鬼喰 ― たまはみ ―

第一話 邂逅 二

 この世のものとは思えない――事実、この世のものではないのだが――光景をこの目で見続けてきたわたしは、多少のことなら黙殺できるようになっていた。 しかし、それはわたしの長年にわたる修業の成果を無に帰するほど衝撃的な光景だったのだ。

 切迫したわたしの声に少年がふり返る。
 左手で口元を覆ったわたしはすでに左足を後ろに退いて、いつでも逃げ出せる体勢をとっていた。 とっていながら逃げなかったのは勇気ではない。恐怖で硬直し、それ以上、体が動かなかったのである。

 なんだ、この人は。
 声にならない彼のことばが聞こえるような表情。しかし、わたしは彼ではない別のものに視線を奪われていた。
 蒼白になっているわたしの顔を見て、彼は眉を寄せた。
「あんた、もしかして」
「ひっ」
 近づく少年からわたしは飛び離れた。いや、少年からではなく、彼に付随しているものからだ。
「見えるのか。何か、見えてるんだろ? あんた」
「見、見えっ、見えてるけど、君、何、何者? へ、へい、平気なのか、それ?」
「平気って何が? 何が見えてるんだ。何が起こってる?」
「な、なななな、何がって」
「教えてくれ。何が起きてるんだ」
 ずいと歩み寄られ、両腕を強くつかまれた。
「ぎっ」
 ぎゃああ、と悲鳴をあげることはできなかった。

 なぜならわたしはそのまま失神してしまったので。

「おいっ、おい、あんた」
 少年の慌てふためく声がかすかに聞こえた。……ような気がする。

 目を開けると、見慣れた天井が見えた。神主さんの家のわたしの部屋である。寝巻きにも着替えず寝ていたようだ。随分、恐ろしい夢を見た。やはりごろ寝は良くないらしい。
 身を起こすと、傍らにいた人が振り返り、にっこりと笑った。
「あら、お気づきになりました?」
 神主さんのお嬢さんである。お嬢さんという響きの似合うきれいな人だ。しかし、わたしには彼女がどのようにきれいか、表現する能力がない。特徴を列記すると、年齢は22歳で、この春大学を卒業する。身長はわたしの肩あたりなのでおそらく160センチを少し超えるくらいで、体重は……持ったことがないので分からない。雰囲気としてはかなり華奢な印象である。長い黒髪と、やや薄い茶色の瞳をしている。料理が上手で、とくに煮物、揚げ物は絶品。名前は彩花と書いて「さやか」と読む。巫女さんであり、この家の唯一の女手である。そう、彼女の母であり神主さんの奥さんである女性は、わたしがここへ来る以前に亡くなっていた。
「お加減はいかがですか?」
 もう十年以上を、家族のように暮らしているのに、彼女はわたしに敬語を使う。もっとも彼女は父親を含め誰に対しても敬語で話すのでわたしだけが特別ではない。それでも十年前はわたしを兄さんと呼び、少々煩いくらい人懐こい少女だった。いつの間に、こんな清楚なお嬢さんになったのだろう。寂しいような、懐かしいような思いで彼女をぼんやりと眺めていると、お嬢さんは首を傾げた。
「覚えていらっしゃいません? 和さん、神社で」
「ああ!!」
 神社、のことばでフラッシュバックする。奇怪な出来事。恐怖の体験。
 血の気が引く、その様子が自分でもよく分かる。体温が1,2度急降下したような悪寒と、眩暈。夢ではなかったのだ。
「思い出されました?」
「あっ、あの子、あの男の子! そう、それで、彼は」
「はい、お待ちです。父も」
「ここにいるんですか!?」
 張り付いてひっくり返ったわたしの声は、悲鳴のようだった。彩花さんが不思議そうに首を傾げた。
「ええ。さきほどからずっと。お帰りが遅いので、私、お迎えに参りましたの、神社まで。あの方が、ここまで和さんを運んでくださいましたのよ。和さん、背が高くていらっしゃるから、ちょっと大変そうでしたわ。よくお礼してさしあげてくださいね」
「運んで……」
 ということは、彼はわたしに触れっぱなしだったのだ。
 鮮明によみがえった記憶に、吐き気がこみ上げる。
「和さん?」
 怪訝な顔で彩花さんがわたしを覗き込んだ。
「いや、大丈夫です」
 なんとか吐き気を飲み下し、わたしは顔を上げた。
「ええっと、お待ちなんですよね、その人?」
「ええ」
「会わなきゃ、いけませんかね」
「会っていただけませんか? 父は和さんに会っていただきたい様子でしたわ」
「あ、そうですか」
 会わないわけにはいかないらしい。
 神主さんが求める以上、それに従うより他はない。 なぜなら雇用関係は先月末で終了したが、わたしはいまだこの家の居候で、職を失ったうえは穀潰しの汚名も添加されようとしているのだから。
 ため息を一つ。
 覚悟を決めると、ふとんから出る。
「じゃ、ちょっとだけ、お会いしてきます」
 ちょっとだけ、を強調する。ふらふらと立ち上がりふとんをたたもうとすると、彩花さんがわたしの手を止めた。
「もう三時間もお待ちなのです。ここは私が」
「三時間も」
 待ってなくていいのに・・・・・・。
「ええ、ですから、お急ぎになってください」
 彩花さんにすみません、と頭をさげ、わたしは重い脚を引きずるようにして、まったく急がずに客間に向かった。

 障子の外からわたしが声をかけると、神主さんの返事があった。どうぞ、という声に覚悟を決めて障子を開ける。
「失礼します」
 言ったものの、入る気がしない。それどころか、顔を上げたくない。上げればアレが見えるかもしれない。
「こちらへ」
 神主さんからそう言われ、しかたなくわたしは顔を上げ、少年のほうを見ないようにして入室した。
「志野(ゆきや)くん、ご紹介しましょう。 さきほどもお会いされたようですが、こちらはうちの祝(はふり)で、仰木和(おうぎ あい)と申します。 和さん、こちらはわたしの遠縁、叔母の嫁ぎ先、旦那さんの妹さんのご長男のご子息で、二村志野くんです」
 かなりの遠縁だ。はっきり言って他人じゃないか、と、わたしは思った。
 まだ少年のほうを見ることができないわたしに、神主さんが苦笑する。
「これはまた随分なものをみたようですね」
「ええ、まあ、その・・・・・・はい」
「志野くん、和さんは見鬼、簡単に申し上げるなら霊感をもつ方です。和さん、どんなものだったか、話していただけませんか」
「え。……それは」
 上手く話す自信がない。なぜならそれはわたしもはじめて見るものだったから。
「実は志野君のお母さんに頼まれましてね。彼のまわりで不可解な出来事が起こるそうなんです。あなたが見たものに関係があるかもしれない」
「そのぅ、関係は……ええっと、その道のプロの方にご相談は?」
「した」
 不機嫌そうな少年、志野くんの声に、わたしはおそるおそるそちらを見た。顔も見ずに話ができるほどわたしは無礼ではない。 いっそそれくらい不躾な態度がとれる人間だったら、と泣きたい思いだった。
 幸いアレはもういなかった。いないということは、と考え始めて、わたしは無理やり思考を打ち切る。嫌だ、そんなの。気持ち悪すぎる。
「あ、されたんですか」
「十四軒、廻った」
「それで、……何て?」
「わかったら、ここへは来ていない」
「はは。そうですね……」
「まあまあ、二人ともとにかく落ち付いて話をしましょう」
 十以上も歳の離れた子供に怯えながら話をするわたしの様子を見ていた神主さんが助け舟を出してくれた。
「和さんはそんなに怯えない。そんな態度で接せられたら、誰でも気分は良くないですよ。志野君はそう刺々しい態度をとらない。いいですね」
「はあ」
「……」
「それで、和さん、何をご覧になったんですか」
 重い口を開いたわたしは、見たままを語った。信じてもらえないかもしれない、と思いながら。わたしも、あれが現実だと信じたくなかった。

 志野くんが、看板に歩み寄る。そこにはあまり人相のよくない男がいた。男は影なしだった。一目で生きている人間に害意を持つ者だとわかった。それなのにわたしが志野くんを止めなかったのには理由がある。彼らは彼らの存在を感知しないものに対して何かをなすことはできないからだ。平然と看板に近づく志野くんにはこれっぽちの霊感もないように感じられた。ほんの少しでもそれを感じるものなら、近づくことをためらう空気をそれは発していたからだ。なにも感じないということは、かえって安全だった。
 こう考えてもらえるとわかりやすいかもしれない。
 馬の耳に念仏。
 徹底した無視、意識的にではないにせよ、認識しない者にとって彼らは存在しない。存在しないものが悪さを働くことはできない。 同様に善意の忠告も聞こえないが。
 そして志野くんは看板にさらに近づく。看板との距離があと三歩のところでそれは起こった。
 目付きの悪い男が、突如志野くんに覆い被さったかのように、初めは見えた。 まずい、と思い身構えたが、この時点ではまだ平静を装うことが可能だった。
 が。次の一瞬には。
 男は志野くんに喰われていた。
 喰う、としか表現の仕様がない光景だった。ずるり、ずるりと男は啜られるように、少年の体に引きずり込まれてゆく。初めは右腕、そして右足、左足、腰、胸。
 男は志野くんの体内にゆっくりと、しかし抗うことを許さぬように喰われていった。
 苦痛を伴うのだろうか。それとも死した身にもそれは恐怖だったのだろうか。男の断末魔の叫びがわたしの耳を打った。
 男はもがき、わたしに助けを求めながら、凄まじい形相で左手を伸ばした。伸びた腕は生きている人間が最大限伸ばす三倍は長かった。
 飛び離れようとするわたしを志野くんの手が捉える。逃げようのなくなったわたしに、男の手が迫る。すでに男は左腕のみを残して志野くんに喰われていた。志野くんの肩から生えている男の手がわたしの首に触れた。悲鳴さえ上げそこなったわたしは失神した。

「と、いうことで……」
 話し終えたわたしを志野くんがじっと見つめる。表情はない。途方にくれているようにも、無関心にも見える。彼の真っ直ぐな視線に晒されていることに苦痛を感じ、わたしは視線を畳に落とした。
「それは、ジキレイかもしれませんねえ」
 話を聞き終えた神主さんのことばに志野くんとわたしは一瞬互いを見つめあい、同時に視線を転じて神主さんを見た。
 神主さんはお茶をすすった。お茶はわたしが部屋に入る以前から出されていたものだ。すっかり冷たくなっている。普段の神主さんであれば、そのようなものに口をつけない。のんびりとした口調だが、それなりに動揺しているらしい。
「ジキレイ、ですか?」
 わたしの問いかけに神主さんはゆっくりと頷いた。
「霊を食うと書いて、食霊。わたしの祖母は『たまはみ』と言っていましたがね」
 たまはみ、はこう書きます、と手元のメモに記す。
 鬼喰、とあった。
「魂魄や霊、物の怪を総括して鬼と呼びます。それら鬼を喰うので、鬼喰」
 非常にめずらしい力ですねえ、ともう一度神主さんはお茶をすすった。
「彩花さん、お茶をいただけませんか」
 ようやくお茶の冷たさに気付いたように神主さんは彩花さんに言う。足音がして、彩花さんの影が障子に映った。凛とした、それでいて優しい声で失礼します、と挨拶し彼女は障子をあけた。
「お父さん、お茶もよろしいですけれど、そろそろお食事になさいませんか。もう七時です」
「おや、もうそんな時間ですか。それじゃあ、ひとまず食事にしましょうか」
 神主さんはゆっくりと立ち上がる。いつも感心するのは、何時間正座していようと彼の足はしびれを知らないことだ。
 わたしは二時間が限度で、三時間座っていると立てない。 今なら普通に立ち上がることができると思いつつ、三時間以上正座していた志野くんを何気なく見ると、立ち上がろうとした彼が後ろにころりんと転がるところだった。

「あの、志野くん」
 食堂に向かう途中、恐る恐る声をかけると彼はふり返った。
「お世話をかけたようで。ありがとう。運んでくれて」
「別に」
 ふい、と彼は顔をそむける。
 困惑のまま立ち止まり、彼の背中を見送ったわたしに、彩さんが囁いた。
「和さん、志野さんね、倒れている和さんの傍で、泣きそうな顔でしゃがみこんでいらしたの。私が和さんの知り合いだと知って、本当に安心したご様子でしたわ」
「ふうん。そうですか」
「そうですの」
 彩花さんがくすくすと笑った。その声が志野くんに聞こえたのだろう。神主さんに続いて縁を歩いている彼が、わたしたちをちらりと振り返った。わたしは何か言うかと思ったのだが、彼は例によって無関心な素振りで視線を戻した。
 倒れたわたしなど救急車を呼ぶなりして放っておいて、神主さんの家を探すこともできただろうにと考えると、誰かが通りかかるまでじっと付添っていたという子供っぽさが、わたしのなかの彼の印象を塗り替えた。
 出会いが出会いだっただけに、恐怖心は拭いようがなかったが、少なくとも嫌悪感は克服できそうだった。