銅(あかがね)の大鷲― 道を護る者 ―

 鳥(イルヴァール)、と名乗ったその青年に男は訊ねた。
「荷はなんだ。どこへ運ぶ。道は」
 ガラム街道沿いの村々に住むものは、主にシェル・カンからランガへ、ランガからシェル・カンへと荷や書簡を運ぶことで生業を立てている。慣れぬ者では歩くこともままならぬその険しい道を駆ける彼らを伝書鳥になぞらえ、エルディアでは「風と峰の使者(イルヴァール)」と呼ぶ。そしてそれが彼らの姓でもあった。
 だが、彼らの荷は旅に必要とする装具や食糧だけで、荷も書簡もそれらしきものはない。問うと青年は人のよい笑みを浮かべた。
「それを探しに。まずはこのまま夏の道まで進んで、スフリスから西へ。それからルギアを越えてティエル・カン、その後はダル西街道からソーマ巡道を南に下ろうかと」
 崩れていはいたがめだった訛もない流暢なキ・ファ語だった。
 エルディアを一周するその道順を、男が手に持つ地図に青年は示す。
「ま、荷の都合しだいですけど」
「それは難儀だな」
 言うと青年は笑い、それから肩をすくめた。
「難儀ですよ、なんたって得意先が街ごと消えちまったんですから。おっと、勘違いしないでくださいよ。それをどうこうってんじゃない。戦だの政だの、俺は難しいことはわからないし、興味もありません。ただ、仕事がなけりゃ俺たちも食ってゆけないんで」
 追従とお愛想の半ばで青年は言う。
 ランガからティエル・カンへの荷も、急ぎのものはガラムの鳥たちが運んだと聞く。
 季節を問わず荷を通わせることのできるガラムは、しかし、鳥でもなければ通えぬ道でもあった。つまるところ、鳥たちへの運びの依頼が絶えたことなど、かつてはなかったに違いない。
「世情が落ち着けば荷も通うようになるでしょうけど、それまで雛に混じって口開けて待ってるわけにもゆきませんしね。で、雛の数も減らそうってんで、ちょっと早いけどあいつらも連れて行くことに」
 青年がちらりと視線で示したのはその連れだ。
 雛、というのは、鳥となるまえの子供たちのことだろう。
「いきなりの長旅でかわいそうだとは思ったんですが」
 青年は頭をかく。連れているのは二人の子供だ。兵の子を見慣れた男には、ひどくひ弱に見えた。
「本当ならガラム街道の往復から始めるんです。ガラムを通るのは道に慣れた鳥ばかりですから何かと融通もしてもらえますし……でも、まあ、ね」
 間引かれるよりはいくらかマシでしょう、という声にされぬ声が聞こえた。
「出稼ぎか」
「ええ。大きな仕事はなくても、道すがら荷や書簡を運ぶ。それで当面、飢えずにはすみますから」
「なるほど。歳は」
「俺は二十です。あいつらは……本当は十二歳と十三歳ですが」
 青年は声を落とした。
「十五歳にしておいてもらえませんかね。片方だけでもいいんで。十三だと仕事の頭数にいれてもらえない」
 賃を値切られてしまうことを訴える青年に、男は苦笑する。
「嘘は書けん」
 やっぱりだめか、と青年は軽いため息をついた。なんとしてでも、という響きはそこにはない。
 男は口調を少し和らげた。
「気持ちはわかるが、関で嘘が露見したら、金どころの話ではないぞ。首が飛ぶ」
 十二歳と十三歳。そう男は歳を記した。
 十四、五かと思ったが、なるほど十二であればあの細い手足も頷ける。
「手形に嘘は書けんが、これを検めるのは関だけだ。運びの依頼をするときにうっかり者が勘違いする分には、我らの知ったことではない」
 十五といって通らぬほど幼さが目立つでもないことを言い足すと、青年がにやりと笑った。
 どういうことですか、とは問わぬ察しのよさが気に入った。
「ただし、騙されたとそいつが訴えでてこぬかぎりは、な」
 そ知らぬ風に注意を促すと青年は心得たように会釈で応じる。

 街道を旅する者にキ・ファ国の手形が賦与されるようになり、ふた月。これまでに男が書いた手形はすでに百を越えた。
 旅人を怖がらせぬよう雑談を交えながら、いつものように書き記してゆく。
 三人の名と歳、その里、旅の目的だ。
「男一人、子供二人。歳は二十、十三、十二。鳥とその見習い。旅の目的は仕事。予定ではこのまま北上、スフリスよりジレを西へ、ルギアを越えてティエル・カン。その後は南下してシェル・カン……」
 シェル・カンの惨禍を知らされている男はそこで一瞬言いよどんだ。
「シェル・カン跡を経由し、ガラムを西から里に戻る。ただし途中請け負う仕事で道を変えるかもしれぬ。以上、誤りはないな」
 記した手形を読み上げると青年は神妙に頷いた。
 何事か変更がある場合には、近くの関に届け出るようにとの指示を与える。
 不明があるかと問うと、青年は即答した。
「ティエル・カンはどんな具合です」
 様子くらいは知っておきたい、と青年は言う。
「戦は終わってるんですよね、街はありますか。まさかランガみたいな更地になっちゃいないですよね。治安はどうです。本陣があるならそれほど荒れちゃいないと思ってるんですが……そうだ、俺たちでも街には入れますか」
 立て続けに放たれた問いに、男は苦笑した。
「今のところ、これといった騒ぎは起きてはいない。入城は多少制限されるかもしれんな」
 平穏だと言わなかったのは、キ・ファ国の占領下に置かれたエルディアの民である青年への気遣いだった。しかし
「このまま静かだといいんですけどねぇ」
 しみじみとつぶやかれた言葉に、男は片眉をあげた。
「なんだ。エルディアの再起を願わんのか」
「ご冗談を。確かに俺は無学ですがね、旦那。都は落ちた。軍は蹴散らされて王族は散りぢり。そんな状況でこれ以上戦えるはずがないことくらいはわかりますよ。戦えるはずがないのに戦おうとするような馬鹿ぞろいなら、いないほうが俺たちには余程ありがたいってもんです。旦那だってそうでしょう。無能な上官は敵より厄介ってね」
 青年のあっけらかんとした言に、男は笑いを漏らす。
「答えられんな」
 笑いにこもった苦味は、男が自覚する以上に強かった。理由はわかっている。
 なぜならその言は、キ・ファの民がキ・ファの官や兵に抱く思いと、さしたる違いがないからだ。
 民は為政者に興味を持たない、と主グァンドールは言う。
 日々の暮らしを守ってくれるのであれば、それが誰であるかには拘泥しない。それが民だ、と。
 己には興味を示さないもののために苦心することの痛みを、己が胸に秘めることができるものだけが国の主たりうるのかもしれぬ、と男は思う。
 さて、と何気ない風を装い、男は話題を変えた。
 時に、シェル・カンだがその詳しい様子を知っているか、と男は訊く。青年は首を傾げた。
「仲間の話じゃ壊滅だって聞いてますけど、俺は見てないんで詳しいことはちょっと」
 どう聞いたと重ねて問うと、「俺にはどうにも想像がつかないんですが」と青年は前置いた。
「城も街も石くれの山だとか」
 それ以上は知らぬようだ。
「では王女について聞いたことはないか。噂でも構わんが」
「いえ、特には」
「噂だが、ガラムに逃げたと言う話を聞いてな」
 嘘だった。
 里がガラムであればガラムに、ランガであればランガ跡に逃げたと鎌をかける。そうそう馬脚をあらわすとも思えないが、ひとまずはそうして情報を集めるよう指示されていた。
 手形を作るたびにそれを繰返してきたが、誰一人王女の行方を知る者はない。
 今ではシェル・カンで焼かれた者の中に含まれていたのでは、という意見が趨勢をしめていた。老若どころか男女の別もわからぬほど焼けてしまった者も多い。その中に含まれていたのであれば、とうに土の下。見つかることはないだろう。
 見守る男の前で青年は黙り、考える素振りを見せたが堪えきれぬ様子で笑い出した。
「旦那、誰が言ったかは知りませんが、それは嘘でしょうよ」
「なぜそう断言できる」
 だって、と青年は笑いの滲む声で言う。
「それが本当なら俺はうれしいですけどね。ファ・シィンの娘ですし」
 青年の率直な言に男は再度苦笑した。
「おっと、キ・ファ国の旦那の前で言う言葉じゃなかったかな」
 ガラムの民はファ・シィンを特に慕っていたと聞く。彼の人がガラムに道を築いて以降、ガラムの民の暮らしは格段に向上したためだ。
 だがそれゆえに、ガラムが王女を隠している疑いは晴れない。
「構わん。それよりもうれしいが信じられぬと言う、その訳を聞かせてもらおうか」
 青年は軽く頷いて答えた。
「王宮育ちの王女さまが雪のガラムを越えられるはずがない。夏だってどうだかしれませんや。だから俺たちの仕事があったわけですし」
 実にもっともな返答だった。青年は視線を空に向けて考える。
「そりゃまあ、街道全てを雪が埋めることなんて稀ですけどね。ガラムの山に吹きあたる風の冷たさはご存じですか? 砂漠を渡ってきた冷たい風が、足元から吹上げるんです。積もった雪と一緒にね。その道を王女さまが? 無茶ですよ。残念ですが、それは嘘だ。でなきゃ希望ってやつでしょう」
 そこで一息ついた青年はにやりと口元で笑う。
「だいたい旦那ら兵隊さんでも越えられなかった道でしょうが」
 雪のガラムはキ・ファの兵を拒んだ。王女を探し登りはじめたが、三里もゆかぬうちに引き返すことになった。
 青年は言う。
「ま、もうそろそろ、旦那らなら登れるころじゃないですかね」
 己には雪の峰を越えられる、という自信がその声にはあった。
「何者かが匿っているのでは?」
 重ねた問いに青年は笑みを消す。そして眉を顰めた。
「匿うったってどこにです? 自慢にゃならないですが、ガラムにお姫さまを隠せるような場所はありませんぜ。村は顔見知りばかり。余所者が紛れこんでりゃ嫌でも気づく。スゥルが逃げ込んでくることは稀にはありますけど、いくらなんでもお姫さまとスゥルを間違える間抜はいないでしょう。なんなら探してみればいい。もう十日も待てば、道も随分歩きやすくなるはずです」
「もっともだ」
 数日前にここを通った鳥も、似たようなことを言っていた。
 それから二言、三言形式的な問いかけの後、青年の言葉の上手さに触れた。
「生まれも育ちもガラムなのか?」
 青年は呆れたような表情をその若草色の目に浮かべる。
「話せなかったら商いになりませんや。エルディア、キ・ファ、ガラ、ファーレント……」  指折り数えた青年は、イーデリアとジンガンも挨拶程度なら話せますよ、と付足した。
「セールディ、エフブザード。……でしたっけ」
 それはガラム南峰を越えた地にあるイーデリア国の言葉だった。
 イーデリアからバルクを訪れた商人らが互いにそう挨拶を交わしているところを、男も何度も見たことがある。
 商いはどんな按配だ、というような意味だと聞いていた。
「見事なものだな」
 感心すると青年は素直に胸を張った。それから「書くほうは全くお手上げですがね」と青年はその銅(あかがね)色の髪を照れくさげにかきあげた。
 銅の髪は若草色の目と同じく、ガラムに暮らす民の特徴のひとつだ。
「雛もか?」
 問うと青年は連れの二人を振り返った。
「ああ、あいつらはまだエルディアとガラの言葉だけ。キ・ファ語はやっと少し話せるようになったところです」
 今度の旅は言葉の修練も兼ねてるんです、と少年二人を手招きする。
「本当はバルク方面に行きたかったんですけど」
「エルディア人がキ・ファ国へ入るのは難しいだろう」
「でしょう。そういうことで国内をぐるっと回ってみることにしたんです。とは言ってもいきなりダルはきついんで、まずはジレ。今から歩けば、ジレにつくころにはジレの雪も随分少なくなってるでしょうから」
 砂漠の中央をゆくダル街道は戦乱に荒れ、いくつかの街が消えた。
 街が消えるということは、水場が失われるということだ。これから暑い季節が訪れる中、雛を連れて歩くのに適当な道ではない。
 一旦北上するという青年の配慮は正しいだろう。
 青年に手招きされ雛たちは駆け寄った。男に挨拶をするよう、青年にエルディアの言葉で指示される。
 拙い口調でそれぞれに短い挨拶をした。
 その稚さに男は息子を思い出す。
 そして声変わりもすまぬうちから過酷な仕事に繰り出される子供たちを憐れに思った。
 男の感傷には気付かぬ様子で、ところで、と青年は語調を変えた。
「なんか仕事ありませんかね、旦那。ティエル・カンでも、ソーマでも、なんならファーレントまでだって運びますよ」
 青年の逞しさに、男は苦笑する。
 いったいこの世のだれが、関を守る検兵に商売を持ちかける。
「今のところはないな」
「旦那っくらいの歳だと息子さんの一人二人はいらっしゃるでしょう。別の隊に配属されてたりしません? 手紙なんてどうです。安くしておきますから」
「あいにくと軍規で、軍使を使うようさだめられているのでな」
 じゃあ、奥様にはいかがですと青年は食い下がる。
 どうにもバルク方面に向かいたいようだった。
「まさか奥様への手紙も軍使が運ぶんですか。そいつはちょっと照れくさくありやしませんか」
「いや、軍使になにかのついでに頼むことはあるが、あらかたは小者に頼むな」
 それじゃあ、と言いかける青年を両手のひらで留め、男は言った。
「が、わたしの妻は随分前に他界した。さ、まだ他の者も検めねばならん」
 夜明け前から集まった人々は列を作り検めを待っている。
「通ってよし」
 そう手を振って去るように命じると、青年はもう一度肩をすくめた。
「わかりましたよ」
 小さくため息をついてから、ふと思い出したように青年は落とした顔をあげる。
「旦那、名前は?」
「聞いてどうする」
「このさき息子さんに会ったら、元気にしてるって伝えておきますよ」
 この青年が息子に会うことはまずあるまいと思ったが、そんな偶然を想像するのはなかなかに心地よかった。
 男は笑い、言った。
「ベルトゥル。エイトス=ベルトゥル。常はバルクで兵長を務めているが、今しばらくはこの関にいる。息子はセラナス=ザレーディール」
「へぇ、養子にでも出されたんですか」
「先だって青宮殿下から姓を下賜されたのでな。今はティエル・カンで青宮付きの侍従を務めている」
 もとから拾い子だが、それを言う必要はないだろう。
 エイトスは大銅貨を一枚、青年に渡した。
「伝言代だ」
 バルクでは一食代にも足らぬ金だが、伝わるか定かでない伝言に払う額としては適当だろう。
 だが青年は驚いたように身を振るわせた。「こんなに頂いていいんですか」と言う声は半ば裏返っている。
 両手で銅貨を捧げ持つその手は、破格の賃に戸惑いながらも取り上げられることを惜しんでか、指が内側に軽く折れていた。
 なるほど、鳥の暮らしも楽ではないらしい。
 青年の簡素な身なりは決してみすぼらしいものではなかったが、それらは一切の装飾を省かれた清々しいまでに実用一辺倒のものだ。暮らしに「余」を持たぬことは楽に察せられた。
 エルディアの民の暮らし向きに大きな格差があることは、エイトスも聞き知っている。
 主な街道沿いの街に暮らす者と、山間に暮らす者ではその収入に数倍の開きがあるのだ。
 ガライダルに移り住んだファ・シィンはそれゆえに、街道の整備を急いだのだとも聞く。
 しかしその志は戦の中に潰えた。街道の整備がいずれキ・ファの手によって再開されるのだとしても、それは遠い先の話だ。
 エイトスは南にそびえるガラムの山々を見上げる。

 不意にセラナスを拾ったときのことが思い出された。
 発育不良か、歳よりも幼く見える痩せた手足で、同じく痩せた男を負って歩いていた。素通りができず、たまたま持っていた小銅貨をいくつか与えた。
 数日後、行き倒れた旅人の遺体を回収した。子に背負われていたあのスゥルだった。
 子は泣くでもなく、乾いた目で父親を見ていた。
 エイトスは妻を流行り病で亡くし、先だっては子を戦で失ったばかりだった。
 これも何かの縁だと家に迎え入れ世話をした。
 賢く我慢強い子だったが、手足は細く非力でとても武人向きとは言えなかった。言葉も通じず、慣習も違う。幾人かの知人に働き口を世話してもらったが、世辞にも役に立つとはいえぬさまだった。

 しかしセラナスと同じ山に育てられたはずの目の前の青年はまるで違う。
 痩せてはいるが彼の長い手足はガラムの山に鍛えられていた。無駄のない体つきはガラムの峰に棲む大鷲を思わせる。
 他国の言葉にもよく通じ、エイトスにも敬意を払ってはいるがその態度に卑屈さはない。文盲だとは言うが、文字を読み書きできるのはキ・ファでも極めて一部の階層の者たちだけであることを考えれば特に欠点ではないだろう。
 銅貨を渡したその手も大きく厚く、一目で武器を握る手だと知れた。腰に下げた短刀で枝を払って道を開き、時には野盗とも戦うに違いない。
 この青年を取り押さえようとすれば、兵であるエイトスでさえ手こずるだろうことは軽く予想がついた。
 鳥はスゥルではない。狩られることもなく、隠れ住む必要もない。
 それでも彼らの生活が足りたものでないことは、銅貨一枚に震える手に見て取れる。
 彼らが暮らす土地はスゥルの生きる場所とさしたる違いはないのだ。
 だがキ・ファの兵である己には、それらの者を救うことは難しい。
 この青年にしてやれることはせいぜいが銅貨数枚のことだ。バルクに戻ればガラムの整備を宰相に願い出ることはできるが、即座に叶えられはしまい。まずは兵を通わせるダル街道の再興を優先せざるを得ないからだ。

 そして運良く助けることができた子供を思った。
 先月届けられた書簡には青宮から姓を賜ったこと、侍従として取りたてられたことが、拙い文字で書き綴られていた。
 文字は青宮付きの侍従らから教わったらしかった。綴られている文字のたどたどしさのわりに文面が整っているのはそのためだろう。
 皆もよくしてくれます。
 書面からは喜びと誇らしさが窺えた。
 最後にエイトスへの短い感謝の言葉があり、義父上へとしめられていた。
「本当によろしいんですか」
 青年に尋ねられ、エイトスは物思いを打ち切った。気づかぬ間に緩んでいた表情を改める。だが、余韻が言わせた。
「構わん。……そうだな、では、もし息子に会えたなら、帰りにはその様子を知らせてくれ」
 これは復路の分だ、ともう一枚大銅貨を手のひらに載せる。
 これで次の街では三人で宿に入り食事をすることができるだろう。
 青年はあっけにとられたような表情を瞬時浮かべたが、その次には「かしこまりました」と両腕を胸の前で構え恭しく頭を下げた。キ・ファ流の礼だ。
 二人の子供がそれに倣う。
 青年を盗み見しつつ、たどたどしくその動き真似る仕種は、やはりセラナスを思い出させる。
 微笑ましく思い「セラナスが彼らに会えたならよいのだが」と半ば願うように思った。
「行け」
「はい。それじゃお元気で、ベルトゥル隊長。いくぞ、ディー、アリ」
 呼びかけに、まだ幼い少年二人が「はい」と短い返事を返す。
 きびきびとした動作だが、まだまだぎこちない。
 はじめての長旅への緊張が窺える。
 大きな歩幅で先を歩く青年を、二人の少年は小走りに追いかけていった。外套からこぼれた一人の髪が、青年の髪と同じく日に銅色の光を返す。もう一人の髪はそれより幾分暗く、ガラの血が濃く混じっていることが窺えた。
 いや、鳥(イルヴァール)の姿は、すでに複数の民の特徴を備えるものだ。
 浅黒い肌の色はガラの民に、目の若草はファーレントの民に似ている。髪の銅はエルディアの金がイーデリアの炎のような赤毛と混じったものだろう。
 あの雛が大人になるころには、そこにキ・ファの黒髪や青い目も含まれてゆくに違いない。
 バルクのように。

 バルクは古くから戦のたびに主を変える土地だった。
 混血は繰返され、バルクの民は姿を持たぬ民とも言われている。
 髪の色も肌の色も瞳の色もそれぞれに異なる。
 裏切りと転身が重ねられた過去を表すそれを、恥じる思いを誰もが抱いていた。だが。
 義父上や皆様方には、世界の血が流れておられるのですね。
 拾い子の言葉が耳に蘇る。
 頬を紅潮させ、目を輝かせ、拙い言葉で子供は言った。
 世界の血。
 そのあまりにも突拍子のない言葉に、その場にいた誰もが声を失った。瞬きを三つするほどの間をおいて、皆が腹を抱えて笑った。笑いすぎて涙が出た。
 大きくなる笑いの渦の中、どうして皆が笑っているのかわからず、子供はおろおろとしていた。

 バルクの民には世界の血が流れている。
 いつしかその言葉は城のすべての者が知ることとなる。そしてセラナスは青宮の元に召されたのだ。

 エイトスは青年を追いかける二人の子供の後姿に三度セラナスの影を見、微笑んだ。
 表情を改め、関を向き直る。
 検めを待つ人々が長い列を作っていた。
「次の者、前へ。行く先とその目的は」
 戦で家をなくした、北に暮らす遠縁を頼る……。
 聞きながらエイトスは先ほどの三人が無事に旅を続けられるよう願った。
 そしていつかキ・ファのように、エルディアもガラもバルクに交じってしまえばいいと思った。
 とりとめもない夢想に心中で笑い、そしてそれを最後に三人のことは忘れた。
 そのまま二度と思い出すこともない記憶になるはずだった。

 関を抜け、十分に歩いてから彼は立ち止まった。
 日の高さと同時に気温も上がる。短くなった影を足元に見る。
 振り返り早足で着いてきた二人を見る。息が上がっているのか、まだ緊張が解けぬのか。息を白く濁らせて彼を見る二人は黙ったままだ。
 二人の背後に回り、外套を広げ包み込むようにして抱く。耳元に口をよせ小声で言った。
「大丈夫。安心してろ」
 両手でそれぞれの頭を撫でる。
 木の渋で染められた髪が日に赤く光る。よく馴染み、元の色を窺わせない。
 染料の匂いは砂まじりの風に洗われて消えていた。
 首をすくめてされるがままになっている二人のうち一人を、青年は肩に担ぎ上げた。
 肩の上の一人と、もう一人を交互に見る。二対の目が青年を見返す。
「返事は」
 問うと二人は揃って「はい」と答えた。
「よし」
 肩の上の一人を軽く担ぎなおし走る。ちいさく悲鳴をあげ、肩の上の一人が首に頭にしがみつく。
 もう一人が追いかけてくる足音を聞く。
 落ちる、危ないと騒ぐ二人に青年は笑う。
「失礼な雛だな。俺はまだ、一度だって荷を落としたことはないぞ」
 楽しげな三人の様子を目に留めた人々から笑い声が上がった。
 軽く走りながら青年は肩の上の一人に言った。
「旅のことは俺に任せておけばいい」
 さらに声を顰める。
「必ず運んでやるから、心配はいらない」
 小さく微笑み、肩の上の少年姿の少女は頷いた。

 女王ルフィシアの左手(ゆんで)に花あり、また右手(めて)に風と峰の使者(イルヴァール)あり。
 花将イルージアとともに女王を支え、自らもまた天将と讃えられた男。
 後年「銅(あかがね)の大鷲」と謳われた将の、これが史(とき)に現れた初めであった。