなしく承諾はすまい。だが、民を質に承諾を迫れば否とは言わぬ、いや、言えぬ。
「まこと『ファ・シィンの娘』であるのなら」
 国のために槍を取り、「私」を捨てて戦場に立ち続けた者を思い出し、暗い笑いがこぼれた。
 聞けばどうやら婚儀を済ませてはいたようだが、民にそれは知らされてはいなかった。であれば、端からなかったものにしてしまえばよい。
 戦の終わりに安堵する民に、祝い事をひとつくれてやるのだ。
「盛大に祝わせよう」
 慄き縮み続けた民の心にはよい慰めになるだろう。
 開け放した窓からの吹き込むいまだ冷たい風が、頬の傷を撫でる。
 傾けた酒は舌に甘く、咽喉に強い。胸を焼く熱さに風は心地よかった。
 遠く響くキサラの音に目を瞑る。
 バルクでの日々が思い出された。