時に標す― 語らねばこそ ―

 カルシュラート公イルージアが目覚めたのは、それから二日後だった。
 起き上がれるようになるまでには、さらに十数日を要したとザレーディールの手記には記されている。
「そんなに……」
 フィル=シンは呟き、それから溜め息を吐いた。
 無理もない、と少女は思う。
 共に育った従弟である王、そして母とも慕った叔母ファ・シィンの死、王都落城。それだけでも十分に堪えていたはずだ。
 ふと両親を思い出し、フィル=シンは胸を押さえた。
 顔は知らない。声も知らない。何一つ共有したものはない。知っているのはただ名前だけ。
 それでも名しか知らぬその人々の存在と喪失を思うと、いつも胸は痛みを覚える。
 痛みに耐えかねて、少女は別の人物のそれとすりかえた。
 そうだ、辛くなかったはずがない。
 何のために王都を離れたのか。
 近衛の兵でありながら、王都の守りを諦めねばならなかったのは何故だ。
 すべてはシェル・カンに望みを繋ぐためだったのに。
 それなのに、エルディアの最後の頼みの綱であった城は失われた。
 王となるべきサキスの消息は知れない。
 武人であればこそ、なお一層無念は募るだろう。
 なぜ、己一人が生き存えているのか。
 剣を捨てたのは命を惜しんだからではない。おそらくは生きて、少しでも戴冠までの時を稼ぐためだった。
 彼女が死ねば、キ・ファ兵は荷を検める。そこに御物がないと知れば、本当の運び手を捜す。あるいはシェル・カンへと取って返し、城門を固める。
 だが、イルージアが生きていれば、彼らはまず彼女の口を割らせようとする。
 王女が戴冠し布告が行なわれるまでの数日の時を守るために、彼女虜囚となり、命を繋いだ。
 布告が行なわれれば見せしめも兼ねて処分されるだろうことも覚悟の上だったに違いない。
 シェル・カンの炎上が、彼女にどれほどの痛みを与えたのか、それを思うと鼻の奥が痛んだ。

「その二十日足らずの期間で、ザレーディールはイルージアの侍女とするべく者をティエル・カン城市の民から募った」
「なぜ、エルディアの民から?」
「カルシュラート公の側に男の小者を控えさせるわけにはいかなかったこと、本国から女官を呼ぶには時間が掛かりすぎること、そうして呼んだ女官が役に立つかと言えば、おそらくは役に立たぬこと。カルシュラートの逃亡を阻むにも、命を絶とうとするカルシュラートを止めるにも、無力だ」
 ザレーディールの手記に書かれていた理由を祖父は簡単にまとめた。
「でも、それだけで……だって、そんなのはエルディアの女の人でも同じだわ。イルージアはファ・シィンにも勝る武人だもの。普通の女の人なんて、敵いやしないじゃない。たとえ、病み上がりでも」
 フィル=シンが人差し指を唇に当てた。納得がゆかないらしい。
 祖父は笑い、一度手記を閉じる。
「では、考えてごらん。フィル=シン。想像するんだ」
「歴史に想像を持ち込んじゃいけないわ」
「想像で事実を捏造してはいけない。だが、事実の推察に想像は欠かせない」
 目を閉じて。
 言われ、フィル=シンは軽く目を瞑った。
 祖父の静かな声が、閉じた瞼の向こうに響く。
「大陸一を誇った王都はキ・ファ国に蹂躙された。宮城は失われ、市(いち)は閉ざされ、エルディアの守護女神と謳われたファ・シィンはもういない。そこへもたらされる『シェル・カン焼失』の報せ。民を守るはずの王族は、ただ一人を除いて死に絶えた。民の不安は募る。これから我々はどうなるのか、キ・ファ国に隷属するものとして生きざるえないのか」
 末端ではとうに病みはじめていた政も、王都では人々の目に触れるほどの衰えを見せてはいなかった。
 明日もあさっても同じ平穏が続くと信じていた。
 このエルディアが、新興のキ・ファ国に滅ぼされるなど、あっていいはずがない。
「そうだ、ファ・シィンの娘がいる」
 ただ一人の生き残りへと縋るような希望が向かう。
 ファ・シィンの娘、という言葉にフィル=シンの胸が音を立てる。幾ばくかの痛みを伴なっていた。
「ファ・シィンの娘がいる。たとえ、今は敵の手中にあろうとも、彼女なら、何とかしてくれる。この苦境からエルディアを救い出してくれるにちがいない」
 度合いでいうのなら、民よりもイルージアのほうがおそらくはよほど苦境にあっただろう。
 しかしそれでも不安に息を潜める民には、縋るものが必要だった。
「……エルディアの民なら、イルージアを決して死なせはしないわね」
 多少の怪我は覚悟の上で、イルージアの自傷を止めるはずだ。
 もしかしたら、命さえかけて止めるかもしれない。
 そうだ、と返る答えにフィル=シンは目を開く。
「そして、イルージアもエルディアの民には、剣を振るえないわ」
 我らのために、と、請われれば、それを退けることもできない。
 逃亡さえも阻まれる。
 イルージアが逃げる素振りを見せたなら、侍女はキ・ファ兵に斬られだろうから。
「その通り。公の身の回りを世話する侍女であり、公を自傷させぬための監視であり、公を逃がさぬための人質でもある。なんとも実用的な提案だったのだよ」
 進言した当人がそれを意識していたかは不明だがね、と続けられた言葉に、フィル=シンは無言で湯呑みをとった。
 口を潤すはずのそのお茶は、冷たく、そしてひどく苦く感じられた。

 いったいザレーディールとはどんな人物なのだろう。
 ただの小者に過ぎない彼が、どうしてそんなことを思いつけるのか。
 あらためてお茶を入れなおし、菓子のいくつかを楽しんだ後、話は続く。
「ザレーディールはガラ国のスゥルの出身だ。スゥルが何かは?」
「貧民、と約されることくらいしか」
 首を振るフィル=シンに祖父は別の一冊を取った。
「ガラ国の民は四等八級に分かれていた。うち参政権を有したのは国民の一割、上二等の民だ。国民の大多数を占めるのが三等市民。そして四等市民は重罪人やその家族が落とされる身分。罪の重さにより定められた期間、一部の権利が抑制された。期間の終了と同時に三等下級の民として権利は回復するが、期間は長くて五十年、短くても二十年だ。過酷な刑務に晒され、二十年を耐えることは難しい。およそ戻されることはなかったという」
「それが、スゥル?」
「いや。スゥルは罪人ではない」

 スゥル、という暗黙の制度がいつごろ成立ったのか定かではない。
 だが、スゥルの語源と考えられるもっとも有力な言葉「セ・オウ・ル」は「山を越えたところの」を意味する。
 かつてガラ国と戦い負けたエルディアから、ガラに割譲された地域に住んでいた者を指すのではないかと言われている。
「彼らは四等八級の民の下に存在した。それを表す言葉はエルディアやキ・ファにはない。もっとも近い存在はファーレントの奴隷だが、これよりも酷い扱いを受けていた」
 奴隷とはどう違うの、とフィル=シンは首を傾げる。
「奴隷と聞いて、お前は何を思いうかべるかね」
「下僕……それから、ええっと」
 売買の対象になることもあるわ、と、頭の中にしまわれた知識を引っ張り出す様子に祖父は目を細めた。
「そうだ。奴隷とは、人でありながら、誰かの所有物である者を指す」
 ただし、と祖父は付加えた。
「ファーレントの奴隷はあくまでも人だった。資産の所有は認められなかったが、彼らにも権利があった。主を変える権利だ」
「主を、変える……?」
「主が自分を遇する、その遇し方が気に入らなければ主を変えてくれと訴え出る権利を持っていた。その待遇の中には課せられる労役の他に、与えられる住居や食事、衣服、休暇、時にはちょっとした遊興、そういったものが含まれていた。己の能力をより高く買ってくれる主人を選ぶ権利があったのだよ。奴隷を虐げる主は、すぐに奴隷に捨てられた」
 ザレーディールがその主である青宮を見る姿勢にも、共通する視点だった。
 くすりと笑ったフィル=シンに老人は棚の上の書籍を指差す。
 取ってくれるか、と言われ、少女は背伸びをしてそれをとった。軽く埃を払う。ファーレント、その奴隷制について、と表題が記されていた。
「そしてよく働く奴隷には、基準に従ってバールと呼ばれる標章が与えられた。このバールを三つ得ると、彼らには自らの身を贖う権利が生じた。つまり、奴隷から解放される、ということだ。解放された奴隷はファーレントの民として生きる宣誓書に署名する。それにより正式な民として国家に迎えられる。資産の私有や政に参画する権利を得、また、民としてファーレントの法を守る義務を負う」
 フィル=シンは示された先を読む。ファーレントの言葉はエルディアの言葉に程近い。およその意味は読みとれた。
「宣誓書に署名をしない場合は、他国へ出ることが許されるのね」
「そうだ。そうしてエルディアに流れてくる者もあったようだよ。だが、まあ、多くは民としてファーレントで生きて行くことを望む。それどころか、バールを三つ得ながら奴隷であり続けた者もある。民として国の庇護を受けるより、奴隷として受ける主の庇護に価値を見出したのだろう」
 奴隷であることに見出す価値をはかりかねたのだろう。少女の眉が僅かに寄せられた。
「ファーレントの西にあった国は? フィル」
 問いかけに少女はしばしの間をおいて答えた。
「ジンガン。ジンガンよ、この時代は」
「その通り。そのジンガンの前身、ジンガン・セスとファーレントは幾度も戦を繰り広げた。当時のファーレントは小国の集まりでしかなかった。いや、国という意識がなかった。各地の領主はそれぞれ己の所領を守ることに忙しく、一国として守りを固めることが難しかった」
「エルディアと似てる?」
 少女の言う「エルディア」は過去のエルディアだ。
 ルフィシアやイルージアが一国を打ち立てる以前の、滅びに直面していたエルディアを、フィル=シンは見ている。
「似ていなくもない」
 大きく見て似ていたとも言えるし、細部を見てまるで異なったとも言える。明言をしない老人の応えに少女の表情から少しだけ固さが消えた。答えは自分で探さなくてはならない。
「調べてみる」
 と少女は紙片にそれを書きとめる。老人は頷き、書きとめるのを待って話を続けた。
「つまり、ジンガン・セスという一国に対し、ファーレントの領主たちは己の力のみで対抗することを余儀なくされたのだ」
 侵攻が始まり、十五年。圧倒的な軍事力の差に、ファーレントはその国土の半ばまでジンガン・セスに踏み込まれた。
 もはや抵抗する術はないと思われたそのとき。
「ファーレントを救ったのは、数千の奴隷と、彼らを率いるその主だった」
「奴隷が?」
 重労働にやせ細り、足腰もままならぬ様子を思い描いていたフィル=シンの声が裏返る。
「十五年、戦のためだけに鍛えられた者たちだった。壮健で、力強く、技に長け、軍略に通じた戦士たちだ」
 領地から逃げ出し、他の土地に流れても幾許かの支援を受けられる民とは異なり、奴隷の暮らしは主である領主の盛衰とより密であった。主が失脚すれば、その日から路頭に迷う。別の主を見つけることは、簡単ではない。なぜなら主が必要とする奴隷の数は限られているからだ。
「彼らは主のために戦った。それが、己のためでもあった。そして彼らの主は、民と己と、彼ら奴隷のために戦い、十年をかけてジンガンをファーレントの大地から追い出した。戦の後、彼はファーレントに『国』を築く。その国がどのようなものであったかは、まあ、あとで調べるといい。戦の功労者である奴隷たちに、感謝を込めて送られた標章、それがバールの始まりだとされている」
 だが、と老人は続ける。
「国としての機構が整うことは、領主の権が制限されることでもあった。それは軍備においても言えることだ。領主たちは次第に、領民で構成された正規の軍のほか、私兵を囲うようになる。その私兵の多くは先の戦でバールを得た奴隷たちだった」
「それで、彼らは主を変えるのね? 自分をより高く買ってくれる人を探して。……なんだか職のようだわ」
 少女の感想に老人は笑った。
「手飼いとして身近に置いた奴隷に、他の主の元に駆け込まれては大変だろう。それでファーレントの人々は奴隷を厚遇するようになった」
 でも正規の軍のほかに、奴隷で構成される兵力がどの程度あるのか、知らなくてもよかったのかしら、と少女は再び首をかしげた。
「だって、そうして温存されてる兵力があることを知っていて動かせないのでは、また戦が起きたときに困ることになるわ」
「そこで、以後、ファーレントでは奴隷を抱えいれるときには国に届け出ることが定められた。どこの誰が、何人の奴隷を、何の目的で囲っているのか、それを管理するための役所までが設けらたのだよ。バールを持つ奴隷にいたっては、その雇用条件の水準までもが定められていた」

「だが、ガラ国のスゥルは違う。ガラのスゥルは公に認められた存在ではない。そして彼らは人でもなかった」
 人ではない、というのは比喩である。
「野にありては獣、家にありては畜。そういう扱いだったとザレーディールは記している。時には狩りの対象にまでされた」
 虐げられたスゥルはガラム北峰に隠れ暮らした。
 その彼らを無理やり捉え、労働力とする。
 公にはない者として扱われる彼らが、誰に、何の目的で囲われていたのか。
 悪事に加担させられる者も少なくなかった、ともザレーディールは書き残している。

「獣畜と扱われるその苦しみから、ザレーディールのように国境を目指して走るものも後を立たなかった」
 ガラ国と境を接していたのは、エルディア、キ・ファ、ファーレント、イーデリアの四国だが、南のイーデリアを目指すにはガラ国内を縦断せねばならぬ。さらにガラム南峰は天をも隔てると語られる。飛ぶ鳥さえも南峰を越えるには風の助けを必要とする。その山を、人が歩いて越えるのは不可能だった。
 さらにファーレントと間にはソーマ渓谷があった。
 ソーマ川がエルディアとファーレントを隔てるように、ソーマ渓谷はガラとファーレントを隔てている。
 橋を架けるには深すぎ、つり橋を渡すには広すぎる。谷を下り、川を越え再び谷を上る方法でしか行き来できないが、ガラムの白い石は滑らかで手足のかかりとなるものは少ない。これも不可能といって大げさではない。
 ソーマがファーレントの堀と呼ばれる所以である。
「畢竟、彼らが目指すのはエルディアかキ・ファとなる。しかし、それには、ガラム山脈の北斜面を下りなくてはならない」
 少女は地図を見る。
 ガラム北峰は南峰よりはるかに低い。ガラ国からは下りのほうが多い。ソーマを越えるほど難しくはないだろう。それでも
「駆けて下りられる山じゃないはずよ」
「歩いてでも難しい。特に女子供ではな」
 だが、と祖父は手を伸ばし、ザレーディールの手記をとった。
「彼らはそれを越える道を選んだ」

「何の事情があって彼らが逃げることになったのか、それは手記にも残されていない」
 しかし自らの命を懸けるだけの決意をさせる何かがあったには違いなかった。
「ガラムは険しい。街道が整備された今でも、老いた者、年端のゆかぬ者には厳しい道だ。街道を行くことのできない彼らが越えた道がどのようなものであったのか。途中、足が不自由だった彼の母親は、足手まといになることを恐れ、自害している」
 覚悟の上で逃げたはずだ。
 しかしその覚悟さえ虚しいものと思わせるだけの道行きだったのだろう。

 祖父の要約を聞き、フィル=シンはふと思う。
 読み上げたザレーディールの手記に、スゥルの管理ほど徹底したものはない、との一文が合った。
 ではザレーディールはおそらく野のスゥルではなかった。
 彼らを家畜のように囲う所有者があった。
 一介の従者に過ぎない彼は、けれど人を囲い込む手法を、キ・ファ国の誰よりも理解していたのかもしれない。
「逃さぬよう、死なさぬよう、……よく考えたものね」
 己が受けた屈辱的な所業を、他者に施す行いに少なからぬ嫌悪を覚えたのか、フィル=シンの口調に鋭いものが混じる。
「だが、考えただけマシだとも言える」
 思いもよらぬ言葉とその口調に、少女は老人を見上げた。驚きに目を見張る少女に老人は言う。
「軽口以上に受け止められることはなかったが、彼女の手足の腱を斬ることさえ、口に上っていた」
『実に幸いである』
 ザレーディールが記した一句を指差し、どう思うねと少女に視線で問うた。
「その通りだわ」
 即答し、けれどそれだけかと重ねて問われ、少女は口を噤む。
「幸い別の方法が見つかった、だから軽口で済んだ。それだけかね?」
 イルージアの処遇を決める場に従者のセラナスがいたのだろうか、是非にも意見を聞かせてほしいと求められたのだろうか。
 たたみ掛けられたが、フィル=シンはその答えをもたなかった。
 軍議の場に彼がいたはずがない。青宮との何気ない会話の中に偶然それを聞き知っただけだろう。従者であるのなら、聞き流すべきだった。彼らは「ない者」なのだから。
 けれど彼にはそれができなかった。
 なぜ、聞かぬふりができなかったのだ。
 差し出された手記を無意識に受けとった。
 息がつまる。心の奥までも探るような祖父の眼差しから逃げようとしたが、視線は深く捉えられている。
 なぜ?
 彼は従者に過ぎない。ない者であるはずの彼が意見を述べる。それはどうして?
 分を弁えろと叱咤されることも、あるいは場合によっては処罰されることもありえた。
 それを覚悟の上で、別の方法を奏上したのであるなら。
 進まない思考にもどかしさを覚える。
 彼の母親は足が不自由だった。なぜ?
 あるいは逃さぬように、殺さぬようにと足の腱を断たれていたのかもしれない。家の中の仕事を手伝わせるだけであるのなら、丈夫な足など必要ない。彼はその姿を見ていた。手足の腱を立たれたものの痛苦を間近に見ていた?
 だから?
 だから、他の方法があることを進言することで
「避けようとした。その不幸を」
 呟く己の声に、少女は唐突に気付いた。
 想像は決して事実への道を惑わすだけのものではない。
 俯いた目に、膝の上の書が映る。
「……」
 イルージアの心情も、ザレーディールの思惑も、文字に語られぬ部分は心で補うしかないのだ。
「心は言葉で語りつくせるものではない」
 顔を上げた先で、祖父が微笑んだ。
「聞くものは声に語られぬ思いをこそ聞き取らねばならぬ。それは安易なことではない。少し油断すれば、心地よい想像が目を塞ぐ。一瞬眩むそれだけで、真実など瞬く間に逃げ去ってしまう。逃げた真実が再び帰ることは稀だ。多くは二度と手にすることはできない」
 混じる苦笑に、この祖父であっても真実を逃すことが過去にあったのだと察する。
 察してから、これだ、と思った。
 言葉をさらい、ただ記憶するのではなく、そこから何かを察することが求められている。
 書かれていることの正誤に終始してきたフィル=シンに、それは酷く難解なことでもあった。
 眩暈がするわ、と思う。
 なぜ記したのか、なぜ記さなかったのか。正史の中に史実と語られることがあり、正史に採用されずとも事実であると語られることがあり、しかし物語としか語られぬこともある。
 その差は何か。
「声を尽くしても語れぬ思いを、はたして文字に綴ることができようか」
 語られることのないそれらを掬い上げることこそが、事実への足がかりとなるのだよ。
 聞きながら、歴史は過去の出来事を正確に記し伝えるだけのものだと誤解していたことに気付く。
 誤解していた、と思い、では何が正解かと考えて溜め息をついた。
 正誤ではないのだわ。

 俯く孫に微笑みかけ、さて、と祖父は席を立った。差し伸べられた手に、フィル=シンはザレーディールの手記を返す。
「シェル・カンは焼け落ちた。エルディアを守るものは失われた。誰しもがそう思った」
 老人はゆっくりと卓の上に積まれた書籍に歩み寄り、その隣りに手にしていた二冊の書を置く。
 ザレーディールの手記と花傑伝だ。重ねられた二冊を皺深い指で軽く叩き、言う。
「頼みの綱はファ・シィンの『娘』ただ一人、と。もちろんこれは堅固な綱だった。この綱がなければ、エルディアは失われていた」
 それから山の中ほどから一冊を抜き取り、フィル=シンに手渡した。
「だが、ファ・シィンが編んだ綱はその一本ではなかった」
 ずしりと重い手ごたえに、フィル=シンの腕が強張った。渡された書の表題には、女王ルフィスイリア、とある。
「その真名をルフィシア・ダイス=エルディアナ=サキス。エルディア中興の祖と呼ばれる偉大なる女王。しかし」

「このときはただ時に翻弄される幼い娘に過ぎなかった」