東へとたなびく―その槍がすべて―

 市街の制圧が済むと、キ・ファ軍は城の攻略にかかった。
 政庁は蛻(もぬけ)の殻だった。
 だが、市街地に逃げ込んだ官の探索は後に廻された。
 街の包囲はすでになされている。この街の外には出られない。
 それよりも、今は西の第二王都を攻めるために、ここを新たな拠点として確保することが先決だった。
 ティエル・カン宮城は大陸随一を誇るだけあって、さすがに大きい。これならばキ・ファから遠征してきた勢力の駐屯地として不足はない。
 統制の行き渡る兵たちは、図面と照らし合わせながら、城の要所を手際よく押さえていった。

 エルディアの近衛師団はその三倍にも当たるキ・ファ兵を相手に良く戦った。だが、いかに善戦しようとも、多勢に無勢。日が中天に差し掛かるころには、中庭まで踏み込まれてしまう。
 それでも彼らは退くことなく戦い続けた。
 細い回廊は斃れたエルディアの、あるいはキ・ファの兵士で埋められた。
 死してなおエルディアの兵は手にした剣を、槍を手放さぬ。
 それらは杭となり、柵となり、キ・ファ兵の進路を阻んだ。
 キ・ファ兵が一歩を進める。そのためにはエルディア兵を倒し、屍を踏み越えねばならぬ。
 回廊を越え、やっと内殿に至るころには、日は西へ大きく傾いていた。
 玉座の間にたどりつく。
 真横から差し込む残光に、柱が床に縞を描く。
 人の気配に、彼らは壇上を仰ぎ見た。
 人影は二つきり。
 赤みを帯びた光の中、彫像のように動かぬその二人は、どちらも互いによく似た優しげな姿をしていた。
 しかし、キ・ファ兵は剣を構える。柄を握り直す音がいくつも重なる。
 玉座のあれがエルディアの王。そして、その隣に控える槍を手にした人物を彼らはよく知っていた。
 白銀の鎧、白銀の槍。口金に結ばれた、赤い房。
「ファ・シィン!」
 微かに怯えを含むその声が、高い天井に吸い込まれるようにして消えた。
 わずかに躊躇った後、先鋒を務める兵士数人が、十数段の階(きざはし)を駆け上がる。壇上に足を掛ける。
 二人を囲み、生け捕った、と確信する。
 ファ・シィンの左手が、ゆっくりと空気を撫でるようにかざされた。
 彼らがそれを疑問に思う間もなく、右手の槍が翻る。音を伴わぬ動きだった。
 白銀に光る残像だけが目に残る。
 その槍が、元あったように手に治められる。
 房だけが名残のように、二度左右に揺れ、動きを止める。
 どさり、と、重い音が響いた。
 彼らは駆け上がった半分の時間で、壇下に転がり落ちた。手放された剣が床の上でカラカラと回る。
 石突で突かれ、槍の柄で軽く打たれされただけに見えた彼らは、跳ね起きようとして、それぞれに身を折り呻いた。胃液を吐いた者はまだよい。石突と床の二度にわたり、肺の中の空気をたたき出されてしまった者は呼吸もままならぬのであろう。反射的に身は起こしたものの、声もなく肩を震わせるだけだった。
 玉座の人物は笑みをこぼした。見事、と、ファ・シィンを讃えたようだ。ファ・シィンは目を伏せて礼にかえる。
 キ・ファ兵は壇上の動きを警戒をしながら、先鋒を務めた兵士たちを後方へと運んだ。
 かわって第二陣が槍を構える。
 ファ・シィンが石突で軽く床を鳴らす。それだけで、その数人は二歩分の距離を飛びずさる。
 ファ・シィンの口元に浮ぶ笑み。怒りか、苛立ちか。キ・ファ兵の顔が猛々しい赤に染まった。
 再度槍を構えなおし、動こうとしたそのとき、
「待て」
 制止が入った。
 短く、低く、静かな声に、兵士らは油断なく構えながらも、姿勢を一旦解いた。
 危険だと諌止する声を、軽く手で抑し、ゆっくりと歩みきた彼らの主は、壇上のファ・シィンを見上げる。
「久しいな。ファ・シィン殿。ご健勝でなによりだ」
 エルディア語で掛けられた親しげなその声に、戸惑いというよりは、驚愕が、兵士たちに走った。
 異国語での語りかけ。
 それは、敗軍の王の引見ではなく、あくまでも遠来の使者が、その国主に謁見する折のものだ。
 主、壇上のファ・シィン、互いの顔、の順にその視線が動く。
「貴殿も。グァンドール公、いや、皇帝になられたのでしたな」
 ファ・シィンは軽く会釈した。
「まずはお祝い申しあげる」
「いたみいる」
 微かに笑いを含んだ声で、返される挨拶。
「そうしておられると、あなたはまるでお変わりないな。ここがランガであるように錯覚する」
「で、あれば、いかがなされましたか、貴殿は」
 感慨深く語りかけたグァンドールのことばに、即座に返されたファ・シィンの問い。グァンドールの口元に閃く苦笑。
「さて」
 わずかに肩をすくめたグァンドールの様子に、壇上から小さな笑い声が降ってきた。
 ファ・シィンの声ではない。よく似てはいるが、ファ・シィンのそれよりも幾分柔らかい。
 声の主を見上げる。
 いまだ幼くも見えるその人物。しかし、彼にはその年齢の少年が持つ闊達さが見られない。代わりに老いた者でもなかなか持ちえぬ落ち着きがあった。
「そちらが、新たなエルディア国王でいらっしゃるか。ファ・シィン殿の甥御と聞く。わざわざお待ちいただけたということは、我が方に、下っていただけると信じてよろしいかな」
 皮肉をこめてそういえば、返るのは涼やかな声。
「残念ながら、それを決めるのはわたしではないのです。グァンドール殿」
 彼は、隣に立つファ・シィンを見上げた。
「なるほど、ファ・シィン殿に全権を委任しておいでか。賢い選択だ。いささか、遅すぎた感は否めぬが」
「ええ。せめてもう十日、あなたが早く行動を起こしてくれたなら、と、思います」
 柔らかな声で返された言葉にグァンドールは笑った。
「なるほど。それは申し訳ないことをした。で、このわたしは、エルディアの王都に巣食う魍魎(もうりょう)の一掃に役立ったかな」
 おどけた言葉ではあったが、そこに遊びは欠片もなかった。
 この期に及んで、一切の怯えをみせぬ少年の様子に不審を感じたためである。
「さて」
 先ほどのグァンドールとまったく同じように少年は苦笑して見せた。
「叔母上に、よく似ておいでだ、エルディアル(エルディア国王)。で、いかがなさる、ファ・シィン殿。我らとともに来ていただけるか」
 グァンドールは少年からファ・シィンへと視線を転じる。ファ・シィンは、思案するように首をかしげた。
「わたしに、売国奴の汚名を着よ、と、申されるか。グァンドール殿」
「売国? 救国だ、ファ・シィン殿。これ以上国土が荒れれば、エルディアは滅ぼう。いや、ご存じないとは申されまいな。貴国はすでに、国としてあるべき姿を失っている」
 国の末端では、もう随分前から崩壊が始まっていた。小さな町がいくつも砂に消えた。
 水が枯れ、砂に侵され、野盗に蹂躙され、それでも国の中枢は動こうとしなかった。王族の娘を娶りさえすれば、王族として政に参画できる。その制度が仇になった。名ばかりの王族は、民の暮らしよりも自らの懐を惜しんだのだ。
「命を賭すほどのものが、この国に残っているのか、よくお考えいただきたい」
 グァンドールの説得を聞き、ファ・シィンが口元だけに笑いを浮かべた。
 渇いた笑いだった。それでいて、何かを求める激しさはない。
 違和感がグァンドールの背を這い登る。
 こんな表情を、見たことがあっただろうか。
 幾度となく戦場で会した。互いに国を背負い命をかけて対峙したのだ。意識の総てをその一挙手一投足に向けていた。
 あるいは国に置き去りにしている女たちよりも、見つめあった時間は長いというのに。
 けれどグァンドールの記憶のどこにも、これほどに荒んだ笑いを浮かべるファ・シィンは存在しなかった。
 知らず眉を寄せたグァンドールの視線の先で、不意にファ・シィンからその笑みが消える。
 傍らから自分を見上げる少年の視線に気付いたようだった。
 その表情に、グァンドールもよく知る清廉な眼差しが戻る。
 彼女は少年の肩に、槍をもたぬ左手をそっと置く。置かれた手に、少年が右手を添えた。
「いかようにせよと申される」
 ファ・シィンの静かな声を最後に、日の光が城から去る。
「戦いを、終わらせたいのだ。降っていただきたい」
 薄い闇が、壇上に紗を降ろす。
「御身にも、甥御にも、決して危害は加えぬと約束する。わたしが望むのはあなた方の命ではない」
「なるほど。この国を治める傀儡として利用なさるか」
「それも考えた」
 明け透けな返答だった。
「しかし」
 グァンドールは言葉を続ける。
「あなたがそれを望まぬなら、諦める。無理も申さぬ。どうか、ともに来ていただきたい」
 ゆっくりと差し伸べられた手に、ファ・シィンは目を伏せた。
 グァンドールの指摘は事実だった。
 エルディアの名が、もはや形骸でしかないのなら、政の担い手がグァンドールであろうとも、何の障りがあろう。
 ファ・シィンが力なく笑う。
 それでも、
「もし、ここがランガであったなら、わたしはその手をとったやもしれませぬな」
 伏せた目を上げ、穏やかな声でファ・シィンは拒絶を示した。
 差し伸べた腕は虚しく空を掴む。握り締めた拳を、グァンドールはゆっくりと下げた。
 わずかばかりの階段には、十四年の歳月が横たわっている。
 時を遡ることができぬのなら、その隔たりは永久に埋まることはない。
 深まる闇の帳の向こうから、ファ・シィンのものでない声が言った。
「グァンドール殿。欲しいのは命ではない、とおっしゃられましたね」
 そのやわらかな問いに、望みを託し、グァンドールは頷いた。
 この少年に投降を決意させれば、戦いは終わる。
 いまさら、この二人の生死は、戦いの趨勢になんら影響しない。ならば無駄に兵を消耗したくはない。ここが終着点ではないのだ。エルディアの先にはファーレントがあり、南方にはガラがある。
 ガラとエルディアを隔てる高地ガライダル。
 エルディアが滅べば、即座にガラはそこへと兵を進めるだろう。
 南に越えることのできぬ山岳を抱えるガラにとって、ガライダルは喉から手が出るほど求め続けた平地への門だ。
 ここでエルディアをキ・ファの傘下に収めることができるなら、いくらでも退いてやる。
 退いて、失うものはない。
 シェル・カンを無傷で手に入れる。それこそが、この先を左右するのだ。
「そうだ。無事は保証しよう。御身も、ご家族も。もちろん、我らに抗わぬ限り、市井の民を傷つけることはない。お望みとあらば、どこか静かな離宮にてお世話申し上げ……」
 言い募るグァンドールの言葉を封じたのは、少年のあまりにも静かな眼差しだった。ファ・シィン以上の静謐。静かでありながら、優しさのないそれは、凍てついた青。
「求めるものは、我らではない。では、あなたは何をお望みです。何を求めてここへ参られました」
 ここへ、をわずかに強調する問いかけ。それは、と、言いかけた言葉は口の中で消えた。
 胸中をよぎるいくつもの影。
 街道の利権、更なる西への道、北海、ガライダルの資源、そして……。
「グァンドール殿」
 呼ばれ、ファ・シィンを見る。
「ご厚情はありがたく、されど、そのお申し出を受けるわけには参りませぬ」
 奇妙にやわらかな口調だった。
「みすみすここで死なれると申されるか。無駄死にではないか」
 食いしばった歯のすき間からが声漏れ出でた。怒りとは異なる、もっと苦々しいものを口中に噛みしめるその声に、ファ・シィンが微かに笑う。
「それでも、我が身可愛さに国を滅ぼした者、国を売った者、とだけは呼ばれたくはないのです」
 ファ・シィンの眼差しに宿る穏やかな光には、自らの命を惜しむ色はない。そこに浮ぶのは、すでに死を受け入れた静けさ。
「シェル・カンにはご息女がおられるのだろう。それにも死を強要するのか。あなたが退かねば、次はシェル・カンが戦場になろう!」
 グァンドールの声を、ファ・シィンの微笑が受け流した。
「さすればシェル・カンは、瓦礫となりましょうな。四方から三国に襲われたのでは、いかにシェル・カンといえど、ひとたまりもない」
 シェル・カンを落とすのは容易ではない。いや、落とすそれ自体は難しくはない。
 しかし、シェル・カンを挟んで、ガラ、ファーレントと戦火を交えるとなると、これは非常に難しい。
 エルディアとの戦いで消耗したキ・ファ軍が、エルディアの残党を領内に抱えたまま、二国と事を構えるには、無理がある。いずれガラやファーレントと戦うにしろ、それはエルディアをキ・ファ国の一地方として完全に掌握して後のことでなければならない。
 言葉につまったグァンドールを見つめるファ・シィンの目元がふと和んだ。
「グァンドール殿」
 壇上からゆっくりと降りながら、ファ・シィンは言った。
「代わりにお聞き届けいただけるなら、今一度、手合わせを願えませぬか」
 刺し違えても、グァンドールを討つ、ということか。
 いまさらグァンドール一人を討ったところでどうにかできるほど、戦況は甘くない。
 それがわからぬ者ではないはずだ。
 それとも、武人としての意地か。
 正面に立ったファ・シィンの表情からは、何も読み取ることができない。
 逡巡の後、グァンドールは決意した。
「……槍を持て」
「陛下!」
 並みの兵ではファ・シィンを討つことはできぬ。
 多勢に無勢とはいえ、討ち取るまでにどれほどの犠牲がでるか。
 その間に王に逃げられてしまっては、元も子もない。
 なにより、ファ・シィンをそのようにして討ち取るのは、グァンドールの誇りが許さなかった。
 そうだ。槍を叩き折り、彼女を跪かせることができれば、戦は終わる。

「槍を、持て」
 二度命じられて、なお、将は躊躇った。
 ファ・シィンが前線から離れて十五年。しかし、それ以前の戦いで、彼はファ・シィンの槍に右目を失った。
 もう一歩踏み込まれていたなら、命を落としていたに違いないのだ。
 主が負けるとは思わない。しかし、無傷で済むと楽観はできなかった。
 万が一にも大きな傷を負われては、と思えば、即座に槍を用意することはできかねる。
 動かぬ男に業を煮やしたのか、グァンドールは踵を返す。
 近くにいた歩兵の槍を奪い取る。
 二度三度振り、つき返した。軽すぎる。
 三本目にして漸く、手に馴染む槍を見つけると、立ち戻る。それは総身鉄(くろがね)の剛鎗。
「灯りを」
 命じられ、兵が壁の燭に火を点す。
 にわかに明るくなった広間の中央に進み出た両者が、儀礼に則り軽く頭を下げる。
 交わされる視線。
 ファ・シィンの目はひたとグァンドールを見つめる。淡い青のその目が、燭の灯りを映して暮れの空に似た紫に染まる。
 刹那の間をおいて、二本の槍が閃く。穂先が触れ合う澄んだ硬い音が、広間にこだました。

 ファ・シィンの槍は軽い。しかしその速さは尋常でない。
 一見白銀造りに見える彼女の槍は白木に箔を押したものだ。よくしなり、鞭のように弧を描く。
 かと思えば、矢のようにまっすぐ突き出される。
 鮮やかな赤い房の動きが目を惑わし、穂先の動きを推し量れぬものにした。
 片手で使う槍にしては長い間合いもまた、ファ・シィンの動きを読みとらせぬ要因となる。
 背に翼でもあるのではと思わせるほどに軽い跳躍。
 着地の衝撃さえもその膝がこともなく吸収する。
 繰り出されるグァンドールの槍を髪一筋でかわす、その動き。
 全身が柳のようにしなる。竹のようにたわむ。そして伸びる。その勢いは、まさに破竹。
 矯められた力が、次の攻撃につながる。
 円、線、点、そして角。鋭い衝き。穂先が空を割いて唸る。
 三十路半ばを過ぎた女であることを思わせぬその戦いぶりに、キ・ファの兵卒らもまた、感嘆の声を上げた。
 対するグァンドールの槍は、両の手で扱う大型のものだ。
 その動きはファ・シィンに比べれば、鈍重ともいえる。
 しかし、その重さが彼の槍の強みであり、そこには迂闊に受けることを許さぬ破壊力が秘められていた。
 突きは床石を砕き、払いは柱にひびを入れる。
 豪腕から繰り出される一撃一撃が、雷のような轟きを伴い、石を断つ。
 飛び散る礫(つぶて)のような欠片から、ファ・シィンは目を庇い左腕をかざす。
 容赦ない一撃を、実体のない影のようにするりと身をかわすファ・シィン。
 追って、グァンドールの槍が二段に突き出される。
 ファ・シィンは半歩後退し、一の突きをかわす。二の突きは己の槍を絡ませて流す。
 風を切るファ・シィンの槍は、グァンドールの槍の柄に阻まれる。赤い房がグァンドールの頬傷を撫でた。
 息が混じるほどの距離で互いの槍を絡ませ、次の一瞬には、二人の立っていた床石がグァンドールの一撃に砕け、ファ・シィンの巻き起こす風に散る。
 交わす言葉はない。
 ともに名手と謳われた槍の使い手が催す舞を、キ・ファの将兵は固唾をのんで見守った。

 そう。
 声など、不要。
 互いの槍が、言葉のすべてだった。