フィル=シンの生活が、ここ三日ほど以前とは違う。
まっすぐに帰宅するのだ。
いや、これまでだって、寄り道などしたことはない。
官舎の閉る時刻まで、学舎の図書室に陣取っていることが多かったのだ。図書室には「フィル=シンの机」と呼ばれる場所まであるほどに。
そのフィル=シンが、講義が終わるのを待って矢のように学舎を飛び出し、帰途につく。
もしや祖父君に何ごとかあったのではとの噂も、しかし、当の本人が午後、学舎を訪れたため、そうではないことが知れる。
いったい「本と学問以外に興味を持たない」と言われたフィル=シンが、何にそこまで夢中になっているのか。
周囲の興味は尽きなかったが、誰一人として彼女に訊ねるものはなかった。
訊ねられるほどの関係を、誰一人、持たなかったのである。
そのフィル=シンは、周りの様子などまるで意に介さない。
なぜなら、彼女の眼中にあるのは、目下のところエルディア史であり、それも特にルフィスイリアの空白の十二年間だ。
もはや試験などどうでもいいとさえ思っていた。
明確な目的の前には「試験に通る」などという曖昧な目的は無意味だった。
祖父の手にした糸を縒り、彼の証せなかった史実を打ち立てる。
祖父が証せなかったのなら、それはこの国の、つまりは世界の誰もが成しえなかったことを意味する。
それが叶ったなら。
もう、誰にも、祖父の孫だなどとは、呼ばせない。
フィル=シン、と。誰の子でも孫でもない、わたしの存在を時に編みこむの。
祖父の仮説を証し、祖父を越え、フィル=シンがフィル=シンであることを示す。
「そのための一番の近道。おじいちゃんの話についてゆけるように、勉強しなくちゃね」
腕に抱え、背に負った荷物を見て口を半開きにさせた祖父に、フィル=シンは笑った。
「めぼしい資料、全部借りてきちゃった。今日ばっかりはおじいちゃんの孫でよかったと思うわ。だって、無期限で何冊でも貸してくれるんですもの」
書籍の貸し出しには厳格な規則があった。貸し出し冊数、そして、期日。
しかしその規則も祖父の名の前には、飴のように甘くやわらかい。通常五冊を限度とするが、フィル=シンが抱え持ってきた冊数はゆうに三十冊を越える。
そのうち、わたしの名前で借りるわ、と思い、考え直す。
いいえ。借りるのではないわ。わたしが、書くのよ。
確固たる決意はフィル=シンの表情を輝かせる。
他にもあるのだろうけれど、そのときはまた借りてくるから、と、足取りも軽くそれらの本を部屋に運ぼうとして、少女は振り返る。
「そういえば、今日、学舎に来てたんでしょ? おじいちゃん。なにかご用事があったなら、言ってくれればよかったのに」
あっけに取られた様子でそれを見ていた祖父が、急に体をゆすり始めた。
初めて見る、祖父の大笑いだった。
「わたし、何か可笑しなこと言ったかしら」
祖父の元へと戻り、とりあえず書籍を食卓の上に置く。
祖父の顔を覗き込んだフィル=シンの髪を、老人はくしゃりとかき混ぜた。
「いやいや。わたしが今日、学び舎に行った理由さ」
混ぜられた髪を直しつつ、理由とつぶいて小首を傾げたフィル=シンに、彼は「その本だよ」と答え、腹を抱える。
「話しながら一つ一つ注釈するのも厄介だ。特に、以前本に記したことは。それでぜひ、おまえに読ませようと思ったのだ。ただ、量が量だからわたしが借りてこようと……そうしたら、借りようとしていた本のほとんどが、貸し出し中だというだろう? 試験も近い、仕方がないかと、残っていた八冊を借りてきたんだが。それが、今、ここに在るのだから」
祖父は呵呵と高く笑う。
「可笑しくてならんよ」
「そうね」
フィル=シンも笑う。
可笑しかった。
同じことを考えていた。
なにより、それがうれしかった。
それは、フィル=シンの努力が、間違っていないことの証だったから。
それでも八冊も取りこぼしがあったのね、との苛立ちが、フィル=シンの笑い声の中に砕けた欠片となって混じる。
老人はそれに気付いたのだろう。笑い声を収め、柔らかな眼差しで言った。
「フィル、焦ってはいけない。時を追うために必要なのは、標(しるべ)。そして標(しるべ)を正しく読みとる知識だ。それはたった三日で培われるものではない」
「はい」
諭されて肩をすくめるフィル=シンの声からは、それでも苛立ちの破片が取り去られていた。
ひとしきり笑い、祖父が淹れるお茶を飲む。
「まず、どれから読めばいいかしら」
食卓の上に高く積まれた書物の背表紙を楽しげに見つめ、フィル=シンが訊いた。
ざっと書名を確認し、しばし後に、祖父は上から四冊目の青い表紙の本を取り出した。表題は「アルディエート公」とあった。
それから「葬神殿」と題されたやや薄めの上下二巻の本をとる。
「この三つがよかろう。それから、これだ」
さらに選ばれたもう一冊は祖父が借りてきたものだ。
「わ、キ・ファ語ね」
「苦手か」
「苦手というほどでもないわ。でも、全部読むには時間がかかりそう」
「かかるだろうな。だが、十二年はかかりやせんだろう」
からかいを多分に含む祖父の口調に、すこし唇を尖らせる。
「明日の晩までに読むわ」
「明日の晩? さて、これは大変だ」
「できるわ。読めるわよ」
ぷっと頬を膨らませたフィル=シンに、いやいや、と、祖父は笑う。
「大変なのはわたしの方だよ。明日の晩には、質問が嵐のように吹き荒れる」
茶器を片付け、祖父は立った。
「それじゃ、今日の夕食は早めにとろう。時間は有効に使わねばな」
わたしがやるわ、と、フィル=シンは茶器を受け取る。
「ねえ、おじいちゃん」
「ん?」
「試験、今回は見送ってもいい?」
「ほう。どういう風の吹き回しだ」
「試験のために突貫で八十一巻を片付けるなんてしたくないの。この空白の十二年をわたしの手で埋めたい。だから」
昇級試験の科目が、立て続けに歴史ということはないから次の試験なら片目つぶってても通ると思う、と少女は手際よく茶器を片付ける。
「勉強しなくても通る試験なら、こっちに時間がまわせるでしょう?」
十二年の空白。
老人は瞳を輝かせるフィル=シンをまぶしげに見つめた。
これに挑んだ史家は少なくない。彼自身がそうであり、彼の友人――その多くはもう鬼籍に入っている――も、そして教え子たちも挑んできた。
しかし、自分を含め、彼らには成せないだろうことがわかっている。
時が足りないのだ。
史学者となり、この空白に気付くころにはもはや人生の半ばを過ぎている。官吏としての務めを果たし、その余暇に調べがつくものでもない。
ルフィスイリアの功績は、時の空白を埋めてしまう。わかっていることを検証し、書き記す。それだけで、費やされてしまう。
空白とされる十二年のうち、最初の六年はルフィスイリアが、そしてイルージアがどこに潜み何をしていたのか手がかりさえない。いくつかの眉唾物の伝承を洗いながら、どうやらここで数年を過ごしたのだろうと見当がついたのはまだ数年前のこと。
少女が夢見るほどに甘くはない。
だが、あるいは、と思う。
あるいは、フィル=シンにならできるかもしれない、と。
一途な気性、これと思ったものに惜しげもなく全てをかける熱意。なによりも彼女にはまだ五十年以上の歳月がある。
いつか、フィル=シンの祖父、と呼ばれる日が来るかもしれない。
それは、十二年の空白を自らの手で埋めるよりも、ずっと素晴らしいことのようにも思える。
老人は頷いた。
「構わんよ。だが、受けるだけは受けておきなさい。昇級すれば今よりもずっとしたい研究に費やせる時間ができる。もちろん、試験にあわせて急いで詰め込む必要はない。フィルの望むように読み解いて、そうだな、経過報告代わりに受けるといいのではないかな」
花がほころぶように、フィル=シンは笑った。
「うん。そうする。あ、本は仕込みの後で運ぶから、先にお夕飯、作っちゃうね」
と、足元の籠から野菜をいくつか取り出すとたらいに入れた。
野菜を洗うため井戸に向かうフィル=シンを老人は見送る。
日暮れの光がその輪郭をなぞる。
戸が閉る。視線を転じて、机の上に積まれた四十冊足らずの書籍を見た。苦笑がこぼれた。
「やれやれ。半分はわたしが書いたものだ。わざわざ借りてこずとも、もとの資料が書斎にあるのだが……」
この際、過去に綴った書の改訂もついでにやってしまうか。
フィル=シンがその手助けをしてくれるだろう。
「問いは得難い導きだ。それに答えることが、探求の標(しるべ)となる」
エルディアの祭政は分離している。
政は王および議会が、祭は葬神殿の長とそれに仕える者が司る。この葬神殿の長を官位では大神官、祭儀においては祭主と呼ぶ。
大神官は代々アルディエート公家の当主が務める慣(ならわ)しであった。エルディアにおいて唯一世襲された官位でもある。
その祖は、エルディアの初代国王の妻アディナの王子であると伝えられている。また、王以上にアディナの血を濃く受け継ぎながら、決して王を輩出せぬ家として知られていた。血筋の真偽はともかく、常に王族に名を連ねながら政には関わらなかったことは事実として確認されてもいる。
政を司る者と祭祀を司る者。この二つの存在が重なったのは、ラ・エルディアの歴史の中でただ一度。
それがラ・エルディア最後の王アズライルである。
彼が在位したわずか二ヶ月にも満たぬ期間においてのみ、エルディアは祭政をただ一人の者に委ねることとなった。
政に参画することはなく、だが時にアルディエート公の力は王を凌いだ。
王位の継承に伴なう祭儀を執り行うことのできる、ただ一人の者であったからだ。
議会に選出されながら、王として立てなかった者の記録がいくつか残っている。時のアルディエート公がその即位を否認したためである。
わが身を捧げるに能わず。
この言葉は、以下の伝承を受けてのものだった。
アディナの王子は、父の跡を継いだ新たな王に忠誠を誓う。
「我は王の剣 そして王の盾
王の影 また王の道を開く者」
この言葉は即位式の宣言として、良く知られている。しかし、これはアディナの王子の誓いの半分にすぎない。
後にはこう続く。
「我が血脈に 久遠に王はなし
我が身は王のために 我が血もまた王だけのために
この血の断たれぬ限り
我らは常しえに王の守りたらんことを
今ここに誓う」
死を守る鳥(アズレア)の歌の元となったとも、歌を元に作られた伝承とも言われている。
ともかくも、そのアルディエート公が「わが身を捧げるに能わず」と言うのであれば、それは王ではない。
即位を認められなかった彼らは王の代理人として、空位の玉座の一段下に立ち、政を執り行うこととなった。
議会の決定をも覆すアルディエートを廃そうとする動きも過去には幾度かあったようだ。しかし、果たされることはなかった。
機構と武力の両側面からアルディエート公は強固に守られていたためである。
エルディアの兵は「すべからく王のものであるべし」とされた。王以外の者がそれを動かすことはない。
しかし王も、議会の承認なしに軍に下命できなかった。
つまり、王と議会双方の合意なしには動かせぬ存在であった。
これはどの時代においても変わらず適用されている。
しかし、葬神殿の神殿騎士団のみは、この限りでない。
彼らは葬神殿に眠る王のものであり、現世においてはアルディエート公の指揮下にある。
葬神殿、ひいては祭主アルディエート公を守るために、神殿騎士は剣(ハルギス)を取る。いや、ハルギスを帯びた神官を神殿騎士と呼ぶ。葬神殿の神官はアルディエート公の私兵であり、アルディエート公はエルディアにおいて唯一私兵を囲うことを許された者でもあったのだ。
「だから、ティエル・カンでの戦いで、アズライルは近衛師団のほかに神殿騎士団を指揮することができたのね」
ティエル・カン落城について記されたキ・ファの書を読み解きながら呟いたフィル=シンは視線を上げた。
書には近衛師団とは異なる扮装の異形の戦士が描かれている。
彼らが扱う大刀(ハルギス)を、キ・ファの兵は「司亨牙(しほうが。天授をも掌る剣の意)」と呼び恐れたという。
昨晩借りてきた花傑伝を取る。
その最初のページに語られるのは、ファ・シィンから遡ること五代前。神殿騎士団長をつとめた女性だった。
わずかに十数行の記述だが、そこに書かれていることは軽くない。
「死してお通りいただくか、生きてお戻りいただくか。選ばれよ。未だ眠らぬ王よ」
アルディエート公を誅するため葬神殿に踏み込んだ王を、彼女はハルギスを手に退ける。
不服とあらば王にさえハルギスを向けることを厭わぬ彼ら神殿騎士の存在が、王に権威を与え、また権限の肥大を阻む役割を果たしていたのである。
しかし、ファ・シィンの父の即位を最後に、アルディエートもまた「娘」と同様に形骸と化していった。
血が濃くなりすぎたためか、子が、生まれなくなったのである。
いくつかあったアルディエートの流れはただ一つを残し、失われていた。
しかたなく他家から迎えた幾人かの者は、まるで宿り木のようにアルディエートを蝕んだ。
この時期、アルディエートの流れを汲む者が、幾人か議員として政に携わるようになっている。
やがて、ただ一人、イゼラ(正統な)・アルディエートと呼ばれた男が姿を消し、その六年後にラ・エルディアは滅ぶ。
王は議会の傀儡となり、王の影は宿り木に喰われた。
蝕まれなかった最後の一枝がサキスであり、その一枝を残すためにファ・シィンはアズライルという、王であり祭主でもある少年を利用したのか。
いや、最後の一枝は、ファ・シィンだ。
その枝を継ぐ者のために、アズライルは侵蝕された古いエルディアを体現するものとして自らを断った。
そのためだけに王位に就き、祭主となった。
「正妃イルガ・ファムの子、聖騎士ファ・シィンの甥、救国の女王ルフィスイリアの兄」
その表現に彼は何を思うだろう。
でも。
「名が残ったのは、それでも、彼が彼だったからね」
ラ・エルディアの史書に名を残すただ一人の王。
一国の最期という務めを果たした者。
まだ数頁しか目を通してはいないが、キ・ファ語で書かれたこれにも、ラ・エルディア最後の王アズライルが語られている。
エルディアの国史には語られぬ彼が、キ・ファ国の書に語られる不思議。
感慨深く書を見つめる。
しかし。
ふと目を留めた一文に、雷に撃たれたような衝撃を覚えた。
我が血脈に、王はなし。
「待って。待ってよ」
眩む頭に手を添える。鼓動が早まる。
フィル=シンは自作の年表をとった。
五一八年夏、大神官の第一子と婚約。
同年冬、大神官側の事情により婚約破棄。
「ルフィスイリアの婚約者は、大神官の息子。大神官は、爵位で言えばアルディエート公……彼は次期アルディエート公爵。アルディエートは王を輩出しない。それじゃ、ルフィスイリアの王位継承権は……白紙になってしまう」
声が震えた。
王の剣が王を絶やす。王の盾でありながら、王の盾とはなりえない。
「彼が真実アルディエートであるならば、王を守るためには、そこにいられない」
ルフィスイリアの継承権を生かし、正しき王を立てるためには、彼はルフィスイリアとは結ばれてはならない。だから、彼は姿を消した。彼が姿を消すことでルフィスイリアの継承権は息を吹きかえす。けれどアルディエートは遂に失われる。王の、議会の権を阻む者がいない。その決定が間違っていても、止める術がない。
祭政の――信義と合理の――両翼が国を守っていた。
どちらにも寄らぬよう、均衡を保つそれこそがアルディエートの役目であったのならば。
「片翼をもがれて無事に済むはずがないわ。何もかもが、こんな風に」
たたみ掛けるようにファ・シィンを最期の決断へと追い詰めていったのだとしたら。
それは誰?
誰の、目論見だったのかしら。
どこからが計画で、どこからが偶然なの。
思いもかけぬ、糸を手にしたような気がした。