永遠に続くかと思われた戦いは、唐突に終焉を告げた。
グァンドールの槍が、ファ・シィンの胸を貫く。
重い一撃は鎧に阻まれることなく、胸部に吸い込まれ背面から突き出た。
鈍い衝撃に、ファ・シィンは軽く微笑み、グァンドールは眉を寄せる。
ファ・シィンの膝が崩れる。その重みにグァンドールが槍を握りなおす。
戦いをただ見つめるしかなかった兵たちが
「王を捉えよ!」
控えていた将の号令に、壇上へ駆け上ろうとしたそのとき。
自らを貫くグァンドールの槍を支えに、ファ・シィンは白銀の槍を一旋させた。グァンドールの左目を捉える。そして。
「動くな」
かすれた、小さな声がファ・シィンの唇から放たれた。
「動けば、そなたらの主も、死ぬ。さて、グァンドール殿」
ファ・シィンの声はささやくように小さい。
「兵を、退いていただこう」
「……退かぬ、と言ったら」
「困りましたな」
本当に困ったように、ファ・シィンはもう一度笑った。
「阻むすべを持ちませぬ。あなた一人を討つことはできても、お気づきでしょう、もう、腕はろくに動かぬのです」
微かな声が、空を震わせる。
傷つけられた肺から溢れる血が、槍を伝う。
それは柄から、グァンドールの手を温かく濡らし床へと滴った。
それでも、ひたとグァンドールの左目を捕らえたまま、ファ・シィンは構えた槍を下ろそうとはしない。
グァンドール殿、と呼びかけたファ・シィンの声が途中で失われた。
ふ、と、吐息に血が混じる。
「退け」
ファ・シィンの槍に左目を預けたまま、グァンドールは命じた。
「陛下、しかし」
「下がって待て」
血だまりを目で示され、将は頷いた。時を計るかのように規則的に滴り落ちる血が、床を広く染めてゆく。
もはや危険はない。
そう判断し、彼は兵を玉座の間から下がらせる。万が一に備えて自分だけは数歩下がった場所で、ファ・シィンが事切れるのを待つ。
ファ・シィンの最後を見届け、王を捉え、この戦は終わる。エルディアはキ・ファに下り、大陸の中央には我らが座すのだ。
その場にいた兵の誰もがそのつもりだった。
「……申し上、て、……」
もう一度、何事かささやいたファ・シィンの口元にグァンドールは耳を寄せた。
いや、寄せようとしたところまでは分かっていた。
自らの槍から左手を離す。
血で滑る柄を右手できつく握りなおし肘を締める。腰を視点に槍とファ・シィンの重みを片腕で支えた。
ファ・シィンが構える槍を空いた左手で静かに下ろす。そのまま手を伸ばし、ファ・シィンの背に。
指が背に触れたか、触れぬか。
次の瞬間、彼の体は、軽く二丈ほど吹き飛んで、硬い石の床に転がっていた。
声を上げる暇もない。
「皇帝陛下!」
駆け寄る将の肩越しに、ファ・シィンがグァンドールに緩やかに笑いかける。口金の房が揺れる。
水色の瞳が、閉じた。
自らとそれを貫く槍の重さに、ファ・シィンが膝をつく。
膝当てが石の床を叩く固い音。
力なく垂らされる腕。
からり、と軽い音を残し、その手から槍が零れ落ちる。
「おのれ、女狐っ」
グァンドールの無事を確認した将が、剣を抜き、ファ・シィンに切りかかる。
血飛沫の中、ファ・シィンは倒れるかに思えた。だが。
「な……に」
横から跳ね上げられた彼の剣は、天井に当たって撥ねかえる。皮肉にも、まだ倒れたままのグァンドールの膝上に突き立った。
いつの間に降りてきたのか。そこには剣を構えるエルディア国王の姿があった。
切っ先が将の喉下を捉えている。
「う」
「下がりなさい」
言って剣を下げた少年は、グァンドールを目で示した。
「彼を連れて」
少年は眼差しだけで将を牽制する。ゆっくりとファ・シィンの傍らに膝をつき、ぐらりと揺れて倒れ掛かるファ・シィンの背を左手で支え、そのまま静かに横たえた。
将は二歩、三歩とゆっくりあとずさる。
腰にはこぶりだがもう一振の剣があった。しかしそれを抜いて切りかかる気にはなれない。
国のためとあらばいつでも身命を捧げる覚悟はある。
しかし、今ここで、剣を抜き、わざわざ斬られることには、何の価値もない。
自分が斬られずとも、この戦はすでに終わっているのだ。
少年の右手には握られたままの剣。
ハルギスとエルディアで呼ばれるそれは、キ・ファでは見ない刀剣であった。鞘を持たぬ剣として知られている。
柄と刀身がひとつの鋼からできており、柄にあたる部分にはなめした皮を巻きつけて使う。先端が緩やかな弧を描く大剣だ。
その重量を支えるために、構えは長柄の武器のように腰溜めとなる。そのために、柄もやや長めに作られていた。
長い武器、重い武器は威力も大きい。しかしそれを自在に扱うにはそれに見合う腕力か、振れを制御できる熟練が要求される。
その無骨な剣の特徴、どれひとつをとっても、目の前の少年には似合わない。
戦にでることのできぬ脆弱な身だと聞かされていた。ここ二年はずっと臥せっていたはずだった。
しかし先ほど自分の剣を弾き飛ばしたあの妙技。ファ・シィンと自分の間には、剣の長さほどの距離しかなかった。そこにハルギスを割り込ませ、上段から振り下ろされる剣を返した手で下から跳ね上げる。ファ・シィンと彼女を貫く槍に触れることもなく。まぐれでないのなら、恐るべき使い手だ。
なにが病弱だ、と呟いた将の脳裏に真っ先に閃いたのは、偽者、という言葉だった。
少年はゆっくりとファ・シィンの体を横たえる。
その王衣を脱いで、傷ついた体を包むように着せかけた。
「しまった!」
一連の動きを呆けたように見ていたグァンドールが叫んだ。左足に突き立った剣を抜く。
勢いよく飛び散った血が、剣の軌跡を床に描いた。
「陛下」
何事かと駆け寄った将に起こされながら、彼は癇癪を起こし地団太を踏む子供のように、がなりたてた。
「違う、王ではない」
「何を」
うろたえる将に、グァンドールは怒鳴る。
「衣の裏地は、青だ。白ではない!」
「何と」
あらためて見てみれば、眼前の少年は何一つ王である証しを身に着けてはいなかった。
エルディア国王の証しとされるのは、三つ。玉杖、玉冠、玉印である。印は指輪状であり、王はこれらの品を常に身につけているとされた。
また玉衣と呼ばれる上着は、表が白、裏が深い青とされる二重(ふたえ)の衣である。この色は禁色と呼ばれ、エルディアでは王以外のものが纏うことは許されない。
なるほど、少年の脱いだその衣は質こそ良いものの、表も裏も白い。
冠はと見れば、小ぶりで伝え聞くものとは形状が違う。
「では、やはりこの者は……エルディアの王ではなく、偽者だと」
「偽者とは人聞きの悪い。今のわたしは、そちらのお国の言葉で言うなら、上皇とでも申しましょうか。一昨日、禅譲いたしましたので」
人をくったその物言いに、グァンドールは激昂した。足の傷も忘れて、少年に詰め寄る。
「禅譲? 禅譲だと。エルディアの王位は合議で決まる。禅譲などと戯言を!」
「合議する必要などありません。議会は失われた」
そのとおりだった。議会を構成する王族も、貴族も、ここに至るまでの戦いで失われた。他ならぬ、グァンドールの手によって。
ぎり、と、歯が軋む音。
「王は、王はどこだ! 言え! 言わねば殺す!」
目の前の少年が王でないのなら、何のためにファ・シィンと戦ったのか、わからぬではないか。
膝をついたままの少年の胸倉を掴み上げる。
拍子抜けするほどに、その少年は軽かった。
およそ衣以外の重みを持たぬのではないか。
襟首をつかまれたまま抵抗することもなく、少年は薄く笑う。
首筋に押し当てられた剣には目もくれない。
「さて。どこでしょう? いや、誰だとお思いか、と聞くほうが面白いかもしれないな」
そのやわらかな息が、グァンドールの顔にかかった。
ふと正気に返ったように、グァンドールはその手を緩めた。
「その匂い、晶花(カシヤン)か」
「そう。ですから、その脅しは、わたしには意味をなさない」
「……なるほど」
たしかに、息が香るほど晶花に冒されている人間に、剣で迫るのは無意味だ。
グァンドールは少年を突き放した。
「だが、こういう方法もある」
グァンドールは横たえられたファ・シィンに剣を向ける。
「元国王陛下にあられては、叔母上の苦しむ姿をお望みか?」
わずかに上下するファ・シィンの腹に切っ先を向ける。刃先で鎧の継ぎ目を軽く鳴らす。
死ぬと分かっていても、それを見過ごせるほど人は強くないはずだった。
彼がハルギスを構えなおし、グァンドールを阻むには間合いが近すぎる。
ファ・シィンを思うなら、答えずにはいられまい。
しかし少年は三度笑った。
「あなたに、それが果たせますか?」
ハルギスを握る手にはなんの緊張も見えなかった。
「できぬ、と思うか」
「いいえ。できるのでしょう。それが、彼女でさえなければ」
投げつけられた言葉に、グァンドールはひくりと頬をゆがませた。
くす、と微かに声を立てて笑った少年は、叔母に突きつけられた剣とグァンドールの顔交互にをただ見つめただけだった。
片眉を問うように上げたグァンドールを見て、少年は言葉をさがすように、瞼を伏せた。
再びグァンドールに目を戻した少年の、その優しげな姿からは思いもつかぬほど凍てた言葉が放たれる。
「そうですね。わたしなら、まず、一撃をくれてから、問います。『これ以上を、望むか、否か』と。でなくては、意味がない。それが脅しというものです。グァンドール殿」
一言ずつゆっくりと発せられた言葉は、グァンドールの身を縛った。実体を持たぬ言葉の刃が、グァンドールを抉る。
わずかに青ざめたグァンドールを憐れむように見つめ、それよりも、と、少年は引っ張られた衣服を軽く整えながら言った。
「早くここをお出になるほうがよろしいでしょう。あなた同様、彼女もまた、あなたの命を欲してはいない。で、あるなら、わたしも、それを望まない」
「なに?」
「まだ、間に合うと申し上げている」
その言葉が終わるか終わらないかの内に、地鳴りに似た低い振動が建物を揺らした。
「こ、これは」
グァンドールの傍らに控えていた将が、よろめく。
やがてまっすぐ立っていられないほどに揺れ始め、振動は音となって鼓膜を揺るがした。
「西側の柱を支える梁を全て除いておきました。そして柱には楔(くさび)が打ち込んであります。お気づきには、ならなかったようですね」
グァンドールが言葉を理解するより早く、再び轟音を伴ない城が揺れた。
「ただの楔ではありません。楔の中にはファーレントの火薬を詰めておきました。梁を失い傾く城の重みで楔が潰れる」
手のひらを上に向けて、指先をすぼめながら、わずかに沈める。すぼめた指先をぱっと開く。
その動きと重なるように、またひとつ、柱が吹き飛んだ音が聞こえた。わずかに傾いだ天井から、ぱらぱらと欠片が降りそそぐ。
「こうまで都合よくゆくとは思いませんでした。実に理想的です」
少年は天上の亀裂を見つめ、実に楽しげに笑った。
グァンドールの脳裏を、少年の経歴がよぎる。
ファ・シィンに育てられた王子、病弱ゆえに神殿に入る。神殿で学ぶのは、歴史、地理、天文、そして建築。
それはエルディアが、世界に誇る技術。
完全な崩落までの時間を予測したというのか。そんなことが、可能だと……!?
「心残りは、これを伝えるべき相手がいないということ、ですね」
城が歪む。床が波打ち、敷かれた石の板が持ち上がる。壁は次々にはがれ落ち、床にあたって硬く高い音を立てた。
「逃げるというならば、もちろん、お引止めはいたしませんよ。まだ東側の回廊から、外へ出られるでしょう。城の南にはそれほどの被害は及ばぬはずです。民に傷を与えるのは本意ではありませんので」
柱の吹き飛ぶ間隔が、徐々に短くなっているようだった。
立て続けに二つ。一呼吸置いてさらに三つ。
玉座の間と控えの間を仕切る柱の影から様子を伺っていた兵たちの間に、動揺が走る。
それぞれが得物を杖代わりに、その身の均衡を保とうとする。幾人かが倒れた。
鋭い音を発し、柱には亀裂が走る。
「陛下、ここをお出になりませぬと」
せかす将には構わず、グァンドールは膝をつく。
「ファ・シィン!」
王はどこだ、と、問うつもりだったのか。
倒れ伏す女の肩に手をのばした瞬間、黒い光にその手を打たれた。
少年がハルギスの腹で、グァンドールの手を払い退けたのである。
その気になれば、グァンドールの手首を切落とすことができただろう。
奇妙な沈黙が、少年とグァンドールの間に横たわる。その間にも、城はますますゆがんでゆく。兵はすでに退却に入った。
「名は」
「アズライル。レイダム・ソウン=イルギアム=アズライル」
やはりエルディアル(王)とは、彼は名乗らなかった。
「死を守る鳥(アズレア)の翼か……よき名だな」
それを最後にグァンドールは立ち上がる。そして、動かぬファ・シィンを一度見、将に支えられながら、宮城をでた。
グァンドールの背を見送り、アジェルはハルギスを取った。ファ・シィンの身を貫く槍の柄が長く床に伸びていた。
「失礼いたします」
槍の柄を足で軽く抑え、ハルギスを振り下ろす。
一瞬の、しかし無視しえぬ衝撃に、ファ・シィンの体が痙攣した。
鉄を粘土のように断つ、その切り口には一筋のゆがみもない。これこそが、鍛錬により作り出されるハルギスの真価だった。
アジェルはファ・シィンの枕元に座る。背を抱え起こし、膝で支える。
ゆっくりとその槍を押し込み、背側から静かに抜き取った。
胸甲をはずし、着せ掛けた衣の裾で傷口を塞ぐ。鼓動にあわせてあふれ出る血が、冷たい夜気を白く曇らせる。
力なく垂れる頭の向きを変えた。
多少呼吸が楽になったのか、ファ・シィンが目を開ける。しかしその目はもう、ものを映さない。
鮮やかな水色の瞳が、何かを探すように彷徨った。
「叔母上、月が出ました」
穏やかなアジェルの声に、ファ・シィンは微笑んだようだった。
「イルージア殿も、そろそろガラム西街道を駆けておいででしょう。彼女の馬も、叔母上に劣らず早うございますからね。わたしも何度か乗せていただいたことがあるのです。明るい鹿毛の馬ですよ。とても大きくて強い。名は、ランガと。他に思いつかなかった、と笑っておいででした」
冷えてゆく体をそっと抱きしめる。頬に張りつく髪をのける。口の端から流れる血を、着せ掛けた上着の襟元でぬぐった。
二年前、倒れた自分に、同じようにこの人が付き添ってくれたことを、朧に記憶している。
体を蝕む晶花(カシヤン)のもたらす痛みと恐怖を、支えてくれた。
命を、惜しんでくれた。
ならば、ファ・シィンが求めるだけの時を生きられるようにと、ただそれだけがこの二年の願いだった。
それはあと数呼吸で終わる。
晶花が腸(わた)を溶かす熱を、そして痛みをこらえ、彼はやさしい仕草でファ・シィンの髪を撫でる。
眼差しだけで語るファ・シィンに、アジェルは頷いた。
「ええ、懐かしゅうございます。叔母上と、サキスと、三人でよく遠乗りをいたしましたね。ガライダルの草原を。いつかランガにも連れて行ってくださると……」
ほとり、と、アジェルの目から雫が落ちた。
落ちた涙が、ファ・シィンの頬を伝う。
動かぬ手をゆるゆると持ち上げ、甥の涙をぬぐおうとし、ファ・シィンは力尽きた。
はたと落ちる手を受け止める。
優しい手だと思った。
「全部忘れてしまえばよかったのです、ファ・シィン」
この手で、この腕で、この肩で、崩れゆくエルディアを守り支え続けてきた。
兄に誓ったように。父に託されたままに。王が望んだ全てを負って。
委ねられた思いに耳を塞ぎ目を瞑り、自身の幸せを求めることができるほど器用な人ではなかった。
その約束を捨てるには、命をもって贖(あがな)わねばならぬほど、清廉な人だった。
それは、よく知っている。
「わかっています。でも」
それでも。
「ファ・シィン。差し伸べられた手を拒んでまで、あなたが守らなきゃならないような国じゃなかった」
微かに残るぬくもりを求め、アジェルはファ・シィンの手を額に押し当てた。
城は捻じ曲がり、一階は左に八分の一回るようにして、落ちた。
その振動が、上部を崩落させる。
上から巨大な指で押しつぶすように、宮城の中央部が沈む。
もうもうと舞い立ったほこりが折から吹きつけた冷たい風にさらわれると、そこには、石の小山が築かれていた。
月に照らされたその瓦礫のちょうど真ん中あたりから、なにかが風に舞い飛んだ。
遠目でまた暗く、確かめることはできなかったが、グァンドールには分かった。
いや、そのように思えただけかもしれない。
それは赤い房だった。
ふわりと香る風に乗り、それは遠く流れ去っていった。