鬼喰 ― たまはみ ―

第一話 邂逅 五

「どうだ」
 家、正確には建てかけのまま放置されているそれを前に、志野がわたしに訊ねた。
 敷地全体を覆う暗く澱んだ空気を背景に、洋風の白い門とレンガの壁だけがやけに明るく見える。
「いやな感じだね。実に」
 なにがいやかと言って、わたしたちに対する明確な悪意と敵意と害意を感じるにも関わらず、姿が見えず、また気配もないことに尽きる。
「ランクは?」
「Aか、もしかすると……AA……いや、AAA?」
「はっきりしないやつだな……どの程度近づいたら、喰えるんだ?」
「これまでの73例から推察すると、君の力の有効範囲は君を中心に半径3メートル強だ。
 敵意の源は、敷地のずっと奥から感じる。まずは敷地に入らないといけないんだけど」
 話の途中なのに、志野は門をくぐった。
「待て!」
 彼の服を掴んで止めようとしたが間に合わなかった。
 門という境界を越えた瞬間、眼前の景色が揺らぐ。真っ黒なゼリーに突入したような気色の悪さから立ち直るまでに三秒。
 しまった、と思い門をふり返る。
 諦めがさきにたち、わたしは驚きもしなかった。
 そこにわたしたちが通った門はなく、あまつさえ、壁の向こうは黒いもやに覆われている。

 わたしたちは現実から切り離された空間に閉じ込められてしまったのである。

 大方の予想はついていた。この家を訪れた幾人かが帰ってこないという神主さんの話を聞いたときから予測はついていた。
 帰らないということは、帰る気がないか、帰りたくても帰れないかだ。
 そして帰れない場合考えられるのは、ひとつにはここから出られないということ、もうひとつには生きていないということ……。

 人の話は最後まで聞けと言いかけたわたしに、志野は反論する。
「どちらにしろ、近づかなくちゃ解決できない」
「隣の家から裏をのぞいて確認すればよかったんだ。そのためにわざわざお隣の庭を通らせてもらう段取りさえしてあったのに!」
「そういうことは先に言え!!」
 もっともな意見にわたしはことばを失った。
 確かに前もって彼に段取りを教えていたらこんなことにはならなかっただろう。説明しなかったのはわたしの落ち度だった。
「これから言おうとしてたんだ」
 弱弱しいわたしの言い訳に、彼は肩をすくめる。しかたないから許してやるといわんばかりの態度に、温厚なわたしも少々気分を害した。
 しかしわたしはご機嫌を素直に表現できる年齢を幾分か過ぎてしまった。口を真横に引き結ぶ。
 それがわたしには精一杯の不機嫌の表現である。志野はそれに気付いたのか、気付かなかったのか。
「まあ、いい。どうせ隣からのぞく程度じゃ解決できない。この様子じゃ、な」
「……見えているのか」
 確認するわたしではなく、柱だけの家の向う、奥庭を睨み彼は頷いた。
「ああ。見えてる。いや、見えてるというほどはっきりはしていないか」
 くすんだ影がいくつか映るだけだ。
 志野はそう言いつつ、手を頭上に伸ばした。
「確かにあまり気持ちのいいものじゃないな。掃除機にでもなった気分だ」
 言いながら次に志野が見ていたのはその頭上、掲げた掌に叫びながら吸い込まれてゆく雑霊だった。
 その顔には見覚えがある。行方不明になったというこの家の建築業者のものだ。やはり、と思ったが言わないでおいた。言えば志野を傷つける。
「落ち着いてるね」
「意識して喰ったのは初めてだ。見えるなら、ある程度、制御できるみたいだな」
 感慨深げに呟いた志野の豪胆さにわたしは内心舌を巻く。わたしとはえらい違いだ。
 わたしはわたしに見えているものの半分が「お化け」だと知ったとき、十日あまり口が利けなかった。
「お味は?」
「美味くはない」
 くすっと笑った志野がもう一体捕まえる。
「こいつらは本体じゃないだろう? あんたの感じてる悪意の」
 霞のようなそれは揺らめいて消えた。子供の気配だ。お化け屋敷に探検にでかけたまま帰らない子供たちの一人なのか。
「あんた、年中こんなものを見てるのか」
 無言で頷くと彼は愉快そうにわたしを降り返った。
「ふうん。怖がりの弱虫神主だと思ってたけど」
 けっこうヤルんだな、と彼は口中で呟いた。
「神主じゃないよ。ただの祝だ。しかも正式に任命されてるわけじゃない」
「巫女さんだって、最近はバイトが多いって聞いたぞ。いいんじゃないか、非正式でも」
 行くぞ。
 そう言って彼は奥へと足をすすめた。
 彼の評価に水を注したくなかったのでわたしは黙って後に続いたが、心の中で真言と経文と祝詞をエンドレスで唱えつづけていた。
 節操なしと言われても構わない。神仏に祈るという表現があるように、日本人は古来より神仏をともにあがめてきた。その日本人であるわたしが神も仏も一緒くたに祈って何が悪い。いや、悪くない。
 神さま仏さま、どうか無事に帰れますように。
 どうしてなのか、彩花さんの顔が浮かんだ。

 おかしい、と思ったのは歩き始めてすぐのことだった。
 裏庭は見えているのに、一向に近づけないのだ。建物の奥行きは建蔽率から考えて17mあるかなしかだ。
 それは約20歩で裏庭に辿りつくことを意味する。しかしわたしたちは1分近く歩きつづけている。剥き出しの柱を何本通り越しただろう。
 ふと思いついて、柱に目印をつけることにした。
 懐から神主さんがくれたお札を取り出すと、通り過ぎるついでにぺたりと貼り付けた。
 これはみやげ物として神社で売っていた(買う人がいたのだから驚きだ)千枚札のようなもので、裏はシール状になっていた。
 それから2分、直進しつづけて、わたしは途方にくれていた。
 貼り付けた目印も見つからなければ、裏庭にも着かない。
 旅人が狸に化かされ一晩中同じところを歩きつづけた、という昔話があるが、目印が見つけられないということは化かされているのではないということだ。それ以前に、わたしの目に変化の類は通用しないのだが。
 ということは、これはどうしたことか。通常の空間認識能力はここでは役に立たないのか。
 何気なしにふり返る。

 仰天した。悲鳴さえ出なかった。
「ゆ、志野」
 後ろ向きにそろそろと歩きながら、先を行く志野に声をかける。
「なん……」
 振り返ったのだろう。そしてわたしと同じモノを見たのだ。絶句して立ち止まった彼に、わたしの背中が当たる。
 互いにぶつかってよろめいたわたしたちに、それはシュウシュウと音を立てながら、滑るように接近し大口を開けた。口の中には二股に分かれた赤い舌が見えた。
 そう、それは大蛇の姿をしていた。

 大蛇は鎌首をもたげた。この動作の後にくるのは。
 一瞬の静止の後、目の前の首……胴なのかもしれないが、そのウロコが下から上へとぞろりと波打った。
 波打つ早さにあわせて、鱗を照らす光がするりと滑り落ちる。
 まずい、まずい、まずい。
 警鐘のように、その一言だけが頭の中に鳴り響く。
「志野」
 小声で呼びかける。
 そして、走れ、と言いかけたその瞬間だった。
 やっぱり!!
 それはカッと大口を開けて飛びかかってきた。
 咄嗟に後に飛びのく。
 足がもつれたのか、志野がバランスを崩した。
 後に倒れ掛かる志野の袖を掴む。
 そのまま、走り出そうとしたところへの第二撃。
 視界の端に映る鮮やかな赤は、大蛇の口か。
 思わず両腕で頭をかばったわたしは、蛇の頭が雷撃によって弾かれるのを見た。
 わたしのすぐ横の柱に、わたしが貼ったお札が見えた。やはり同じ場所を歩かされていたのか。
 わたしの目を欺くことができる相手となると、それはご神霊、すなわちランクAAAだ。
「なんだ、このどでかい蛇は!?」
 ようやく言葉をとりもどした志野が叫ぶ。
「逃げろっ」
 志野をせかして駆け出す。
 しかし、どこへ!?
 封じられた空間を逃げ回ったところで、走れなくなればオシマイだ。
 前を走る志野の背中を見ながら考えるのだが、答えなど見つかるはずもない。
 とりあえず庭と思しき景色の見える方向に走ってみるのだが、まるでミラーハウスにでも迷い込んだように、出口が見つからない。
「どうするんだ!?」
「どうもこうも」
 息切れがする。
「なんだって?」
「外へ、……庭へ出るんだ」
 基礎体力の違いが志野とわたしの距離を空ける。ああ、むごい。
 それに気づいたのか、舌打ちをした志野がほんの気持ち速度を落とした。
「どっちだ?」
「わかると思うか! こっちが聞きたい!! 庭はどっちだ」
 癇癪ではないのだが、思わず苛立ちが口をついて出てしまった。立ち止まって叫ぶわたしの声が、天井に吸い込まれてゆく。
「ばかやろう、止まるな」
 十数歩の距離を駆け戻ってきた志野がわたしの肩を掴んで転がった。
 直後、わたしが立っていた場所を蛇の牙が掠めるのを見た。
 覚悟の上で転がった志野は二転して、素早く立ち上がる。
 わたしは逆に、したたか地面にぶつかったが、文句を言う気にはならなかった。
 ぶつける程度なんだ。食われるよりは随分マシだ。
 さらに数度ゴロゴロと転がって、柱の影に逃げ込む。
 蛇を頂点に二等辺三角形を描いて、わたしと志野は互いに柱の影から見交わした。
 蛇は、と柱の陰から窺えば、姿がない。柱に背を持たせかけながら、息をつく。
 どういうことだ、と、つぶやいたのだろう。志野の口元が動いた。
 わからない。そう首を振る。
 わかっているのは唯一つ。
 逃げ場を探し出せなければ、死ぬ、ということだけだ。

 わたしは再度、四方を見回した。
 柱の向こうに見えるのはどの方向も「庭」である。
 やけに古めかしい石灯籠が、目に入った。
 それはここへ入る前に見たあのレンガ壁や白い門に抗うかのように苔むしている。
 息を整えながら、視線だけを動かしていくつもの「庭」を見る。
 どれもが美しい庭園だった。こんな状況だと言うのに、その見事さは、わたしの胸を打った。
 庭木の花が、しかし狂ったように咲き乱れていた。
 じっとしていることに耐えかねたのか、静かに立ち上がった志野が、周囲に目を配りつつわたしの元へとやってきた。
「行くぞ」
 走り出そうとする志野を止め(体力を消耗するだけだ)、わたしは目を閉じた。
 心眼などと、気取ったわけではない。
 見ても見えないのでは、空けているだけ無駄だと思ったのだ。
 ため息がこぼれた。

 よどんだ空気が動いたのは、一瞬だった。

 やわらかな風が、右から左へ、流れてゆく。
 風に混じる樹木の残り香。

 わたしが目を開けたのと、頭上から蛇の吐く生温かい息が落ちてきたのはほぼ同時だった。
 気配を察した志野が、わたしとは逆の方向に重心を移す。
 左右に分かれて避けようとする志野の手首を、わたしは無理やり自分側に引っ張った。
「こっちだっ」
 引っ張られた志野は前傾姿勢になったもの、3歩目には平衡を取り戻す。
 そして5歩目にはわたしの前を走っていたのだから、「若さって素晴らしい」
 わたしは蛇にジャケットの裾を噛まれながらも、かろうじて五体満足で脱出に成功した。

 建てかけのまま朽ちようとしている母屋から庭へと抜け出る。
 そこは家屋の中から見たような、手入れの行き届いた庭園ではなかった。
 石灯籠はあったが、砕かれた残骸でしかない。それは
「墓か?」
 という志野の発言からもわかるように、石で構築された何か、ということしかわからないほどに壊れていた。
 わたしにその残骸が石灯籠だとわかったのは、さきほど遠目でもそれを見ていたからに過ぎない。
「石灯籠だよ」
 では、先ほど見たあれはこの庭の過去か。
 思いつつ眺めれば、たしかに面影があった。

 不思議なことに、この裏庭には悪意も敵意も見当たらない。それどころか、こんなにも荒れ果てているのに、なぜか優しい気が満ちていた。
 この気には覚えがある。懐かしい故郷の匂い。
(……い)
 小さな声がわたしの耳を打つ。もしかすると声ではなかったのかもしれない。
「何か言ったかい」
 志野を振り返る。彼には聞こえなかったらしい。首を左右に振った。
(……てください)
 今度はもうすこしはっきりと聞こえる。
 声の主を探そうとわたしは辺りを見回した。
 荒れた庭の中で、唯一つ無事だった桜の木で目がとまった。
(あれを封じてください)
 木の声なのか。おそるおそる歩み寄り、木肌に触れる。がさがさとした桜の木肌の感触が手に伝わる。
「あなたですか。いまの声は」
 わたしの問いかけに、桜がことばをかえした。
(おひさしぶりですね。和)
「わたしを知っている?」
(わたしたちは皆もとはひとつ。挿し木によって増やされたわたしたちは同じ。染井吉野とよばれるわたしたちはすべて一人)
 あなたのお家にも、わたしはいました、と桜は言った。まなうらに横に枝を広げたあの桜が見えた。
(あれを封じてください)
「あれ、とはなんですか」
(家の中で蟠っているモノ)
「あの、蛇ですか」
(あれはもともとは守り神。わたしがこの地を守るように、ここにあった古い家と家人をずっとずっと守っていた、わたしの友)
「友……」
(あれは変わってしまった。守るものを奪われ、位を奪われ、変わってしまった。あれはわたしが封じた穴を開こうとしている。止めなければ)
 桜の嘆きが手のひらを通してわたしに流れ込んでくる。
 いつのことなのだろうか。
 春。桜を愛でる娘を花の影からそっと見守る白蛇。
 夏。木陰でまどろむ青年を愛しげに見つめる白蛇。
 秋。落ち葉焚きをする老夫婦と孫を……。
 冬。白く雪化粧をした桜の根元で蛇は暖かな夢にまどろんでいた。
 幾年月、繰り返された季節。長い日々を穏やかに安らかに過ごしてきた彼らを、突如襲ったできごと。
 ある日軍服に身を包み出かけていった父は帰らなかった。兄もその下の兄も、叔父も、従兄弟も帰らなかった。
 そこで暮らしていた人々は離散した。泣きながら、母親に手を引かれ何度も家を振り返りながら去ってゆく少女を蛇は見送った。
 何事があったのか彼にはわからなかった。
 何も知らされることなく、白蛇の守ってきた家は取り壊された。
 何も知らされることなく、新たな家屋がこの場所に建てられた。
 怒りと悲しみと、なによりも嘆き。
(封じてください)
 桜の声は志野には聞き取れなかった。
 それでも彼は、察したのだろう。わたしに言った。
「ようするに、あれが原因なんだな?」
 あれを片付ければいいんだろう。
 自棄になったように彼は袖をまくる。
(鬼喰、彼は鬼喰? なんと強い……)
 桜がわたしに問う。頷いたわたしに桜は告げた。
(彼の中で、あれはもういちど自分を取り戻す。若い鬼喰よ、どうかあれを)