50000HIT感謝企画
鬼喰番外編

天に満つ

 死ぬ。俺はもう死ぬ。
 来月あたり、音信不通をいぶかしんだ家族がここを尋ねると、俺は布団の中で冷たくなったペットボトルを抱いて死んでいるはずだ。
 熱い、寒い、だるい、苦しい。
 なけなしの勇気を振り絞ってくわえた体温計は40度を差している。
「うわ、そろそろ脳にダメージが……」
 つぶやいた声までもが、殺風景な部屋に溶けて渦を巻く。

 事の始まりは、十二月半ばに遡る。
 学内の掲示板に貼り出されていたそれは、要約すると、
「もう一回やってね」
 だ。
 何をもう一回かというと、レポートの作成である。
 つまり、俺は、初回を見事に落っことしてしまったのだ。

 だが、俺はこの時点ではまだ余裕をブチかましていた。
 再提出の期限である二月半ばまで二ヶ月もあったからだ。
 もちろん、課題が提示されてから第一回の提出までに同じく二ヶ月あったことは、このときはすっかり忘れていた。
 そして俺は十二月末週に帰省する。実家でのんびりと取り組もうと思ったのだ。
 実家であれば、心配しなくても飯は三食確保できるし、運がよければおやつもついてくる。そして面倒な風呂の仕度も要らない。洗濯だってしなくてもいい。ゴミも纏めなくていいし、うっかり溜めてしまったゴミに寝床を侵略されることもない。
 いや、もちろん少しは手伝うつもりだが。

 そしていそいそと帰省した俺は、しかし成果を挙げることなくこのアパートに戻ってきた。
 念のため言っておくが、決して努力をしなかったわけではない。それどころか、ヒトカタナラヌ熱意をもって取り組んだ。それはもう、夢に見るほど。
 が、努力は常に実るとは限らない。
 俺は床にころがって、課題として与えられたそれを透かし見た。
 達筆というのだろうか。そういったことに造詣が深くないのでわからないが、いかにもな風情の文字が、そこには記されている。
「俺、近代史のほうが得意なんだよなぁ」
 コレを読んで、内容を纏める。ただそれだけと言ってしまえばそれだけの課題だが。
「だって、字じゃねぇよコレ」
 どうにもこの文字に馴染めないのだ。
 古文書読みの練習、という、あの講師にしては意外にやさしい救済措置ではあった。
 しかもそれは彼が戯れに作った偽文書。俺と同じく初回を落とした面々のために、わざわざ一枚ずつ手書きされている。おかげで協力して解読することさえできない。
 それにしても、同じ現代人が書いたそれが、なぜ俺に読めないのだろう。
 教えられたようになんとか読める箇所を見つけては、原稿用紙に書き込んでゆく。しかしその原稿は虫食いだらけで、まったく意味がわからない。
 たとえば、この箇所。

 春草之□□立春日之□□□□……

「何語よコレは」
 ……そして、俺は自力での解決を諦め、先輩を頼ることを思いついたのだ。

 しかし。

「旅行!?」
「ええ」
 訊ねた家の玄関先で、俺は立ちくらみを起こした。
 先輩は友人と妹さんとその友人、総勢十数名で、スキーに行ってしまったらしい。
 しかもカナダだ。海の向こうだ。何故だ!!
 山ならこの国にも十分にあるって言うのに!
 俺の実家も山国で雪国なのに、なぜ海外へ!!
 帰ってくるのは一週間後。
 提出期限は八日後……一日猶予があるとは言え、長旅から帰った直後に難題を持ちかけたくはない。かといって落ち着いた頃には提出期限がやってくる。

 間に合わない。
 単位がこの手から滑り落ちてゆく音を、俺は聞いた。
 つまりは来年も、これの講義を選択しなくてはならない、ということだ。

 とぼとぼとアパートへの道を帰る。
 寒風が身に染みる。
 立春だというのに、なぜにこんなに寒い。
 開きかけた梅の花が、雪に凍えている。
 見上げた花の向こうにみえる看板が、これまた沈む俺の気持ちとは裏腹にご機嫌そうなのだ。
 俺は思わずそれを読み上げる。
「ニコニコこども病院。括弧、内科」
 内科が括弧書きされているのは何故なのか。ここ十ヶ月の謎だ。
 小児科が専門ですが内科もやってますよ、ということなのだろうか。
 それとも、本当は内科が専門なんだけど、小児科メインでやってますよ、ということか。
 謎ではあるが、ちゃんと読める。活字は素晴らしい。
 そのときだった。

 すれ違った長身の人が、あれ、と言って俺を振り返った。
 しばし互いを見つめあい、思い出した。
「仰木さん、でしたよね。お久しぶりです」
「ご無沙汰しております。津和野くん、でしたね」
「あ、はい。えーっと津和野景文です。あらためてどうも」
 互いに苦笑の中で挨拶を交わす。
 この界隈は今どき珍しいマメな近所づきあいが根付いているが、さすがに数年しか暮らさない俺たち学生にまでは、それも波及しない。
 帰省したのではと問われ、俺は返答に窮した。
「いえ、まあ、そのちょっとした事情がありまして」
 頭を掻きかきそう答えると、仰木さんは笑う。
「もしかして、再試ですか」
 ぐっと咽喉を詰まらせた俺に、屈託のない笑みを向けると仰木さんは言う。
「うちにも一人いましてね」
 鬼の形相で取り組んでるんですけどあれはダメかもしれないな、と、楽しそうでもないことを実に楽しげに言った。
「あんまり根を詰めても良くないと思いまして、これからお茶にするんです」
 よろしければご一緒にどうですか。
 言いながら茶菓子が入っているらしいコンビニのビニール袋を軽く持ち上げてみせた。
 薄く湯気が立ち上っている。食欲をそそるいい匂いがした。
「これはピザまん!」
 俺の鼻は好物の匂いを的確に嗅ぎ当てた。
「あたり。こっちはカレーで、こっちがフカヒレ、あとはチーズに……とりあえず、全種類あります」
 袋のあちこちを指差しながら解説する。意外に面白い人かもしれない。
 しかし、ただの顔見知りに過ぎないのに突然茶の間に上がりこむのは失礼ではないだろうか、と。
 俺の頭と心は、理性と常識に則り躊躇した。

 裏切ったのは腹だ。

 腹は盛大な歓声を上げた。
 たしかに、俺は今朝早くに家を出て、電車を乗り継いでここへ来た。着くと同時に、荷物だけ部屋に放り込み、即座に小田島さんちに向かった。その間、食べたのは握り飯一個だ。三個は欲しかったが、朝の入荷前だったのだろう。陳列されていたのは梅、梅、梅、梅、梅、こんぶ。俺は実は梅干が苦手だ。畢竟、食べられるのはこんぶ一個だ。
 そう、たしかに胃袋、今日俺はお前を満足させてきたとは言いがたい。
 だがしかし、今、この場で、それをほとんど初対面も同じ人に訴えずともいいではないか!!
「……あー、えーっと」
 遠慮するのも白々しいし、応じるのもまた図々しい。
 俺は言葉が見つけられないまま思案した。思案しても、やっぱり言葉は見つからない。
 そんな俺をにこやかに促して、仰木さんは家へと向かった。

 おかえりなさいと出迎えたその人は――名前はたしか彩花さん――、何を問うこともなく、いらっしゃいませと俺を迎え入れる。そちらの方は、とか、どちらさま、とか、そういう言葉は一切ナシ。以心伝心。
 こりゃ先輩が惨敗するのも仕方ない。
 あの夏の日を思い出し、俺は一人納得した。
 一階の和室に通された俺をさらに二対の眼差しが迎えた。
 この家の主であるおじさんのにこやかなものと、誰だっけこいつという実に真っ当な疑問に彩られたもの。
「津和野くんでしたね。しばらくぶりですねぇ。お元気でしたか」
「あ、はい、おかげさまで」
 おじさんの挨拶に、もう一人は首を傾げたが、しばらくして思い当たったようだった。
「……」
 そこでせめて、あのときの人か、とでも言ってくれれば、
「あのときの人です。いつぞやは目の保養をどうもー」
 とでも言えるのだが、どうも彼はそういったノリの会話をするクチではないようだ。
 俺は会話の糸口をつかめないまま、勧められた席に腰を降ろした。

 話はただ一人の客である俺のことに集中する。
 何をお勉強されているんですか、とか、どちらからいらしたんですか、とか、まあ、そんな類いのものだ。
 その中で、仰木さんが居候であることや、二村くんが家主であるおじさんの他人に近い遠縁であることを俺も知った。
「十五年!? 居候を? それ居候っていうんですか」
 十五年前といえば、俺はまだ三つだ。ようやく人語を話し始めたばかりの類人猿ではないか。
「長いですね……十五年か」
 それはそのまま俺と仰木さんの年の差でもある。
「へぇぇぇ」
「そうしみじみと言わないでください」
 困ったように笑う仰木さんは、そんなに年上にも見えないのだが。
 二村くんとやらは無口な性質なのか、ほとんど喋らなかったが、それでも話は聞いている風で、ときどき考え込んだり頷いたりしながらおとなしくその場に座っていた。
 先輩は「ユニークな子だよ」と言っていたが、……まあ確かにユニークというのは個性的、ということで、そこに面白みがあるかどうかはまた別か。

 腹も満ち、だから俺は油断したのだと思う。
「ご馳走様でした。それじゃあ失礼します」
 そう挨拶をして席を立つ。立って縁側を歩いているときに、課題の書かれた大事な紙を落としてしまった。
 ふと緩んだ指先から風に奪われたのだ。
「あ」
 紙は風に遊ばれて、縁側をすべり、庭へと流れて行く。
 俺は縁側から飛び降りた。失くすわけにはいかない。
 掴もうとすると、また一陣、風が吹く。紙はかろやかに舞い、俺の指先を掠めて飛んでゆく。
 それこそ紙一枚の差で取り逃がし、俺はそれを追って、靴下のまま雪の薄く積もった庭を走った。
「あ」とか「こら」とか、仰木さんのそんな声が聞こえたような気もするが、定かではない。
 池の縁ギリギリのところで紙を捕まえた俺は。
「うそっ」
 何もない平らな地面に躓いて飛んだ。

 ああ、なんか魚いるじゃん。
 ゆっくりと近づいてくる――俺のほうが近づいているのだが――その景色を見ながら、そんなことを思った。

 華々しい音と共に吹き上がる池の水。
 うっすらと張っていた氷の下の鯉が、俺の瞼の上をゆったりと泳いでいった。
 鯉の腹の向こうに心配げに覗き込む彩花さんと、額を押さえる仰木さんが見えた。

 あまり丁寧とは言いかねる手付きで二村くんは俺を池から引上げた。
 バスタオルをもって走ってきた彩花さんからそれを受けとった仰木さんが滴る水をふき取ってくれる。
「大丈夫ですか。怪我はありませんか」
「ええ、まあ、落ちただけですから」
 寒さに震えながらも、俺はなんとか答えることに成功した。
「すみません。本当にすみません」
 仰木さんは謝るのだが、これは明らかに俺の失態だ。
「いや、なんか躓いちゃって……ははは」
 なんとも言えない表情で仰木さんは俺を見た後、もう一度頭を下げた。
「すみません」

 着替えを借りて、風呂を借りて、夕食まで馳走になって、俺は帰宅した。
 帰宅して、気付いた。
 ……この部屋には空調設備が、まるで存在しない現実に。

 暖房がない理由は貧乏ではない。
 親の名誉のために言っておくが、俺はちゃんと月々十分な額の仕送りを受けている。その中にはこういった器具を用意する額も含まれている。
 俺もさほど金遣いの荒いほうではないから、その資金は今もその机の引き出しに納まっているはずだ。
 では、なぜないのか。
 暑さ寒さの厳しい季節は、どうせ実家に帰っているだろうと考えていたからだ。
 甘かったとしか言いようがない。
 仕方なく、俺はヤカンに湯を沸かした。
 それでそれほど広くないワンルームは多少温かくなるし、そのお湯をペットボトルに入れて、タオルでくるめば簡易湯たんぽの出来上がり。あとは体が冷えるまでに寝てしまえばいい。
 明日、器具を買いにいって、それで万事納まるはずだ。
 そう思った。

 だが人生の歯車は、ひとつ狂うととことんくるって行くものらしい。
 夜半、俺はあまりの寒さに目を覚ましてしまった。
 ベッドに起き上がり、カーテンの隙間から外を見る。
 街灯の光を隠す勢いで雪が降っていた。
 布団に包まっているのだが、窓から壁から床から天井から、寒さは凍みこんでくる。
 おかしい、こんなに冷え込むものだろうか。
 考え、その理由に思い当たる。
「そ、そうか」
 隣りも下も上も留守。
 というか、いまこのアパートにいるのはたぶん俺だけなのかもしれない。
「貸切だよ。すごいよ。今日は何をやっても誰にも迷惑かけないよ。ギターとか弾いちゃう?」
 ひとりつぶやいてみるのだが、寒さは紛れない。
「もう一回、お湯を沸かすか」
 布団を着たまま俺はベッドから降りた。床上に溜まっていた冷たい空気がちゃぷんと音を立てたような気がする。
「寒いってより、冷たい……」
 つぶやき、震える手でガスコンロにヤカンをのせ、火をつけた。
 やがて湯気が立ち上り、仄かな温かさにほっとしたのもつかの間。
 その蒸気がみるみる冷える。
 俺は極寒の部屋でペットボトルを抱きしめて、一層凍えることになったのである。

 そして今、俺は風邪で寝込んでいる。寝付いてからまる一日が過ぎた。
 レポートは白紙のままだ。
 濡れてヨレヨレになった課題は机の上。それほど滲まなかったのは幸運だが、この分ではたぶん、滲んでいても結果は同じだ。
 いったい何のために戻ってきたのやら。
 腹の虫も絶えて鳴かなくなった。
 頭痛はもはや「ドンドン」という単純な音に還元され、痛みとして認知できない。
 丈夫なだけが、取り柄だったのに、と思った。
 ぼんやりと天井を見上げる視界では、なにやら白くて丸くてちいさいものが漂っている。
 お迎えかもしれない。
 それも悪くない。
 そう思い、俺は目を瞑った。

 体は丈夫だった。
 誰にも負けないと思っていた。
 あの日の朝、感じた腹痛も、だから喰いすぎ程度にしか考えていなかった。
 ……痛んでいたのは脾臓だった。

 そういえばそんな臓器があったかもしれない、と、いう程度の印象しかなかったそれが、俺の人生を大きく変えた。
 取ってしまっても問題ない臓器であるらしく、やけに簡単に摘出することが決まった。
 手術自体はたいしたものでもなかった。
 回復も順調だった。何も問題はなかった。いや、ないと信じたかった。
 けれどメスを入れられた体は、以前のようには動かなかった。
「趣味としてお続けになってはいかがですか」
 相談に赴いた俺に、医者はそういって笑った。
「競技だけがすべてではないでしょう」
 なんの慰めにもならない。
 俺は趣味のジョギングがしたかったのではない。俺は競技場に立ちたかった。いくつものハードルを越えて、競技場の、一番高いあの場所に立ちたかったのだ。そのために物心ついてからずっと、戦ってきた。その俺に、何故……。
 目の前が暗くなった。目の前でまだ喋っている医者の声が聞こえなくなった。
 無神経な、本人だけが「慰め」だと思っている言葉が聞こえなくなり、俺は安心した。
 薄暗い静寂の中、際限もなく動き続ける唇は、なにか得体の知れない生き物に見えた。

 俺は、陸上を断念した。
 ウェアもシューズも全部捨てた。
 もういらないから、とそれを捨てる俺に弟が言った。
「じゃあ、俺にくれよ」
 他意はなかっただろう。
 幼いころから、何でも俺の真似しながらあいつは大きくなってきた。
 俺が競技場を目指すように、あいつは「俺」を目標にしてきた。
 いつか追いつくのだと、言葉に出されることはなかったが俺にはその声が聞こえていたし、あいつも聞こえているだろうことを知っていたと思う。
 弟は俺の記録を塗り替えることを目標にする。
 俺は決して塗り替えられない記録を作る。
 三つの年の差は――学年では四つだ――互いの間に必要以上の競争心を煽ることもなく、俺たちはよい刺激を受けながら、そうやってここまでやってきた。
 ライバルで、同志だった。
 しかし。
 俺に、くれよ。
 考えることさえできなかった。
 俺が金輪際立つことのないあの場所に、弟は立ちつづける。
 そしていつか俺を抜き去って、俺が得たかったものを手にする。
 俺を置き去りに、俺が得たいと願ったそれらを、俺の手から掠め取って行くのだ。
 そう感じた瞬間だった。
 薄い闇に覆われていた俺の思考が、白熱する光に支配された。

 気がついたときには、俺は弟を殴っていた。

 床に座ったまま呆然と俺を見上げている弟の視線には驚きはあったけれど、俺を責める色は欠片もなかった。
 だからこそ、耐えられなくて俺は弟に背を向けた。

 走れなくなった俺の、大学への推薦は取り消された。仕方のないことだ。
 俺は無縁だと思っていた受験勉強とやらに取り組む破目になった。
 成績はそれほどよくはなかった。これといって勉強したい学科もなかった。
 専門学校という手もあったが、なりたい職もない。
 就職することも考えたが、何の技能も持たない俺には当然就職先もなかった。
 岐路で進むべき道を見失った俺は、まさに執行猶予としての四年間を手に入れるために全力を尽くさねばならなかった。
 そして辛くも入学を果たしたのが、この大学の史学科だったのだ。

 受験、合格、引越、入学と続けざまの忙しさにまぎれて、結局弟には謝れないままになった。
 それがいっそう心にひっかかり、夏は理由をつけて帰らなかった。
 手紙は出していたし、電話もしていた。メールで時折近況も報告していた。それでも、帰ることを俺は躊躇ったのだと思う。
 心配した母親が、弟に様子を見てくるように言ったのだろう。
『なんだ。元気そうじゃん。よかった』
 屈託なく笑う弟を見たくなかった。
 あの日のことを申し訳なく思う反面、疎ましさも覚えていたからだ。
 弟が疎ましいのではない。妬んでしまう俺が疎ましいのだ。そういう自分を、俺は見たくなかった。
『少食になったな』
 運動をやめて、たしかに食事の量は減った。だがそれ以上に、弟を見ながらでは食が進まなかった。
 見なかった数ヶ月の間に、成長期の弟は確実に変わっていた。これからもどんどん変わってゆくだろう。
 より、走るのに適した体へと。
 弟が帰る日、これでまた数ヶ月会わずにすむと思うと、俺はほっとしていた。
 本当はまだ、帰りたくなかった。
 だが正月くらいは帰らなくてはと……帰らずにすむ理由が見つけられず。
 額の奥が痛んだ。腹が熱い。
 そう、帰らなくてはと俺は。

 俺の部屋は俺が出て行ったときのままだった。トロフィーの位置も賞状の入った額の傾きも、何もかもがそのままで、だからこそ居たたまれなかった。
 何も変わらないその場所は、卑屈に捻じ曲がった俺自身を否応なしに映し出す。
 課題など手につくはずがなかった。考えても考えても、文字は頭に入らず、浮ぶのは惨めな自分だけだった。
 ふとした折に交わされる会話も、痛みしかもたらさなかった。
『夏も思ったんだけどさ。兄貴、ちょっとやせた?』
『ちゃんと食べてるの? まさか店屋物ばっかりじゃないでしょうね? ダメよ』
『体は大事にしろ』
 大事にしたつもりだった。大事にしていた。いったい何故、俺は。
 資料が足りないから、と家を出て……。
 逃げてきたんだ。逃げた。逃げて、だけど闇は何処までも俺を追いかけてくる……
 追いかけてくるのに、体は動かない。
 風を置き去りに走っていたはずなのに、どうして……どうして走れない!

「案ずるな」

 沈んでゆく意識の端で声を聞いた。
 急激に意識が浮上したためだろうか、俺は乗り物酔いに似た眩暈を、閉じた瞼の奥で感じた。
 頭が痛い。
 額に冷たい何かが触れる。
 無理に目を開けると、眠る前にも見えた白っぽい丸い小さなものが俺の胸の上に蟠っている。
 いや、それは錯覚だ。目をしばたくと同時に消えてしまった。
「案ずるな」
 繰返された聞き覚えのない声の主を探し、俺の目はさまよう。
 白い人影が動き、俺の目の上に手をかざす。
「誰?」
 俺は自分のかすれた声を聞いた。答えはない。
 瞼が閉じる真際、俺が見たのは、血を思わせる赤い目だった。
「寝てろ。鬼は食ってやる」