― 刻まれる時 ―

 しばし待て、と商人に短い言葉を残し青宮は席を立った。
 外套を翻して走る。
 神殿の門を抜け、カルシュラート公が篭められている館へと駆けるその後ろをセラナスも懸命に追った。
 もつれる足がもどかしかった。

 並んだ衛兵が敬礼をする。
 その様子も目に入らぬ様で、青宮は衝立を払いのけ部屋の中に飛び込んだ。
 殿下、と諫止する衛兵をセラナスはその身に縋って止める。
「隊長殿、しばしお持ちを!」
 それから部屋を振りかえった。
 青宮の背中越し、湯気の中に膝をついているらしい白い人影が見えた。
 入り口から吹き込んだ風が曇りを晴らす。

 公は湯浴みに用いる薄物を纏うのみの姿で、のどもとに簪(かんざし)を当てていた。
 その顔色は湯の中にあってさえ、いっそ青く見えた。

 闖入者に動きを止めた公は、しかし一瞬後にはその手に力を込める。

 だがそれより早く、青宮は公の手首を抑え、簪を奪い取った。
 僅かに傷ついたのどもとから一筋血が流れる。
 青宮が投げた簪が、床の上でしゃらんとよい音を立てた。
 その簪を追って、公は身を屈め手を伸ばす。
 しかし公はそれを拾い上げることができなかった。
 青宮は左手で掴んだままの公の右手首を渾身の力で捻りあげ、動きを阻む。
 公の体が無防備に伸びた。
 振り解こうと抗う公にそれ以上の時は与えられない。
 青宮の拳が腹に埋まる。
 刹那の静止の後、公の体は力を失い湯を満たした盥(たらい)の中に崩れた。
 盛大な音とともに散った飛沫が、青宮の全身を濡らした。
 公の髪と纏う薄物が、緩やかに湯に広がる。

 掴んだままの公の手を手繰り寄せた青宮は公を湯から引きあげる。濡れた薄物がその肌にしとりと張り付いている。
「セラナス!」
 呼ばれ、セラナスは衝立の下敷きになっていた布を引っ張り出し、青宮に差し出した。
 青宮はそれで公を無造作に包むと、ひとまずは床に横たえる。
 ついでずぶ濡れの青宮のためにもう一枚布を差し出しつつ、
「あの、すみませんが、衝立、立てるの手伝っていただけますか」
 いったい何事かと立ちすくむままだった衛兵に、セラナスは背後を振り返って言った。
 従者に過ぎぬセラナスの不躾な要請に、衛兵たちは無言で応じた。
 命じられることが半ば本能になっている彼らにとって、漂白された思考に与えられた指示は抵抗をあたえなかったらしい。
 わらわらと集まりいくつもの衝立をそれぞれ起こすと、努めて公の姿を見ぬよう礼儀正しく、それらを元あったように並べなおした。
「それから、大変申し訳ないのですが、公の寝室まで、衝立を運んではいただけませんでしょうか」

 公を抱えた青宮を囲むように、衝立の群は廊下を移動した。

 カルシュラート公が目覚めたら知らせを遣すように命じ、青宮は部屋へと戻った。
 所在無げに座っていた商人が、青宮の戻りに喜びの表情を浮かべる。
 主の居ない部屋に一人取り残される不安がよほど堪えたようだった。
 が、青宮の姿を見、目を丸くした。滴る水が、冷たく乾いた風に薄く湯気をのぼらせている。
「いかがなさいました」
 答えない青宮に代わり、セラナスが、いえ、ちょっと、と愛想笑いで応えた。
 冷めたお茶をさげ、あらためて淹れなおす。
 その間に青宮は髪から滴る水をふき取った。
 青宮は卓まで歩み寄ると、椅子にかけることなく椀を取り、茶を飲んだ。
 濡れた服で椅子に座れば、椅子の側地を張り替えなくてはならなくなる。それを慮ったのだろう。
 セラナスは布の張られていない木の椅子を――もしかしたら、踏み台だったかもしれない――部屋の隅に見つけると、いそいそとそれを運ぶ。
 何を言うでもなくそれに腰を下ろした青宮は、懐の簪(かんざし)を卓の上に置く。
「お借りしてきた」
 お借りした、か、とセラナスは胸中で呟いた。
 随分な借り方もあったものだと思ったが、湯浴み中失礼して奪い取ってきた、と言うのではあまりに語弊がある。
 黙っておくことにした。
 ところがそれを見た商人は顔色を変える。
「これは……」
 なんだ、と、衣の上からひとまず水を拭く青宮は気だるげに問うた。商人は難しい表情で答える。
「これは、花蔦紋(クォル・チュン)でございますな」
「クォル・チュン? なんですか? それ」
 耳慣れぬ言葉にセラナスは首を傾げた。
 青宮は濡れた髪を拭きつつ、応対をセラナスに任せている。
 商人は手にした簪(かんざし)をセラナスによく見えるように持ち直す。
「アディナの紋と蔦をあわせた意匠を花蔦紋(クォル・チュン)と呼びます。こちらの装飾にも用いられておりますように」
 と商人が指差す天井をセラナスは見上げる。
 花と蔦が彫られていた。
「聖なる場所や高貴なもの、また特別な式典に使われ」
 商人が手にした簪を静かに動かす。つけられた細い鎖が心地よい音を立てた。
「王とその娘たちのみが用いることを許される意匠でございます」
 特に、と商人は簪についていた雫を取り出した布でそっと拭く。
「このように身につけるもの、帯留めであったり、首飾であったり、耳飾、指輪、それから簪(かんざし)でございますが、こういったものに用いられますのは、通常」
 商人はその見事な細工に惚れ惚れとため息をついた。
「婚礼の祝いとされております」
 婚礼!?
 さすがに声をなくしたセラナスが、主を振り返る。
 主である青年もまた、拭く手をひととき止めて商人を見た。
 飾りに見とれているらしい商人はそれに気づく様子も無く、話を続ける。
「王の娘の婚礼が認められると、王がこれを娘の夫となるものに授けます。実際は、花蔦紋の細工を作ってよい、という許しでございますが」
 商人は簪の細工をじっくりと見分する。口調が自ら、ゆったりとしたものになった。
「それを夫となる者は、求婚の証しとして娘に贈ります。一口に花蔦紋と申しましても、千差万別。花と蔦をどのようにあしらうか、細工は掘りか、鋳金か、あるいはこのような銀線細工か。地金は銀と決まっておりますが、それも燻し、磨き、梨地と種類がございます。他に、花芯にどのような玉を用いるかなど、その仕様に贈る者は粋を尽くすのでございます。そしてここに」  セラナスにその簪の胴を見せ、指差した。
「許しを与えた王の名を、足には誓いの言葉を彫り贈ります。王の名と申しましても、正しくは正妃さまの御名でございますが。贈られた品を娘が受けとれば、婚約が交わされた、ということに。あとは吉日を選び式を、という運びになります」
 言葉もなく簪を見つめる二人を前に、商人は 「それにしても見事な細工でございます」
 これは玉髄でございますな、と、白銀の花と蔦のなかに散らされた緑色の石を指す。
 石の善し悪しなどセラナスにはわからない。
 だが、とろりとした甘みのある緑をしたその石は言うまでもなく美しいものだった。青竹を清水にゆっくりと溶かしたなら、あるいは雨に洗われた青竹を日に透かしたらきっとこんな色になるのではないか、と思わせる。
「斑(むら)もなく、これほど艶やかな色を見せるものは珍しゅうございます……なんと美しい」
 商人はもう一度ため息をついた。
「わたくしは長く王家の宝飾を手がけてまいりましたが、これほどの一品は他に見たことがございません」
「はい」
 同意するセラナスに商人は僅かに微笑んだ。
「……しかしおそらくこれは揃いの一部でございましょう」
「一部、ですか?」
「さよう、華燭の簪(かんざし)となれば、普通は額の上とその左右に飾ります。ですからこれと同じ、両挿しと呼ばれる簪がもうひとつ、それに前挿しがあるはずです。これは、あるいは両天の簪かもしれませぬがそれにしては少々足が短うございます。やはり両挿しでございましょう」
 商人の言葉に青宮がセラナスを振り返る。
「調べたか」
「公のお荷物はすべて。ですが簪は他にございませんでした」
 せっかく取り上げたのに、他に持っていられたのでは堪らない。
 眉間をよせた青宮に、「失礼ですが」と商人が控え目に声をかけた。
「これは確かにカルシュラート公の持ち物と」
 ああ、とひとこと青宮が肯定する。
「恐れながら、わたくしどもはカルシュラート公のご成婚を聞き及んでおりません。この王都、失礼、ティエル・カン城市にて花蔦紋(クォル・チュン)の制作がわたくしめの耳に入らぬということは、かつてございませんでした。戦時ゆえに、よほど厳しく、内密に、とのお達しがあったのでございましょうが。……となれば、他は間に合わなかったのやもしれませぬ」
 商人は飾りを仕舞っていた箱から白絹を一枚取ると、丁寧に簪を布で包み卓の上の置いた。
「これほどの細工です。いかに優れた職人であっても数ヶ月を掛けねばなりません。また地金、玉などの仕入にも、時や金、人の手が掛かります。人の口や金の流れを塞ぎ隠すことは難しゅうございます。仮に全てを伏せて作るとなれば、日々の作業に紛れて資材を調達し、作ることとなりましょう。それではゆうに数年を要します。はてその間、どこにも漏れぬということはありましょうや。したがって、揃いの全てを内密に作ることは不可能と申し上げます。こちらの品は、寝食忘れてようようふた月でございましょうか。もちろん、地金を用意できてのことでございますが」
 許しを与えた王の御名にはリセル・ターガとございますれば、これは先王のもの、と商人は言った。
「ちょうど日数があいます。公がこれのみをお持ちであるならば、そういうことなのだとわたしは考えます」
 それからあらためて青宮を見上げる。
「恐れながら、これと対になる耳飾を公にお贈りすることは、難しいかと」
 花蔦紋は、特別なものであると同時に
「エルディアではこれは求婚を示す意匠でございますので」
 商人はそういって深々と頭を下げた。

 商人には深く礼を言い、ひとまずカルシュラート公を見知っているらしい彼の見立てで耳飾を二揃い買い上げた。
 ひとつは簪とおなじく梨地銀線細工の小さな白い花であったが、その花はキ・ファ国でいう芍薬によく似た八重咲きの華やかなものだった。
 もうひとつは、青みを帯びた乳白色の石が房となりいくつも下がっているものだ。葡萄のようにも藤の花のようにも見える。揺らすと石と石が触れ合い、よい音がした。
 どちらもため息がこぼれるほどに美しい品だった。

 畏まり退出する商人を神殿の正門まで送り、セラナスは主の下へと戻った。
 着替えを済ませた青宮は、深く椅子に腰を下ろし、ひどく疲弊した様子で目を閉じていた。
 さすがに声をかける気にはなれなかった。
 二つの耳飾をそれぞれ箱にしまう。
 この耳飾の箱がまた巧緻の極みであった。彫刻が施された白銀で作られている。
 セラナスは静かに感嘆の息を吐くとそれらを衣装箱に片付けた。
 青宮の手元に残された簪はどうしたものか。
 白絹に包まれたままの簪を丁寧に取り上げ、適当な入れ物を探す。探しながら、そっと開いてみた。
 足に刻まれている文字が読めたなら、と思う。
 エルディアの言葉はまだわからない。
 贈り主はあの女性にどんな言葉を贈ったのだろう。
 適う箱が見つからなかったためセラナスはそれを包みなおし、青宮の文箱の中に片付ける。
「セラナス」
 不意に声を掛けられどきりとする。
「はい」
 返事をし、その足元に畏まると、青宮は目を開けた。
「よく気づいた」
 何のことかと首を傾げたセラナスに青宮は言う。
「どなたかが、亡くなられたのか」
 自分に向けられるにはあまりにも丁寧な口調に、ますます混乱した。
「は?」
「簪(かんざし)で命を絶つなど、男のお前にそうそう思いつくことではあるまい」
 笑っていいえと言おうとしたが言えなかった。セラナスは顔を伏せる。
 懐の粗末な簪を服の上から押さえた。
 公の簪とは比べるべくもない、粗末なものだ。
 木の枝を削ぎ、乾いた木の実を挿しただけのそれは、だがセラナスには失えぬものでもあった。
 その足は母の血で黒く染められている。
 ガラはスゥル(貧民)に対し厳しい国だった。スゥルは同じ人としては扱われぬ定めにあった。
 むしろ家畜のほうがよほど大切にされている。
 セラナスは両親と共にガラを逃げ出し隣国キ・ファのバルクを目指した。
 バルクを目指したことに意味はない。ガラ以外の国の町は、バルクしか知らなかったのだ。
 険しい道のりだった。
 母は足手まといになることを恐れ、途中、簪(かんざし)で自害した。
 簪の足先は決して鋭くないが、力任せに突き立てれば人の咽喉など容易く掻き切れてしまう。
 セラナスと父が離れたわずかの間のことだった。
 父は事切れた母からその簪を引き抜くと、無言でセラナスに握らせた。
 傷心の間もなく、厳しい山道を逃げた。逃げて、逃げ続け。
 父と二人、命からがら逃げこんだバルクで、しかし父は病に侵されあっけなく死んだ。
 セラナスを憐れんだバルクの兵長が、城主グァンドールに掛け合ってくれ、城内の雑用という仕事にありつけた。
 しかしセラナスはキ・ファの慣習に疎く、言葉にも不自由で、思うようには働けなかった。
 他愛のないことでも指示を仰がざる得なかった。仰いだ指示を何度も聞き返さねばならなかった。
 それが理由で上役から疎んじられ、たらい回しにされた。
 不自由ながらにどうにか言葉を覚え、言われるだろうことを推察できるようになったころには、自分を受け入れてくれる先はなくなっていた。
 人のよい兵長はなにかと世話を焼いてくれたが、元がスゥルの自分は剣の扱いを知らない。
 今から習ったところで、役に立てるはずもない。
 いよいよ路頭に迷うかと思いつめたその日、皇帝となったグァンドールから宣旨が下った。
 青宮の身の回りの世話を命じる。
 青宮のエルディアへの出征は、すでに民も知るところだった。
 あるいは体のよい厄介払いだろうか。
 バルクに残っても良いことはない。いずれ遠からず城からたたき出されるだろう。兵長が庇ってくれるにも、限度と言うものがある。その先には野垂れ死にが待っているだけだ。
 ならば、餓えて死ぬよりも、戦場で死ぬほうがまだしも手っ取り早い。
 実際戦場の死を目にしてみるとそう手取り早くもなかったが、そのときはそう思ったのだ。

 凄まじい勢いで去来するたった二年の記憶がセラナスの言葉を封じる。
「ガラの出だといったな」
「はい」
 やっと搾り出せた言葉は、それだけだった。
「我らはガラを滅ぼすかもしれぬが、構わぬか」
 懐かしむ故郷ではなかった。
 頷いた。
 構いません、と答えようとした。
 だが、セラナスの口をついて出たのは別の言葉だった。

「まさに望むところです」

 言ってしまってから、口を押さえても無意味だ。
 おろおろとするセラナスに青宮が緩く笑った。
 窓からのやわらかな光がその背を彩る。
「お前は役に立つ。おしゃべりがすぎることは難点だが」
「も、申し訳ございません」
 慌てふためいて青宮の足元に深く頭を下げると、その頭を何かが撫でた。
 青宮の手であることに気づくまでに、瞬きを二度三度。
「ザレーディール」
「は?」
「率直を意味するバルクの古い言葉だ。お前の姓としよう」
 戸惑いのまま青宮を見上げる。
「セラナス=ザレーディール。本日今より、侍従として側仕えを命じる」

 位階の与えられぬ従者から、小姓をとびこしての異例の抜擢だった。
 口をあけたまま言葉もなく青宮を見上げるザレーディールに青宮は言う。
「返事は」
 畏まりました、の言葉を紡ぐのにあれほど苦労したときはなかったと、彼は後年その手記に記している。
「あ、ありがたく拝命いたします」
「名の通り、励め」
 ザレーディールはその日のうちに青宮に仕える十数名の従者を自らの裁量で動かす権利を与えられた。
 それは軍に照らし合わせれば小隊長、位階では少尉あるいは中尉にも匹敵した。