花傑伝(ソン・クォルシエーナ)―もう一人の娘―

 祖父に言われたとおり、「花傑伝(ソン・クォルシエーナ)」第6巻を借りてきたフィル=シンは、その書物をさしてこう言った。
「物語ね」
 史書と地図と、年表、そして「花傑伝(ソン・クォルシエーナ)」が、机代わりの食卓を埋め尽くしている。
 向かい合わせに座る祖父は、うむ、と頷いて、表紙を撫でた。
 多くの人が手に取ったのであろう、その黒い革張りの表紙は擦り切れている。
「少し、読んでみたわ。面白かったけれど、わたしが知りたいのは、どちらかと言うと史実なの」
 多少、不満げな響きが言葉に含まれている。
 どの程度読んだかね、と聞かれて、フィル=シンは本を開く。ページを繰り、行を指差して言った。
「ここまで。ファ・シィンの武勇伝だったわ」
 中にはまるで時代考証を無視した眉唾物の逸話もあった。
 ほら見て、これは、ファ・シィンの時代よりずっとあとになってできた建物よ、それからこっちは、ファ・シィンが生きていたころには失われていた町。
 武勇伝の舞台の、歴史的な誤りをいくつか指摘したフィル=シンは、祖父の顔を見る。
「歴史のお勉強には、あまり向いてないような気がするな」
 ふむふむ、とフィル=シンの話を聞いていた祖父はにこりと笑う。
「そう。これは確かに物語だ。史書としての評価は低い」

 花傑伝、ソン・クォルシエーナはエルディア史に名を残す何人かの女性の英雄譚である。
 初巻が編纂された年代は不明だが、以降数回にわたる改編で、あらたな人物が加えられ、現在では8巻27人に上る。
 中でもよく読まれるのは初代の王の妻アディナ、ファ・シィン、ルフィスイリア、の三人だった。
 6巻はファ・シィンのために書かれているといっても、過言ではない。

「評価は、低いが」
 言いながら祖父が開いたページを覗き込む。
 それは、巻末のわずかに十数ページ。
 背表紙の厚さはフィル=シンの指の節二つ分はあるのだから、ほとんど無いようなものだ。
「イルシア?」
 表題の古い綴りを小声で少女は読み上げた。
「イルージア、だ」
 イルージア、と繰り返したフィル=シンは、それは誰、と祖父を見る。
「正史にはティエリア・ナフィエ=カルシュラート=イェルシュレイアと記されている」
「四つの名前……王族ね?」
 エルディアの民は名の数で身分がわかる。
 市井の民は二つ。姓と名だ。
 貴族には、姓と名のほかに、氏が。
 王族は、氏姓を持たぬ代わりに、通常呼ばれる名のほかに真名と呼ばれる二つの名を持ち、さらに、どの王に連なるのかを示す譜が加えられる。
 譜の多くは史書名、つまり王妃の名を元に作られる。
 王はその譜に国名であるエルディアを冠する。つまりエルディアル、女王であるならばエルディアナだ。
 ティエリア・ナフィエ=カルシュラート=イェルシュレイアの場合、イェルシュレイアが名、ティエリア・ナフィエは真名、カルシュラートが譜である。
「カルシュラート」
 フィル=シンが譜をつぶやいて首を傾げた。エルディア歴代の史書名を思いうかべているのかもしれない。
「カルシュラート……の書。ユ・ラータ、は美しき、カゥはクォル(花のような)の雅語……だから、元の名前は、ルシュラ……」
 考え込む孫娘を見る祖父の目じりにしわが刻まれる。
 随分の間をおいて、少女は答えにたどりついた。
「ルーシエイラ! ファ・シィンのお母さんだわ!」
 はじかれたように身を起こす。手を突いて乗り出したフィル・シンの勢いに、食台ががたんと大きく揺れた。
「じゃあ、イルージアはファ・シィンのお兄さんの娘なのね? ファ・シィンの姪でサキスの従姉なんだ」
 その通り、と老人は頷いた。
「現在、救国王ルフィスイリアの母といえば、ファ・シィンただ一人を指す」
 しかし、と、わずかな間をおいて続けられる言葉をフィル=シンは待った。
「当時、ファ・シィンの娘と呼ばれた者は二人いた。
 一人はサキス。
 シェル・カン城の城主であり、後にリ・エルディアを興す女王となった者」
 そして。
 もう一人。
「ファ・シィンの姪。そしてファ・シィンを越えると謳われた槍の名手。近衛左軍の若き将」

「エラム・カルシール」

 エラム、は一定以上の階級にある武人につけられる尊称、カルシールとは、カルシュラート家のイルージア、を約めたものであり、これが彼女が公の場で使用した呼称だった。
 花傑伝には、「青みを帯びた淡い金色の髪と日の色に輝く砂原のような」目を持つ、美しい武人として登場する。
 当時の人々には、カルシールの呼称よりも、クォルシエーナの呼び名で良く知られていた。
「今でこそクォルシエーナは花傑、女性の勇を讃える言葉だが、正しくはクォル・シエーナ。美しき女武将という意味だ。そして、さらに言うなれば、もともとはイルージア個人の通り名であったのだよ」
 が、その呼び方を彼女は好まなかった、と老人は続けた。
「ファ・シィンは『花閃槍』と讃えられる優美なまでの槍の使い手。だが、イルージアの槍は『如辰星』と謳われていた。凄まじきこと辰星の如し、と語られる激しいものであったとされている。それを考えれば、確かに『花のような(クォル)』という言葉は、彼女には柔弱に感じらるな」
「そうね。でも、たぶん、彼女にクォルシエーナであってほしかったのだと思うわ。民人は」
「クォルシエーナであってほしい、と?」
「ええ。『花閃槍』の使い手、つまりはファ・シィンの跡継ぎであってほしい、と、そう願ったのではないかしら。人々はイルージアを次妃として王宮に入ってしまったファ・シィンの名代として見ていたのだと思う」
 そうか、とフィル=シンはつぶやいた。
「だから、ファ・シィンの娘、なのね?」

「長じてから槍を持つことになったファ・シィンとは違い、イルージアは幼い頃から槍に親しんでいたと伝えられている。当時、武人の子は、5,6歳までには武器を持つための訓練を始めた。姫君として育てられていたファ・シィンは、14歳で初めて槍を手にする。それは兄が目の前で戦死した、という偶然によるものだ。その偶然が、彼女の武人としての才能を開花させたことも、その武術の才がいかに類稀なものであるのかも、歴史が示すところだが」
 表題から数行を指で数えて進んだ祖父は、懐から眼鏡を取り出す。
「そのファ・シィンから槍の手ほどきを受けたイルージアの才は、ファ・シィンを越えた。ここだ、ごらん。『三本仕合ひて、二本の勝利を修る』」
「青は藍より出でて、藍より青し、ね」
 くすり、とかわいらしい声で笑ったフィル=シンに、祖父もまた目を細めた。

 父であるカルシュラート公、つまりファ・シィンの兄が死亡したとき、イルージアはまだ母親の腹の中だった。
 夫を失った婦人は、体を壊し、7ヵ月後、赤ん坊を生み落として世を去る。
 残された赤ん坊は、祖母であるルーシエイラに引き取られた。
 そして、ルーシエイラが王となった夫とともに王都に移るとき、彼女はファ・シィンの元に残ったのである。

「どうして?」
「さて。真かどうかは定かでないが、これには次のように記されている」

 王となったイルージアの祖父が、妻ルーシエイラと長女イルガ・ファムを連れてランガ城を出立した。
 王都への行幸である。
 城壁の上から遠ざかる一行を見送るファ・シィンが、抱き上げたイルージアに問うた。
「お寂しくはございませんか、イルージア殿。もし皆と一緒に行きたいと思し召しであれば、今からでもお送りいたしましょう。わたくしの馬は速うございますから、すぐに追いつけますよ」
「叔母上が、お一人ではお寂しいと思われたので、わたくしはここに残ったのでございます。どうしても、皆が恋しくお寂しいのであれば、ランガはわたくしに任せて、お行きなさりませ。わたくしは一人でも大丈夫です」
 若い叔母の腕に抱かれたイルージアの目は、今にもこぼれそうなほどの涙で潤んでいた。
 ファ・シィンは右腕で幼い姪を抱えなおすと、左手でその涙をすくう。
「イルージア殿は、本当によく兄上に似ておられる。兄上も、わたくしが寂しいときにはこうして傍にいてくださった。お礼申し上げます。わたくしは寂しがりやですから、イルージア殿が傍にいてくださるのは、真にありがたくぞんじます」
 ランガ守護職は、ファ・シィンの兄カルシュラート公にあたえられる任であった。
 カルシュラート公亡き今、実質のランガ守護職はファ・シィンであったが、名目上はあくまでもカルシュラート公家こそが、ランガの守護である。
 ようするに、幼いイルージアの後見として、ファ・シィンはランガ城砦に残ったのだが、それは言わなかった。
 微笑むファ・シィンのことばに、 「早く大人になりとうございます。さすれば叔母上は憂いなく、王都に上られまするのに。わたくしが至らぬせいで、叔母上にはご迷惑をおかけいたします」
 言いながら、今度は遠くない将来、この叔母とも分かれることを思ってか、イルージアは盛大に泣き始めた。
「急がずともよろしゅうございますよ。申し上げましたように、わたしの馬は早うございますから、イルージア殿があまりに早う大きゅうなられますと、皆を追い抜いて、先に王都に着いてしまいます」

「しかし、イルージアがランガの守護になることは、ついになかった。彼女はその4年後、次妃として王宮に迎えられることになったファ・シィンについて、王都に上るからだ。ランガにはその後、新たに選ばれた別の王族が赴任した」
「どんな人なの?」
「ルーシエイラ太后の弟君だったそうだ。名前は残っていないがね」
「そうだ、ということは、確かじゃないのね」
「不確かなことは少なくない。この後の戦乱で、散逸してしまった書物も多いからな」
 消えてしまったんだよ、と、語る祖父の静かな声を聞く。
 聞いて考えた後、そう、とフィル=シンは頷いた。まだ幼さの残る顔に憂いが淡く影を落とす。
 昨日から度々繰り返された符合。
 確かでない。実在が疑われる。おそらく。考えられることは。きっと。
 それらの真実はすべて、戦乱で失われた記録の中にあったものだ。
 ああ、ならば書物が散逸したように、人の命もまた、散っていったのだろう。
 そして時が流れ、そこに生きたことさえもうやむやに消えてゆく。
 名前のない第三妃。誤記として史実から消えゆく第四妃。
 ファ・シィンの姉としか記されないイルガ・ファム。
 ファ・シィンの娘と呼ばれたのは二人。けれどイルージアについて記されたものはあまりに少ない。
 そして「エルディアル」としか記されない、歴代の王たち。
 シェル・カン落城の折に犠牲になったのは何人か。
 そんな数字さえも残らなかった多くの民。
 落城、とだけ記されるてしまう、そのわずか二文字に込められ、宿る存在の、実はどれほどに大きなものなのか。
 少女の眼差しが史書の表紙をなでた。
 視線に引かれるように、フィル=シンの手が、赤い革表紙に触れる。
 そのざらついた革表紙の感触を確かめるように、ゆっくりと撫で、少しためらった後、「おじいちゃん」、と少女は祖父に呼びかけた。
「わたし、忘れてた。史書、年表、歴史。わたしの中で、それ、全部本で、ことばで、文字で数字だった」
 だから、フィル=シンにとって、歴史は「過去の出来事を列挙して数えあげる」物でしかなかったのだ。
 この中に、人がいることを、忘れていたの、と、少女は言った。
「でも、これは文字じゃないんだわ。書物でもないのね。この中にたくさんの人がいて、消えていったたくさんの思いがある」
 つぶやくフィル=シンの目には、雫。
 瞬いた拍子にほと、と落ちた涙に、地図の文字が滲む。
 史書を読んでみた。地図を書き変えてみた。年表を詳細に作ってみた。
 全部見ただけだった。ただ、眺めただけだった。それでわかったつもりになっていた。
 滲んだランガの綴り。この城が作られた経緯も、失われることの意味も、失われた理由も、ここに暮らす人々が辿ったはずの運命も、フィル=シンはまるで考えなかったことに、今やっと思い当たったのだ。
「そうだ。史実は事実ではない。事実のすべてが史実として残るわけではないのだから、史実を事実というのは間違っている。史実は、事実のひとかけらに過ぎないのだよ。
 そして事実は真実でもない。真実は人の心の中だけにある。後の世のものにはわからないんだ。
 だがね、フィル。事実のすべてではない、真実はそこにはない、と史実を軽んじるのは簡単だけれど」
 けれど、失われた事実を見つけ出し、その中から真実の欠片を探すためにこそ、わたしたちは研究するのだよ。
 史学者として名を馳せる老人は、そう言って、フィル=シンの作った年表を指す。
「ごらん」
 524年、ラ・エルディア国女王として即位。
「なぜ彼女は王になったのだろうね。どうして王になれたのだろうか。ファ・シィンの名声をあれほどに恐れた議会は、それになぜ反対しなかったのだろう。このとき彼らは何をしていたのかな。彼女の兄はどうなった? ああ、そうだ。彼女はシェル・カンで戴冠した。なぜ王都じゃなかったのだろう。サキスの元に王杖や王冠を届けたのは誰だろう。そしてシェル・カンはどのように落城を迎えたのだろうね。そこにいた人々はどうなった?」
「ああ」
 そうね、どうして。
 どうしてそれを思わずにいられたのかしら。
 滅亡の直前に戴冠した女王は十三歳……。
 昨晩聞いた事実が、まったく別の重みをもってフィル=シンの心に落ちてくる。
「わたし、知りたい。この一行に込められた、いろんなことを、知りたいわ。どうしてこの順でしか時が動かなかったのか、知りたい。おじいちゃんは、知ってる?」
「長い、物語になる」
 老人はそう言って、いちど口を閉じた。
 再び開かれる、そのことを待って、同じように黙って待つフィル=シンの、組まれた手が、食台の上で、かすかに震えていた。