晶花(カシヤン)に侵されて、助かるものはない。
死に至るまでの時間はまちまちだが、かならず死ぬ。それが晶花(カシヤン)の恐ろしさだ。
体内に入った晶花は劇的に変化する。その硬い結晶はほどけ、瞬く間に散る。胃を溶かし、触れた臓腑を侵食し、血に混じり、やがては心臓を腐らせる。
しかし臓腑が腐り落ちるまで生き延びることは稀である。多くの場合、晶花(カシヤン)がもたらす最初の激しい痛みだけで死に至るのだ。
それを生き延びることが、はたして幸せなことなのか。
体内に残る晶花がいずれ臓腑を、ゆるやかに腐敗させてゆく。
かろうじてひととき死を免れえても、待ち受けるのは凄まじい痛みを伴う、それでいて緩慢な、死でしかない。
答えは決まっている。
否、だ。
食事の最中、ふいに席を立ち、そのまま彼は戻ってこなかった。不審に思った同僚がさがしたところ、葬神殿の裏手で昏倒していた。嘔吐した様子があった。
王は、急な病に倒れた第一王子のために、彼の従姉であるイルージアに葬神殿への立ち入りを特別に許可した。
王都に居を構える彼の親族は二人。イルージアと祖母ルーシエイラ太后だけであり、太后はもう随分長い間、病に臥せっていた。彼の公けの後見人であるファ・シィンはその臨終に間に合わぬ、と思われたためでもあった。
彼女に従っていた青年の一人が去り際に、ファ・シィンの手にすべりこませた紙片にはそれらの事柄が詳細に記されていた。
ファ・シィンの父は晶花(カシヤン)のもたらす痛苦に三年を耐えた。だが、最前線であるランガを守る武人であった父でさえ、三年。
はるばる王都に見舞ったファ・シィンに、後を頼むと言い残し、息を引き取ったのは、十六年前のことだ。この病弱な王子に、同じ期間を耐えられるとは考えにくい。
姉はふた月。あの弱い体で、産み月まで、よく耐えたものだと思う。
いや、腹の子が、彼女をふた月生かしたのかもしれない。
遺骸が棺に納められてもなお立ち込める濃厚な花の香りは、物静かな姉には似合わぬ匂いだった。
彼女の王は、わずかに数日でこの世を去った。
そして今、またこの甥が、同じ毒に蝕まれてゆく。
噛んだ唇はかすかに血の味がする。
汗にぬれた甥の髪をそっと撫でる。その静かで優しい仕草とはまるで結びつかぬ、抑揚のない低い声が、渇いた唇を微かにふるわせた。
「……なんのために、わたしは」
これが。
「玉石の城」が真実ファ・シィンにもたらしたものであった。
「エルディアードとははもともとは死者の就く任。葬神殿にあっても、ファ・シィンが果たさねばならぬ役割はなにひとつとしてなかった。彼女は七昼夜、目覚めぬ甥に付き添った。死の淵をさまよう甥の傍で、その間、何を思い、何を考えたのか」
祖父は半ば瞑目して語る。
「そして、八日目の晩、ようやく意識を取り戻した甥に、頼んだのであった。残る命をわたしにくれと」
それは東の国、強大な軍事力で大陸東方を支配下におさめたキ・ファ国との戦端が、ランガで開かれたとの報を受けた三日後のことだった。
王はイルージアを通じて非公式にそれをファ・シィンに知らせた。
議会はキ・ファとの開戦をファ・シィンに知らせることを拒んだのである。
彼らはファ・シィンが、再び政の場に出てくることを恐れた。
その顛末を、見舞いの名目で訪れた姪から聞いたその時、彼女は直観したのだった。
滅ぶ。
その予見は苦痛を伴うかにも思えたのだが、ファ・シィンは何も感じなかった。
ただ、滅ぶ、と、知っただけだった。
身を削るようにして守り続けてきた国が滅ぼうというのに、何の感慨も抱かなかった。
そこにはただ、奇妙にかさついた感触があった。
「わたしが、おわかりになりますか、王子」
夜半、彼は意識をとりもどした。
呼びかけると、はい、と微かな声が返る。
甥はファ・シィンに「なぜ」とは問わなかった。
すべてを承知した彼の眼差しを受けて、ファ・シィンは静かに語りかけた。
「お願いがあって、参りました」
「はい。叔母上」
「王となり、この国の末期を、わたしとともに看取ってはいただけませぬか。新しく生まれるエルディアのために、古き国の最後を担っていただきたいのです」
「ええ。喜んで」
寝台から起き上がれぬまま、それでも少年は微笑み頷いた。
「わたしはあなたに、死ね、と申し上げているのですよ」
あまりにも簡単に承諾した甥の、晴れ晴れとした表情にファ・シィンの声が揺らいだ。
「わたしが拒めば、わたしの従姉妹のどちらかが、その役目を負うことになりましょう。……叔母上」
細い手がファ・シィンに伸ばされた。
ファ・シィンは伸ばされた手を握る。
細く痩せた手だった。指の骨までもが、痩せている。
「叔母上、新しい国が生まれるならば、それを育てねばなりません。わたしにそれは適いませんが、サキスにならできるでしょう。ならば、新しい国を育てる未来の王を、この乱世から守り戦わねばなりません。イルージア殿になら、きっと果たせます。ですから、わたしのこの命で足りるなら、どうぞお使いください」
「……」
「ですが、叔母上。わたしが王位につくことを議会が承諾しましょうか。継承権はどなたが下さいましょう」
エルディアでは王の娘のみが王位継承権を持つ。第一王子とはいえ、彼が王位につくためには、王の娘、もしくは王の娘を母に持つ娘を娶らねばならなかった。
ファ・シィンが動かすことのできる「王の血を引く娘」はただ一人に限られている。
いや、叔母である自身と異母妹であるサキスを含むなら三人であるが、どちらも彼に嫁すことはできない。
「議会はまだ、事を軽く考えておりますれば、継承権を持つ娘の一人があなたに嫁そうとも、さほど大きくは取り上げますまい。ハン大老の子息に、ルーシエイラ太后の妹が嫁いでおります。その娘が」
継承権は第六位であった。
「名は、なんと」
「リセル・ターガ=システィル=イディアータ」
聖音で娘の名を呼んだファ・シィンの声に、少年は緩やかに目を閉じた。
「それが、ラ・エルディア最後の史書の名となるのですね」
ご覧、と祖父が指差す先を、フィル=シンは目で追いかける。
「死者からは高貴なる芳香が立ち上った、とあるだろう? これはファ・シィンの父王の死を綴ったものだ」
祖父が書斎から出してきたのは、当時神殿に勤めていた下官の日記だった。
「この記述については長い間、王家の血を尊んだからだと解釈されてきた。それだけ王の血に特別なものを感じていたのだ、とね。だが、公の記録ならまだしも、どうして日記にまで、『王の血』の特別性を記す必要がある。フィル、お前なら、書くかい?」
「書かないわ」
即答したフィル=シンは、その理由を考えて少し首を傾げる。
「そうね、後世に残すことを期待しているなら、正史には残せない事実を暗示したい。残すことを目的としないなら、事実をそのままに書き留めたい。王の血が尊ばれていたことは事実だけれど、史書にも記される旧知の事実をあえて書こうとは、わたしは思わないわ。知識をひけらかしたり、美麗なことばを連ねるだけが、趣味でないのなら」
「そう。だから、現実にその体から芳香がした、と考えるほうがより自然だ」
王を尊んだという理由を否定する根拠にはならないがね、と言いながら、祖父はさらに4冊の書物を開いた。
「これは当時の典医の手記だ。今で言う診療記録だよ。これがファ・シィンの父王のもの、これは姉イルガ・ファムのもの、これはイルガ・ファムの王のもの。そしてこれが、ファ・シィンの甥である王のもの。一昨年の書庫調査で発見されたものだ」
共通する症状の箇所に、印がある。
「これはおじいちゃんがつけたの?」
フィル=シンの問いかけに祖父が笑う。
「まさか。写しならまだしも、大切な原本にそんなことはできない。わたしは研究のために預かっているだけなのだから」
「じゃあ、これは医師が印をつけたのかしら」
「そうだな。少なくとも近年、つけられたものではない。その青い墨は特殊なものだ。当時は好んで使われたが、今ではその色の墨の製法は失われてしまった。ようするに、その書き込みは青墨が流通していた年代に記されたということだ。キ・ファとの戦が始まるころには、作られなくなっていること、戦後は技術が絶えていたことも考慮するなら、医師本人が記したと考えることに無理はない。もちろん、確かであるとは言いがたいがね」
「そうね。戦乱の最中、後生大事に墨を持ち歩くのも変だもの。十二年に亘る戦乱を生き延びて、とっておきの墨をつかってただ印だけをつけるのは、もっと奇妙だわ」
今では失われた製法で作られる青みを帯びた墨。たしかに現在一般に広く使用されている墨は、これに比べると幾分茶色味が強い。
納得した様子で頷いたフィル=シンに微笑んで、祖父は続けた。
繰り返された血族結婚の果てに、その血に某かの病を抱えていた可能性も否めないと。
症状が酷似しているのは、そのためかもしれない。
しかし、と祖父は重ねた。
「王の娘である母、もしくは祖母を持つ者であれば王族だと認められるエルディアにおいて、病を抱えるほどに血が濃くなることは考えられない。わかるかい。父親の血筋は、エルディアではまったく意味をなさないのだよ。王族であると認められるためには、母か祖母が王の娘でありさえすればよい」
ゆえに王族は王族であり続けるために、貴族は王族に連なるために、こぞって王の娘、その娘を娶る。
ひとつの血によって編まれる、それは複雑な紋様でもある。
しかし、そうして王の血を引く娘を娶っても、無条件に王族を名乗ることが許されるのは女児に限られる。
娘の産んだ男児は成人と同時に氏姓を与えられ臣籍に下り、二代を経て生まれる娘には継承権はない。さらにその娘となれば、もはや王族とは呼ばれない。
だから、イルージアは正妃を祖母に、正妃、次妃を叔母に持ち、王族に名を連ねてはいても、継承権は持たないのだ。
彼女の母は、ランガ城主に仕える貴族の娘であったからだ。
「外戚を排除し、専制を阻止するための巧妙な機構であるこれは、同時に、病を抱えるほどその血を凝縮しないという機能もまた果たしていたのだよ」
「父、姉、甥だけなら血に病を抱えていたことを疑う根拠になる。でも、ファ・シィンの王」
言いかけて、イルガ・ファムの王、とフィル=シンは言い直した。
「彼は、系譜を見る限り、八代以上を遡らないと、ファ・シィンたちとは同じ王には行き着かない。血の病を疑うには根拠が薄いわね。もし、これが血の病であるのなら、彼ら以外にも同じ病を発症する人がいるはずだもの」
そのとおり、と老人は頷いた。
再び彼は医師の手記に目をおとす。四人に共通する症状を読み上げ、ラ・エルディアで唯一実名を残す王、レイデュアラム・ソーファラン=エルディアル=アーシュレイルの患った病についてかかれた最後の行を指差した。末尾にただ一文字。
「花」
花のような香り? それとも晶花(カシヤン)?
どちらにしてもこれは。
フィル=シンの表情が強張った。
「そうか、戦だわ。キ・ファとの戦が激しくなって、有力な王族の半数以上が戦死した。彼らの圧力が消えて、だから、医師はこの一文字を記すことができた。晶花(カシヤン)が使われたことを暗示するために。そして彼の両親と祖父を死に追いやったものが、何であるのか残そうとした。こうして印をつけることで。じゃあ、彼らに晶花を盛ったのは、議会の、王族の誰かなのね。ひどいわ! どうして?」
わたしもそのように考えている、と祖父は頷き、それから
「しかし、先走ってはいけない。それはまだ事実としては認められていない真実の糸。これが時の綾に織り込まれていることを、明らかにできるまでは、史実として語ることはできない」
彼は静かに語り、手記を閉じた。
「聖音でアーシュレイルと読まれるこの王の名は、レイダム・ソウン=イルギアム=アズライル。アジェルと、呼ばれていたと、それには書かれている」
祖父の指差す花傑伝、イルージアの章に、フィル=シンは目を落とした。
物語、と軽んじたその書物には、史実として語ることのできなかった真実が、ひっそりと隠れているのかもしれないことにふと気づく。
「ファ・シィンの甥、イルージアの従弟、そしてサキスの異母兄アジェル。死を守る鳥アズレアの名を持つ彼は、ラ・エルディアの王として立ち、そのふた月後、退位した。それが、王都落城の日。五二四年十二月一七日。キ・ファの軍勢は、ティエル・カンに突入、玉座の間に至る。そして」
祖父は、とん、と、ひとつ、指で花傑伝を叩いた。
「これに記される、ファ・シィンの最期の戦いが、はじまる」