サキス・カーラ―その名の重さ―

 エルディア神殿の騎士団の長は、聖騎士となったファ・シィンを恭しく迎えた。誇り高き騎士長もまた、幼かりしころ、ランガの守護ファ・シィンに憧れた一人だったのだ。

「エルディア神殿の守護騎士を聖騎士(エルディアード)という。これは、もともとは生きた人間の就く任ではなかった。それは王以外でただ一人、王と共に神籍に入る者のための任」
 祖父は言いながら机の上の史書の一冊を取りページをくる。
「ここだ。ごらん」
 示された先を忙しく目で追うフィル=シンに、祖父は読み解いた。
「歴代の王の臣の多くは王の退位、すなわち死去と同時に、退官する。その後は葬官(アルデュート)となって王の亡骸を守る者となるのだよ。やがて彼らは死した後に、眠りにつきし王の騎士、サーデューンとなる。なかでも、王にもっとも近しかった一人が、聖騎士、エルディアードと謚(おくりな)される。これは王のもっとも近しい臣の誉ある勤めだ」
 これは、直接の血縁のない王の交代において、先王の側近と新王のその側近との間に諍いを起こさぬための機構でもあった。
「聖騎士(エルディアード)は、謚なのね」
「そう。王妃がエルディアードとなった例はこれまでなかった。しかし、何度も言うように、ファ・シィンをそれ以前の王妃と同じように語ることはできない。
 しかも、このときのエルディアには、外に内にとゆらぎはじめた国を支えるための柱を、たとえ王といえど、死者のために削ることは出来かねた。
 そんな中で若い王を凌ぐファ・シィンの名声は火種になる、と、誰もが思っていたのだ。
 彼女がエルディアードとして神殿に赴任することに、反対の声が上がらなかった背景には、それもある」
「諸官はファ・シィンが怖かったの? 謀反すると思って? そんなバカなこと!」
 そうかもしれない。
 祖父は小さく小さく、フィル=シンだからわかるほどかすかに笑みを浮かべた。
「ファ・シィンの夫だった先王には聖騎士エルディアードはもちろん、葬官(アルデュート)も、当然眠りにつきし王の騎士(サーデューン)も、まだいなかった。なぜなら、王は享年三十五歳。周りを固めていた官もいまだ若かった。そして、なにより、ファ・シィン以上に王が信頼し身近に置いた者がいなかったからだ。彼女を差し置いて、後のエルディアードとなれるものはいなかった。
 同時に一人たりとも、官を減らすことができない窮状にも、エルディアは瀕していたのだよ」
 下世話な話になるが、と、祖父は史書を再び繰る。
「王と第三妃の間には子が五人。ファ・シィンにはただ一人。ここからも想像できるように、ファ・シィンとその王の間にあったのは、夫婦の絆ではない。王家に血を連ね、またそれを保つものとしての義務と連帯感、そして共に国を負い統治するものとしての信頼が、二人を結び付けていた。それが宮廷内でも当たり前のように認識されていたことも、この処遇は明らかにしているな。
 聖騎士となる者は、ファ・シィン以外には考えられぬ、と」
 正妃は史書となり、次妃はエルディアードとなった。実質的な妻であったろう第三妃は、王の私物として時の中に消えた。第四妃にいたっては、第三妃の誤記、つまり同一人物であるとする説さえある。
「当たり前のことなのかもしれないけれど、ちょっと気持ち悪いな。ファ・シィンは王妃となった後も、それ以前も、変わりなく武官としての勤めを果たしているでしょう? さすがに前線には出なくなったけれど、史書に記されている限り国防を一手に担っていた感じだわ。それなら、ずっと武官にしておけばいいのにね。王と第三妃の間にはもう次の王のための娘もいたのだし。彼女を次妃に据えてまで、正しい血に拘る必要があるのかしら」
 あったのか、とは、やはり言わぬフィル=シンである。
 彼女の中で、史書は現在進行形なのだ。
 王家ってゆがんでるのね、とつぶやく少女に、祖父は苦笑した。
「さて、どうだろう。王の血にそれを求めるのは民だ。王家ゆがんでいると言うのなら、民、ひいては国そのものがゆがんでいたのかもしれぬな。
 だからこそ、ラ・エルディアは滅んだ、と言ってしまうこともできる。
 まあ、そういった事情で、王は、ファ・シィンを聖騎士とした。葬官(アルデュート)ではなく、一足飛びに聖騎士(エルディアード)に任ずることで、死者になぞらえ政の表舞台から彼女を遠ざける。それにより、ファ・シィンが火種となる可能性を根幹から排除した」
「うん。それはうまい手だとわたしも思う。遠くにあれば彼女の名声が邪魔になることもあるでしょうけど、懐の内にあるのなら話は違う。いい切り札になるもの。『エルディアに名高きランガの守護』の後押しを受けている。これって、政治的にはとってもお得よね」
 フィル=シンの解説に、祖父は声を上げて笑った。
「意外におまえは政官向きなのかもしれないな」

 他方、シェル・カンに残されたサキスは、母の言い置いたただ一言の心得のみを頼りに城主の任に就いた。
 幼いころから母を間近に見ていたサキスにとって、その任はさほど苦難を伴うものではなかった。
 習うよりも深く、「城主としてあるべき姿」が根付いていたものと思われる。
 万事そつなくこなして行く少女に、さすがはファ・シィンの娘よ、との賛辞が集まった。
 ゆえに、数ヶ月後、王よりサキスの補佐のためにと執政官が遣わされたとき、シェル・カン宮のみならず、その城下にあっても剣呑な空気が漂ったという。
 ファ・シィンの跡継ぎに、これといった不満を感じてはいなかったからだ。
 王都からの執政官がくる、と聞いて、シェル・カンの民が真っ先に思いうかべたのは、これまでのような繁栄が望めないかもしれない、ということだった。
 ファ・シィンの築いた都を保身のために取り上げ、神殿に押し込めた挙句、その娘に監視者を送り込むとは何たる無礼。王はそれほどに、ファ・シィンとそれに連なる者に隔意があるのか。
 そう思う者が少なくなかったのだろう。
 城門をくぐった瞬間の、その冷めた視線にさらされた執政官の一人が残した私書には、
「まるで敵陣に遣わされた伝令の心持であった。いつ斬首されるともつかぬほどに、その空気は冷えていた」
 と記されている。
 しかし、幼い城主は自ら城門まで赴き、彼らを恭しく迎え入れた。
 サキスの穏やかな表情に、若干和らいだ空気の中、補佐官として使わされた一団の代表が前に進み出て、深々と礼をとる。
「殿下には、どうぞ心お安く」
 聞きようによっては「今後の口出しは一切無用」とも取れるこの挨拶にも、少女は頷いた。
 それがファ・シィン似の器量の大きさを示すものなのか、子供であるが故の素直さなのか。
「よろしくご指導くださりませ」
 そう言って微笑んだ少女から窺うことは難しかった。
「はい。殿下の御為にご尽力いたしましょう」
 ここではじめて少女の表情には戸惑いと困惑が浮ぶ。
「いいえ。いいえ、わたくしではなく、シェル・カンの民のために、ひいてはエルディアの民の為に。どうぞ至らぬわたくしにお力をお貸しください」
 サキスは遣わされた執政官の手をとり、頭を垂れて礼をとる。
 本来ならば、王位継承者として最敬礼を要求することも可能だったサキスのこの礼は思わぬ効果をもたらした。
「サキス・カーラの御為に。次代のエルディアナ(母后)の御為に」

「お芝居では、そこで全員がルフィスイリアの足元に平伏すのよね」
「芝居は脚色されている。それが事実であったとは言えないが、心情的にさほど遠いものではなかっただろう」

 派遣された官の中に、かつては王族会議議長として議会を任されたヴァンダ=ハンもいた。
 先々王(ファ・シィンの父王)の御世にあっては辣腕を振るった執政官である。
 ファ・シィンが王の近くに仕えていた時分には、彼女と政策をめぐっての激しい舌論を交わしたともいう彼は、芝居の中においてもサキスに平伏することはない。やや離れたところからそれを、静かに見ているのである。

「ヴァンダ=ハンの肖像画を見たことがあるかね」
「ないわ」
「なかなかに気難しい雰囲気だよ。美術室にあるはずだ。見てくるといい」
「ヴァンダ=ハンの肖像画って言えばわかるかしら?」
「わかるだろう。もしわからないようであれば、『白亜の宮にて光の御子にまみえる者の色とりどりの背中』という絵の写しを見せてもらうといい。その絵の左隅に、中央に立って微笑む少女を厳しい目で見つめている老人がいる」
「それがハン?」
「そう。こんな眉間の三本皺が目印だ」
 言いながら眉間に皺をよせてみせた祖父に、フィルは声を上げて笑った。

 ハン老師。
 決して気安いとは言いがたいその老人を、サキスはそう呼んで、常に身近に置いた。
 なにごとも決裁の際には必ずハンの見識を頼りにし、尊重したという。
 ハン老の指導のかいもあって、半年も過ぎるころにはサキスは小さな名君と呼ばれるようになってゆく。
 ファ・シィンの娘。
 そう呼ばれ続けた少女が、サキスという名で語られるようになるのは、このころからだ。
 そして、その僅かに一年後、彼女の城は、彼女の民ともども戦乱に塵と消えゆくのだった。

 サキス・カーラ。小さな愛しきわが主。
 彼女は、そのように呼びかけ慈しんでくれたシェル・カンの人々を、終生忘れなかった。
 否、忘れることを、決して自らに許さなかったのである。

「ファ・シィンの娘、か」
 少女はそうつぶやいて、苦く笑った。
「そういう呼ばれ方って、つらいよね。だって、それってサキスじゃなくてファ・シィンを見ているんだもの。そんな中で自分を呼んでくれた人のこと、簡単には忘れられないと思う」
 ごちそうさまでした、と食器を片付けながら、フィル=シンはそうつぶやいた。
 老人は先に立って部屋の扉を開ける。
 ともに台所まで歩きながら交わす話は、学び舎での出来事だ。
「本当にイヤになっちゃうんだから。先生も、先輩も、わたしのこと、おじいちゃんのマゴ、おじいちゃんのマゴ、マゴ、マゴ、マゴって。わたしの名前、そのうちオジイチャン=ノ・マゴになっちゃうわ」
 ふくれっつらまで可愛らしく思えるのは、身内びいきというものか。
 頷きながら微笑みながら、老人は食器を洗うフィル=シンに言う。
「わたしはいつかフィル=シンの祖父と呼ばれたいものだと思っているよ」
「えーっ。そうなの?」
 頓狂な声をあげた少女を祖父はなだめる。
「当然だ。いつだって、人はそう思うものだよ。ことわざにも言うだろう。青は藍より出でて藍より青し」
 子のほうが親よりもできて普通なんだよ。それでなくては、世の中は発展しない。
 師は己を越える弟子を育てて、初めて師としての務めを全うしたと言われる。
「わたしはまだ、務めを全うしていない。可愛い孫が、それを手伝ってくれたら、百人力なのだけれど」
 どうだい?
 そう問いかけられて、フィル=シンはくすぐったそうに笑った。
「いいよ。おじいちゃんの頼みなら手伝ってあげる」
 でも、とその後を続けることを、彼女は忘れない。
「簡単には叶えられそうにないから、もうちょっと待っててね?」

 さあ、もう遅いから、今日は休みなさい。
 そう言われてフィル=シンは部屋へ戻る。
 戻りしな、彼女は祖父を振り返った。
「ねえ、おじいちゃん。明日、帰ってきたら今日の続き、聞かせてくれる?」
「ああ、いいとも。では、明日は『花傑伝(ソン・クォルシエーナ)』の六巻目を借りておいで」
 はい、と歯切れのよい返事。おやすみなさい、と挨拶を残し、フィル=シンは床に就いた。