俺と涼子の両親が死んだとき、俺はまだ三つだった。仕事帰りの事故だったらしい。らしいというのは詳細を聞かされていないからだ。
詳しい話を聞くにはあまりにも俺たちは小さかったし、成長してからはそれを問うのはなんだか祖母に悪い気がした。
したがって覚えているのは「事故で死んだ」ということだけだ。
可哀そうにと周囲の大人たちは言っていたが、その意味さえ、よくわかっていなかった。
寂しい、とはじめて感じたのは小学校の入学式だ。
両親に手を引かれて誇らしげに登校するみんなを見て、俺はやっと親のない寂しさを覚えた。
涼子は泣いた。
りょうもおかあさんがいいよ。おとうさんがいいよ。
わあわあと泣く妹に祖母はハンカチで目を押さえていた。
涼子の泣く声を聞いて、俺も泣きたくなった。だが、祖母をこれ以上困らせてはいけないと、俺は泣かないことに決めた。
そのとき、俺が泣かないと父母は寂しいだろうかとの思いが胸をよぎった。が、すぐに俺の分も涼子が泣くからいいのだと思った。
予想通り、涼子は泣き続けた。式の前も、間も、終わってからもだ。
帰ってからも泣き止む気配のない涼子を持て余し、俺はひとりになりたくて玄関のドアをあける。
そこに立っていたのが、さや姉だった。
涼子のあまりに大きな鳴き声に、彼女は心配して訪ねてくれたのだと後で知った。
静江おばあちゃん、いらっしゃいますか。
礼儀正しい、だけどやさしい声だった。
泣きじゃくる涼子を膝にしがみつかせたまま出てきたばあちゃんに、いただきものですが、と彼女はきれいに包まれたお菓子を、今日と同じように差し出した。それが本当は翌日の祭礼に使うはずのもので、あとで神主を務めるおじさんに彼女が叱られたらしいことも、ずっと後になって知った。
彼女は涼子に微笑みかけた。
一緒に遊ばない?
さや姉は、なぐさめたりなだめたりしなかった。
ただ手を伸べて、微笑むだけだった。
あそぶ……りょう、さやちゃんと遊んでくる。
鼻を啜りながら、涼子は祖母の膝から離れて、差し出されたさや姉の右手をとった。
静くんも。
左手を伸ばされて、おずおずと取る。
ひとりになりたかった気持ちは、もう消えうせていた。
退屈だったと思う。幼いころの二つの差は大きい。それだけ違えば遊び相手にはならない。むしろ子守に近いだろう。
それでもほとんど毎日を、彼女は遊んでくれた。
俺や涼子に、学校の友達ができるまで。
一緒に遊ぶことが少なくなっても、夏休みには宿題を教えてくれたり、祭の手伝いに呼んでくれたり。そんな風に月日は流れた。
その風景の中に、いつの間にか仰木さんはいた。
そしてある日、さや姉の目が、仰木さんを追っていることに気がつく。
その眼差しがとてもきれいで、その瞬間に恋をした。……というか、失恋か。
それからずっと、俺は失恋し続けている。
感慨深く思い出しながら、奥庭にまで足を伸ばす。
池の縁に立つ白っぽい人影が見えた。
近寄って、二村君だと気づく。
すでに巫女姿ではなく、ジーンズにTシャツというラフな格好をしていた。
「向こうは盛り上がってるみたいだな」
「ええ、大宴会ですよ。……もしかして賑やかなのは苦手ですか?」
問うと、生真面目な表情で二村君は答えた。
「いや、嫌いじゃない。ただ、疲れる。慣れないから」
「あ、一人っ子でしたっけ」
核家族だとも聞いていた。
羨ましいような、気の毒なような。
もしも俺が一人っ子で、涼子がいなかったら、さや姉と親しくなる機会はなかったと思うし、ご近所の誼でたとえ一時親しくはなっても、こんな歳まで続くお付合いにはならなかったはずだ。
いや、それだけではなくて。
あれこれ考えすぎて、うまくまとめられない。
そのどっちつかずの気持ちを見透かしたかのように、彼が言う。
「あんたの妹は、……すごいな」
その言葉選びに俺は吹きだした。
確かにすごい。そうだろう。特に彼にはそう思えるはずだ。
なんといっても涼子は、この無愛想のカタマリに、こともあろうに巫女装束を着せたのだ。
彼が向かいに下宿するようになって半年。人には慣れない野良の子猫のようなこの少年を、涼子はあっさりと捕獲して、おじさんの援護を受けつつ、見る間に着替えさせてしまった。それは初対面からわずかに五分後のことだった。
何事かわからぬままに、着付けられ、目を白黒させていた彼の様子を思い出す。
そんな快挙を成し遂げる人間が、この世にいようとは思わなかった。
「あの世にもおるまいよ」
「は?」
聞き返すと二村君は眉を寄せる。
幻聴か。
酔っているらしい。まあ、それならそれで構わない。
社のほうから笛の音が聞こえる。
「よい音だ」
「ええ」
それが仰木さんの手だということは、その音でわかる。
思いのほか力強い音は、彼の内面をよく表していると思った。
「巫女とはさて何であろうか」
よほど巫女装束が堪えたのかもしれない。
ふとつぶやかれた問いに、俺は答える。
「宗教的な回答であれば、神々をなぐさめるため、と」
二村君が、ふ、と息を吐くように笑った。
水面にも蝦夷菊が咲いていた。水をとおして見る花は、八重山吹に似ている。
その鮮やかな黄色は灯火のように目には明るい。だが決して周りを照らしはしない。
かすかな風に水面が揺れる。
「ですが、俺は宗教には詳しくないので、あえて別の答えを」
「ほう」
興味深げに二村君が先を促す。
俺も涼子も、神に祈ることをしない。
願ったところで叶えられぬことがあること、よく知っていたからだ。神の力を頼むには、その限界を思い知っていた。
祖父も、父母も帰りはしない。
「縁故とそれによる庇護を願って、有力者に差し出された質種(しちぐさ)である、と」
それでも俺が古代史を選び、涼子が古典を選んだのは、俺たちをやさしい笑顔で導いてくれた人と、なにか繋がるものが欲しかったからだろう。
そうか、巫女は神と繋がる、いや神の恵を繋ぎとめるための存在なのかもしれない。
「ならば、娘を受けとった者は、その一族に庇護を返さねばならんな」
「と言うけど、それも時によりけりでしょうね」
ねばならぬ、を、こぼすことなく叶えることは「不可能」だと、俺が志す学問は言う。
そして涼子の志すそれは、だからこそ能うかぎりは努力することを願う。
「何ゆえ」
「たとえば……そう、壬申の乱。あ、理系だっけ……わかる?」
咄嗟に思いついた喩えは、ついさっき読んだ涼子の話だった。
「およそのところは」
遠い記憶をさぐる風に二村君は視線を空に投げた。
つられるように見上げた空にはかすむ星々が流れを作り、天を二分している。
「あの乱は『仲良くしたかったけど結果としてだめだった』というものではないのです。いずれ敵対するだろうことを知った上で、娘を嫁がせている」
ふむ、と頷く二村君の横顔に重なる何かが見えた。白っぽい人影だ。
さるすべりの花に似た赤い眼がこちらを見ている。
それが夜空の星の残像でないのなら、まずい、これは相当に酔っている。
「本当に仲良くしたいと思っていたなら、嫁がせる娘は彼女じゃなかったはずです」
俺は酔って池に転がり落ちる前に、その端に腰を降ろした。隣りに二村君が座る。
「妹の大来皇女のほうがいい。彼女は皇女を母に持つただ一人の皇女。さらには大津皇子の実の姉で……大津は、天智、天武がともにいずれ天皇にと選んだ皇子なんですけど、後に反乱を企んだとして処刑されています。ですが、もし彼の姉を中継ぎとして立てた大友皇子の妃にしていたのなら、位は大友から大津へと、当初彼らが望んだように譲られてゆく。その可能性は、格段にあがる」
人の声が遠ざかり、笛の音さえはるか彼方に聞こえる。
このまま眠ってしまうのかもしれない。
「娘といっても十市は、大海人の手元で育てた子じゃない。ずっと昔に自分の元を去った女の娘です。血縁だけは大海人の娘だったけれど、互いの心情はどうだったやら。ともに暮らしてこそ、情は培われるものですし。どちらかといえば、最初から彼女は大友側に属する存在だったんじゃないかな」
父母の記憶がない俺にとって、父母はそれを惜しみ悼み懐かしむ祖母の姿でしか思い出せない。祖父と同じ「写真だけの人」なのだ。
いないことを寂しく思う気持ちがあったことは嘘ではない。けれどそれが父母を求める気持ちかと問われると、答えに窮してしまうのだ。そもそも父母を恋しく思うのも、涼子や祖母のためのようにも思える。
「もとから相手のものである者を、必要に迫られ、与えたような形だけを作ったのかもしれません」
取らせて、取る。それはよくあることだ。
取らせるために打った香車が思い浮かんだ。仰木さんはその手には乗らなかった。
仰木さんの目は、いつも俺の「手」ではなく盤上の駒の動きを広く見ている。
なんと賢(さか)しい、人は計り知れぬな、と二村君が笑った。苦味より、痛みが強い。そういう笑いに聞こえた。
「戦の折に救い出したのだって、外聞が悪いから、ということだってありえますよね。心証は為政者にとって大切な要素ですから。しかし手元にあっても、他には一切使い道はない娘です。敵の妻ともなれば、他の娘のように誰かに嫁がせるわけにも行かない。そこで社に閉じ込める。救う理由も、囲い込む理由も、大事だからとは限らない」
「……放っておいて下らぬ輩と通じられても堪らぬ、か」
やけにじじむさい喋り方をする、と思ったが、言わないでおいた。
「そう。あるいは、通じたからこそ、始末された」
理由は常にひとつであるとは限らないんですよ、と俺は繰返した。
「ではまこと巫女を思うなら、受けぬほうがよかったのやもしれぬな」
「選べないときもありますから」
天は不条理だ。
実を結ばぬ願いの、なんと多い……。
ため息が重なった。
顔を見合わせて笑う。
その後は、なぜそんなことを言ったのかわからない。
「だから、一方的に負い目を感じる必要はないはずです。初めから、滅ぼすことを目的にしていて、それを一時隠すためだけに、娘を贈ることだってありうるんですから」
それから一拍おいてつけたした。
「まあ、皇女本人の気持ちはわかんないですけど」
「巫女の……思い」
「捨て駒として扱われていることに気がつかないほど、人は愚かではないです。自分を大事にしてくれる人がいるなら、普通、そっちの肩を持つようになるでしょう。だからこそ一緒に死なせるのが忍びなくて、負けが明らかになったとき、彼は彼女を手放したんじゃないかと……見捨てて逃げたのでも、敵方だから放り出したのでもないんじゃないかと思います。そして彼女にもそれはわかっていた」
だから過去と未来の間にはさまれて、身動きが取れなくなってしまったのかもしれない。
涼子に言ったら、あんたのほうがよっぽどロマンチシズムに酔っていると言われるだろう。
もっとも捨て駒であることを覚悟の上で己に課せられた務めを果たす、ということもあるだろう。それは男によく見られる思考だが、女がそれをまったく持ち合わせないとは言えない。
しかしその場合はそれこそお互い様というもので、一方だけが負い目に思う必要はないことに変わりはない。
池に降る星がさざめく。季節外れの流れ星が水面に白い線を描く。
消えた先には沈まぬ星。辰と呼ばれるその星は、天においてはあまりに小さい。けれど人を導く大切な存在だ。
まことそう思うてくれていただろうか、その後を、不遇のうちに過ごしても、たとえ儚くなろうとも、と歎くような呟きが聞こえたように思ったが、二村君の口元は動いてはいなかった。
それでもその問いに答えたほうがいいような気がして、俺は言った。
酔っ払いの戯言と、二村君も聞き流してくれるに違いない。
「そう信じるくらいは、許してもらわないと」
それから二言三言交わすうち、笛の音は絶えた。まばらな拍手が聞こえる。
池から部屋を振り返る。電灯の明るさに瞼の奥が痛んだ。
柱時計は八時をさしている。そろそろお開きになる時間だった。
「手伝いにいきましょう。片付けの」
立ち上がった俺の背に、二村君は訊く。
「そなた、時に禁忌の花を手に籠めたくはならぬか」
触れてはならぬその花を、黄泉から人を呼び戻す、古き逸話にある花を。
その声は、やはり時代がかって古臭い。だが仰木さんの笛と同じく、心地よい声音だと思う。
問いに誘われ欲しいと応えかけ、俺は言葉をすり替えた。
「星、ですね」
「何と?」
もとから手には入らぬと知っている。見つめるだけで精一杯だ。
「俺の手には余る、ということです」
俺は蝦夷菊を指す。
「地に咲く花、それで十分です」
その花も、無理をおして手に入れたところで敢なく枯らしてしまうくらいなら、遠くから眺めているだけのほうがいい。
「枯れるとは限るまいに」
「枯れますよ。手折られた花は、枯れるしかないんです。決して実を結びはしません」
二村君がもの問いた気な目を向ける。
「二度も三度も、同じことを繰り返すほど、人だって馬鹿じゃない」
あの幼い日、俺はこの花を摘んで帰った。
ほのかな期待に土に挿してみた。
数日を待たずその花は萎れ、俺の期待とともに干からびてしまった。
「すでに試みたか」
笑い含みの質問に、俺は振り返らずに答えた。
「試さなくてもわかりそうなことですけどね」
「なるほど」
「そういう君はどうなんです。花を手折って禁忌に触れても、その手に欲しい人がいる?」
二村君は水面を見つめたまま、少し笑った。
その問いに彼がなんと答えたのかは、どうしてか思い出せない。
連れだって戻ると、やはり片付けの最中だった。
探したのよ、と涼子が言う。
「どこにいたの」
「池のほう。二村君と一緒に」
同意を求めると、彼はだまって頷いた。
そして二村君はさりげなく、だが確実に涼子から二歩、三歩と遠ざかる。
「おかしいわね、探したのに」
きゅ、と寄せられたその眉が、きれいに整えられていることにあらためて気づいた。
幼いころは取り違えられるくらい似ていたのに、今はもう、間違われるなどありえない。
「見落としたんだよ。池の縁のとこに座ってたから」
「そうかなあ」
灯篭の影も覗いたのよ、と涼子は首をひねる。
頭に載っていた蝦夷菊を編んだ冠が――この花の茎は硬く、さらには剛毛がある。誰に編ませたのか知らないが、随分な無理をさせたものだ――するりと落ちる。
「ほら、落ちるぞ」
載せなおして気付く。背さえも、こんなに違う。
「うん」
涼子はまだ納得いかない様子だったが、片付けを手伝ううちに、お互いそんなことは忘れてしまった。
それぞれに持参した鍋やタッパー、ビールケースを持って帰宅する人々の背を見送る。
津和野も満ち足りた表情で帰っていった。
庭を掃き清め、そこまでを手伝って涼子と俺は帰宅する。
おやすみなさいと見送ってくれたさや姉の後ろには、背の高い人影が控えている。
「おやすみなさーい。ゆきちゃんもー」
涼子が元気よく手を振った。玄関で戸を開けたまま待っていた二村君が半歩後退る姿が灯りの中に見えた。
どうやら涼子は、無事、「ゆきちゃん」に天敵認定をされたらしい。
一足先に戻っていた祖母が淹れてくれたお茶を飲む。それから、俺は足袋を脱いだ。
洗わずに返すほどには、親しい仲じゃない。
借りた装束を汚す前に部屋着に着替えた。
涼子が俺の分もあわせて二人分の衣装を抱え、洗濯場へと運んでくれたが、明日の朝、二人分のあれを洗って干して畳むのは俺だろう。
一服の後、戸締りをお願いね、と、祖母は部屋に帰った。
静かな室内で俺と涼子は茶を飲みながら、それぞれに何かを考えていた。
どれくらいの時間がすぎたのか。畳みに転がって花冠を眺めていた涼子が言った。
「ねえ、静ちゃん」
「ん?」
楽しかったね、と、涼子は笑う。
「ああ」
今年はもうないと思っていた祭りだった。涼子がいなければ、きっとなかっただろう。
団扇で扇ぎながら、そこに描かれた絵にふと目をとめる。
あの庭で描いたものだった。涼子がどうしてもここで描くのだと言い張って、それから三日、向いに泊って花を描いたのだった。一緒に食事をつくり、一緒に食べ、一緒に眠った。
考えてみれば、俺は随分妹の恩恵に与っていたに違いない。
涼子の手にする花冠の黄色が、やけに鮮やかに見える。
が。
「だけどやっぱり静に勝ち目はないなー。さやちゃん、仰木さんしか見てなかったー」
抜き打ちに、俺は啜っていた茶を吹きだした。
「何、何を言って、おまえは、熱っ」
「あーあ、いつかさやちゃんが本当におねえさんになってくれたらって思ってたのになー、もう。ホント頼りないんだから」
吹いた茶をあわてて拭きながら、重ねられた言葉に今度は盆を膝で蹴ってしまう。まるい急須がなんとも簡単にひっくり返った。
「うわ」
「動揺してる? 知らないと思ってた?」
「やかましィっ」
「声、ひっくり返ってるよ、静ちゃん」
はっはっはー、と涼子は歯切れよく笑う。
散らばってしまったまだ熱い茶葉を集めるために俺が四苦八苦していると、ぽんとティシュのケースが投げよこされる。
「お礼は?」
「ドーモアリガトウゴザイマス!」
「よろしい」
それからあらかた片付いたところで、茶にまみれた布巾とティシュを急須や湯のみと一緒に盆の上にのせ、涼子は立ち上がった。
「まあ、そのうち静にも春が来るように祈ってあげるから、儚むなよー」
「はいはい。そいつはどーも」
あー、また気のない返事だ、と涼子は頬を膨らます。
「だめだよ、ちゃんと感情表現しないと。祈るんじゃなくて紹介してくれ、くらいは言えないとこの先はないよ?」
「兄ちゃんの分も、お涼が騒いでくれるからこれくらいでちょうどいいんです」
「返す」
は?
「返すから。あたしも忙しいし、いちいち二人分騒いでられないもん。だいたい、それじゃあたしがいないとき、どうしてんのよ。まさか一日中、ぼへらっとしてるわけ? 世話が焼けるなあ。ほら、返すから、静も自分でちゃんと笑って、騒いで、歌って踊る! わかった?」
いや、それは違う。
次々に重ねられてゆく俺の動揺には、全く構うことなく、涼子は続ける。
「まあ、いきなり今日からってわけにはいかないか。……それでは執行猶予をあたえましょう」
ジャージ姿の偽巫女は、布巾をのせた盆を片手に持ったまま、厳かに宣う。
「あと三年。三年間は、わたくしが代わって騒いであげます」
その先は、自分のことは自分でなんとかしなさい、と偉そうな口調。
だが、それが可笑しくて、俺は畳みに額をつけた。かすかにお茶の匂いがする。
「ははーっ ありがたき幸せー」
よしよしとご機嫌麗しく我が家の姫君は笑い、俺に花冠を押し付けた。
そのささくれた指先を見て、編んだのは涼子自身だと知った。
「あげる。静にぴったりだと思って編んでみた」
冷蔵庫に入れておけば二、三日は持つよ。
「知ってる? それの花言葉」
「さあ」
「追憶と心残り、美しき恋の思い出」
にやりと笑うその顔が、それでも憎めないのは兄妹だからだろうか。何か言い返してやろうかと思ったが、咄嗟にことばが出てこない。俺は仕方なく肩をすくめて苦笑だけを返した。
まあ、当面はそれで良しとするか、と涼子はつぶやき、あらためて言った。
「それからもうひとつ。『変化』だって。面白いよね。懐かしんでいても、やっぱり変わっていくの」
意味を考えているうちに、「あとはよろしく。お休み」と涼子は背を向ける。
つまり戸締りは俺にやれ、と。
それは日課だからかまわないが、とため息を、吐いたとき。
ご退場のその真際に、涼子は真打を放った。
「ずっと我慢ばっかり肩代りさせてごめんね。でも、もう大丈夫だから」
「ありがとう、お兄ちゃん」
しばしの放心から立ち直り、俺は縁側に胡坐をかいた。
ご近所の家の灯は順に落とされてゆく。
やがて向かいの家の灯りも消え、とたん、溢れるような星が夜空に浮びあがる。
「参ったな……」
降りそそぐ星が、水中花のように揺らめいた。目を閉じて俯くと、二つ、三つ、土を叩く水滴の音がする。
雨じゃない。
「泣いてんのか、俺」
俺がさや姉でない人を嫁に迎える日が来るのかどうか、それはまだ想像できない。だけど、さや姉が嫁ぐ日、俺は笑って祝福するだろう。そして幸せにと心から願う。
だが、あいつが嫁に行くときは、俺はきっと号泣する。
いつでも帰って来いと涙を流し、縁起の悪いことを言うなと涼子に笑われるにちがいない。
それから明けて次の日は、満面の笑顔で、あいつをこの手から掻っ攫ってゆくヤツに、おじさん直伝の見事な絡みを見舞ってやるのだ。
そいつが仰木さんばりに、切り抜け返してきたのなら、きっと安心できるはず。
頬を伝うのは、覚えている限り、十八年ぶりの涙だった。
ティッシュケースを引き寄せて、俺は縁側に座る。
数枚を掴みとり、目に押し当てた。
散歩から帰ったらしいソメが、俺の胡坐の中にすっぽりと納まった。
俺はその柔らかい毛を手探りで撫でる。
やがて夏に別れを告げる祭りの夜は更け、空が白み始め。
俺は縁側に座ったまま一夜を過ごし……
蚊に存分に馳走してしまった俺の顔を見た涼子は腹を抱えて笑った。
その大声にソメは昨日と同じように逃げ出した。
「これはちょっとした芸術だね。どこもかしこも腫れてるよ。瞼とか、特に。どうやったらこんなに腫れるかなー。ねえ、静。ちゃんと、駒、見えてる?」
苦笑を浮かべる仰木さんと、笑いを堪えるために唇を噛むさや姉。
馴染みのある風景に、新たに加わったのは二村君だ。
「人間の顔って、こんなに膨らむのか」
と、恐ろしげに自分の頬を撫でている。
「よろしければ、試してみますか。ここに座って一晩」
「いや、いい。試さなくても、もう、十分わかった」
二村君は両手を広げ、体の前で慌しくふった。
いつもより小さな視界の端で、何か白いものが動いたように見えた。
ふわりと風が吹いて、置いていた団扇がかたんと音を立てる。
「あら、懐かしい」
さや姉が、団扇に目を留め、それを手に取る。
「これ、うちの庭で描いた絵でしょう?」
「でしたっけ」
俺はとぼける。
「楽しかったから、よく覚えてる。この花、好き?」
別にと答えそうになった俺を、涼子がジロリと睨んだ。
「まあ、……はい。好きです、とても」
俺の控え目な告白にはまるで気付かない様子でさや姉は微笑み、報われない俺を憐れむように涼子が笑う。
「そういやこれ、なんて花なんですか」
仰木さんが問う。
「蝦夷菊です。お花屋さんにはアスターと言う名前で並んでます」
星か、と二村君がつぶやいた。
「でも、普通アスターって青や紫が多いのに、さやちゃんちのはこの色が多いよね」
「好きなの」
「山吹色が?」
「夜見ると、星が降りてきたみたいできれいだから」
「そっかー。そういえば夜だって花はあるよね」
盲点だった、と涼子がつぶやく。
「そういえば菊は星見草ともいいますね」
そう言った仰木さんにさや姉は、はいと一言頷いた。
それから、
「じゃあ、お持ちしますね」
といって、縁側を離れる。
「何も今じゃなくても。明日でもいいじゃん」
そう涼子が引きとめる。
「今日は、おじさまたちのご命日でしょう。せっかくですもの、お供えに」
言われて俺はそのことを思い出す。なんて親不孝な息子なんだろう。
涼子も同じことを考えたのだろう。数度瞬いて、ばつが悪そうに苦笑した。
「おじさまも、おばさまもあの花が好きだったのよ」
「え」
さや姉の思わぬ言葉に、俺と涼子はそろって聞き返した。
待っていてね、と小走りに向かいに走ったさや姉と後を追った涼子は、それから数分もたたないうちに、それぞれ大きな花束を抱えて戻ってくる。
そして俺たちは、知るのだ。
その花は、俺たちの両親が、亡くなったさや姉の母親のために贈ったものだということを。
おばあちゃん、おばあちゃん、と騒々しく涼子は祖母を呼ぶ。
呼びながら縁側から上がると、サンダルを脱ぎ散らかしたまま駆け込んでいった。
おばあちゃん、この花、おかあさんの花だって。おとうさんも好きだったんだって。
賑やかな声が聞こえた。
おじいちゃんは菊が好きだったのよ。たくさんの菊の鉢を残してくれたの、これはきっとそのひとつの子供たちね。
華やいだ祖母の声に涼子が歓声をあげる。
「すっかり野の草のようになってしまったけれど。この花は連作を嫌うんですって」
花屋で見かけるそれよりも、茎は細く、花も小さい。
「種ができたらそれもお届けしますね」
鉢に立てて育てれば、きっともっと立派な花が咲くと、さや姉はもう一度笑った。
差し出された花を受け取った。足音たかく戻ってきた涼子にそれを渡す。
手が震えないように、気を張っていた。
涼子が、花を受け取るそのついでに、軽く俺の手を握っていった。
仏壇に供えにいったのだろう。
「わたしもご挨拶をしてきますね」
軽く会釈してさや姉もその後に続く。
残されたのは俺と、仰木さん。それから二村君だ。
少しの間をおいて、二村君がいった。
「今の吾には天の星を返してやることはできぬ。そなたに返せるのは、あれだけだ」
「ゆき、いや、志野……」
かまわぬ、と、二村君はやけに偉そうな口調で仰木さんをなだめる。
「夕べの礼だ。愉快な話を聞かせてもろうたゆえ」
仰木さんが額を抑えて下を向き黙ってしまった。
どういう繋がりがあるのか、俺に正しくわかったわけではない。
だが、昨晩の俺はひどくあの花を気にしていたから、理由をさや姉にでも聞いてくれたのだろうと思った。
そしてさや姉は思い出した。
一緒に花を描いたことと、その花が俺たちの両親に関わるものであることを。
それで全ての説明がつくわけではない。つくわけではないが、それもロマンチックでいいと思う。
「結構な品をまことにありがとうございます」
ふざけて深々と頭を下げると、うむ、と満足げな声が返る。
パチンと駒を打つ音が、少しずつ高くなり始めた空に響いた。
終わり