峰渡る風― 新たなる翼 ―

 歴史に語られる彼女は偉大なる女王であり、それ以前はわずか十二歳で国の要である街の太守となった人物である。
 ただお飾りとして据えられただけではなく太守の任を、短い期間ながらこなしてもいた。
 秀才と呼ばれるフィル=シンだが、己にはまだ国政をたとえ一端であっても担うなどできないことはわかっている。
 だからこそ、今の己よりも幼くして太守となったルフィシアを、ただの娘として想像することは難しかった。
 王の中の王と語られるその人の、王でない姿はどのようなものだったのか。
 フィル=シンは数日前に見た彼女の肖像を思いうかべる。
 今も数多く残される彼女の肖像の多くは、彼女が没して後に描かれたものだ。
 ――その瞳は明けの空よりも深く、その髪は日の光よりも明るい。
 花傑伝に語られるとおりに描かれるその姿に、ただの娘としての彼女はない。
 美貌もさながら、だが、決して美しいだけではありえぬ強い意志がそこには描かれていた。
 エルディアナ(王妃)と呼ばれた女たちの肖像は、横顔や伏目がちのものが多い。
 母なるアディナでさえ、半ばほど目を伏せた姿で葬神殿の壁画に描かれている。
 しかしルフィシアは正面を向き、泰然と微笑みを浮べ、まるで見る者に挑むかのようにしっかりと目を見開いているのだ。
 彼女の青い目には、己が映っているのではないかと錯覚するほどに強い眼差しだった。
 その姿は画家の願望によって描かれた虚像にすぎないのかもしれない。けれどその絵が「女王ルフィスイリアの肖像」と呼ばれ、そのことに誰も意義を唱えない以上、そこに描かれている姿こそが己を含む民の目に映る彼女の実像だった。
 王でないルフィシアは、存在し得ない。
 実像という言葉の、不確かさを見る思いがした。
 事実とは、結局のところ多くのものが信じることでしかないのかもしれない。

「シェル・カンを焼け出されたサキスの旅は雪の吹き荒ぶガラムから始まった」
 祖父の声が少女を夢想から引き戻した。
 軽くまばたきをした孫娘に老人は笑みつつ、このように、とフィル=シンの作った地図を指でなぞる。
 ガライダル高地東端、シェル・カン城からガラム街道を西へ。
 そしてかつてのランガ城塞跡を経由して北へと、節くれだった指が辿る。
「サキスは通ったと考えられている」
 ルフィシアではなく、祖父が彼女をサキスと呼ぶことに気づく。
 女王ルフィシアの過去としてではなく、サキスとして歩んだ道を示唆しているのだろうか。
 フィル=シンの目は祖父の指を追い、エルディアに大きく張り出したキ・ファ国の中央を通うその道を見る。
 キ・ファ国の都であるバルク城のすぐ傍らを南北に通う道だ。
 シル街道と今は呼ばれるが、この当時はまだサ・ジレク、つまりジレに至る道とだけ呼ばれていた。
 シルはランガに発し砂漠の中央を通うダル街道と交わり、エルディア北部のジレ街道(夏の道)に至る。ダルと交わる町をダラカス、ジレと合さる街をスフリスという。
 老人の指はスフリスで止まり、そしてジレを西進した。
 やがて止まった指の下にはサレアの文字があった。
 北には氷海が広がり、南にはサレ山脈が聳える東西に細長い大地だ。
「どうして?」
「国の西を北上する道はすでに封鎖されている。中央を北上すれば、グァンドールの本陣が置かれているティエル・カンを経由することとなる」
 フィル=シンは少しだけ首を傾げ、何故、と言いかけて頷いた。そして紙片にまた短い一文を書き加えた。
 なぜ、サレアを目指したのか。
 それを読み、老人は笑った。
「よい心がけだが、それは調べるまでもない」
 少し待ちなさいと言って老人はお茶を淹れなおした。

 一服したあと、なぜ、サレアに向かったことを不思議に思うのかと問われ、フィル=シンは答えた。
「グァンドールの本拠地を掠めるように北進するのは、やっぱり無謀だと思うの。確かにティエル・カンよりはずっと危険は少ないと思うけど」
 意気込んだ言葉に、燭の火が揺れる。
 ティエル・カンは王都だった。つまり、王女であるサキスの顔を知るものも多い、ということだ。
 その最中に飛び込むことが如何に危険かはわかる。
 だが、敵国の都を掠めるように北上することがそれに比べて安全だとはいえない。
「無謀と考える根拠は」
 根拠、と繰り返し、フィル=シンは愛らしい顔を難しげに固めて考える。
「それが無謀と映るならば、謀って相応しいほかの手立てがあるはずだ。それはなんだね」
 部屋は温かなお茶の香りに包まれている。
 その香りを楽しみながら、フィル=シンは考えを纏めるためにゆっくりと口を開いた。
「エルディア領内で、唯一キ・ファ国の支配が届いていなかったのは、サレア地方。それはわかる。だからそこを目指した」
 少女はそう言って地図を指差した。
 ジレ街道の通うその大地は、しかし辺境と呼ぶに相応しい。
「でも、ここに逃れて何があるの? 何もないわ。あるのは、わずかばかりの農地と小さな町がいくつかだけ」
 少女が言ったように「キ・ファ国の支配が届かなかった」ことは事実だ。
 王都が陥落して以降も捨て置かれた土地だった。
 細い指がいくつかの点を示す。
 短い夏の間、ジレを通う旅人を支える宿もかねた小さな町がある。
 いや、町を辿るように道が通うのであり、道のための宿ではない。ときおり訪ね来る旅人を一夜もてなし送り出す。それだけの場所だった。
 ジレ街道はあくまでも、夏場は使えぬダル街道の代わりでしかなかった。
 ダルを冬の道と呼ぶことは稀だが、ジレは夏の道と呼ばれることが多いことにもそれは現れている。
 サレアという地域は、エルディアからも重きを置かれぬ場所であったのだろう。
「それよりも、同じ危険を冒すなら、ファーレントか、ガラを目指すほうが良くはないかしら」
 ほう、と老人はつぶやき、その先を促した。
「だって、サレアに逃げて何ができるの? 隠れ暮らすだけが精一杯ではないかしら。それならファーレントかガラに救いを求めるほうが堅実だと思ったの。ソーマを越えてファーレントが兵を進めるのは難しいから助力を求める先としては相応しくないけれど、自身の保護を願うだけなら十分でしょう。それに国を取り返すつもりなら、兵を借りることのできる国を目指すほうがいいわ。つまりガラね。こっちはシェル・カンからも近いもの」
 シェル・カンの築かれたガライダル高地はガラム山脈への入り口でもあった。
 それなのにどうしてシェル・カンからもっとも離れたサレアに、と首を傾げる少女に、老人は問う。
「ファーレントに保護を求める。つまり、滅びゆく己の国を捨てて、ファーレントへと逃げるという意味かな。奥の宮に篭っていた三妃やその娘たちのように?」
 口を噤んだフィル=シンに、祖父は答える。
「であれば答えは簡単だ。ファ・シィンの娘にそれはできない」
 娘と呼ばれるからではない。娘として生まれたからでも、育ったからでもない。
 娘であるなら、という言葉で察することが難しいのなら、王であるなら、と言い換えてもよいだろう。
 まこと国を担うものであるのなら、国を投げ出し、己の身の安寧を願うことはない。
 彼女は己の安寧を願うことはなかった。その半生は戦の中にあり、残る半生は政の中にあった。
「でも、……」
 ただの娘であったのならと言い差すフィル=シンの声に、祖父は問いを被せた。
「あるいは他国の兵を率いて戦うのかね。エルディアを二つにわけて」
 あっ、と小さな声が少女の唇から漏れた。
 エルディアに救いを求められれば、ガラは即座に平地へと兵を繰り出すだろう。
 彼らがその先頭に立てるのはエルディアの正統な王位継承者だ。迎え撃つキ・ファは、ガラ国の軍を率いて自国に戦を仕掛ける者をエルディアの王と認めるのかと民を煽動するだろう。ガラに利用されている王女を救え、でもよいに違いない。
 広くファ・シィンの娘と謳われ、花将と讃えられるもう一人の娘が、キ・ファ国の手元にはあったのだから。
「それではたとえ戦が終わろうともエルディアの半分が失われることになる」
 それは決して国土だけのことではなかった。人の命、そして国としての威儀、何もかもが半分失われることを意味している。
 分かつことができぬものを分かつことは、失われることに等しい。
 女王の名の下に集う軍と、女王を異国から解放するために集う軍。
 その二つが剣戟を交え、互いに減らしあい、やがて戦の終結後に訪れるのはキ・ファ国、あるいはガラ国への従属でしかない。
「彼女にできたことは少ない。一つは」と祖父は前置き、湯飲みに残る冷めたお茶を啜った。卓に戻された湯飲みがことりと音を立てる。「己の命をもって、国を贖うこと。つまりキ・ファ国に降り、国政を委ねると表明することだ。だが、彼女はあくまでも王位継承者の一人でしかない。たとえただ一人の継承者であろうとも、国主でない者が下す決定に価値は認められない。戴冠を終えぬまま居城を焼け出された彼女には、たとえその命をもってしても国を贖うことはできなかった」
 そして、と続けながら二つの空いた湯飲みにお茶を足した。
 仄かに甘い香りが立ち上る。
 広げられた地図の上、茶の産地を追ってフィル=シンの目が自ずから動いた。
 キ・ファの南で作られる茶だ。
 そしてフィル=シンが手にする湯飲みは、やはりキ・ファの窯で焼かれたものだった。
 エルディアの砂地では茶の木は育たず、砂で焼き物は作れない。
 器を持つ己の袖口に施されている刺繍もまた、キ・ファで紡がれ染められた糸によるものだ。そして衣服に用いられている布は、同じく東のキ・ファで紡がれた糸を西のファーレントへと運び、そこで織りなしている。
 卓に広げられている地図が、大きさを伴なうものとして理解された。
 それはエルディアという国のあり方を示すものでもあった。
 交易によってのみ、成立つ国だった。
 考えてみれば、この部屋にあるもので「エルディア」のみで作られたものなどないに等しい。
 フィル=シンの前に高く積まれた書物でさえ、エルディアでは作ることができないのだ。
 紙の原料となる植物が、エルディアにはないのだから。
 戦に流通が途絶え、ふたたび興るまでの二十年を越える歳月。
 その間のエルディアの民の暮らしは、どんなものだったのだろう。決して満ち足りたものではなかったはずだ。
 そう思って湯呑みを見つめると、飲みなれたお茶がひどくありがたいもののような気にさせられる。
 しかし、戦を終わらせ、陸路を整え海路を開き、エルディアを国として蘇らせた女王も、そのときは国主としては認められぬ矮小な存在であったのだと老人は語る。
「二つは己の身をもって、和平を贖うこと」
 キ・ファを宗主国として認め、臣に下ることで、所領の安堵を願う。
 乱世においては特に珍しい行動ではない。
 あるいは言葉どおり、身を委ね、情愛に訴えて国と己の安堵を乞う、か。
 グァンドールが、その姉が先の国主に対し選んだ方法でもある。
「だが、これも難しい」
 我が身を代償に国の安寧を贖ったはずが、国を代償に己が身の安寧を贖ったとの謗りを受けかねない。
「彼女をただ一人の王位継承者であったとするか、王位継承者のうち生存が明らかであった一人とするかで、その解釈は割れるだろう。後者と考える者が多ければ、キ・ファの後ろ盾を得て王位に就いた者と目されることも大いにありえた」
 ファ・シィンがグァンドールの手を拒絶したわけもそこにある。
 国を傾けた者とだけは語られたくない。
 花傑伝に語られるファ・シィンの言葉を思い出した。
 ランガを守る武人の娘の一人であったころならば取ることが許されたかもしれぬ手は、王の隣に立つものとしては触れることさえ許されぬものだった。
 また特に難しい点は、と老人は説く。
「サキスの継承権は、はたして有効であったか、だ」
 王族でありながら王を輩出することを自らに禁じた家系がある。歴代の王の誰よりもアディナに近しい血を持ちながら、その血はエルディアを継ぐ者のためにあるとする一族だった。
「アルディエート公子との婚約ね?」
 訪ねた少女に祖父はうむと頷く。その頬に微かな笑みが浮ぶ。
「アルディエートの嫡子を伴侶に定められたサキスの継承権が、この時点においても有効であったか否か。仮に失効していたと見るならば、彼女はそれに不服を唱えキ・ファ国の軍事力を得て立った、いや、そのためにあえて敵国に下ったと言う者も現れただろう」
 後のルフィシアを知るフィル=シンには不愉快としか言いようのない想像ではあったが、その先は胸に浮かんだ。
 いずれは「そのためにキ・ファ国を引き入れたのだ」「その証拠にファ・シィンはキ・ファが王都に乗り込んでくるまで動かなかった」と言い出すのだろう。
 そして拠り所のない噂ほど、収めることは難しい。
 顔を顰めたフィル=シンに、老人は再び頷いた。
 サキスが置かれていた立場は、あまりにも危うい。
「畢竟、シェル・カンを焼け出された王女サキスに残された選択肢は二つ。その場で命を絶つか、逃げるかだ。そして、命を断つことはできなかった。理由はわからない。国の再起を志したのかもしれぬし、ただ命を惜しんだのかもしれぬ。そもそも生きることを選んだのではなく、気付けばまだ生きていた、それだけかもしれぬ」
 何をすべきかわからぬまま、戦渦を逃れるようにガラムを東へと向かったとも考えられる。
 女王として立つ前の彼女は「ファ・シィンの娘」の一人でしかない。
 そして主に娘と語られ謳われたのはイルージアであり、サキスではなかった。
「そうね……」
 十四歳になったばかりの少女が、将来の展望を持って行動を起こしたと考えるのはあまりにも「物語」に依りすぎている。
 俯いたフィル=シンに老人は声を和らげた。
「サキスの旅は雪のガラムから始まる」
 その道は、母ファ・シィンが築いた道だ。細く厳しい道だった。
「だが、史から消えた彼女が再びその姿を時に現したのはガラムの雪が解けるころ。それはシェル・カン焼失より三月の後であった」
 冬のガラムを越えた? まさか、と少女の目が大きく見開かれた。
「むろん、ひとりで越えたのではない。彼女には助けがあった」
「助け?」
 うむ、と頷いた祖父をせかすように卓越しにフィル=シンは見上げる。
「一人は侍女。乳母の娘でもあるその者の名は、長く歴史に語られたことはない。やがて時は二人を二国に分かつ。しかしこのときのサキスには誰よりも得難い友でもあった。そしてもう一人、後に銅(あかがね)の大鷲と謳われる者」
 ガラムには今も名を馳せる男。
「その真名をナセル・イル=シーマ。鳥(イール)の名を冠するこの者がサキスに付随うようになった経緯は不明。しかしこれより先、彼の姿は常にサキスの元にあった。天将とも呼ばれる彼と、花将イルージア。二人を従え、サキスはやがてサレアに起つが、それはまだ先のこと」

 雪が消え始めても道はまだ厳しい。
 昼にぬかるみ夜にはまた凍える道を踏み、岩を掴み、樹木の枝を払っては越える。永久に続くかと思われたその道もやがてなだらかなものとなる。山を下るにしたがって、冬は遠ざかっていった。
 いくつもの峠を越え、曲がりくねった道の果てについに平原を見た。
 僅かに草の萌えるそこには、大包舎を中心にいくつかの天幕が張られている。
 昇った日に、天幕が白く光る。霞は川のように帯をなし流れてゆく。
 昨晩降りた露が、その流れの中で風に払われ、かすかなきらめきを残し散る。
 鮮やかさを増してゆく空の青と草の緑、白い天幕は、雪に閉ざされたガラムの白と黒に慣れた目には鮮やか過ぎた。
 未明から歩き続けかすむ目を擦った。

 のんびりと草を食む馬が軍馬であることにさえ気づかなければ、それは何処までも平和で穏やかな景色だった。