煉獄―暁闇を抱きて―

 ファ・シィンは泣いた。
 甥の手を握り、顔を伏せたまま、声もなく泣き続けた。
 兄を、父を、姉を失った日、流せなかった涙は、堰を失い、果てることなく流れ出した。
 それはランガの守護として、シェル・カンの城主として、エルディアを守る戦いの前線に立ちつづけた女性が彼に、いやおそらく彼の他には、誰にも見せたことのない、最初で最後の涙だった。
 ファ・シィンの手を握り、臥したまま、彼は、ただ待った。
 掛ける言葉など、見つからなかった。
 晶花(カシヤン)に侵されるのは、わたしの身ではない。
 腐り果てたこの国に、まこと蝕まれようとしているのは、この人なのだ。
 自らのすべてを捧げるように尽くしてきたものの、なによりも酷い裏切り。
 このうえ、自分が晶花に負け死んでしまえば、さらに裏切りを重ねることになるだろう。
 わたしを生かすために、この人は自らの自由を手放したのだから。
 ならば生きよう。
 それがどれほどの苦痛をもたらすものであっても、この人にもたらされた痛みほどには、ひどくないはずだ。
 顔も知らぬ母によく似ているというその人の悲しみが、それで少しでも癒えるなら、少しでも長く生きて、傍らにあるのだ。
 ひそかな決意は、かすかな甘さを伴い心にしみこんでくる。
 鋭い痛みも、褪せるほどの哀しみの中。
 ああ、花の香りがする。
 心安らぐ懐かしい香りだと感じた。

 その香りだけが、彼に残された母イルガ・ファムの記憶だった。

 東の空を見つめるファ・シィンが待っているのは、日の出ではない。
「この城は、どれほど持ちましょうか」
「さて」
 視線を地平から手前の大地に落とし、ファ・シィンは笑った。
 二年前のあの日から、ファ・シィンはたびたびその渇いた笑いを浮かべる。
 その笑いを目にする度に走る痛みは、腐りゆく体がもたらすそれ以上に、深くアジェルの心身を抉った。
 涙とともに、彼女の中から流れ去ったものがなにであるのか、アジェルは知っている。
「叔母上はこの国を」
「陛下」
 アジェルの問いかけに、ファ・シィンの声が被さった。
 最後まで問い掛けさせぬということは、答えられぬ、と同じことである。
 答えられぬ、との答えが何を指すのか、わからぬほどにアジェルも子供ではなかった。
 もはやファ・シィンにこの国を守る気はないのだ。
 だからこそ、助言のひとつもせず、彼女を疎んじた議会の半数が戦死し、勅命によって召還されるまで葬神殿に篭っていた。
 頼むと頭を下げられるまで座して待つ。
 それはファ・シィンのやり方ではない。
 それでも滅びを願わずにいる。それだけが、彼女に残されたこの国への誠意なのだ。
 止められたのだろうか、と、聞きたかった。
 あなたなら、キ・ファの西進を阻めたのでしょうか、エルディアを救うことができたのでしょうか、と。
 が。
「妃殿下はいかがなさっておいでです」
 妃殿下。それが誰を指すのか、理解するまでの一瞬の間。
 あまりに予想外の反問に、意識が逸れる。
 ああ、とアジェルは苦笑した。
 つい先日娶った、形だけの、けれどその形を何よりも重んじてくれる妻のことを、うっかり忘れていた自分が可笑しかった。
「城を出るように勧めましたが」
「お聞き入れにならなかった?」
「ええ。王妃は王権の象徴。その象徴が逃げ出したのでは、エルディアの名が地に落ちる、と」
「陛下をお叱りになられたのですか」
「見くびるな、と、それはすごい剣幕でございました」
「それで、陛下はいかがなされましたか」
「申し訳ございませんと小さくなるよりほかに、わたしに、なにができるとお思いです?」
 その様子を思い浮かべたのか、ファ・シィンはこらえきれぬ様子で、くつくつと笑い出した。
「それはそれは」
 先ほどの笑みとはまるで違う温かな笑い声に、アジェルも笑った。
 笑いながら思い出せば、ますます可笑しい。
 陛下のお覚悟のほどはこの私も存じ上げております。されど、それがあなただけのものとお考えならば、それは思い上がりというもの。ご自戒なされませ。
 王より四つ年長の妃は年若い王に遠慮がない。遠慮のなさが年齢差ゆえのものか、彼女がファ・シィンの従妹であるからなのか、それともハン老師の孫娘であるからなのか、アジェルにはわからない。もしかしたら、そのすべてではないかと思っていた。
 もし、と思う。
 国がこれほどに荒廃していなければ、彼女とともに担う王の勤めは、存外、楽しいものであったかもしれぬ、と。
 けれど、また、同時に別のことも考えた。
 もし、これほどに国が傾いていなければ、わたしは彼女を娶ってまで王位に就きはしなかった。
 そう。欲しいのは、欲しかったのは、玉座ではなかった。

「この城はどれくらい堪えることができましょうか、叔母上」
 アジェルはもう一度問いかけた。
 それまでの間が、生きてあることのできる時間と、ほぼ同じだった。
 それまでに何ができる、何がしたいというわけではなかったが、知りたかった。
 一見穏やかなこの時間が、少しでも長くあってほしいと願っていたからかもしれない。
「叔母上は、いかがお考えです」
 問いを繰り返した王に、ファ・シィンも答えを繰り返した。
「わかりかねます」
「叔母上」
 首を振り笑う叔母に、彼はため息をついた。
「あなたに戦の何がわからぬと仰せです。エルディアード」
 官名を呼ばれて、彼女は柔らかな弧を描く眉を、片方だけあげた。
 一呼吸の後、彼女は薄く目を閉じる。
「わかりませぬ。ええ、わかりませぬとも」
 城壁を上る風に、二人の髪がふわりと舞った。
「なぜ、彼らが攻めてこぬのか、わかりませぬ」
 陣を広げ、なにも城を囲まずともよいのです、とファ・シィンは言う。
「もう、この城には近衛の三軍が残るのみ。水路を絶たれて五日。冬の最中とはいえ、じきに水も淀みましょう。こうなれば、あえて囲む必要などありませぬ。戦が開かれれば、この城など三日とかけず、落とせましょうに。されど、彼らは街道を、軍を二つにわけ、ゆっくり進んでいる。こちらから仕掛ける余力はもはやない。にもかかわらず、あえて時をかける、それが、わからぬのです。これでは逃げよといっているようなもの。シェル・カンに逃げ込ませ、まとめて殲滅する、ということも考えられぬではありませぬが、シェル・カンは堅い。それではキ・ファの消耗が激しい。彼らの目的は、エルディアだけではない」
 顔にまとわりつく髪を、ファ・シィンはなれた手で払う。
 一見柔らかな彼女の視線は、力強く少年の眼をとらえる。
 同じ色の髪を同じように払った若い王の、彼女と同じ色の目が、ファ・シィンを静かに見つめ返す。
「いかに三軍のみとは言え、近衛の精鋭が無傷で残っているこの城を、数日で、ですか?」
「ええ。難しいことではありません。わたしには」
 わたしには、とのことばに、彼は僅かに首をかしげ、先を促すように、一度瞬いた。
 ファ・シィンは再び地平に視線を投げる。
 乾いた目に、何を映しているのだろうか。
「そう、容易いと言っても過言ございませぬな。この城は、戦向きではない」
 たしかに、ランガ城塞とは異なり、この城は開かれた街だった。
 市街をぐるりと取り囲む壁も、砂を防ぐことこそが目的であり、戦闘を想定したものではない。
 街の南に設けられた大門は、宮城の門と大道で直線に繋がれている。
 無防備な城だった。
 この城にいたるまでに、どの街道を通っても二度以上、関を通るよう作られていたため、城そのものの強度はそれほど問題ではなかったのだ。
 いうなれば、この国そのものが、この城の隔壁だった。
 その壁は、すでにない。
 機能しているのは、サキスの守る南の砦シェル・カン城のみ。
 キ・ファ国からもっとも遠くはなれた高地ガライダルのシェル・カンには、今のところ戦火は及んでいない。
 遠からず、そこもまた戦火に巻き込まれることは必至ではあるが。
 まだ聞こえぬ、しかし確実に近づいてくる轍の音に耳を澄ますかのように、彼女は目を閉じた。
 吹き付ける風が運ぶのは鉄の匂いだ。
 ファ・シィンにとっては、少女のころから、いくどとなくかいできた懐かしい匂い。
 熱く、甘い、それは血の匂いでもあった。
 閉じた目を、開き、ファ・シィンは言った。
「そして、彼になら、なお容易うございましょうな。二日はいりませぬ」
「彼、とは」
「ラグル・ヴァストデュール=グァンドール」
「それは」
「東の覇者」
 ファ・シィンの声に混じる、微かな震え。
 それが恐怖に由来するものではないことは、彼女の表情から見て取れた。

「キ・ファ国皇帝。そして」

 懐かしむような彼女の眼差しを、アジェルは見た。
 それは、ランガを、そしてエルディアを守る戦いの中、彼女がまだ幸せだった日々の名残であったのかもしれない。
 過去に思いを馳せるファ・シィンの眼差しはいつも優しい。
 これほどに穏やかな表情をみせるファ・シィンを、他には知らない。
 アジェルを見る眼差しに宿る悔恨も苦痛も、そこにはない。
 横顔を見ながら、アジェルは思う。
 世に謳われる女傑と、憧れるだけならば、どれほどに幸せだったろう。
 気づかなければよかった。
 武勇の影に刻まれた、嘆き。
 癒されることのない渇き。
 その事実に。
「ただ一人、わたしの身にその槍を届かせた男」
 ファ・シィンの静かな声が耳を打つ。
 彼女は左手を目の前にかざす。
 白銀の手甲の下に隠されたその傷を。
 地平から姿を現した日が石の露台にその影を黒く描き出す。
 知っている。
 それは幼いころから幾度となく聞かされた、ファ・シィンの武勇伝。
 人差し指と中指の間から、肘にまで走るそれは、ファ・シィンの身にただひとつ刻まれる傷。
 兄であるカルシュラート公の仇を討つために馬を駆るファ・シィン。
 その彼女を阻んだ一条の光。
 総身黒鉄の鎧に身を包む、若き騎士の繰り出した槍の軌跡。
 彼の繰り出した槍は、手綱を掴む彼女の手を絹の手袋ごと切り裂いた。
 鮮血の花。
 直後彼女の持つ槍が翻る。石突で左右に群がる兵を薙ぎ、その穂先は左手を傷つけた人物を捉えた。
 獅子帝、とよばれるキ・ファ皇帝グァンドールの右頬に走る浅くない傷跡が、そのときのものである。
 それから幾度となく戦場で剣戟を交わした二人の、最後の戦いが始まろうとしているのだ。

「叔母上」
 かけられた声の、あまりの優しさにファ・シィンは首を傾げる。
「どうぞご存分に。わたしが、あとはお引き受けいたします」
 差し込んだ光を正面から受けて、アジェルは微笑んだ。
 姉の面影を強く残す彼が、ふいに、まるで見知らぬ者に見えた。
「大丈夫。わたしの後は、イルージアが。そしてサキスが。あなたの子らが、エルディアを、その民を守ります」
 昇る日に背を向けるファ・シィンの表情は、アジェルには見えない。
 ただ、声だけが微かに笑いとも泣きともいえぬゆらめきを含んだ。
「生国が滅ぼうというのに、わたしは何も感じない。それを待ってさえいる。あまたの兵の命も失われたというのに。まだこれからも失われようというのに、それでもわたしは待っている」
「叔母上」
「ガラやファーレントの民人が言うように、まこと地獄とやらがあるのなら、わたしはそこに堕ちるでしょう」
 目を伏せて呟く。
 アジェルは軽く笑った。
「お供いたします」
 遊山への供を申し出るような穏やかな声だった。
 ひとりで負うことはないのだと、声にされぬことばが聞こえた。
 大地を穢す仇花はわたしたちがすべて摘みとって、地獄とやらへの手土産にするのです。
 それらはきっと地獄に相応しく、見事に咲き誇ることでしょう。
「兵たちも、この戦が何のためのものであるかわかっています。彼らがここに、叔母上のもとに残ったその意味を、信じてやってください」
 大丈夫です、と、アジェルはもう一度繰り返した。
「この先は、イルージアやサキスに任せましょう」
 背に、肩にずしりと乗っていたはずの何かが、吹き抜ける風に遠く運ばれてゆく。
 それが、二人の娘にこの重さを委ねることになるのだと知っていても。
「彼女たちなら、きっと」
 ファ・シィンがただ一人で負ってきたものだ。二人でならば成せぬはずがない。
 その声に、爛れた思いがわずかに癒される。
 ファ・シィンがその手で庇護してきた甥が、いつの間にか彼女の手を引いていた。
「いつの間に、あなたは」
 こんなにも大きゅうなられましたのやら。
 けれど、この甥の「時」は、もう止まろうとしている。
 そして、その時を定めたのは、他でもない自分なのだ。

 ファ・シィンのことばの後半分を、乾いた風がさらっていった。