母后ファ・シィン―ランガの守護―

 エルディアの王位継承権は、王族の娘のみが所有する。
 王族の娘が生んだ子はたしかに王族の血を引くが、王族の男が王族でない娘に生ませた子に、王族の血が流れていることを証明するすべがないから、という理由だった。
 そのため、史書は王の名ではなく王妃の名を冠する。
 王はただ、エルディアル(王)とだけ呼ばれるのだ。
 たとえば、ルフィスイリアの母とその姉が夫とした王の史書は、姉である正妃の名をとって「ラ・エルディア史イルガ・ファムの書」と記されている。
 もっとも、この時代には、王の血を引く娘が王族の男に王位継承権を与える、という継承はとうに形骸化していた。実質は彼女たちが自らの意思で夫、引いては王となる者を選ぶのではない。多くの場合、父王と王族議会が選んだ王族の男子に王位継承権とともに与えられる。それが王位継承権を持つ王族の娘の在り方だった。
 だから、王位継承権を持つというよりは、王位継承権を与える権利を持つ、というほうが正しいのかもしれない。

 当時の正妃イルガ・ファムは、王に第一王位継承権を与えた王女であったが、病がちで王と公務を共にすることはなかった。子供もただ一人。それも王子である。
 本来であれば、正妃は次の第一王位継承権を持つ娘の母となることが望ましい。いや、より正しい血を後世に残すためには、それこそが必要であった。しかし、その望みは適わなかった。
 なぜならイルガ・ファムは、王子を産んで後、わずか十日で他界してしまったからである。享年二十二歳。いかに病弱とはいえ、早すぎる死であった。
 その死因は現在まで明らかでない。あまりにも当然の死であったために史書に記述されなかったのか、記述するのが憚られたのか、史書には珍しくその事由が、まったく記されていないのである。
 これは大変奇異である。が、しかし、イルガ・ファムには第一位王位継承権を有した以外に歴史的な価値は薄く、詳しく調べられることもないままに、時は過ぎてしまったのだ。
 今となっては、真実など調べようもない、というのが研究者たちの考えである。
 さて、正妃が娘を産まぬまま逝去するというのは、忌々しき事態であったが、これは時を経ず解決した。
 イルガ・ファムには母を同じくする妹があったからだ。
 その名をファ・シィン。
 女王ルフィスイリアの母后として知られる女性である。
 イルガ・ファム亡き後、王の政を助けたのは次妃ファ・シィンだった。
 政にも積極的に関与し、ラ・エルディアの屋台骨を支え続けた一人である。
 王には他に二人の妃がいたが、その名は残っていない。物語には第三妃はイルガ・ファム、ファ・シィンの従妹、先王の兄の娘として登場するが、まことである証拠がない。
 先王の兄であるとされる第三妃の父の存在が正史では確認されていないからだ。

 正妃イルガ・ファムの死後、王妃となったファ・シィンは、一年後王女を産む。
 王女の名は、ルフィシア・ダイス=エルディアナ=サキス。
 後にルフィスイリア救国王と呼ばれる若き女王のこれが誕生であった。
 サキス王女は王の第三王女として誕生したが、第一王位継承者でもあった。
 なぜなら、第三妃、第四妃の王位継承権はサキス王女の母、ファ・シィンの継承権より下位であるからだ。ファ・シィンの姉、イルガ・ファム亡き今、ファ・シィンの長女であるサキスこそが、次代の王を決定する権利を第一位に有していた。

 後に第二王都とよばれることになるシェル・カン宮が、南西の山岳地に築かれたころ、王は逝去した。王位について七年。三十五歳のいまだ若き王は、ある夏の晩、病に倒れそのまま息を引き取った。
 サキスはこのときまだ二歳。
 いかに王位を継ぐ者を決める権利を有するとはいっても、あまりにも幼すぎた。形式的な婚儀を整わせるにしても、二歳の幼女では難しい。
 そこで次妃ファ・シィンは、第三妃の長女である十五歳の第一王女を王族に嫁がせ、その者を王位につけることを王族議会に提案する。そしてその案は、大きな支持を得て可決された。
 ファ・シィンが垂簾政治をとるよりは、彼らの後に、より濃く王家の血を引くサキスの子を王位につけるほうがよいだろうと王族も議会も考えたのである。
 わずか一冊の史書を残すだけの王。それが二度、続くことを、このときはまだ、誰も予想しなかった。
 シャルハインの書、リセルターガの書。この二書を最後にラ・エルディアは滅亡する。
 そして、五代の史書に名を残すファ・シィン。
 彼女は王都を離れ、後に第二王都と呼ばれることとなるシェル・カン宮に、娘サキスとともに移り住んだのである。

「どうしてファ・シィンを、女王にしなかったのかしら」
「伝承があったのだよ」
「伝承?」
 温められたミルクをなみなみと注がれたカップを両手で持ったまま、フィル=シンは首を傾げた。
「そうだ。女王が立てば、国が滅びる、と」
「バカみたい。王女の血に頼る継承をしているのに。それくらいなら、全部女王にしてしまえばよかったのよ。それに、ファ・シィンが王位にあれば、ラ・エルディアは滅びなかったわ」
「そう、思うかい」
「ええ。ルフィスイリアの史書、二巻。母后ファ・シィンについて書かれた記述を見れば、明らかよ。彼女の政治的、外交的な業績が詳細に書かれてる。それだけじゃないの。事実をのみ記載する、それが原則の史書に、彼女を称えることばがあるのよ、それも一度ではなくね。もちろんこれ以前の史書に、王妃の業績が書かれていたものはないわ。それに、これはルフィスイリアの書。ファ・シィンの書ではないのに。よほどのことだと、おじいちゃんは思わない?」
「たしかに。ラ・エルディアの最後を記す四つの史書、そしてリ・エルディアの始祖ルフィスイリアの書。五代に渡って名を残すものは他にない。しかも、彼女は正妃ではない。だからこそ、彼女をそれまでの妃と同様に記述することは極めて難しい」
「そうね」
「他の王妃たちと異なり、彼女は政にも直に係わっていた。少なくとも王の死後、議会に案を提示できるだけの立場にいたことはたしかだ。それまで王妃は王権の象徴でしかなかったから、その点でも大きく異なるな」
「……王権の象徴」
「ファ・シィンは象徴ではなかった」
 その先を問うように首を傾げたフィル=シンに、老人は地図をとるように示した。
 机の上に広げられた地図は現在のものだが、フィル=シンの熱意が記されている。
 墨で、当時の地図に書き換えられているのだ。
 老人はその地図の一点を指し示した。そこにはランガの文字がある。
「妃になる以前、ファ・シィンは王都から東に二十日、今は遺跡さえも砂に埋まった都市、ランガ城塞の城主を務めていた。ランガのことはどのくらい知っている?」
「キ・ファ戦で破壊された最初の城。戦いはここから始まったこと、くらい」
 詰め込んだ知識の中からランガに係わる情報を引き出すように、しばし考え込んだフィル=シンは、自信がない様子でそれだけを答えた。
「ランガは東の壁を意味する言葉だ。そう。キ・ファの西進を阻む要であり、また前線でもあった。ゆえに、ランガの城主、といえば、それは通常武人なんだよ」

 ランガの城主。それは代々王家の男児が勤めてきた要職だった。
 エルディアの東方にあるキ・ファ国は、強大な軍事力で東の国々を一つに纏め上げた新興国である。東の統一がすむと、当然のように西進、つまりはエルディアに攻め寄せた。その始まりはラ・エルディア滅亡の40年ほど前になる。
 キ・ファ国の侵略を防ぐことが、ランガ城塞の主たる役目だ。
 先王、ファ・シィンの父も、即位以前はこの城を守る武人であった。
 父が王位に就くそのとき、母と姉は王宮に移ったが、ファ・シィンはただ一人、ランガに残る。
 なぜなら、そのときファ・シィンは「ランガの守護」と呼ばれる女将軍になっていたからだ。

「将軍? 王女が? どうして?」
「ファ・シィンには兄がただ一人いた。その兄が次のランガの城主だった。しかし」

 キ・ファとの小競り合いの繰り返しに油断があったのかもしれない。兄は兵を率いて城門を出、その直後飛来した矢に額を貫かれ、落馬した。
 出陣の見送りに出ていたファ・シィンの眼前でのことだった。
 あまりにも突然の出来事に動揺するランガの将兵の耳に低い地鳴りが聞こえた。彼方より迫りくる砂埃が何を意味するものか。それは陸津波のように押し寄せるキ・ファの大軍だった。
 城内に戻り篭城すべきか、このまま前進して敵を迎え撃つべきか。
 指揮官を失い及び腰になる将兵を押しのけて、ファ・シィンは兄のもとへと駆け寄った。
 事切れた兄の兜を脱がせ、自らそれを被る。握られたままの手を開かせ、その槍を取ると、衣の裾をはためかせ馬上の人となった。
 兜についていた兄の血がファ・シィンの白い額を斜めに伝い、首へと落ちてゆく。
 槍を右手に握りなおす。左手で手綱を取ると、馬のわき腹に華奢な靴のかかとを当てる。
 父が止める間もあらばこそ、ファ・シィンは鞍に腰を下ろすことさえせず、鐙に立ったまま、押し寄せる敵軍へと単騎駆け出していった。
 しばし呆然とその姿を見送った兄の近習たちが我に返り、ファ・シィンを引き戻すため、その後を追った。しかし、ファ・シィンの駆る馬との距離は見る間に開く。鎧を着けた騎士は重い。馬の能力が同じなら、ファ・シィンを乗せた馬がより早いのは当然だった。
 後ろを大きく引き離し、敵の只中に単騎飛び込んだ彼女は、一路敵将のもとへ突き進む。
 そして、敵将の首を持ち帰り、兄の墓前に供えたのである。
 もちろん、彼女が敵将を討ち取ったのではあるまい。おそらくは彼女に追いついた近習のうちの誰かが、彼女を救い出す過程において、偶然首級を挙げたのであろう。
 しかし、将官を亡くし動揺する軍を建て直し、勝利したことは事実。そのきっかけが彼女であったこともまた、事実。
 常にキ・ファ軍と刃を交えながらも、そのときそのときを凌ぐだけで手一杯だったエルディアの、初めての勝利とも言えるこの快挙に、ランガは沸いた。
 ファ・シィン十四歳の冬の日のことであった。
 その日から、ファ・シィンはランガの守護として、王妃になるその前日までのおよそ八年間、陣頭にあり続けたのだ。

「戦では将として陣頭にて指揮を、平時には外交官としてキ・ファの陣営まで単身赴き、また時にはキ・ファの将兵を一軍まとめて城内に招き、もてなす豪胆さを示した。彼女がランガの主となり、王妃となり、やがて第二王都へ身を引くまでの十年間、キ・ファとの間に戦端が開かれることはなかったのだよ。勇猛で聞こえたキ・ファの将兵にさえも、彼女は一目置かれていたということだろうな。彼女の白銀の槍とその柄に結ばれた赤い房を見るだけで、逃げだす敵兵もいたそうだ」
「知らなかった。史書には書かれてなかったもの」
「正史には残らないことも多い。膨大な過去を書き留めなくてはならぬで、少しでも減らせるなら減らしたいのが、史書官の本音だろうさ。ごらん」
 老人は苦笑交じりに教科書を差した。
「これの著者、ガル・ヴェスラムは史書六冊を十行足らずにまとめてしまった。あれもこれもと、書きたいだけ書いていったのでは、それこそ一生かかってしまう。なにせ史書といえば王の一生の記録なのだから」
 何事かを思い出したのか、祖父は喉の奥で小さく笑った。
「しかし思い切ったことをするものだな。かつてわたしが彼に編纂を頼んだときは、この十行を、五十四巻でまとめてきたというのに……単純に計算すれば採用された正史の九倍。全て任せたなら七三〇巻には上っただろう」
 一生の仕事だな。
 祖父は可笑しそうに声を震わせる。
「七三〇巻!?」
 フィル=シンの声が裏返る。
 正史に採用されなくてよかった、と瞬時に思う。
 もし、そんなものが正史に採用されていたなら、学ぶ苦労も九倍だ。いや、九乗かもしれない。
 フィル=シンの動揺には構わず、祖父は穏やかな表情で教科書を返す。
「そう。あれは、見事なものだったな。今でも史書館に保存されているはずだよ。機会があるなら読んでみるといい」
「……それじゃ、十行で、わかるはずないよね」
 それを補うのは教師の役目。授業では聞かなかったのかい。
 そう問いかける祖父のことばを、フィル=シンは訂正する。
「聞かなかった、じゃないわ。おじいちゃん。話さなかったのよ、先生が」
「フィル=シンが訊かなかったのだろう?」
 黙りこんだ孫娘の難しい表情に、老人はかすかに笑う。
「……次からは、ちゃんと訊くことにする」
「そう、おし。それで、ファ・シィンが王位に就かなかった理由はわかったかね」
「ええ。軍出身の彼女が垂簾政治を敷く、ひいては実質的な女王となることを議会は危ぶんだのでしょう」
「そのとおり。だから、ファ・シィンは辺境のシェル・カン宮へと移ることで、議会と新王に、先の懸念がないことを示したのだよ。ランガに戻ってもよかったのだろうが、古巣に戻せばそれもまた議会にとっては頭痛の種だからね」

 さて、と祖父は座りなおす。
「王女サキスはそのようにして生まれ、第二王都で育った。
 エルディアの八割を占める砂漠の中央、王都ティエル・カンから南へ五日、西へ四日。
 ガライダル高地の東端に築かれた白亜の都シェル・カン宮。そこが彼女の故郷であり、同時にすべてだった」
「第二王都……ガライダルの玉、シェル・カン」
 つぶやいたフィルの声に半眼を閉じた祖父は、遠い日に暗誦した文書の一説をうたった。

「エルディアには世界に名だたる二つの都。一つは金砂の王都ティエル・カン、二つは白亜の都シェル・カン。ガライダルに輝く玉石の城。見事なるかな、天上の宮」