北辰を目指す― 盾の眠る地 ―

 はがした樹皮のようなそれは、鍋の中で野菜の姿と色を取り戻す。
 干し菜と呼ぶそれは、夏に収穫した野菜を細かく刻んで、ガラムの峰を渡る秋風に晒して作る。
 水気が失われることで軽くなり、かさも減る。ガラムの鳥が体を壊すことなく長期の旅に耐えうるこれは理由のひとつでもあった。
 火にかけられているその鍋は、なめした皮で作られている。
 鍋がどうして燃えてしまわないのか、と訊ねた少女は今日もそれに魅入っていた。
 声をかけたにも関わらず、一向に気づく様子はない。そっと近づいて、肩越しに鍋を覗く。
 暮れはじめた空を映す水に色とりどりの野菜が浮き沈みしながら、ゆっくりと円を描いて回っていた。
 幼いころに見た夢の中の景色のようだ、と青年は思った。
 とりとめもない夢想がそこには映し出されている。
 炎に照らされた少女の横顔に目をやれば、その瞳にも鮮やかな色彩がある。
 深く艶やかな青に揺らめく野菜の色は、いつぞや運んだ万華鏡とやらが描く世界に似ていた。

 少女の記憶も野菜のように刻まれていた。
 切れ端になったそれらを集めて、絵合わせの札を並べなおすようにあれこれと試みているようだが、今もまだ不確かなのだろう。黙り込んだまま日がな何かを考えている。
 刺客は何者だったのか、炎からどう逃げたのか、なぜガラムの峰に登ったのか。
 おそらくはそんなところだ。
 知っていることをあえて隠している様子はない。その証拠に、初っ端から彼女は名乗った。
「わたくしの名は、ルフィシア・ダイス=エルディアナ=サキス。シェル・カンの太守を務める者です」
 細い声は緊張に震えていたが、それでも精一杯の威厳を保ち、少女は身元を尋ねる青年の目を正面から見返した。
 だが、と、彼は己の手の甲にまだ薄く残る傷に目を落とす。

 肩を叩くと、少女は振り返った。
「ぼーっと見てんじゃねえぞ。ほら」
 木杓子を差し出すとその手をじっと見た。
 己がつけた傷痕に何を思うのか。
 しばしの間をおいて少女はそれを受けとった。

 目覚めた少女は、狂乱の中にあった。
 何を問う間もなく、彼女は逃げようとした。出口を認めるや否や、転がる勢いでそちらに向かう。
 折悪しく雪が振っていた。視界を遮るその中でひとたび見失ってしまっては、日が昇るまで見つけられない。そしてこの夜をこの少女が生きて越えることは難しい。
 諸々の思考がよぎったが青年はその結論を待たず、咄嗟に少女の首根っこを捕まえた。
「落ち着け」
 汗ばむほどに温めた部屋の中、捕らえた少女の体の冷たさを腕はよく覚えている。
 こちらの声が聞こえている様子はなかった。開いてはいても、その目はまだ夢を見ている。悪夢であることは推測するまでもない。
 おそらくはシェル・カンの炎上だ。
 ガラムを西へと進む彼がシェル・カンの焼失を知らされたのは、少女を拾う数刻前だった。

 雪を避け立ち寄った山小屋で西から来た鳥(イルヴァール)に出会った。
 シェル・カンへの荷を運んでいたことをいうと、その鳥は首を横に振った。
「受け取り手は居ないだろう。俺なら東へ返り、荷主にそれを伝える。だが、それでも向かってみるなら、早いほうがいい」
 生き残ったわずかの人々は近々サハンへと向かうことを聞かされた。
「どうする。サハンまで追いかけるか」
「いっそ全滅なら、もっと話は早いんだけどな」
 言いながら苦笑した。
「確かめにゆくさ。万が一生き残ってたなら、この荷が役に立つかもしれない。金と服だって言ってたからな」
 立ちあがると、相手は笑った。
「今から進むつもりか。この雪の中を」
「あんたもだろ?」
 相手も荷を解いてはいない。しばし休息した後、シェル・カン焼失の知らせを里に届けるつもりなのだろう。
「鳥は無理はしないもんだぜ」
「価値のないことにはな」
「その通り」
 同じように立ち上がった男は小屋の火を落とした。
「ナセルだ。あんたは」
「レダル」
 名を交わし、無事を祈り、互いの右拳をかるくぶつけ合う。鳥(イルヴァール)の挨拶だ。
 小屋を出て西と東に別れ、いくらも歩かぬうちに少女を拾うことになった。
 最初一人かと思われたそれは、近づいて二人であることがわかった。一人がもう一人を雪と風から庇うように抱きしめていた。
 煤にまみれ、凍え、放っておけばどちらも朝を待たずに死を迎えるだろうことは明らかだった。
 小屋まで担いで戻る。
 一度落とした火を再びおこし、旅装を解いた。
 数日の足止めを喰らうとは思ったが、受け手がいないかもしれない荷よりも、死なずにすむ者を救うことは優先される。それに特別な決断はいらない。
 外套を脱がせ、その雪を払う。二枚のそれを重ねて火の近くに広げる。その上に二人を横たえ、自分の上着と外套とを掛けた。
 目覚めたときのためにと酒を温め始めた。少女の一人が目を覚ましたのは、その直後だった。
「落ち着け、大丈夫だ」
 引っ掻かれ、噛みつかれ、幾度もその言葉を繰返した。
 暴れる少女に手を焼いて、青年はもっとも簡単な手段を取ることにした。
「大丈夫だ」
 言いながら、少女が跳ねのけた外套を掴む。
 頭から被せその上から端をくるりと回して手の動きを封じる。
 その上で首だけをあらためて出してやり、身を打ち付けぬよう気をつけながら板張りの床に引き倒した。
 少女が身を打ちつけぬよう気をつけはしたが、それでも驚かせたようだ。暴れることをやめ、少女は数度瞬きをした。
「大丈夫だ」
 額を撫でてやりながら何度目かに繰返したことばが、やっと意味のあるものとして少女に理解されたのだろう。
 青い瞳がはじめて青年を映す。
 水よりもなお青いその色は、晴れた日にガラムの峰から見る空の色に似ていた。
 あるいはイーデリアの南の果てにあると言う「海」の色か。
 火が、と言っただろう。息だけで少女はそれを繰返した。
「もう消えた。逃げてきたんだ。お前は助かった。もう大丈夫だ」
「……」
 本当に、だろうか。聞き返すそれを、ああ、と肯定する。
「もう心配はいらない。火は消えた」
 何かを言おうとして咳き込む少女を起こし、その背を軽く叩いてやった。
「落ち着いたか」
 咽たためだろう、涙の滲む目で青年を見、少女は頷いた。
 少女の頭を撫でその側を離れる。小さめの椀に温めた酒を注いだ。
「飲むか。花酒(コルシャ)だ」
 腕を拘束している外套を引下げる。だが少女の悴んだ指先に椀を支える力がないことは一目でわかった。
 取り落としそうになったそれに片手を添え、もう一方の手で少女の背を支え、飲ませてやる。
「慌てるな、急がなくてもいい」
 飲み下し損ね、むせる少女の背を軽く叩いた。
 少女が飲むに合わせて、ゆっくりと少しずつ椀を傾ける。
「もう少し休め」
 でも、と、言い、戸外を気にする素振りを見せた。
「この雪の中、歩くのは無理だ」
「雪……」
「ああ、そうだ。直に風も強くなる。こんな中を進める者などいやしない。たとえ兵隊でも、だ。だから休め」
 口の端に残る花酒の雫を、青年はその親指で拭う。
 指の固さに痛みを覚えたのか、少女がわずかに眉をしかめた。
 そこではじめて見覚えのない青年を訝しむ様子を見せたが、それもわずかの間のことだった。
 疲労からか、少女は時をおかず眠りに囚われた。
 その体を抱え、運ぶ。
 同じく深い眠りの中にあるもう一人を、認めたのだろう。眠気の中にも不安げに少女は彼を見上げた。
「大丈夫だ。生きてる。直に目を覚ますさ」
 その細い腕を少女は伸ばし、横たわる少女の髪に指を絡めた。
 名を呼んだのだと思う。
 横たえると黒髪の少女の肩に額をつけるようにして眠ってしまった。

 鍋に見入っている少女に尋ねる。
「そんなに面白いか?」
 少女は黙ったまま頷いた。
 違う、と直観したが問いはしなかった。
 正したところで答えられることではないに違いない。
 答えられることになら、少女は誠実に言葉を返す。それはこの数ヶ月でわかっていた。
 シェル・カン焼失を知って以来、少女の口数は極端に減った。
 しかし、泣き暮れるかと思われた少女は、大きく息を二度ついただけで、取り乱しはしなかった。
 そうですか、と言ったきり、唇を噛んだ。目を潤ませはしたが、涙はこぼさなかった。
 おそらくは、予期していたのだろう。
 その痛みは察せられた。
 けれど過去の痛みに囚われて、この先に支障をきたすようでは問題だった。
 あえて口調に遊びを含ませずに言った。
「呼ばれてるのにも気づかないほどにか? ディー=イルヴァール」
 少女は鍋から青年へと視線を移した。
 ディー、というのは名のひとつ、ダイスを約めたものだ。
 かつてその名で少女が呼ばれたことはないという。
 少女を保護して四ヶ月。ずっとその名を用いていたにも関わらず、やはり馴染みは薄いのだろう。呼んでも即座に自分のことだと認識できないことがままあった。
 それでは困るのだ。
「あの……ごめんなさい」
 言葉に含ませた意図に、少女は聡い。良いことだ。
「ごめんなさい。ナセル=イルヴァール」
 ナセル=イルヴァール。それが青年の今の名だった。
 イルヴァールはこの仕事に就く全てのものに与えられる呼称である。
 正しくはナセル・イル=シーマと言うが、もはやその名で彼を呼ぶものはない。
 ガラムの民は、成人を機にイルヴァールを名乗るようになる。
 幼名(おさなな)とともに姓を長に預け鳥のひとりとして働くのだ。
 旅先で出会うイルヴァールを名乗るものはみな家族だった。助け合い、便宜を図りあい、仕事を果たす。
 彼をイル=シーマと呼ぶことは、鳥(イルヴァール)であることを認めないということを意味する。それは鳥にとって最大の侮蔑でもあった。
「ナセルでいい」
 うなだれる少女の頭をナセルはその大きな手で撫でた。
「ま、仕方ない。そのうち慣れるさ。おい、アリ」
 ナセルは二度ほどディーの背を軽く叩き立ち上がった。背後で小さな悲鳴が上がったのだ。
「何やってんだ、お前は」
 視線の先には拳ほどの岩を両手に握るもう一人がいた。
 同じくイルヴァールを名乗らせているが、もとはただの「イフェリア」だ。
 イフェリアの母はスゥルだったため、彼女もまた姓を持たないのだという。
 イフェリア=ナトゥリス、というのが正式な場での呼び名だったそうだが、ナトゥリスは「ナトゥーラの子」という意味で、姓ではないらしかった。
 王宮の婢を勤めている際に彼女を身籠ったその母ナトゥーラは、その後、当時次妃として王宮で暮らしていたファ・シィンに、生まれる子の――つまりディーの――乳母として取り立てられたらしい。
 乳姉妹として親しく育ち、二年前からは侍女としてディーの傍らにあったという。
 ディーよりも幾分しっかりして見えるが、中身はさほど変わらない。宮城育ちのお嬢さんだ。
 その彼女をディーは「睡蓮(アリシャ)」と呼ぶ。イフェリアであるなら、イーファ、あるいは、リアと呼ぶのが適当だろう。
 なぜアリシャなどと呼ぶのかと訊ねると、アリシャというのは古い言葉では「安らぎ」を意味すると応えた。
 二ヶ月年長のこの侍女を、王女がいかに頼りにしているかがわかるというものだ。
 そこで彼女には「アリ」を名乗らせたのだが。
「すみません」
 あーあー、と言いながらナセルはアリに歩み寄る。アリの足元には落ちて砕けた岩塩が散らばっていた。
 首をすくめた拍子に、短く切られた髪が揺れる。
 染料にさらされた二人の髪は荒れてごわついていた。だがそれも計算のうちだった。
 ガラムの峰に暮らす民が、極上の絹のような髪をしているはずがないのだ。
 すぐに砂と日にさらされ、もっとくすんで目立たない色へと変わってゆくだろう。
 アリの手に残った小さな二つの欠片を見て、ナセルは小さく笑った。
「確かに割れとは言ったけどな。木っ端微塵かよ。やってくれるぜ」
 いいか、塩はこうやって、とアリの足元に落ちている大き目の欠片に短刀を突き立てた。
「ひび割れに刃を差し込んで」
 アリに柄を握らせる。
「しっかり固定して、倒す。ほら、割れただろ? 岩にぶつけてもいいが、これ、もったいないよな」
 地面に散らばる塩の欠片を指差す。
「ごめんなさい」
「いや。言わなかった俺が悪い。それより拾え」
 地面にを拾い集めるナセルにアリが目を丸くする。
「使うんですか」
「当然。塩が安くないことは知ってるだろ」
「砂が混じってしまいませんか」
「砂は水には溶けない。水に溶かして漉すか、手っ取り早く上澄みを使えばいい。そこの袋、いやそれじゃない。そう、そっち」
 示された袋をアリがとる。それを受け取ってナセルは砂まじりの岩塩の欠片を入れる。
 砂まじりの塩などナセルにとって珍しいことではなかったが、二人には珍奇に聞こえたのだろう。
 アリが助けを求めるようにディーを見た。
 そのディーもどうしたらよいのかわからない風に少し首を傾げている。
「ほら、見てないで手伝え」
 言うとアリは慌てて屈んだ。なれぬ手で塩を拾い集める姿を見、下を向いたまま二人にはわからぬようナセルは微笑んだ。
 不器用なりに、ナセルの指示を果たそうとする。その聞き分けのよさと素直さには、感心していた。
 塩を拾うナセルらを手伝うためにディーは腰を浮かす。気配を感じ、ナセルは手を止めずに言った。
「言い忘れた。火をつけたまま離れるな。今は火を消すな。つまり、そこにいろ」
「はい」
 指先ほどの塩の欠片をひとつ、振り返りざまにナセルは鍋に放り込んだ。

 身を寄せ合うようにして眠る二人を見る。体を丸め、ひとかたまりになって眠る姿は犬の子のようだと思う。
 時折身じろぎするほかは、ほとんど動かない。
 思い出したように深呼吸する仕種が、またよく似ている。
 これで足がひくひくと動きでもしたらそっくりだと思う矢先、一人が足首をひくひくと動かした。
 吹き零れそうになった笑いを辛うじて堪えたのは、二人の眠りを妨げぬためだ。
 空が白み始めることから歩き始め、午後を岩陰で休み、日暮れ前から夜半まで歩く。それから日の出までの数刻をまた休む。
 歩いていない時間は食事をしているか眠っているかだ。
 そんな旅がふた月、続いている。行程はまだ半分にも至らない。鳥の進む速度としては最低だ。だが雛を抱えての旅であれば、平均的な速度とも言えた。
 二人がこれまでろくに宮城から出歩くこともなかったと思えば、感心にさえ値する。
 すぐに根を上げると思っていた。どうなだめすかして連れて行くかも考えた。
 だがこの分ではその案を試す機会はないだろう。
 解くことを忘れた靴の紐の間から見える足は擦れて血が滲んでいた。
 肉刺(まめ)ができ、つぶれ、皮がむける。治る間もなくその上にまた肉刺ができる。それを繰返した皮膚は硬くなり、胼胝があたっていた。
 それでも文句ひとつ言うことなく黙々と二人は歩み続けていた。
 そして休息を取ると、食事もそこそこに眠りに落ちてゆく。
「見上げたもんだ」
 しかしその眠りは浅い。
 はるか頭上を飛ぶ鳥の影にさえ怯えて飛び起き、小石が転がる音にも身を震わせる。追われている恐怖が二人を決して休ませない。
 夢の中でも二人は逃げ続けているのかもしれない。

 わたしは、どうしたらよいのでしょう。
 拾って数日。
 落ち着きを取り戻した少女はそう言って俯いた。十四になったばかりの子供だ。たしかに同じ年頃の子供よりは多少しっかりしている。だが多少しっかりしている程度で役に立ったのは、安全な城の中にいたからだ。城の外に放り出されて何ができるはずもない。
 何をすべきなのかと迷う少女に答えは与えなかった。
「さあな」と突放し、「何をすべきだと思った? そうしたくない理由は」と少しだけ手伝ってやった。
 国を担うものとしてキ・ファを退けるべきであると考える、しかしそのために民に犠牲を如くのは躊躇われる。
 当然のことだが、その答えの中には「己もまた犠牲にはなりたくない」という言葉が隠れている。
 それを「民に」という言葉で表すことが可笑しかった。転嫁していることさえ、少女はおそらくは気付いていないだろう。
「俺は国を担うものじゃない。だからその答えは知らない。だが、ひとつだけ言えることがある」
 少女は縋るように彼を見上げた。
「何をすべきかわからないようなヤツに、国を動かされるのは真っ平だ。己の行動を己で決められないヤツに、一生を左右されるのはイヤだね。もうひとつ言うならな」
 優しくない言葉に少女は身を固くした。
 それでも少女は耳を塞がない。次にナセルが何を言うのかを待っている。よい心がけだ。
「相談するってことは、相手に責任をおっかぶせることだ。一人じゃ担えないから、お前も引きかぶれ、とな」
 少女は口を引き結んだ。泣くかと思ったが泣かなかった。
 そして頷く。
「わたしが決めなくてはならないのですね。わたしが、どうしたいか、どうすべきだと判じたか。この後の、全てを負う覚悟が必要だと」
「全てを負うことはない。あんたがどんな判断をつけようと、それに従うも従わないも、それぞれが決めることだ」
 しばらく躊躇った後、わたしは逃げてもいいのでしょうか、と小さな声が返された。
「ああ。あんたがこのまま野に下り、二度と人前に姿を見せなくても、人は生きるし、死にもする」
 そうか、と思った。
「あんたは王の血筋であることを過信しているんじゃないか」
 笑い含みのナセルの声に少女は黙り込んでしまった。
「言っておくが、ここに長くは匿えない。春になればキ・ファ兵も山に入る。大人しく捉まるつもりならそれまで養ってやってもいい。だが捉まる決心がつかないというなら、ひとまずは逃げるしかない。算段は早く立てたほうがいいぞ。じゃあ、俺は運びの途中なんでな」
 そうして荷を届けるために小屋を立とうとしたときだった。
 ナセルの抱える荷に記された小さな紋に侍女が目を止めた。
「花蔦紋……!」

 戸に手を伸ばすナセルにお待ちください、と王女が言う。
「その荷を検めさせてください」
 その声には先刻までの弱弱しさはなかった。
「……受取人以外には渡さない決まりなんでね」
「荷を検める権限を、わたくしは有しております」
 どういう理屈かと振り返ると王女は荷を見つめたまま言った。
「花蔦紋は娘にしか与えられぬものです。素馨とあれば」
 そこに雪ひとひらほどの空白が落ちる。
「前(さき)の正妃(エルディアナ)のもの。奥宮に住まう者が他と荷を交わす際には、奥宮の主たる者の検めを受ける決まりがあります」
 決まり事としては正しい。だが奥宮の主たる正妃の荷を、たとえ王位継承者であっても王女が検めることは正しいとは言えない。
「正妃の荷を誰が検めるって?」
「わたくしが。第十八代国王(エルディアナ)は、前の正妃の荷を検めることを求めます」
 エルディアナには二つの意味がある。ひとつには正妃、そして二つには王(エルディアル)の女性形としての意味だ。
 王女が口にしたエルディアナが後者であるとすれば、王女は王女ではない。
 女王だ。
 エルディアが長くその即位を認めなかった女の王。
「布告はなされませんでしたが、アルディエート公の名代としてその夫人の手により戴冠なさいました」
 意味を測りかねたナセルに侍女が咬んで含めるように言い聞かせる。
「前王は王でありアルディエート公でもあられました。その夫人がどなたかはおわかりいただけますか」
 王(エルディアル)であり、また祭主(アルディエート)でもある者。その祭主の夫人、それはつまり前正妃に他ならない。
「……畏まりました」

 荷は何と聞いていますかとの問いに、「服と金」と短く答える。
 侍女が紐を解き検めるのを、ナセルは屈辱にも似た思いで眺めていた。
 送り主から預かった荷を、受け手以外に触れさせるのは鳥の恥でもある。
 だが小娘の戯言と受けあわずに立ち去ることをしなかったのにはわけがあった。
『検めたいと言う者があれば検めさせよ』
 それが依頼主の要望だった。
 検めさせてよいではなく検めさせろ、という言葉に引っかかりを覚えていたのだ。
 とはいえ眼前で解かれる包みには苦々しさを覚えずにはいられない。しかし広げられた服にナセルは息を呑んだ。
「これは……」
 見慣れぬそれが服であることは少女らにもわかったのだろう。
「旅装?」
 首を傾げる侍女に王女……いや女王もまた首を傾げる。
「雛の揃いだな」
 呟いたナセルに二対の目が向けられた。説明を求める眼差しにナセルは応える。
「鳥の、見習いが身につけるものです」
 怪訝な様子で女王は同封されていた書簡を手に取った。
「レヴァーリエに眠る……」
 読み上げた女王に侍女が「あっ」と小さな声をあげた。
 レヴァーリエは北の蛇を意味する古語だがサレアの中ほどに在る小さな集落の名でもある。今はレヴァーラと呼ばれている。鳥の里から急いで腕利きの鳥が急いでふた月。旅慣れた者なら三月、旅成れぬ者であれば、無事に進んで六ヶ月。むろん途中で命を落とすこともあるだろう。
 脳裏に瞬時にレヴァーラまでの行程が描かれたのは鳥の性分だろうか。
 女王が侍女にその書簡を渡す際に垣間見えたのは二匹の蛇が飾られた盾の絵だ。添えられている一文が「レヴァーリエに眠る」なのに違いない。
 まじまじと絵を見詰めていた侍女が蛇の胴に記された小さな文字を見つけた。
「翼(イール)は天津風(シェル・ヴァレアル)に北辰を目指す」
 御名がこちらにございます、とその署名を震える指で侍女はなぞる。
「第十七代国王正妃。リセル・ターガ=システィル・アルディエシア=イディアータ」
 死して後にしか呼ばれぬはずの名で記された署名に女王が目を潤ませる。
 義姉上、とその唇から呟きが漏れた。

 荷を手にしたまま二人は声も涙もなく泣いた。
 荷を放してくれなければ立つこともできない。
 ナセルは仕方なく旅装を解いた。
 しばらくして申し訳ございませんと女王が頭を下げた。
「さぞご不快なことでしたでしょう。お許しくださいませ」
 なよやかに手をつかれてしまっては、文句も言い難い。
 相手は子供だ。
「お構いなく」
「そのうえに、さらなる無礼を申し上げますが、どうぞこの荷をわたくしにお譲りください」
 さすがに呆気に取られ、どういうことだ、と訊ねると少女は応えた。
「王の盾はレヴァーリエに眠る。これは先のアルディエート女公の子息が、レヴァーラに在るということでしょう」
 アルディエート女公の子息の出奔は四年前のことだ。たしか、その理由はと考え至り少女を見ると血の気の戻りきらぬ顔にわずかな笑みが浮んだ。
「わたくしの元の婚約者です。レヴァーラにいらしたとは存じませんでした」
 そこにはなんの感情も窺えない。婚約が成され破棄されるまではおよそ半年。当時八歳だった王女が某かの感情を覚えるほうが可笑しいか、と表には出さずナセルは納得した。
「義姉上はそこを訪ねるようにとわたくしに仰せなのです」
 ナセルは雛の揃いを見る。二組あった。
 ――鳥(イール)は王の息吹(シェル・ヴァレアル)を得て北辰(レヴァーリエ)を目指す。
 侍女が読み上げた言葉に、ナセルは理解した。
 ティエル・カンからシェル・カンまで衣服と金を運ぶだけの仕事に、なぜこれほどの額が前払いで支払われたのか。託された荷とは別の己の荷の中にある三つの袋を思い出す。大銅貨二袋、中銅貨一袋。街道も宿を使うことなく急ぎ運べ、という依頼ではあったが、それにしても払いがよすぎることに疑問を覚えたものだ。むろん諸経費も込みの額ではあったのだが。
 その依頼には、この二人を――旅装は二組あったのだ――サレアのレヴァーラまで運ぶことも含まれていたということか。
 シェル・カンの落城前に城にたどり着けたのであれば、おそらくその説明もあったはずだ。
 そのように考えてみれば、王女がなぜガラムに登ったのかも腑に落ちる。
 この荷主がそれを指示したのだろう。ガラム山中を行くナセルと二人が遇えるかどうかは賭けだったに違いないが、荷主はその賭けに勝ったのだ。
 やってくれたな、正妃サマよ、と口中で呟く。
 思いもかけず拝謁を賜ってしまった正妃を思い出し、なおさらに嵌められた感を強くした。
 知るはずもないとは思ったが、一応、二人に確かめる。
「……レヴァーラまでの道は知ってるのか」
「まずは北へ向かいます」
 馬鹿を言え、と思った。いや声に出たのだろう。侍女が無礼な、とかなんとか言っていた。
 たしかにサレアは北にある。しかしガラムとサレアの間には広大なアルダ砂漠が広がり、その北にはガラムの峰にも劣らぬ二つの山脈がある。キ・ファ兵や野盗の跋扈するそこを、子供二人で抜けられるはずがない。
 盛大にため息をついて見せた。
「俺が運んでやるよ。前金も貰っちまってるみたいだしな」
 嵌められた、あの女め、という思いはなくもない。
 だが、これまでにない大仕事を担うことへの興奮がそれに勝った。
 いつかイル・ヴァレアル(風と峰の主)と呼ばれる鳥になること。
 それが幼いころからのナセルの夢だった。
 この仕事がその足がかりになることを、彼は直観したのだった。

 人を運ぶ方法は幾通りかあった。
 しかしナセルは迷わず雛として運ぶことを選んだ。
 依頼主の意向でもあったが、それがもっとも無理がないと思われたためだ。
 雛は貧弱で、里の外を知らず、旅慣れてもおらず、言葉もエルディア語の他は不自由。
 ようするに真実の全てを隠し通す必要がない。それどころが真実を隠れ蓑にできる。
 しかしいくら姿かたちを雛に似せても関の兵の目を欺くことは容易ではない。
 真似事ではすぐに露見する。
 サレアに二人を運ぶことが決まって以降、旅立ちまでのひと月、ナセルは二人に雛として最低限の知識を叩き込んだ。同時に凍える中で水を汲ませ、薪を割らせた。柔らかな手はすぐに霜に焼け、あかぎれた。
 髪もすぐに落とした。落とした髪は火にくべる。その臭いがシェル・カンの惨状を思い出させたのだろうか。青い顔をし、しかし燃え尽きるまで二人は目を逸らすことなくしっかりと見ていた。失われたものに対する追悼だったのかもしれない。
 旅を始めての一ヶ月は雪に覆われた藪道を行く、その先頭を交互に歩かせた。
 藪を払わせ、雪を固めさせ、時には倒木を谷に落とすこともさせた。
 苛酷な仕事をさせるうち、彼の目論見どおりに、二人の肌は乾き焼け、肉はすっかり落ちた。
 女性的な丸みを帯び始めていた体も、今はその変化を潜めている。
 いまや二人はどこから見ても雛だった。見た目だけではない。不慣れではあっても、雛としての仕事をそれなりにこなしているのだから。
「手放すのが惜しいくらいだな」
 聞き分けがよく、口数は少なく、賢く、頼ることをせず、堪えることをこの二人は知っている。
 どんな指示にも「はい」とだけ答える。それを遂行するために尽力する。そして力が至らぬと知れば、即座に次の指示を仰ぐ。
「いい鳥になるだろうになあ」
 そこまで考えて彼はもう一度笑った。
「そうか。……女だったな」
 今は女ではない。だが遠からず女になる。女には無理だ。鳥の務めは果たせない。
 月の四半分を町に足止めされる身では十分な仕事をこなすことはできない。
 それは収入が四半分失われるだけでなく、実入りのよい急ぎの運びや遠方への運びを請けることができない、ということだ。
 いつまでも雛の仕事――時間的に余裕があり、失敗しても差し支えのない近場への使い走り――しかできない。それでは到底食ってはゆけない。
 手を尽くして育てても、この雛たちが鳥として巣立つことはない。
「つくづく惜しいな」
 呟く声に雛はかすかに身じろぎをする。
 白みはじめた空を見上げ、ナセルは大きく伸びをした。
 さて、と二人に歩み寄る。
 枕代わりの荷物を蹴飛ばして起こす。
 行くぞ、と声をかけると二人は素早く起き上がる。「はい」という二つの声にナセルは腹の中で笑った。
 巣立つことのない雛だとは知っていても育てることに手を抜く気になれないのは、この返事のせいだろう。
 まったく惜しい。
 地平から真っ直ぐに差した日が、歩き始めた三人の影を長く大地に引いた。