凝れる花―匂いたつ死の息吹―

 荒涼と、ただ広がる大地。
 砂丘と岩盤が交錯する荒野。わずかに白み始めた空の下、すべてが砂色に覆われる。
 乾いた風は、凍える大気を切り裂いて、どこまでも駆けてゆく。
 流れる血潮すら凍らせるようなその風を、彼女は露台にて迎える。
 久方ぶりに纏う鎧は、以前より少し大きく感じられた。
 薄くなった肩にずしりと鎧が乗る。その重みに、彼女は笑う。
 風のほうがまだしも潤んでいるのではないかと思われるほどに、渇いた笑いだった。
 結い上げた髪が、冷たい風に解けて流れた。
 三十路も半ばを過ぎ、なお豊かなその髪は、月光の金。
 解けた髪は、風をはらみ獅子の鬣(たてがみ)ように広がる。それを無造作にかきあげる仕草は。
「とても次妃であった方には見えませんね」
 背中からかけられた涼やかな声に、彼女はゆっくり振り返った。
 澄んだ泉のような、と称される彼女の鮮やかな水色の瞳に一人の少年が映る。
 幼くも見え、また存外齢を重ねているようにも見える彼の歳を、彼女は良く知っている。
「陛下、このようなところまでお出ましにならずともよろしゅうございますよ。今朝の風はまた格別冷とうございます。お体に障りませぬか」
 和らいだ口調で彼女は王に語りかけた。
 実の姉が産み、彼女が育てた甥である。ことばに気安さが混じるのも、不思議はない。
「戦が始まれば、わたしにできることはなにもありません。だから、今の内に少しでも王らしいことをしてみたいのです」
 甥はそう言いながら、彼女の隣に立つ。
「玉座にいてくだされば、それでよろしゅうございますのに」
「ええ。わたしにはそれしかできませんから。でも」
 少年はそこで顔色を伺うように、ちらりと、叔母を見た。
「散歩ぐらいは、してもよいでしょう?」
 倒れたりは、いたしませぬから、と少年は、笑う。
 彼は叔母によく似て美しい少年だったが、王者として見たときに、「らしさ」は片鱗もなかった。
 むしろその風格は、叔母にこそ在る。
「広いですね。この城は」
 穏やかな口調で語りかける甥に、叔母は目元を和ませた。
「広うございますか」
「ええ。叔母上にはさぞ窮屈でしょうけれど」
 無言で肩をすくめた叔母に、少年は声をあげて笑う。
 優しげな笑顔によく似合う、やわらかな声だった。
「わたしなどはこれほどに広い場所にいると、身の置き所に困ってしまいます。宿坊が懐かしいな」
 二度と帰ることのない懐かしい場所のいくつかを思い出したのか、彼は小さく息をついた。
 ふわり、とその息が冷たい風に白く香る。
 叔母である女性は少年から目を逸らし、地平の彼方へと視線を投げた。
「あなたを神殿から引っ張り出したわたしを、お恨みですか」
 この心優しい少年を、葬神殿の学び舎に入れたのも彼女なら、半ば強引に玉座に据えたのも彼女だった。
「いいえ。お役に立てて喜んでいるくらいです」
 担うものが、国の最期を看取ることであるのは彼も承知しているはずだった。しかし、彼の声に悲壮感はなく、顔には穏やかな微笑があるだけだ。
「お恨みくださっても、よろしいのですよ」
「いいえ。いいえ。叔母上。そのようなことは、決して。この国に生を受けて十六年……病いがちで王族としての務めを果たせなかったわたしが、今、この役を担うことができ、どれほどうれしいと思っているか。感謝こそあれ、恨みなど、欠片ほども抱いてはおりませぬ。できるならばこの胸を割いてでも、二心のないことを、叔母上にはご覧いただきたいほど」
 彼は数日前に十六になったばかりだった。戴冠したのもわずかに二十日前。
 かつて目の前の女性を母代わりに育ち、彼女が葬神殿の聖騎士(エルディアード)となってからは常にその傍近く仕えてきた少年は、長年の習慣からか、今や彼の臣となった叔母ファ・シィンに敬語を使う。
 改めるように、注意されたのだが、直らない。
 改める気はないのだと、やわらかな物腰で、王は注意を退けた。
 もとより、今ここにある者は概してファ・シィンに好意的である。
 そのため、王がファ・シィンを敬うことに苦笑はしても、ことさらに改めろと言うものもない。
 ファ・シィンを煙たがっていた王族議会の半数以上が戦地にて散った今となっては、実質的な王は、誰の目にもファ・シィンであると映っていたし、そのことを「よくわきまえている」若い王にもまた、皆が好意的だった。
「叔母上の軍装は、はじめて拝見いたしました」
 彼は楽しげに叔母の周囲をくるりと回る。
 幼子が母を慕って纏いつくそれほどには近くない距離が、二人の関係を如実に語る。
 互いが互いを親子のように思ってはいても、親子のように振舞うことは、周囲から歓迎されない。
 あくまでも、公けにはファ・シィンはこの王の後見役であり、それ以上ではなかった。
「それが、ランガでお纏になっておられた鎧ですか」
「ええ」
「美しいな」
 なんの装飾も施されていない実用一点張りの鎧は、ファ・シィンによく似合う。
「重いのでございましょう、叔母上」
「前はそれほどには思いませなんだが、さすがに今は少々、重うございますね」
 体力の衰えもある。
 だが、それ以上に、背に負うものの違いが、ファ・シィンに重圧を与ていた。
 少年は、わたしも鎧を纏い戦場に立ってみとうございました、と、寂しげに笑う。
 それが、戦に対する無知な憧れであるのなら、たとえ眼前の人物が王といえども、ファ・シィンはその頬を打つことを決してためらわない。
 戦場は、歌に語られるほど美しくはないことを、彼女は良く知っている。
 累々と横たわる屍の間を縫うように馬を走らせ、新たな屍を積むその行いを、好む者などいはしまい。
 けれど、彼女はただ微笑むだけで少年を打ち据えることはしなかった。
「陛下、王の務めは、兵にはこなせぬものでございます。ご自分を軽んじられてはなりませぬ」
「わたしは、兵としての務めを果たせなかったのです。せめてこれくらいの役に」
「もし、あなたがエルディアの一兵であったのなら、この国は滅ぶしかない」
 厳しい口調ではなかったが、甘さのない決然とした声は、年若い王の感傷を断ち切った。
「はい」
 折り目正しい返事に、ファ・シィンは口元をほころばす。
 吹きつける冷たい風に身を震わせた甥に、鎧のうえから纏う外套を脱いで着せ掛ける。
 幾重にも重ねられた王衣の上から触れてさえわかる肩の薄さに、ファ・シィンの手が止まった。
 十六ともなれば、初陣もとうに済ませているはずの年齢である。甲冑を身に纏い、斧や槍、剣を携え、騎馬で戦場を駆ける。それがエルディアの王家に連なる男児の務めだ。好む好まざるには関わらぬ、それは動かせぬ掟でもあった。
 しかし彼の身は、王族の男児としての勤め、国防を担うには、あまりにも脆かった。
 そのために彼は五年前から、王族としては異例であったが、葬神殿に付属する学び舎で神官となるべく学んでいたのである。
 葬神殿の祭祀を司るアルディエート公爵家の嫡子が、出奔してしまったことも、その理由のひとつであった。
 彼が葬神殿に入ったとき誰もが、今後彼が王位に就くことは決してないと信じた。戦という務めを果たせぬものが、王になることは、エルディアではありえないのだ。
 だが、彼は王位に就いた。
 背こそ伸びたものの、今でも同じ年頃の少年と比べると、一回りは細い。
 姫君であれば、と、賞賛を受ける優美な姿。しかしこの言葉も、王に連なる男児としてみれば揶揄でさえない。
 侮蔑である。
 手を止めた彼女を訝しむ少年から、逃げるように視線を逸らす。
 見ればわかる事実は、やがて見ずともわかる現実になる。
 喪失の予感がファ・シィンを怯ませる。
 ファ・シィンがひとひねりすれば鎖骨ごと折れてしまいそうな華奢な肩が、エルディアの最後を担う皮肉に、ファ・シィンが人知れず泣いた日から、二年が過ぎようとしていた。

 シェル・カンの築城十年を祝う式典を終えた半月後のことだった。
 王都の姪から、第一王子危篤の報を受け、ファ・シィンは即座に王都に向けて発った。
 わずか半刻まえにシェル・カン城主となった娘は、前城主である母を露台から見送った。
 後は任すと馬上から露台を振り仰ぎ、幼い娘に叫ぶと、静かに頷く。
 手塩にかけたとは言いがたい。
 ファ・シィンの手は、いつも政務のためにあった。
 娘のために割いた時間が、これまでにどれほどあったか。
 再びこの城に戻ることはない。
 去来するいくつかの思いとは別に、予感めいた何かが心をよぎる。
 それはランガを離れるときに感じたそれよりも、なお強かった。
 息災で、と言いかけて、やめた。
 その祈りが無力であることを、ファ・シィンはとうに知っている。
 息災であろうと思うなら、娘が、サキス自身がそのように努めなければならない。
 引かれる思いを、断ち切るように鋭く馬首を返したファ・シィンの背に、娘の声が被さった。
 今までに、あの娘がこれほどの声を張り上げたことがあっただろうか、と、背中で聞きつつ微笑む。
「母上様、どうぞご無事で」
 ああ、そのように努めてみしょうさ、と片手を上げて返事に代えた。
 それが今生の別れになることは、どちらもが理解していた。

 第一王子、それは、姉イルガ・ファムの遺したただ一人の子だった。
 三年前、彼を葬神殿の学び舎にあずけるまでは、乳飲み子のころからファ・シィンがその手で育てた子でもある。
 イルージアと同じく、半ばはファ・シィンの子であった。
 シェル・カンから馬で四昼夜かかる道のりを、馬を乗り継ぎ二日半で飛ばし駆けつけたファ・シィンは、王への拝謁という茶番を終えると同時に、葬神殿の甥のもとへ走る。
「ファ・シィン!」
 意外な声を耳にし、彼女は足を止めた。
「こちらです。叔母上」
「イルージア殿」
 葬神殿にいるはずのない姪の姿を見つけ、ファ・シィンは唇を噛む。
 王が、遣わしたのだろうことは易く想像できた。それが意味することをファ・シィンは務めて意識の中からはじき出す。
 二人の部下を伴い、姪は扉の前に立っていた。
 槍こそ携えてはいなかったが、剣を帯び戦地にでも立つかのような姪のいでたちが、なおいっそうファ・シィンを暗澹とさせる。
 彼女に従う二人の男が揃って跪く。
 一人はファ・シィンも良く知る青年だった。身分こそ従者と低いが、ランガにあったころからイルージアのそば近くに仕える者だ。
 イルージアの硬い表情が、ファ・シィンに会ったことでわずかに和む。その姪を、
「このような場所で何をしておられる。そうそうに戻られよ」
 ファ・シィンは一喝した。
「叔母上」
「戻られよ、イルージア殿」
 ファ・シィンがイルージアを厳しく叱りつけたのは、衆目を慮ってのことだった。
「しかし」
 抗うイルージアのその声を、今にも泣きだしそうだ、と感じたのは、ファ・シィンこそが泣きたかったからかもしれない。
「わたしは聖騎士(エルディアード)となった。今後、葬神殿から出ることはない。俗世の者と関わりを持つことも慎まねばならぬ。ここでそなたに会えたのは、亡き父王の計らいか。うれしくは思うが、習いに背くべきではない」
 そこで心もち、口調を和らげ、ファ・シィンは姪を促した。
「さあ、もうよい。戻られよ。ここはわたしが守るべき場所。あなたが守るべきは、死したる王たちではない。行きなさい」
 一瞬、イルージアはその眼差しをゆるがせたが、素直に、はい、と答え、深々と一礼するとその場を後にする。
 その背を見送って、ファ・シィンは部屋に入った。

「此度、持ち直しても、おそらく五年とは生きられぬでしょう」
 甥についていた医師は、ファ・シィンに言う。
 しかしその言葉は、ファ・シィンに衝撃をもたらしはしなかった。
 見ればわかる。
 人の死を間近に見てきたファ・シィンの目に、それは避けることのできぬ事実として映った。
 わかった、とただ一言だけを返したファ・シィンに、医師は深々と頭を下げ退室する。
 ファ・シィンは彼の世話のために王から遣わされた侍女たちを労い、下がらせた。
 そっと寝台に歩みより、枕元に膝をつく。
 手桶に浸された布を硬く絞り、その額に浮ぶ汗をぬぐう。
 汗に含まれる微かな芳香が、先ほど見たイルージアの強張った表情を思い出させた。
 少年から立ち上る死の香り。甘くくすんだ匂いには、よく覚えがある。
 臓腑を侵されている匂いだ。
 微かに、知らぬものにはわからぬだろうこの、美しく残酷な匂いは。
「晶花(カシヤン)」
 つぶやいたはずの声は、喉の奥に張りつき、唇からは息が漏れただけだった。

 晶花(カシヤン)、それはエルディア北東部の高山から発掘される鉱石である。
 花弁のように結晶化する美しいその白い石を細かく砕いて、食事に混ぜる。
 無味無臭、しかし、茶さじ一杯も盛れば事足りる。それだけあれば、人は、死ぬ。
 晶花を食した者の体は内部から爛れる。爛れた肉の放つ匂い。
 それがこの芳香の正体だった。