ファ・シィン最後の戦いが始まる。
そこまで話し、夕べは時間切れだった。
食器を洗いつつ、フィル=シンは続きに思いを馳せる。
ラ・エルディアの最後の王アズライルとともにキ・ファ軍を迎え撃ち、やがてエルディア軍を率いて戦うことになるイルージアを育て、国を再興するサキスを生んだファ・シィン。
エルディアの激動を担った三人を、守り育んだ女性。
フィル=シンにとって、もはやファ・シィンは救国の女王ルフィスイリアの母ではなかった。
伝説の女傑でもない。
それはまさしく国という子を守り育んだ「母」というに相応しい。そう思う。
彼女がいなければ、エルディアの名は遺跡を差す言葉となり、いずれはそれさえも砂に埋もれ消えていっただろうから。
夕食の片づけを終えると、フィル=シンは祖父の書斎に顔をだす。
「おじいちゃん、今、いいかな?」
「構わんよ」
仕事の手を止めてフィル=シンを振り返り微笑んだ祖父は、彼女に椅子を勧めた。
「まず」
祖父はひとつの本をフィル=シンに手渡す。
「ファ・シィンの話を始める前に、これをご覧。そうがっかりするな」
目に見えて落胆の色を浮かべたフィル=シンに祖父は苦笑する。
「ごめんなさい。すごく楽しみにしていたから」
フィル=シンは肩をすくめて、その書籍を見た。
「キ・ファ語は読めるな?」
読むだけなら、とフィル=シンは頷く。
「キ・ファ国グァンドール朝史より。ラグル・ヴァストデュール=グァンドールについて」
書名を読み、少女は祖父に確認を求める。
「そう。グァンドール朝の祖について書かれたものだ」
そこで祖父はグァンドール朝の成り立ちを説いた。
ラグル・ヴァストデュール=グァンドールは時の皇帝を討ち、やがて帝位についた。それを簒奪とする者はいない。
簒奪として語られぬには訳がある。
ひとつに、彼が討った皇帝こそが簒奪者だったこと。
次に、彼は皇帝を討ちはしたが帝位には就かなかったこと。即位したのは別の男だった。
さらに、新帝は酒色に耽り朝を乱す。その死後、請われて帝位に就いたためである。
「なぜ彼が推挙されたのかしら」
「答えだけを言うならば、ひとつには実力、ふたつには人望、みっつには血筋。順をおって話そう」
グァンドールに討たれた皇帝、名をラージーン・エル=カーディイヤという。
カーディイヤ朝第七代皇帝である。
ラージーンは帝位に就くにあたり、自らと血を同じくする者を軒並み屠った。二人の兄三人の姉一人の妹、その妻や夫は言うに及ばず幼子にいたるまで、犠牲者はその数二百余名と伝えられている。嵐のような粛清を免れたのはわずかに二人。うち一人、末妹の公主がグァンドールの母である。
かの公主が粛清を免れたのは、彼女の夫が武官、しかも下級と呼んで差し支えない端役であったためだ。彼には目立った働きもないかわり、ラージーンが難癖をつけるための失態もなかった。
ところが彼は帝都から遠い、エルディアとの国境守護を任される。
勝てば粛清、負けても粛清。
その均衡を保ち、勝たず負けずの戦いに明け暮れることで、彼は妻の兄の執拗な追求をかわした。
政には一切の関心を示さず、戦にも凡庸を装うことで細々と生を繋ぐ。
やがて夫婦は二人の子をもうける。一人は娘、もう一人がラグル・ヴァストデュールである。
綱を渡るかのように生きていた夫妻は、些細なことでその命を落とした。
妻の侍女が夫の子を身籠ったのだ。
誰もが、とは言わぬが、妻以外に数人の妾(そばめ)を囲うことなど珍しくもないことだった。
初めから妾として迎えられる者もあれば、主家に侍女として仕える内に手掛けとなり妾として遇されるようになる者もある。
どちらにせよ、醜聞とされるようなことではない。
しかし、皇帝はそれを見逃しはしなかった。
「余の妹を蔑ろにしおって」
皇帝を侮ったと父は処刑され、母はそれに抗議するため自害した。姉はラージーンの嬪妃として召され、ラグル・ヴァストデュール自身は、身分を落とされ一介の兵士として従軍することになる。
「ラグル・ヴァストデュールは父の子を身篭った侍女を妾として迎える。正式な婚儀となるとその何倍も難しいからだ。彼は皇帝の甥。たとえ名ばかりの甥であってもその婚儀には大きく政が絡む」
「え? でも、だって、彼女は義理の母でしょう?」
フィル=シンは首を傾げた。
エルディアではそうだ、と祖父は半分だけ頷いた。
「しかしキ・ファ国の制度では違った。彼女はあくまでも侍女であり、妾として認知を得てはいない。不義の子を身篭った未婚の女が一人で生きてゆける国でもなかった。グァンドールが彼女を迎えねば、彼女は腹の子とともに野たれ死ぬしかない」
「不義……制度上の、認知」
軽く目を伏せて呟いた少女は、首を上げる。
「妾は制度なの?」
「キ・ファ国では婚姻は非常に厳格だ。たとえ妾であっても、一族の承認が必要となる。彼女はそうではなかった」
「つまり彼女は公には父の妾ではなかった、と」
わかりにくい仕組みね、と、少女はもう一度首を傾げた。
キ・ファの婚姻は、一門の長が定める。婚姻は門と門とが取り交わす約定であり、その証が妻、そしてその子だ。これに反して、妾とはあくまでも一族の「内」のものである。
したがって妻と妾の間にはただひとつ、しかし絶対の差があった。
妻に子がある上は、妾の子が嫡子となることはない。
「それだけだがな」
そう説明され、フィル=シンは軽く二度頷いた。
「一門の誰かの事実上の妾を、別の誰かが制度上の妾として迎えることは、当時のキ・ファでは珍しくないことだったのかしら」
キ・ファ国の女性が職を持たなかったことは、と祖父が問う。
「ええ、知っているわ。キ・ファの女性は表には立たない。エルディアの女性とは大きく異なるのよね」
「そうだ。キ・ファ国における女性は、すべからく守りまた養うべき存在だった。では、もし、その庇護者が失われたら? 新たな庇護者が必要となる。そこで親を亡くした娘に嫁ぎ先がない場合、また寡婦を、同門の男が家族として迎えるのだよ。まあ、時代が下るにつれてそのあたりはどんどん曖昧になっていったのだが」
曖昧になった理由と経緯を思うとフィル=シンは「うへぇ」と思う。
「理由があって迎えられた妾ではなく侍女だったから、不義とされてしまったのね。もし皇帝がそれを取沙汰しなければ、周囲は目を瞑ったのかしら?」
「だろうな」
「よくわかったわ」
それでも複雑な表情の消えないフィル=シンに祖父は笑う。
「さて、キ・ファ国では男は二十前後で妻を娶る。ラグル・ヴァストデュールはその年齢には遠く達していなかった。妻を迎える前から妾を取ることも良しとはされない。当然周囲は反対した。しかし彼は断行する。生まれる子はわたしの弟妹だ。守らねばならぬ、と」
「兄弟なんだ」
「キ・ファ国では男の血が優先される。彼女の腹の子の父がラグル・ヴァストデュールでないことは誰もが知っている事実。息子とはなりえない」
「エルディアとは随分違うのね」
「ああ。だが、子ではなくともその決意の重さに変わりない。妾として迎えるというのはこの場合、生まれる子とその母親の後見として立つ、という意思表示だ。彼がまだ十五にもならなかったことを考えれば、これは並々ならぬ覚悟といえる」
「十五歳!」
フィル=シンの声が裏返る。
「わたしと、変わらないじゃない」
「そうだ。そして、その決意が周囲を動かしてゆく」
ぱらぱらとページを繰る。冒頭から十数頁、その妾(そばめ)についての記述を示した。
「彼女はバルク、エルディアでいうランガ地方をキ・ファではこう呼ぶのだが、この地方の旧家の出だった。彼女を迎え入れることで彼は拠り所を手に入れる。父が残した人脈と、彼女の兄弟を中心に彼は自らの軍を作り上げていった」
ラグル・ヴァストデュールはみるみる頭角を現した。
十九歳でランガ攻略の将の一人として取り立てられて以降、特に華々しい功績を挙げる。
エルディアとの数度の講和もまた、それに数えられるだろう。
「エルディアとの戦が目に見えて減ると、バルクは栄える。都からの増援がなくともやってゆけるようになる」
「人が残る、収穫が残る、ということね」
「ああ、そうだ。数年の平和で砦は街になる。人は人と物の集まるところに集まる。人が集まれば収穫も増える。和平が保たれていれば、西からも物資を集められる。そうして作り上げた軍で、思い出したように時折エルディアを攻めた。攻めては負けた」
「攻めなければ軍を囲う口実がなくなる。勝ちすぎれば皇帝の機嫌を損ねる。そういうことかしら」
おまえはこういったことには聡いな、と老人は苦笑した。
「そうだ。そして養った兵で」
言ってごらんと眼差しで促され、フィル=シンはその後を続ける。
「彼は皇都に攻め上った」
それは彼が二十七歳の春。
バルクの砦を部下に預け、彼は都に向かう。引き連れた兵は半数を超えた。いや、バルクに残したのは一部だった、と言うべきか。
その強大な軍勢の前に、関の守護将軍らは先を競うようにして跪く。
関をひとつ越えるごとに、彼の軍は膨らんだ。
止まることを知らぬ勢いで都に迫る。
ひと月とかけず都に達すると、瞬く間に宮城を落とし、ラージーンを討って父母をはじめとする一族の無念を晴らした。
ここにカーディイヤ朝は終焉を告げる。
二月後、ラージーンの粛清を生き伸びたもう一人の男が帝位についた。グァンドールにとって従兄にあたる。年は四十二、名をカウラ・アイン=トゥーランシヤという。
彼は、公主の夫が妾(そばめ)に産ませた子であると生まれを偽り、僧院に入ることで生き延びた。
十歳から僧院で育ったトゥーランシヤは、三十余年をかけ、自らの郎党を得ていた。兵力ではグァンドールに及ぶべくもないが、宮廷深く根を張る彼の情報網はグァンドールを凌ぐ。
グァンドールは彼の情報を、彼はグァンドールの兵力を求め共謀し、伯父を誅したのである。
トゥーランシヤは皇位に、グァンドールはキ・ファ西方軍を司る西鎮公の地位に着く。これは鎮守公と呼ばれる四方の守りを司る要職の一で、事実上他の三方の鎮守公の上位に位置した。
トゥーランシヤとグァンドールがまず成した事。それは朝廷から伯父に連なる者を一掃することだった。
権臣はもとより、皇后、皇太子をはじめ、妾妃、庶子に至るまでを捕らえた。
その中にはグァンドールの姉も含まれた。自分に対する人質として召された姉である。その姉を自ら裁くことに、葛藤はあっただろう。だが、少なくとも表向き、彼は迷いを見せなかった。
宮城前の広場には百余りの受刑者が引き出された。
次々に首を刎ねられ、やがて姉の番が訪れる。すでに主要な者の刑は執行された後であった。
「陛下に申し上げたき儀がございます」
姉はよく通る声で言った。
「黙れ」
鋭く一喝したグァンドールを帝位に就いたトゥーランシヤが押し止めた。
グァンドールが姉の処刑に際して、どのような顔をみせるのか、心無い興味があったようだ。
命乞いならなお面白い。否やといえば、この姉弟はどうでるか。
「許す。申せ」
鷹揚に促され、姉は述べた。
「恐れながら、ここに控えおります者どもは、謀反が成された後に臣や民のもとから集められた者ばかり。謀反とはまるで縁(ゆかり)はございませぬ。罪なき者を罰しては、天下を徒らに騒がすこととなりましょう。高祖に連なる者として一族の愚行を止められざるは、我が不徳。罪はこの身にて贖いまする。何卒この者らに陛下のお慈悲を。どうぞ尼として一年の務めの後、還俗させてやってくださりませ」
止められざるは不徳、の言にトゥーランシヤはたじろいだ。
それを言われれば、自らもまた罪人である。
顔色を変え黙り込んだ皇帝と対照的に、秀麗な面差しに何一つ感情を浮かべぬままグァンドールは命じた。
「戯言を。構わぬ、斬れ」
寸時置かず、グァンドール靡下のその武人は刀を振り下ろす。
朱に染まり、女は倒れた。
「次」
「待て。待て、グァンドール。よい、もうよい。後の者はもうよい」
眉ひとつ動かさずそれを見届けたグァンドールの袖を、トゥーランシヤは縋るようにして引いた。
姉の死にも心を動かすことのない従弟に臆したか、あるいは自身が断罪されたように感じたのかもしれない。
「よいのだ。もうよい。恩赦だ、恩赦である。即位の恩赦とする。一年の懲役に減刑、その後は家に帰そう」
恩赦によって後宮の女たちを救った。
不思議なことに、その主語は皇帝ではなくグァンドールとして語られた。
女が自らの意志であのように振舞うことは、キ・ファ国では想像もつかぬことだった。
では、誰かがあの嬪妃に指示をしたに違いない。それはグァンドール以外に考えられぬではないか。
事実は不明だが、人々はそのように考えた。
討ち捨てられた彼女の骸は、命を救われた女たちの手であらためて葬られる。
もちろん公には謀反人の係累として誅された女だ。グァンドールはそれに一切の関心を示さなかった。
しかし埋葬されるその朝、彼女が好んだという花が一輪、ひとづてに届けられた。バルクに自生する菊の一種だったと言われる。贈り主はこれもまた不明だが、おそらくはグァンドールであろうとささやかれた。
民はグァンドールを讃え、その姉を惜しんだ。
私心に惑わされぬ者として、官もまた彼に畏敬の念を抱いた。
面白くないのは皇帝とその取り巻きだが、彼らも一応の敬意を表した。表さざるえなかった。それほどにグァンドールへの賛辞は大きかったのだ。
このまま皇帝の補佐として皇都に留まると思われたグァンドールは、しかし、一連の始末を終えるとバルクへと戻った。
ついに姉の墓には訪れぬままだったという。
しかし。
皇帝はそれまでの鬱屈した生活の反動か、見る間に奢侈に流れた。
寺に預けるはずだった女たちを後宮に留めおき、足繁く通った。
女色に溺れ、管弦に酔い、酒に焼けた。驕奢を極め、政は究む。都は荒廃した。
先帝以上の愚帝と噂された。
少なくとも先帝は、帝位に至る経緯にこそ難はあったものの、その政に過失はなかった。彼は逆だ。帝位に至る経緯はともかく、政には全くの無能ではないか。
声は日を追うごとに大きくなる。
やがてバルクのグァンドールにもその声は届いた。
そしてある日。
書簡にて彼を諌めたグァンドールに腹を立て、トゥーランシヤは忠義の証にと都に残されたグァンドールの妾 ―― 件の侍女だ ―― を斬った。
「妻ならばまだしも、妾など。実の姉をも切った男だ。忠義のたかが知れるわ!」
皇帝は「乱心」したとして再び僧院に戻された。
そして四年の幽閉の後、死んだ。
彼には子がなかった。
トゥーランシヤ朝は、わずか七年、一代であっけなく潰えたのである。
空位になった帝位を埋めるため、官に求められグァンドールは再び都に上った。
乱れ衰えた宮廷を整え建て直し、政を執った。
グァンドール朝の始まりである。
ラグル・ヴァストデュール=グァンドール、三十九歳の秋だった。
「翌年春、彼はバルクに遷都した。そして秋にはエルディアに向けて本格的な侵攻を開始する」
バルクは都である。都となっていまだ日が浅く充分とは言いがたいが、そこは国の中枢だ。
対するランガは辺境の一都市に過ぎない。あまつさえ王都では議会を構成する王族が何派にも分かれて争っていた。
抗せようはずがなかった。
強大な軍事力に、わずか半月でランガは落ちた。
「ランガ陥落、街道の封鎖、エルディア軍の度重なる惨敗、王は後をファ・シィンに託し戦場に赴き、戻らなかった。ファ・シィンの後押しでアズライルは王となり」
「彼もまた死んだ。ファ・シィンは何故、彼を王に? 議会は機能していなかったのだもの。そんなまどろっこしいことをしなくても、いっそ自ら王として立つことだってできたはずよ」
よい疑問だ、と老人は満足げに微笑む。
「フィル、夕べおまえは言ったね。なぜこの順でしか時が動かなかったのか、と。その答えの一部はすでに掴んだはずだ。では、アズライルがなぜ即位せねばならなかったのか」
発問にフィル=シンはその人差し指を唇に当てた。
「その答えが、この戦いの中にあるのね」
頷き、祖父はファ・シィンの最期を語り始めた。
「その戦いは、これにも記されている。讃えるに値する見事な最期であったと」