天高く水清く(下)

 川べりにつく。そのまま水に入る。こんな季節だと言うのに水はやけに温く感じた。
 刀の刺さる胸元だけが耐え難く熱い。
 水を掻き分けながらわたしは祈った。

 神よ、仏よ。
 どうかこの刃を、川底に封じてください。
 竜宮まで流してくださっても構わない。
 ここから離れたどこか遠くへ。
 そう、わたしごと隠してください。
 できるだけ遠くへ。
 遠くへ。
 遠く。
 遠くはるかに……

 水面を透かして見える紅葉を見上げる。
 沈みゆく視界に紅が降りそそぐ。
 はるかに永久に懐かしい村は、姉はどうしているのだろう。
 できることなら、もう一度見たかった、会いたかった。

 気がつけば懐かしい景色をわたしは見ていた。
 わたしが村を出た日と変わらぬ姿があった。静かで穏やかで、貧しい里が。
 どうして、と呟くや否や。
 また派手な出で立ちで、との声に、わたしは背を振り返る。
 上の社の朱塗りの堂の前に、男が三人立っていた。
 武官装束に、直垂、山法師。
 どういう組み合わせだと眉がよる。時も所もまるで異なる三人だが、今様の装束でないことだけは通じていた。
「演目は何?」
 測りかね訊ねる武官が柔和な笑みを浮かべた。
「さて。なんとお答えしましょうか。その前に御名をお伺いしても?」
「吉野」
 わたしが答えると三人がぎょっとしたように半歩下がった。
 本当か、と直垂に震える声で問われ、わたしは再度眉をよせた。
「騙りとでも言うのか」
「まこと吉野と申されるか」
「ああ」
 わたしは名乗る。たった数度繰返しただけの口上を。
 それを聞き、武官が安堵の笑みを浮かべた。
「お役者……なのですね」
「ああ。そうか本当かってそういうことか。もとの名はかすけ」
 何と書く、と直垂が問う。わたしは頭を掻いた。いや、掻こうとしたのだが、指は結い髪に阻まれ届かなかった。
「さあ。そう呼ばれてた時分は字なんて知らなかったからなあ」
 首を傾げると両挿しがしゃらんとよい音を立てた。
 その段になってわたしは自分が赤姫の姿をしていることに気づく。
 次の舞台で着るはずの衣装だった。直垂の言葉ももっともだ。これはたしかに派手すぎる。
 思った瞬間、衣装は武家の娘のものになった。以前舞台で纏ったものだろうか。
 紅葉を散らした振袖には覚えがあった。
 なぜ、ここに。なぜ、いでたちが、と問いは落ち葉のようにかすかな音を伴って胸に積もる。
 これは夢なのかもしれない。故郷を懐かしむわたしの心が見せる夢。
 なんとありがたい夢なのか。
 幼いころから見上げ続けた桜を仰ぐ。はらはらと散る葉の穏やかな紅がわたしは好きだった。
 では、と武官がわたしと同じように桜を仰いだ。
「この降りゆく紅の葉にかけて、鹿介と」
 どこから取り出したのか武官は短冊にそれを記す。
「吉野とお呼びするべきでしょうか、我らにとって吉野はこの桜。失礼かとは存じますが、あなたのことは鹿介どのとお呼びいたします」
 なるほど、紅葉なら鹿、ということか。洒落がきいてら、とわたしは頷いた。
 吉野と呼ばれたことなど数えるほどしかなかった。鹿介でも吉野でも、好きに呼べばよい。気が向いたら返事をするだけだ。
「そりゃ構わないけど、で、あんたたちは何?」
 そのときだった。それまで黙っていた山法師が初めて口を開いた。
「鹿介。おまえ、伊造んとこの三男坊か」
「あれ、あんた父ちゃんの知り合い?」
 父を知る人に会うのも久々だった。
 声を弾ませたわたしに「これは」と武官が呟いた。

 ということは、奥方の弟御、とその声が続けられた。

 俺を弟とする人は三人いるが、そのうちで誰かの奥方になれるのはたった一人だ。

「姉ちゃん!? 姉ちゃんのこと、知ってんの? 奥方って、そんないいところに嫁に行けたの? どこだよ。近いの? 会いに行ける?」
 立て続けに問いを放ったわたしの肩を山法師が軽く叩いた。
「今こちらにいらっしゃる。そら」

 そしてわたしは山法師の指す先、社の廊下を渡る姉を見た。
「姉ちゃん?」
 静々と歩いていた姉がふと歩みを止めた。
 どうしたのとその隣に立つ若者が姉の視線の先、わたしを見た。
「……若さま」
 もう若さまと呼ぶのは相応しくない若さまがそこにいた。

 そうか、あの日見た夢は叶ったのだとわたしは知る。
 泣かないでと優しく姉の涙を拭う若さまにの襟元に姉が額を寄せた。
 あの子はあの桜が好きでした、と姉が言う。
「覚えているよ。よく遊びに来てくれた。おまえと一緒にね」
「もう二年も行方知れずだなんて……どこかで困ってはいないかと思うと」
 その言葉にわたしはわたしの身に起きたことを理解した。
 刹那、胸にはあのときの痛みが蘇る。目を胸元に落とせばそこには懐剣が突き立っている。じわりじわりと衣に赤い染みが広がってゆく。そして緩い水の流れを肌に覚えた。
 では、わたしの体はこの懐剣とともに、誰に見つかることもなく今も水の底にあるのだろう。
『……よかった』
 わたしの年季は当に明けている。わたしが姿を消しても誰が困ることもない。
 初めての大舞台、贔屓にしてくれた旦那たちに名残もなくはなかったが、何としてもとの執着は覚えなかった。
 兄はあの役に執心していたから、きっとわたしの空けてしまった穴も上手く埋めてくれただろう。娘は……あの日のことなど忘れて心穏やかに過ごしていてほしい。何が娘を追い詰めてしまったのか、詫びることさえできなかったけれど、わたしを許してくれているといい。
 若さまがわたしを指した。
「よかったと言っている」
 若様を見上げた姉が顔を白くする。
 ではあの子はもう、と震える細い声が一層沈んだ。
 若さまは姉の背にそっと手を添える。
「美しい姿をしているよ。紅葉を散らした振袖を着ている。娘方だったそうだから、きっと舞台の衣装だろうね。……でも胸のものは」
 若さまはそこで姉にはわからぬよう、苦しげな笑みをわたしに向けた。
「ないほうがよいよ」
 だが胸から引き抜いてしまったら、これは見つかってしまうのではないか。知らぬ間に二年が過ぎているようだが、それでも娘に詮議が及べば困ったことになる。兄と娘の関わりが知られれば、座も立ち行かなくなるだろう。
 刃を抱いて首を横に振ったわたしに若さまは諭すように仰った。
「おまえの願いは違えられたりはしないから、それは取っておしまい」
 若さまの口は動いてはいなかった。
 けれど聞こえた。
 ――その懐剣は鞘に返してあげなくてはね
 言葉に促され、わたしはおずおずと柄に手を触れる。それだけで刃も衿を汚す血の跡も苦痛さえもが消えうせた。
 手にはいつの間にか鞘に収められた懐剣がある。錦袋もあるとよいのにと思うと瞬く間に懐剣は袋の内に納まった。
 若さまに目を戻すと、若さまがそれでいいと言うようにゆっくりと頷いた。
 いつまでも捧げ持っているのも妙な按配だと思い、わたしはそれを帯に挟んだ。収まりは悪くない。
 それを見ていた直垂が『おまえなあ』と呟いた。
『いいじゃねえか、土産代わりにもらっておいたって。見ただろ、金漆のいい品だ。そこいらじゃ手にはいらねぇ』
 きっとあの娘の父母が大切な娘のために用意した心づくしの品だろう。
『かわいそうに。できれば返してやりたいけど……まあ、いまさら返されたって向こうだって困っちまうだろうしな。うん、やっぱりこれは俺がもらっておくさ』
 俺は懐剣をしまった帯をぽんと叩く。
『返すすべもないとは申せ……』
『土産……』
『……まあ、いい品ではあるがな』
 そのやりとりに若さまが再び苦笑したが、先ほど笑みのような翳りや痛みはそこにはなかった。
「かすけは……? 泣いては」
 わたしの様子を問う姉に、若さまがゆっくりと首を振る。
「笑っている。美しく強い子だ。この空のように明るく、水のように澄んでいる。きっと向こうでも可愛がられていたのだろうね。少し、おまえに似ているよ」
 さあ、と若さまは姉の肩に手を添えて姉をわたしに向き直らせた。
「やっと帰ってきたのだもの。お帰りといって迎えてやらなくては」
 口元を振るわせた姉は見えないわたしに、それでも微笑んでお帰りと言ってくれた。

 それから長い時が過ぎて、気がつけば四人だった仲間は七人に増えている。
 甥の子の子のそのまた子の子……いくつもの代を重ねて生まれた娘にわたしは姉の面影を見る。
 その娘を見送り、娘の子と出会う。
 小さな子供は姉に似て、若さまと同じくわたしの姿を目に映す。
 かすけさん、とわたしを呼ぶ声に果てることないこの日々の温もりを思う。
 水底で今も眠るわたしの体にも、この温かな日差しが届くといい。

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