天を掴む― 蠢く影 ―

 幾人かが咽喉を鳴らした。乾いた空気を飲み込む音が、室内に大きく響いた。
 沈黙が重圧をもってその場を支配する。
 もたらされた知らせの意味を解す前に訪れた静寂とは、質を異にする静けさだった。
 鼓動さえも憚る沈黙から逃れることができたのは、報をもたらした者を除いては僅かに一人。
 そのただ一人である男が椅子の肘掛を二度指で軽く叩いた。
 その音が、凍てた時を再び動かす。
 その場に居並ぶ男たち各々の胸に閉じこめられていた空気がいっせいに吐き出され、未明の空気を白く濁らせた。
 重なる吐息が、いまだ夜に包まれる室内を照らす燭の火を揺らす。
 炎が揺れるとともに、壁に映された人々の影もまた緩く蠢いた。
 そのおどろおどろしいさまは、人々の内心を映し出したようでもあったし、今後を暗示するようにも見えた。
 思わず身を振るわせたのは、この場に残る夜気のためなのか。
 ふと隣り合うものと目を合わせた男たちはその顔に恐怖の色を見、静かに苦笑を交わした。

 数日前、エルディアの官を謁見した広間には卓が運び込まれている。
 軍議に適当な広さがあること、以後の謁見にはグァンドールが立ち会うことがないことから、ここはすでに軍議の間、と呼ばれていた。
 卓の上に広がるのは街道の地図だ。墨でこれまでの戦いが記されている。
 その卓の末席に、使者は立っていた。
「アルデシール」
 呼ばれ、将たちを震撼させた報をもたらした使者は固い声で短く答え、深々と頭を垂れる。
 グァンドールは常と変わらぬ面持ちで帰還した青宮を労った。
「大義であった」
 無言のまま再度頭を垂れた青宮は、帰還の報告を終え、静かな歩みでグァンドールの左に立つ。
 もたらされた報について問いたいことがあるのだろう。諸将の視線は青宮に集中した。
 だが、グァンドールは青宮を問いただすこともせず、彼らが青宮へ問うための時も与えなかった。
「シェクァード、西はいかがしておる」
 グァンドールは、傍らに控える元帥に訊ねた。
「ファーレント牽制のため、ソーマ河畔には巡道を基点に北に二連隊、南に一連隊を配備いたしました」
 卓の上に広げられた地図を差すシェクァードの指を諸将は追った。
 ソーマはエルディアとファーレントの境に横たわる長大な川である。
 その水源は二つ。西はファーレント南方の山中に発しこれを西ソーマと呼ぶ。東はエルディア西南のガライダルに発し東ソーマと呼ばれた。
 その両ソーマ川はソーマ湖を中心とする大小二十からなるソーマ湖沼群にて流れを一にし、北の氷海へと流れてゆく。
 湖沼群などと呼べば聞こえもよいが、それは広大なアルダ砂漠から取り上げた水をすべてぶちまけたかのような大湿地帯だ。
 時を掛け、苦労して築かれた道を一歩踏み外せば、ただただ泥の中に沈み行くしかない、底なしの沼地でもあった。
 この地ゆえに、エルディアとファーレントはその歴史の中で一度たりとも剣戟を交えることがない。交える舞台を持たぬためだ。
 そして湖沼群を巡るように細々と巡らされた道が、ソーマ道である。
 ソーマ湖の南岸、二つのソーマ川を越える道を南道とよび、これはガラム街道に繋がる。ソーマ湖と氷海の半ばを通る道を北道は途中二つに別れ、それぞれエルディア北部を通るジレ街道(夏の道)、旧王都へと続くダル街道(冬の道)に繋がっていた。
 この南北の道を、ソーマ湖東岸で繋ぐ、これをソーマ巡道と呼んだ。
「今のところ、特にファーレントに動きは見られぬとのことでございます」
「では、巡道の北に展開する連隊の一を呼び戻し、先に遣わした一大隊及びここに駐留する兵をあわせ四師団を編成、うち二師団をガライダルへ、残る二師団には街道の確保を申し付ける。先行した大隊にその知らせを」
「畏まりました」
 他はおって沙汰する、急ぎ務めよ、と指示を下しグァンドールは席を立った。
 付随う青宮にやはりもの問いたげな目が集まったが、青宮は無言でその場を去った。

 グァンドールの私室へと呼ばれたアルデシールは、部屋に満ちる匂いに眉を顰めた。
 兄上、と言いかけ、
「陛下」
 と呼びなおす。
「構わん。まあ、座れ。ご苦労だったな」
 労いつつ椅子を勧める。
「椅子が砂で汚れます」
「叩けば落ちる。座れ」
 固辞するアルデシールにグァンドールは座るように命じた。
「飲め。体が温まる」
 手ずから酒を杯に注ぐ。
 畏まって受けた異母弟は一口軽く口を潤した。
「ありがとうございます。……兄上、この匂いは」
「気になるか」
「申し訳ございません」
 言いながら、一旦立ち上がる。
「よろしければ、窓を開けることをお許しいただきたいのですが」
「好きにしろ」
 その母親によく似た静かな動きで窓に歩み寄るアルデシールを見つつ、グァンドールは椅子に腰を降ろした。
 幾重にも重ねられた厚い垂れ幕を除け、アルデシールは木戸を開け放つ。
 冷たく乾いた風が部屋の中を吹き抜けていった。
 夜明けの空を背負って窓辺に立つアルデシールのゆるく束ねられた髪が、風に煽られて幾筋か流れた。
 わずらわしげにそれを掻き揚げ、指先に絡みつく甘い匂いに気づいたのだろう。
 アルデシールは垂れ幕を振りかえり、ついで己の指先を見つめる。
「いったい、何の匂いです」
 指先に付いた何かを擦り落とす仕種を見せながら、彼はグァンドールに問う。
「エルディアの匂いだ」
「エルディアの?」
「枝についたまま腐ってゆく果実の、な」
 生きながら腐敗してゆく、これはエルディアという国の発する匂いなのだと言外に含ませる。
「匂いに惹かれて、腹を空かした獣がやってくる」
「……」
 アルデシールは訝しみ僅かに首を傾げたが、それ以上は問わなかった。
 卓を挟み、向かい合う。
 さて、とグァンドールが手にした杯を置いた。
「聞かせてもらおう。どういうことだ」
 一拍おいたのは意図してのことではなかった。
 口に乗せるのに、グァンドールをして決意が必要だったのだ。

「シェル・カン城『焼失』とは」

「言葉の通りでございます。シェル・カンは焼け、失われました」
 詳細を促すグァンドールの目を避け視線を足元に落とし、アルデシールは言いよどむ。
「何から申し上げればよいのやら……」
 言葉を探す異母弟の表情は濃い疲労に染まっている。出陣前の清々とした姿からはかけ離れた様子だった。
「なるほど。では、まずは当面のことを聞かせてもらおうか。シェル・カンにはどの程度の戦力を置いてきた」
「兄上からお借りした半数を……少々上回る程度です。指揮はファル・カイズ准将に預けてまいりました」
 半数という言葉が気になった。アルデシールは僅かに十数騎を供に、ガライダルからティエル・カンまでを駆けてきたはずだ。
 それで残る兵が半数とは?
 だが返した問いは別のものだった。
「イーサはどうした」
 エラ・ルジェ小街道を進軍するアルデシールの補佐としてつけた年配の中将ではなく、先だって准将に取り立てたばかりのファル・カイズに軍を預けたことを問う。
「戦死いたしました」
 目付けにも等しく傍らにあった者の死を淡々と告げる口調に違和感を覚えた。
「兄上」
 言いかけて口を閉じたアルデシールを見る。どうした、と促すと、目を逸らす。
「言え」
 一呼吸の後、意を決したというにはあまりにも静かな声で、アルデシールは言う。
「兵を、退くことはできませんか」
「できぬな」
「なぜ」
「エルディアを滅ぼすことになる」
「それではいけませんか」
「国政を我らに委ねよ、と兵を挙げた。半ばで兵を退いては信義にもとる。踏みにじり、奪い、旗色が悪くなれば逃げる。それは盗賊のすることだ。そうして我らが引いた後、エルディアが滅ぶことに変わりなく、我らは末まで蛮人と蔑まれ、わたしは無策を施したことになる」
 アルデシールは「ですが」と言いかけ、息をつく。
「なればこそ、兄上はエルディアを攻めることをお厭いになったのですね」
 それだけではない。だがそれは言う必要のないことだ。
「退くのであれば、退くに足る理由が求められる。もっとも望ましいのは、エルディアが我らを退けることだ」
 今となってはそれが不可能であることは、明らかだった。
 おそらくエルディアの民にして、エルディアの勝利を信じるものはない。
「それともアルデシール。お前はシェル・カン焼失の理由が、兵を退く理由になると考えるか」
「いいえ……浅はかを申し上げました」
「では、退かぬためにはどうしたらよいか、聞かせてもらおう」

 まず、シェル・カンに残した兵力はその半数が失われていること。至急援軍が必要であるが、当面はその数で陣を維持することが可能だろうこと。しかし、城が失われた今、食料と水の供給がもっとも難しいこと。加えて生き残ったシェル・カン市民の保護のため、その配給に兵糧が割かれるだろうこと。また戦ともなれば市民は足手まといになる上、反乱を企てられる危険もある。早急に別の町に移すことが望ましい。
 それらのことを、アルデシールはとつとつと語った。
 考えながら話しているというよりは、これで正解かと一言ずつ問うような口調に、知らず誘われる笑みをグァンドールはかみ殺す。
「宿営地の建設と食糧の移送が急務か。わかった。そのように命じよう。難民は動けるものから順次移動させるが……移すに適当な町はあるか」
「サハンがよろしいかと」
 サハンはここティエル・カンとシェル・カンの半ばにある街だ。ティエル・カン同様、泉のほとりに建てられた宿である。エルディア南方を進軍してきたアルデシール率いる軍の宿営地のひとつでもあった。
「サハンには泉があります。食糧の確保も難しくはありません。配給さえ滞りなければ最低限の煮炊きはできるでしょう。幸い冬場ですから遠方からの糧を運ぶことになっても、ひどく傷むこともありません。住まいには我らが使う天幕を」
「なるほど。兵舎に使用する大包舎であれば、数家族が共に暮らせよう。春になる前に、建設を始めれば夏前には家が建つ」
「はい。そうなれば、最悪の場合、サハンを……エルディア南限の砦とすることができます」
 砦を設けるその意味に、グァンドールは笑みを浮かべた。
 笑みに剣呑さが混じったのだろう、アルデシールが身を正す。
「炎上を聞いたとき、最後を覚悟した王女がそれを命じたものだと、私は思いました。落ちのびるためか、あるいは自決か。しかし」
 火は戴冠式の最中に城壁間際の貧民街から起こったと、生き残った市民が言った。
「たしかに、おかしいのです。命が惜しいのであれば、戴冠をせず下ればよい」
「そうだ。王位継承権を夫に与えることのできる娘だ。粗末にはせん。それこそお前と娶わせれば、労せずこの国が手に入る」
 娶わせると聞き、アルデシールは苦く笑う。
「王女はまだ十三だとか」
「数年を待てばよいだけだ」
 困惑を露にした弟に、グァンドールは戯れだと詫びる。
「しかし王女は戴冠に臨んだ」
「はい。この期に及んで戴冠したのであれば、戦を終わらせるためであると、普通は考えます。国主として務めを果たすためだと」
 その務めは、自らの命で民の命を、国を贖うことだ。
「にも拘らず、城は炎上。戴冠を布告する間もなく燃え落ち……そして王女の生死は不明」
 即位は布告されぬままに終わった。女王ではなく、王女と言い表したアルデシールの言に、グァンドールはかすかに笑った。
 王女であれば、生きていてこそ用をなす。死体に価値はない。
「お前はそれをエルディアではない他国の仕業と考えるのか」
「王女を殺す理も益も、我らにはありません。それはエルディアも同じ。シェル・カンを焼いてまで王女を隠し戦を続けるのは愚と申すもの。王女を我が方に下らせる。あるいは、女王の首を差し出す。それで戦は終わる。ですから、戦が終わることを望まぬ者の所業と、私は考えます」

「ガラ、か」

 頷いて同意したアルデシールにグァンドールはその頬を歪ませた。
「なるほど」
 ガラはガラムの二重山脈の間に国土を持つ小国だ。
 いや、国土こそ小さいものの、その国力は小国では収まらぬ。
 数多の鉱石を産出するこの国は財においてはエルディアを上回った。欲に憑かれながらもこれを侮った古のエルディア王は破れ、その国境をガラム北稜から裾まで後退させることになった。
 その戦でエルディアが失ったのは僅かの土地だった。縁が欠けた程度の些少の土地だ。しかし、それはエルディアには少ない緑地だった。これを手放すことで、エルディアはますます交易によってしか国を維持できぬようになっていったのである。

「その所業、詳しく聞こう」
「言葉を以ってお伝えすることは、何人にも能わざる、とまずは申し上げます」
 アルデシールは軽く目を伏せて、継ぐ言葉を捜す。
「わたしがその知らせを聞き及びましたのは、ガライダル高地の北端です。ゆえに、シェル・カン炎上の様子は伝聞でしかございません。しかし……異変を知り、シェル・カンを包囲する軍に戻ったとき……その惨状に、言葉はおろか声さえも、なくしたかのように思われました」
 卓上の杯にアルデシールは手を伸ばす。努めて隠していたが、その手が震えていることは明らかだった。
 波打つ酒を両手で持つ。
 一息に中の酒を煽る。
 それからしばし黙し、アルデシールは大きく息を吐いた。

「悪夢です」

「いえ、夢であったなら、と未だに願わずにはいられない」
 呟いたアルデシールの杯に、再度酒を満たしてやる。
 それを飲み干し、アルデシールはやっと重い口を開いた。

 異変を知らされ、即座に戻った。
 知らされたのは、折りしもカルシュラートを捕り抑えたそのときだった。
 煤にまみれた伝令は、シェル・カンの炎上を伝えた。
 虜囚を抱えての移動に懸念はあったが、シェル・カンが気がかりなのはカルシュラートも同じであったのだろう。手を煩わすこともなく、おとなしく与えられた馬に乗せられていた。
 しかしそれも、シェル・カン到着までのことだった。
 彼女を下ろそうとする兵の腕をもどかしげに振り払い、馬の背から飛び降りたカルシュラートの膝が三歩目で砕けた。へたりと座り込む。
 瞬きをも忘れたその視線の先にシェル・カンはあった。

 予想を凌駕する光景に、アルデシールと行動を共にした者は、みな言葉を失っていた。
 未だ灰のくすぶるシェル・カンは、形だけを見れば九割を残している。
 しかし、その水は煤と血に汚れ、大通りは炎にまかれた市民の死体で埋められていた。
 それはもはや街ではない。
 巨大な、釜だ。
 細く立ち上る黒煙は暮れゆく空に幾筋も線を描きながらゆっくりと溶ける。
 その黒煙に引きずられるように夜が頭上に重く圧し掛かってきた。

 崩れた城壁の際。
 いくつもの黒い腕が、掴みかけた空を追うように高く差し伸べられていた。