売られたのは八つのときだ。
手を合わせる二親の向こうで、六つ年上の姉が青い顔をしてわたしを見ていた。
父が売ろうとしたのは姉だった。
だがわたしが止めた。
先年生まれたばかりの弟の面倒は誰が見るのだ、と。
母は産後の肥立ちが悪く、床についていた。ゆっくりと母が死へと向かっていることは、幼いわたしにもわかった。
そんな母に代る、姉はこの家のただ一人の女手だったのだ。
それでもいずれ働き手となる男手を減らしたくない父の思いもわからなくはなかった。もう三年もすれば、わたしも兄たちのように働けるようになる。その三年が過ぎるころには余所へ嫁いでしまう姉よりも、手元に置きたいだろうことは肌で感じていた。
「こんなところにいても、一生泥まみれになって暮らすだけだ。それなら俺は買われてでもここを出たい。それに姉ちゃんよりも、俺のほうが器量よしだ。人買いも高く買ってくれる。そしたら母ちゃんの薬だって買えるじゃねぇか」
勝手にしろと父は怒鳴ったが、それで納得したようだった。
親として一応は止めた。だが食いつなぐためには、これも仕方のないことだ、と。
わたしの上には兄が二人もいた。弟も生まれた。大切な男手とはいえ、一人くらいは手放しても支障なかろうという父の算段が、苦痛の表情のうちにも覗えた。
それを責める気はない。
どちらかといえば、父が納得してくれたことにほっとしていたくらいだ。
そして形だけでもわたしを惜しんでくれたことが嬉しかった。
なによりこれで少なくとも数年の内に姉が売られることはない。
そしてその数年が過ぎれば、姉は無事、誰かの妻女になるはずだ。
――それが上の社の若様だったらいいのだけれど。
若様はいい人だ。いつも朗らかで、ひもじいときもその笑顔を見ているだけで腹が一杯になるような、そういう人だった。
その上ちょこちょことおさがりも下さった。
これをお持ちとはにかんだように微笑んで、わたしや姉に食べ物を分けてくれるのだ。
そのほんの少しばかりの食べ物が、昨年の冬、わたしたちを救った。
隣家では冬を越せずに二人が死んだ。それで口が減ったのだから暮らしは楽にもなりそうなものだが、どうしてか変わらない。そういう里だった。
そうだ、売れる者が生きて在ることは幸いなのだ。
――ああ、本当に若様が、姉を妻女にしてくれたなら
そんな夢を頭から信じるほどわたしも愚かではなかったが、そうなればいいと願うくらいには幼かった。
別れ際、笑って手を振ると家族の中で、姉だけが泣いてくれた。
もうその涙を拭ってはやれないことだけが心残りではあったけれど、きっと若様が慰めてくれる。
継ぎのあたった姉の小袖に色づいた桜の葉が紅を散らしている。まるでお武家の姫さまの着物のように見えた。
めずらしいなと男は言った。
「泣かないのか」
問われてわたしは笑ってしまった。
「泣いたら帰してくれるのかい」
「いいや」
「それじゃ泣くだけ勿体ねぇや。咽喉も渇くし、腹も減る。それよりいちいち買った子の機嫌なんか伺ってたら、おっちゃん、胃の府に穴があいちまうぜ」
わたしが言うと、男は目を丸くした。
「俺の胃の府まで心配しやがるとは、大した小僧だ。おまえ、俺が怖くねぇのか」
「知らねぇ。まだ会って一日も過ぎちゃいねぇのに、怖いも怖くねえもわかるもんか」
怖いとは思わなかった。わたしを買ってくれた、そのことでは感謝さえしていた。
その金で、家族は細々と三年は暮らしてゆける。それだけの時があれば、姉が売られることはない。
思えば随分な大枚を、小汚い子供に叩いてくれたものだと思う。
それに実のところ一番恐れていた事態はすでに起こらなかった。「そっちの娘のほうがいい」などと姉を指されたらどうしようかと思っていたのだから。
「なんだい、余所の子はおっちゃんを怖がって泣くのか?」
泣くヤツは多いな、と男は言う。
「泣かなくても浮かねえ顔をしてるやつはもっと多いんだろ? おっちゃんも気苦労が絶えねえだろうなあ」
男はとうとう笑い出した。
変わったヤツだ、と俺の頭を撫でる。
そして家族と離れることは悲しくないのかと問うた。
「そりゃ、寂しいさ。でも……死ぬよりはずっとマシだからな。生きてりゃ、また会えるかもしれねえし」
そう言った刹那、もう二度と会えないかもしれないことに気づき、不意に涙がこみ上げた。
男がわたしから顔を逸らす。わたしは涙をこぼさぬよう、空を見る。明るい日差しと、炎のような紅の葉が滲む視界にも鮮やかに映る。冷たく乾いた風が目の熱を冷まし、潤みを拭い去る。
「心配すんなよ、おっちゃん。俺は泣かねぇ。命の恩人の胃に穴なんかあけてたまるか」
恩人、と男が呆れたように呟いた。
「そうさ。あんたが払ってくれた金がみんなを生かしてくれる。俺もだ。金がなければ今度の春には誰かがいない。それが俺じゃねえって請け負っちゃくれねえもんな。神さまも」
冬を越え、訪れた春に雪解けの水を啜って命をつなぎ、汗を流して働いて秋を迎えても、得られる実りは少ない。
巡る季節を辛うじて生き延びて大人になったところで、父と同じ貧しい百姓になるしかない。
子を売って食いつなぐ。そんな日々に明け暮れるだけだ。
色づいた枝の隙間に見える空は遠い。
「売られりゃ、少なくとも飯には困らねえ。それだけでも儲けもんだ」
振り返れば泣きそうになる道も、先を見て歩く分には悪くないと思った。
食うか、と唐突に差しだされたものが何だかわからず、わたしは男の顔を見上げた。
「飴だ。旨いぞ」
わたしが知る飴とは違うそれを手にとった。紅と淡青が千代結びにされている。食べ物というよりは飾り物のようだった。
「これ、おっちゃんが食うために持ってんのか」
「いや」
「ふぅん」
父が好きで子を売ったのではないように、あの男も好きで子を商っているのではなかったのだろう。
家を恋しがる子を慰めるためのものに違いない。
わたしは飽くまで飴を眺めて楽しみ、口に入れた。甘い。
「まあ、俺がおっちゃんにせがむならできるだけいいところに売ってくれってことだなあ。贅沢はいわねぇけどさ」
贅沢など言えるはずもなかった。わたしは田畑を耕すことしか知らぬ、それでいて耕すには力の足りぬ子供だったのだから。
「何ができる」
訪ねられ、即答した。
「なんもできねぇ。だからなんでもやる。やれるようになってみせる」
「まだ童っぱのくせに度胸がある、おまけに器量も上々だ」
男は笑い、もう一度わたしの頭を撫でた。
「その覚悟なら大丈夫だ。きっとおまえは大物になる」
売られた先は芝居小屋だった。
「いい役者になるだろうよ」
まあ、とりあえずいろいろあった。嫌なことも好いこともだ。
だがそんなことは些細なことだ。
あれこれと稽古を積むうちに、舞台子になって何度かは名のある役ももらった。
ご贔屓も少しずつではあるけれど増えてきた。
もしかしたらいつかはと思い始めた、それは矢先のことだった。
己の胸に突き立つ懐剣を、どうしたものかとわたしは思案した。
通りを吹き抜けてゆく乾いた風が紅葉を舞い上げる。
目の前に立つのは若い娘だった。
一目で武家の娘だとわかるその娘は、自分が刺されたかのように青くなっていた。
自分の手を濡らすわたしの血に怯え震えているのには哀れさえ覚えた。
娘は兄の熱心な贔屓だった。
何度か見かけたことがある。
その娘がなにゆえわたしを刺したのか、朦朧とする頭で考えたがわからなかった。
まあ、わたしにわからなくとも、娘にはわたしを刺すだけの理由があったのだろう。
こんなことに及ぶわけなら、相当のものだ。なにかきっとこの娘を深く傷つけるようなことを、わたしは知らぬうちにしてしまったに違いない。
この期に及んでまだそのわけに思い当たらないことが申し訳なかった。
涙に濡れる青ざめた顔に、随分昔に分かれたっきりの姉をふと思い出す。
あらためてこんなふうに思い出したのは初めてかもしれない。
紅葉の散る娘の振袖に、別れた日の姉が一層懐かしく思い出された。
姉はあのとき十四だった。目の前の娘も同じくらいか。
泣いて震えている娘のために懐紙を出してやりたかったが、襟は懐剣に刺し止められている。
しかたなく娘の手を取り、汚れた手を袖で拭いてやった。涙は申し訳ないが拭ってはやれない。万が一にも血が付きでもしたらかえって大変なことになる。
姉に似た娘を殺しの下手人にしたくはない。
わたしは娘の手に残る懐剣の鞘をもぎ取り、人の少ない通りを選んで川へと向かった。