砂に眠る― 月影を映しては ―

 ファ・シィンの娘、と口中で呟いた。
 先日と同じ言葉が、まるで違って響いた。
 己は、と自問した。
 皇帝ラグル・ヴァストデュール=グァンドールの異母弟。
 似てはいるが、その意味するところがまるで違う。
 もし同じく表すのであれば、彼女はファ・シィンの「姪」だ。
 だが、エルディアの民は彼女をファ・シィンの娘と呼び、姪であることには特に触れることがない。
 おそらくは彼女がファ・シィンとはなんら血のつながりを持たぬものであっても、彼女を「ファ・シィンの娘」と呼ぶだろう。
 比べるなど詮無いと思いはしても、血縁で以ってのみ「弟」と呼ばれ青宮の位にある己との隔たりを、こうも見事に突きつけられると胸中穏やかではいられない。
 苦い笑いが胃の底に溜まる。
 たしかに己は青宮だ。彼が跪き額づくのは兄だけでよい。返せば、兄以外のすべての者の上位にあるといえる。
 だが部下は皆、兄からの借り物だった。
 畢竟、意識の上でも、無意識の下でも、彼らはアルデシールとその兄とを比較する。
 ガライダルでは、率いていたのが陛下であったなら、とあからさまに嘆く声も耳にした。
 半ばは災禍に巻き込まれたことを恨む八つ当たりだ。だがもしも陛下が、と思わずにはいられない。
 こんなことにはならなかったはずだ、と。
 己とて、そう叫びたかったのだから、その声も至極真っ当だと思った。
 正論を耳にして腹を立てるほど不出来ではないつもりだ。
 なにより自分にとっても兄帝は敬意の対象、比べられることもまた誇りに思う。思うが、しかし、息が詰まるのも事実だった。
 カルシュラートをティエル・カンへ運ぶよう命じたときの兵らの声を思い出す。
 御意と答えながらあの不満げな声は、兄ならカルシュラートを陣中に抱えたまま、廃墟となったシェル・カンを背にガラ国と戦うことができたからであろうか。
 それとも、兄なら行軍の邪魔と迷うことなく斬ったからであろうか。
 いや、もしかすると、自分が隊を見捨てて逃げる口実だと思ったのかもしれない。
 考えたところで答えは出ない。いや、答えなど無意味だった。
 そう。斬れば斬ったで彼らは眉根を寄せるにちがいないのだ。おそらくは
「青宮殿下はいささか性急に過ぎるところがござりますれば」
 今はもう亡い中将の声を思い出した。
 此度であれば、
「青宮殿下はいささか慎重に過ぎるところがござりますれば」
 か。
 二度と聞くことのない懐かしい声を思い出したのか。アルデシールの表情が僅かにやわらいだ。
 毎度耳に痛い言葉を利かせてくれたものだ。
 そのときどきに感じた痛みや苛立ちは、彼が故人となった今も変わらない。
 だが、恨んだことはなかった。
 アルデシールを皇帝ラグル・ヴァストデュール=グァンドールの後継と見ればこその期待、そして苦言であることを、よく承知していたからである。
 しかし、借り物とはいえ部下の顔色を窺いながらでしか決断できぬことを情けなく思う、それも否定できなかった。
 もう一度ついた深いため息に、控えていた従者が顔を上げた。

「お疲れでございますか」
 近く上がるようになって日の浅いこの少年は、まだ儀礼をよく理解していないようだった。
 問われるまで無い者としてあれ、というのは従者の、あるいは侍女の心得の基本であったが、こうしてよくアルデシールに話しかける。
 わたしのような者には、思うままを率直に述べる者は賢者よりも得難いのだ。おまえにもいずれわかる。
 そう語った兄グァンドール帝の言を信じ、そのままにしている。
 初めは不躾とも思えるそれの態度に苛立つだけだったが、慣れてしまったのだろう、いまではそれほど気にならない。
「そう見えるか」
「はい」
 率直な返答にもう一度軽く苦笑し、返事に代える。
 こんな子供に疲労を見破られているようでは問題だ。
 丁度運ばれてきた夜食を卓に整えながら、いや、夜食と言うよりは早い朝食と言うべきか。
 窓から見える月は西に大きく傾いている。さほど時をおかず東の空は白み始めるだろう。
 給仕をしつつ、少年は言った。
「おきれいな方でしたね」
 カルシュラートのことを差しているのだろう。
「そう思うか」
 少年は、はい、と頷く。
「女将軍と聞いていましたから、筋骨隆々とした男のような方だと思っておりました」
 年のわりにたどたどしく聞こえる口調は、少年がキ・ファの生まれではない証しだ。
「そうか」
「殿下はそのようには思われませんでしたか」
「さあな」
 有態に言ってしまえば、カルシュラート個人について詳しく考えたことはなかった。
 エルディアの王族であること、近衛を預かる上将の一人であること、ファ・シィンの娘と呼ばれる人物であり、良く槍を扱うこと。
 アルデシールにとって、カルシュラートはそれだけだ。
「なぜあのように槍を繰ることがおできになるのでしょう。肩も腕も、細くていらっしゃるのに。確かに背はおありだけれど」
「そうだったか」
「ええ」
 主の生返事にも構わず少年は浮かれたように語る。
「ファ・シィンもあのように美しい人だったのでしょうか。殿下はお会いになったことがあると以前お話くださいましたが」
 キ・ファでもファ・シィンの名は戦女神と謳われている。
 いや、武勇を尊ぶグァンドールの気風に準じてか、その評価はエルディアで語られる以上に高い。
 だが好奇心に輝く少年の目には、その女が数千のキ・ファ兵を屠ったもうひとつの事実は映らない。
「会うには会った。もう忘れた」
 そもそもファ・シィンとの唯一の接触は初陣の戦場でのことであり、あれがファ・シィンかと認識したにすぎない。
 確かに槍を手に戦うその女は遠目にも美しかった。だが何をどのように美しいと感じたかを答えるのは億劫だ。
 さらに言えば、美しさよりも恐ろしさが勝った。
 兄を失う予感に怯えたことは拭い去りようのない傷のように脳裏に刻まれている。
 ファ・シィンという音に蘇るのは、今でも空寒いひたひたとした恐怖であり、美への賞賛ではない。
「どちらがお美しいと思われますか」
 少年はアルデシールの杯に水を注ぐ。
 問いかけの形ではあるが、答えを求めてのことではなかろう。
 少年の言葉を聞き流し、アルデシールは身を起こすと杯に注がれた水を飲んだ。
「襦裙をお纏いになられれば、さぞお美しいでしょう。髪をもう少し伸ばし、女官のように結い上げて、玉や花で飾り、紅をさして」
 お幾つなのでしょう、ご夫君はいらっしゃるのでしょうか、お子があるようには見えませんでしたが、と続けられる言葉が耳を滑り落ちていった。
 襦裙? 結い髪? 紅? 夫?
 予想もしなかった単語に戸惑い、再び傾けようとした杯が止まる。
 戸惑いつつも着飾った姿を思いうかべようとした。

 代わりに結んだ像は、馬上に槍を翻す姿。白く燃える月光を背に、燐光を纏う。
 閃いて天頂を指す穂先には、目を射る辰星の如き光。

 ふと、その姿にファ・シィンの影が重なった。
 遠い朧な影は即座に褪せる。
 手綱を放し、両の手で頭上高く掲げた騎槍を回す。唸りをあげて襲いくる雷の槍。
 薄く刻まれた風とともに打ちこまれた穂先は固い胸甲を難なく砕く。
 鞍を両膝で掴み、棹立ちになった馬の上から一閃させた槍は、ただ一突きで大柄な兵を馬から突き落とした。
 転げ落ちた兵を、騎馬がその蹄で踏み砕く。
 騎馬の揺れに動じることなく、馬上の人物は左右に集る兵を、穂先と石突で退ける。弾かれた剣が飛ぶ。絡め取られた槍は二つに折れ、穂先は大地を穿ち、石突は空に舞う。
 騎馬が後ろ足で高く背後の兵を蹴り飛ばす間に、下げられた馬の首の後ろから繰り出す一撃は、また別の兵を貫いた。
 翻る軍衣を捉まれ、馬から引きずり降ろされても、その槍の冴えに変わりはなかった。
 地上で扱うには不向きとされる長い騎槍を軽々と扱い、さらに三人を倒す。
 槍の名手ファ・シィンと仕合い三本のうち二本をとったというのも、誇張された噂ではなく真のことだろう。
 あの変幻自在の器用さがファ・シィンより譲られたものであるのなら、ファ・シィンの槍には欠ける「重さ」こそが、彼女の強みであるに違いない。
 両手で構えるからであろうか、彼女の槍筋はファ・シィンのそれよりも、むしろ彼の兄であるグァンドール帝に似ていると思った。

 両端を二人がかりで押さえ込まれ、槍を奪われると、彼女は剣を抜いた。
 槍に比べ随分と華奢な剣の影は、奇妙にほど脳裏に刻まれている。
 だが鞘走ると同時に、緩やかな曲線を描くその細い剣は三本の剣を払い落とし、一人を切り伏せていた。
 囲みが破れ、逃げられると思った。しかし彼女は地を蹴って兵の中に踏み込んでくる。
 応じかねたのだろう、棒立ちのまま、また一人が討たれた。
 カルシュラートの剣は早く鋭い。月光を受ける剣の軌跡だけが見えた。
 白い曲線が闇に描かれるたび、兵が倒れた。
 槍の持つ重さとは裏腹に、剣を振るう動きは大地の呪縛を受けぬかのようにも見えた。
 白刃の閃きは風に舞う花を思わせる。
 花将(クォルシエーナ)と謳われるわけを知った。

 花将が率いていたのはたった六人だった。
 その六人は誰一人逃げることをせず、また逃げることをカルシュラートに勧めることもなくその場に止まり、無言で戦いに没頭した。
 真の御物の運び手のために、一兵でも多くキ・ファの兵を倒す覚悟だったに違いない。
 思えば、あれこそ彼らが囮であると気づくべき一端だった。
 だが、多勢に無勢。数十合の後、彼女と共に戦っていた部下は順に討ち取られていった。
 そして最後、彼女と互いに背を預けるようにして戦っていた部下が、その腹に槍を突き立てられる。
 それを目に留めたカルシュラートは動きを止めた。
 止めたにも関わらず誰一人として彼女に打ちかかる者はなかった。
 だが、彼女は背後を向き直るだけで、助けることはせず、灯火を思わせる金の双眸で部下の死を静かに見守る。
 視線の先で、部下は自らの腹に突き刺さる槍を左手で抱え込み、その柄を握るキ・ファ兵を引き寄せ、首を剣先で掻いた。
 吹き上がる鮮血に、二つの影は緩やかに倒れこむ。
 大地を叩く甲冑の音が夜風にのまれ消えた。
 唐突な変化だった。
 ふいに彼女はその身を包む覇気を解く。
 緩やな動きで剣を投げる。固い土の上に落ちた剣が、涼やかな音を点てた。
 冑を脱ぎ、それも無造作に投げ捨てた。零れ落ちた髪は月の光と同じ色をしていた。
 両手を頭の後で組むカルシュラートを見、それでも誰も動けなかった。
 縄をかけることも、討ち取ることも。
 凍てついた時がどれほど過ぎたのか。
 女は手を下ろす。言った。
「お見逃しくださるのですか?」
 流暢なキ・ファ語だった。
 その髪に差された簪が――白銀細工の花だった――月光に白く光った。

 幾度目かのため息に少年が給仕の手を止めた。
「お気に召しませんでしたか。別のものをご用意いたしましょうか」
「いや」
 だが、眠気が勝りつつある。
 二日の間、休むことなく駆けてきたのだ。腹もすいているが、それよりは体を休めたかった。
「何時(なんとき)か」
「日が昇りきるまで一刻ほど、でしょうか」
 日が昇ったら起こせ、それから食べる。
 言い置いてアルデシールは寝台に横になった。
 お着替えになりませぬと、と侍従は言う。
「寝台が砂だらけになります」
「明日片付けてくれ」
 急激に増す眠気の中、カルシュラートはどうしているかと思った。
 ティエル・カンに着いたときは、馬からも手を取って降ろしてやらねばならぬほど憔悴していた。
 そうか、彼女はさらに数日前から馬上にあったのだ、と気づく。
 それにしてもあの変わりようはどうしたことか。捕らえてすぐのあの鋭い口上は幻聴だったのではないかと思うくらい、彼女は「シェル・カン」以降おとなしくなってしまった。
 髪からこぼれた砂が枕に落ち、かすかな音を立てる。
 いや、……。
 あれは。
 取った手を思い出した。
 細く白い、長い指をしていた。
 さらに何かを考える。しかし目を閉じると同時に浅い眠りの中に、意識は溶けていった。