50000HIT感謝企画
鬼喰番外編

星宿す花

 どう思う、この人、と凄まじい剣幕で尋ねられ、仰木さんは困ったように笑う。
 その剣幕や、煩く鳴いていた蝉がぴたりと口を閉じ、まどろんでいたソメ――我が家の飼い猫である――が飛び起きて駆けさる勢いだった。
 ちなみに訊ねられているこの人とは眼前に座る俺のことで、尋ねている人物の兄である。
 夕涼みを兼ねての定例へぼ将棋会に突然わいた我が家の台風。
 涼子というが、クールではない。年がら年中、真夏のような人間だ。厳しい日差し、そして次々と襲い来るタイフーン。よく笑い、よく怒り、よく泣き、何もかもを楽しんでいる。
 おそらくお袋の腹の中で、こいつが俺の分のホットでウェットな性分を尽く吸い取っていったのだ。
「ははは」
 笑うだけで答えないところが、大人と言うか姑息と言うか、まあ、仰木さんのいいところではないだろうか。
 答えない仰木さんに代わって、俺は言う。
「正直な感想をと求められ、俺は誠意をもってそれに答えました。どう考えたって夢見がちです。恋を儚んで自害したってよりは、手篭めにされて自害したほうが、まだ信憑性があります。そういうことで、はい返却」
「手篭めとか言うしーっ」
 女の子の前でよくそんなことばが言えるわね、デリカシーの欠片もないじゃない、そんなだから彼女の一人もできないのよ。それともあんた、出家でもしちゃったの。久々に帰ってきたのよ、女の一人でもいるかと思いきや、なによ、その格好! 甚平だか作務衣だか知らないけど! くたびれた爺さんみたいに、毎日毎日縁側で将棋なんて、枯れきってるとしか思えないわ。いいえ、枯れてんじゃなくて、干上がってんのよ。干されてんのよ。それでいいのーっ。
 立て板に水もかくやの勢いで滑らかに襲い来る、微妙に真実を混じえた暴言の数々。いったい息継ぎはどのタイミングでなされたのか。受けとる気配のないそれを、俺は縁側に置き、かわりに団扇を取った。
 団扇といえば描かれているのは朝顔や桔梗がおおいが、それには蝦夷菊が描かれている。たしか小学生だった頃、夏休みの工作で作ったものだ。以来かれこれ十年を愛用している。
 熱気を仰いで払いながら暴言をよく吟味する。
 ……俺はともかく、仰木さんにも失礼ではないだろうか。
 将棋の相手はこの人なんだし、格好だって似たり寄ったりなのだから。
 思いつつちらりと仰木さんを見る。しかし気を悪くした様子もなく、仰木さんはにこにこと笑って暴言を吐いた人物を見ていた。
 無理をしているようにも見えない。
 なるほど、これが大人の余裕か。
 俺はそれを見習って、静かに穏やかに、その頭をよしよしと撫でる。
「双子の妹を女に数えるほど兄ちゃんは野獣じゃありません。ところで、お涼、前に言ってたとっても優しいナンタラ君は今もお元気?」
 ムカツクーっ、と、全身全霊をこめてのありがたいおことばが右耳から左耳へと突き抜けてゆく。抜けた先にあるうちで、一瞬電気が揺らめいたのは偶然だろう。
「信じらんないっ」
 プンプンと音がするような様子で室内に戻る妹を見て、仰木さんが言った。
「あいかわらず……元気ですね」
「おかげさまで」
 元気、と言う前におそらく選んだ言葉は「騒がしい」とか「喧しい」とか「けたたましい」の類いだと思う。
 そこは礼儀として追求しないことにして、俺は止まっていた将棋の駒をぱちんと進めた。
「涼子さん、いつまでこっちに?」
 仰木さんは案の定、銀で玉を守りに入った。
「九月半ばまで休みだって言ってましたから。ぎりぎりまでこっちにいるんじゃないでしょうか。あと三週間か」
「賑やかでいいですね」
「賑やかですけど、いいかどうかは」
 俺は角を移動させる。
「でも、涼子さんが戻って、小田島のおばあさんもお元気になられました」
 小田島のおばあさん、というのは俺の祖母だ。
 この界隈はおじいさんおばあさんが多いので、どこそこの、と言わないと誰のことだかわからなくなる。
「ええ、祖母は喜んでますよ」
「だけじゃないでしょう」
 攻防を繰返す。互いに決定打に欠けていた。
 毎度おなじみの、へぼ将棋千日手への道が描かれてゆく。
「……ま、いるといないでは大違いではありますが」
 金に槍をぶつける。金か銀かでそれを取るはずだ。そうしたら、その駒を馬で、との考えは、そこで打ち切られた。
「はい、つんだ」
「え?」
 見る。
 ……
 これをこうして、こうして、こうするとこうだから、これはやめて。これをこうしてこうすると、これもだめだからこれもやめて。これはこうしてこうしてこうすると、こうなってこうなるから。
「あらー、だめじゃん」
「はい」
「いつの間に」
「静(せい)くんがそれを読んでいるときに」
 指差したのは涼子の書いた小説モドキだ。タイトルは「山吹」 咲くだけ咲いて実らない山吹のような儚い願いを書いた、と言っていた。とすればこの山吹は「八重山吹」のはずだが、作中の描写は一重だった。これも指摘すべきだったかもしれない。
「お互い五手ほど打ったでしょう」
「ええ」
 それからしばらく読むほうを俺は優先したのだ。
 仰木さんはそのあたり、極めておおらかに対応してくれる。読んでいる俺の横に座る涼子となにやら世間話をしながら、読み終わるまでの数十分を待っていてくれたのである。
 その時間を、仰木さんは正確に遡る。いつものことながら、見事な記憶力だ。
 実は俺につきあって、ヘボ棋士でいてくれるのではないかと思うこともある。
 盤はみるみるその瞬間にまで戻っていった。
「ここに在ったこれを返して」
 と、飛車が竜に変わる。
「それから、静くんがこう。で」
 竜をナナメに一つ滑らせた。
「ここに」
「……」
 気付かなかった俺の失点というよりは、気付かせなかった仰木さんの得点だろう。
「参りました」

 仰木さんは俺より一回り年長の友人で、お向かいの居候だ。
 居候と言えど、十五年も居続けているのだから侮れない。
 しかも家主はあのおじさんなのだ。
 その快挙に俺はひそかに感心している。

 へぼ将棋にも勝負がついて、俺は盤を片付けた。片付けるといっても、縁側の隅に押しやるだけだ。どうせ明日も使うのだ。
 それを見計らって、祖母がビールと枝豆を運んでくれる。
 一昨年までは麦茶と枝豆だった。
 いつもありがとうございます、と笑う仰木さんが、祖母の目には死んだじいちゃんに似て映っているらしい。……結婚して三日、出征したきり帰らなかったじいちゃんは俺にとって写真だけの人だ。
 仏間に掲げられた――老いた祖母が見上げるにはあまりにも若い――その写真には、目元のやさしい青年が映っている。
「いえいえ。この家は人が少ないでしょう。お客さまが多いと賑やかで、わたしも楽しいんですよ」
 俺や涼子の両親は十八年前に事故で他界している。
 他県の大学に進学した涼子は、長期の休みにしか帰ってこない。
 畢竟、二年と四ヶ月前から、この家は俺と祖母との二人暮しだ。それが祖母には寂しいらしい。
 近所つき合いがマメなこの町内において、俺はたまらないほどの寂しさ覚えることもない。それでもあの台風が欠けた家はなんとも静かで……馴染みのない空間になってしまった。
「おばあちゃーん。これ、いつまで煮ればいいの」
「あら、ま。大変。ちょっと失礼しますね」
 涼子の声に、よっこらせと掛け声をかけて立ち上がったばあちゃんは、そそそと畳みの上をすべるように歩いてゆく。

 読ませていただいてもよろしいですか、と仰木さんが涼子の小説モドキに手を伸ばす。
「置いていったんだから、いいんでしょう。どうぞ」
 ビールと枝豆を一緒に勧める。素面で読むにはこっぱずかしい恋愛小説だ。歯が浮く程度ならまだいいが、脳まで溶かす激甘ロマンス。とろけた脳は、いまだ心地よく波打っている。
 正直なところ、着眼点は悪くない、と思った。話としては面白かった。
 だが、妹よ。兄ちゃんはその時代の勉強を、専門にしているのだ。
「静くん、この十市皇女というのは」
「六百年代後半の人です。天武天皇の長女で、天智天皇の長男大友皇子の嫁さん。母親は額田王。ご存じでしょう、野守は見ずや、の」
 ああ、と仰木さんは頷いた。
「弟の恋人を、自分の後宮に入れちゃったあの話ですね」
 ちょっと違うが、ほぼ正解だ。
 ふむふむ、と序章を読み進め、数奇な運命を辿った人なんですねぇ、と呑気な言葉を漏らした。
「母が父の兄に嫁ぎ、その際、母とともに彼女は伯父であり義理の父でもある男のもとへ。さらにはその息子と政略結婚。まあ、このことは当時としてはそれほど悲観するものでもありません」
 俺が簡単に人物の関係を説明すると、仰木さんは再度頷く。
「ところが義父の死後、夫と実父の間に戦乱が起きてしまった」
「ええ、それが壬申の乱です」
 なつかしい単語だと仰木さんは笑った。
「夫は敗死。彼女は実父の元に引き取られた。その後、異母弟、高市皇子と恋をする、という流れで、涼子さんは書いてるんですね?」
「ええ。でも、これは実るはずがありません。彼女の夫を討ち取った軍を率いていたのが彼なんですから。政治的な理由からも、認められるとは考え難いです」
 それは確かに難しいですよねぇ、と仰木さんは実に現実的な反応を返し、それから十市皇女が自害する前後をざっと流し読んで言う。
「だからこそ先を悲観して、というのは、ない話ではないと思いますよ。巫女として斎宮に籠められてしまえば、それは適わないわけですから」
 以外にもロマンチックな感想だ。俺は枝豆を口に運びつつ説明した。
「悲観して、は、考えられなくもありませんがね。何を悲観してかは、わかんないですよ」
 仰木さんは、ははあ、と、頷く。
「戦の後、彼女は父、天武天皇の元に引き取られます。その即位七年、父は倉梯川上流に設けた斎宮への行幸に発つ。まず倉梯ですが、これは現在の奈良県高市郡あたりです。この時代の皇子皇女の命名方法からして、これは高市皇子の里でしょう。同様に十市皇女は十市県主に養育されていると考えられています。場所は現在の奈良県橿原市十市町。高市郡からわずかに北に二里。およそ八キロ。隣り、と言って差し支えないです」
 二人が幼馴染である可能性は否定できない。
 年を経るごとに、親しみが恋へと変わる、それもまあ、ありうることだ。
「当時は異母姉妹は婚姻相手になりえますしね」
「はい。さて、その十市県ですがここは物部氏が天皇に献上した土地です。物部氏といえば軍事・刑罰を司る一族として知られていますが、他に神事とも深い関わりを持っていました」
「ああ、言われてみれば、たしかに『モノのベ』ですよね」
 仰木さんが感慨深げに頷いた。
 モノとは物の怪の「モノ」で、「畏れ多いもの」を指すことばだ、と以前涼子がいっていた。とすれば、もののべとはそれらを悼み、慰め、鎮める務めに従事する一族とも考えられる。
 死者の魂を鎮めることからはじまり、やがては死を与える役目を兼ねるようになっていったのかもしれない。
 俺は軽く頷いて先を続ける。
「この行幸は天武天皇の治世が磐石であることを願って行なわれるものだった。となれば倉梯から祈りを捧げるさきは」
「三輪山。オオモノヌシ、王権を守護する神の坐す山ですね」
 そういえば、このひとは神社の人だった、と思い出す。結局モグリのままに神社はなくなってしまったが。
「そう。ですから涼子の書いているように、縁のある娘を籠める斎宮として似つかわしいと言えなくもない。他に用途もない娘ですから、いっそ斎宮に、という展開もわかります。あ、斎宮というのは神に祈る前に身を清める場所で、今で言う斎宮とは少しニュアンスが違いますが」
「ええ」
「万葉集に彼女を詠んだ歌がありまして、その中に『常処女(とこおとめ)』という言葉がみられます。ここから涼子は『斎王』をイメージしたのだと思います。ですが、その三輪山を祭る三輪君がいたとされる磯城郡には、高市皇子が勧進した神社がある。ようするに、涼子の書く『十市皇女が斎王となるべく篭る倉梯』も『祈りを捧げる三輪』も、このときすでに、彼の勢力下に置かれていたと考えられるのです」
 だから、と俺は言葉を継ぐ。
「話を作るにしても、俺は、異母姉に一方的に懸想した高市が、妻として迎えることはできない彼女を囲うために宮を設けた。しかし、彼女はそれを拒絶した、と。どっちかっていうと、そういう感じのほうが自然だと思うんですよ」
 もっとも俺が話を書くのなら「くそ親父 誰が貴様の世の未(さき)の 安泰なんぞを祈ってやるか by 十市」になるだろう。
「もしも高市皇子の求愛を受ける気が十市皇女にもあったなら、彼の勢力下にある宮に入るほうが便がいい。なのに、宮が完成しいざ行幸という段になって、彼女は急死している。これは大きな矛盾です」
 なるほど、と仰木さんが感心したようにため息をついた。
「宮がすでに作られていたということは、実質的にそういう関係が成立していたと考えるほうが自然ですよね」
 宮を建ててから準備万端、いそいそと関係に及ぶということもありうるが、どちらにしろ
「関係はすでにあった。でも、それが合意の上であったかどうかは疑わしいと思います」
 自害でなければ、また別なんですけど、と、俺はジョッキを煽る。
 何年か前、縁日の輪投げで勝ち取ったものだ。全部で五個あったはずだが、いまはこの二つだけが残っている。
「それが彼女の意思とは関わりのない死だった場合は?」
「自然死ですか? それとも誰かの陰謀?」
「陰謀説で」
 仰木さんのリクエストに応え、俺は考えうるストーリーを模索する。
「斎王は数年を斎宮で過ごし、それから神宮に移ります。となれば、いずれは大来皇女を呼び戻し、そのかわりに彼女を斎王にする算段があった、というのはどうでしょう。制度上最初の斎王が大来皇女ですから、それ以前は斎王選出に関する決まりごとも」 「厳密ではない」
「そうです。だから、犯人は大来皇女に戻ってほしくない人物と考えられもするわけです」
 大津や大来の母、つまり彼らの後ろ盾となる者が生きていたのなら、彼女が斎王となるのは相応しいことかもしれないが。
「へぇ」
 もっともこれは、涼子の創作を無理にコジツケた解釈で、真実ではありません、と俺は注釈をつける。
 こじつけですか、と仰木さんは笑い、おいしそうにビールを飲んだ。
「面白いものですねぇ。同じ題材でも、文学を志す方と歴史を志す方では、導き出されるものが随分違うんですね」
「俺が志すのは『真実』の物語、涼子が志すのは真実の『物語』とでも言っておきましょう」
 俺の言葉を二度ほど繰返した仰木さんが、上手い表現ですね、と感心する。
 実は最近読んだ本からの引用だ。
「それで静くんは、もしも自殺なら手篭め説のほうが現実的だというんですね」
 頷こうとして、俺は仰木さんを見、その背後に立つ人の姿に硬直した。手にした枝豆のさやから、まめが三つ、きれいに飛び出してゆく。
「……手篭め?」
 後ろから降ってきた柔らかな声に仰木さんも動きを止める。
「彩花さん」
「さや姉」
 上ずったハーモニーに、名を呼ばれたその人もまた、動きを止めた。
 秋の気配が混じる涼風に、取り落とした枝豆のさやが転がってゆく。
 仰木さんは突然立ち上がり、さや姉をふりかえると、その指で枝豆をさし、
「かっ、籠目ですっ。これっ、この枝豆のこの籠が」
 バレバレです。仰木さん、と思ったが、気がつけば俺もよくわからないことを口走っていた。
「そう。この六角形のこの網目。トマトジュースのマークです。いかがですか、枝豆」
 それも当然。
 妹は女のうちには入れないが、この人は違う。
 物心ついて以来の憧れの君。
 それこそ誰にも合わせず籠めたいほどに。
 幼いころから憧れたその人を、己だけの斎王にしてしまいたいその思いは、だから、わからなくもないのだ。

 目を丸くして俺たちを眺めていたその人は、苦笑まじりにちいさく吹きだした。
 くすくすと笑いながら、それ以上つっこんだ問いを放つこともなく――この憐みと優しさを、ぜひとも涼子に教えてやってもらいたいものだ――「小田島さん、晴江おばあちゃん」と台所のばあちゃんを呼ぶ。
 前掛けで、手を拭き拭きやってきたばあちゃんに、さや姉はお菓子を渡す。
「頂き物なのですが」
 まあまあ、すみませんねぇ、と交わされるのはいつもの挨拶だ。
 そこへ涼子もやってくる。くるだけで空気に騒々しさが混じるのは、まったくいったい何故だろう。
「あー、さやちゃんだーっ」
 きゃあ、と抱きついて、飛び回る。
 そのはしゃぎっぷりは、とても飛びつかれている女性と二つしか違わないとは思えない。
 同じ感想を抱いたのだろうか、仰木さんと目が合った。
「ねえ、ねえ、神社なくなっちゃったんだよね。今年から、じゃあ、お祭りもなしなの?」
「そう」
 えー、残念ー。今年も手伝いたかったのに、と涼子は声の調子を落とす。
「そのために帰ってきたんだよ」
「ありがとう。だからね、誘いに来たの」
 さや姉はそう言って、涼子の手を引いた。
「うちでだけ、お祭りしようと思って」
 お店はないし、お社も小さいけど、と笑い、どう? と首を傾げる。
「行くよ、行く行くっ。静も行くよね」
 断る理由はない。
「ね、袴は? いつもの」
「着る?」
「うんうん。着る。あたしね、覚えてるよ、あの踊り」
 踊り、言うな、踊り。舞と言いなさい。
「本当? でも、楽人さんは呼んでないの」
「仰木さんの笛があるよ。静も太鼓くらい敲けるでしょ。そうだ、あんたの後輩も呼んできなよ、津和野くんだっけ? なんか楽器やってたって言ってたじゃん。それでおじさんにも手伝ってもらえば、なんとか頭数は揃うよ、わあ、素敵」
 なにが素敵なんだか。
 しかし反論する気力はない。俺と仰木さんはため息混じりに縁から下りて、向かいへと歩く。
 長く伸びる影が、日没も間近だと告げる。
「庭にビニールシートでも敷きますか」
 提案に俺は考える。せっかくだから、それなりの舞台を用意したい。
 これが見納めかもしれないのだ。
 一瞬縁台を運ぼうかとも思ったが、労力の割りに確保できる広さは少ない。
「ビールケースをひっくり返して、その上にすのこを敷くのはどうでしょう」
「いいですね。でも、かなりたくさんのケースが要りませんか」
「向こう三軒両隣。かき集めれば、たぶん」
 どこもこの季節は瓶をケースで取っている。それが原因なのか、酒屋でアルバイトをしている友人が腰を悪くしていた。
 缶のが手ごろですよって勧めたんだけどさあ。
 友人は腰をさすりつつ言った。
 缶は引き取ってもらえないからねぇ、だってよ。
 だが自分でゴミを分別し出すようになって、これが案外大変な作業であることを俺は知っていた。
 その点、瓶ならケースごと酒屋に引取りに来てもらえる。正論だ。
「そっちは俺がやりますよ。仰木さんは、すのこのほう頼みます」
「ええ。それはすぐにでも」
 仰木さんはすのこの準備にかかり、俺はビールケース集めに入った。
 せっかくの休みに気の毒だとは思うが、津和野にも犠牲になってもらおう。
 甚平のポケットから携帯電話を取りだし、すぐそこの大学指定アパートに住む津和野を呼ぶ。
 学部の後輩で、先だって研究室に遊びに来た折に知り合った。
 住まいが近いこともあって、最近はよく家にも出入りしている。
「暇なら来ないか? 飯はでるぞ」
 電話口の津和野はそういうことなら、と、二つ返事で引き受ける。なんでも数日、飯を食っていないらしい。
『弟が遊びに来てたんすけどね、これがよく食うやつで……米櫃空っぽなんすよ。ここんとこ熱かったでしょう。買いに行く気にもならなくて困ってたんですよー。俺、パンだと食った気しないんすよね』
 たしかに炎天下、米袋を担いで歩く気にはなれない。
 そんな話をしながら歩く俺の耳に、さらにとんでもない話が飛び込んできた。声の主はわが妹に決まっている。
「それにほら、さやちゃんちの、あの新しい居候さん、なんていったっけ」
「志野さん?」
「あの子いれてちょうど舞姫も三人。踊れる、踊れる。大丈夫、あの子なら、似合う。やったねーっ」
 仰木さんにも聞こえたのだろう。難しい顔をして眉間を押さえていた。

 眼福っすね。
 津和野の声に、どう返答したものか俺は考えた。
 さや姉の久々の舞は確かに「眼福」ではある。
 夕闇が薄く下りた舞台は、数々の粗(あら)――ビールケースにすのこに頓狂な楽人たち――を隠して、思いのほか立派なものになった。
 闇では隠せない演奏は予想通り無残なものだったが、それだけに前のような緊張感は薄れ、時折顔をほころばしながら舞うさや姉はきれいだった。
 が、その巫女装束の三人の中には、二村君がいた。そして舞終えた現在、三人は俺の目の前に立っている。
 二村君は舞台に立たされたものの、どうしていいのかわからずに、ほとんど棒立ちだった。
 涼子の言うとおり、その装束は確かに似合わなくもないのだが、それを褒められても決してうれしいものではないだろう。
 そして俺は仰木さんを見習って笑うだけにする。
「着替えてくる」
 憮然とした様子でそう言い残し、二村君は席を外した。
 祖母やご近所さんの作った食事をみんなで囲む。
 ビールケースを借りるときに声をかけたので、集まった人は結構な数だった。
 それぞれに料理を持ち寄ったせいもあり、まるで花見の席のようだ。
 津和野はいたく幸せそうにそれを頬張っている。お隣さんが持参したおかずが特に気に入ったらしい。
「美味いっ。美味いです、お姉さん。いい嫁さんになれますよ。歳下ですが、俺なんてどうでしょう」
 馬鹿者、その人はすでに人妻だ。
 そのノリが涼子によく似ていると思い、ああ、それで俺は津和野の面倒を見てしまうのだと納得した。

 空から赤みが消えて、星が目立ち始める。その頃からはもはや酒盛り、当初なんで集まったのかさえ定かではない様子だ。
 気がつけばまだ成人していないはずの津和野もご機嫌な様子でビールをがぶ飲みしている。
 俺は見なかったフリをした。
 そして目を逸らした先に二人を見つける。
 寄りそうさまはまるで絵のようだ。今宵の装束がなおさらその感を強くする。
 それぞれに自覚があるのかないのかは定かでないのだが。
 いや、おそらく仰木さんには、たぶんない。それがなおさら
「腹立たしいですね」
 思わず飛び出た本音に口を押さえたが、その声は俺のものではなかった。
 気がつけばそこに、さや姉の父がいる。
「おじさん」
「まったく。腹立たしいとは思いませんか、ねえ。わたしたちは独りなのに」
 顔だけはにこにこと笑っているおじさんに、いやぁ、ははは、と笑い返しながら、俺の腰はもう退けている。
 酔って絡むのならばまだマシだ。が、おじさんは酔ってはいない。基本的に酔わない人なのだ。
 そしておじさんは、素面で、そうとはわからぬように絡んでくる。
 にこやかに楽しげに優しげに、俺のさらす動揺がおもしろいという理由だけで。
 仰木さーん、あんたどうやってこれを毎回かわしてんですかー。
 心で呼びかけるが、叫びは通じない。
 二人のためにー、世界はーあるのー だ。
「ははははー」
 笑いつつ、なんとか脱出のタイミングを計っていると、
「おじさんには涼子がいるじゃないですかー。寂しいことを言わないでくださーい」
 すっかりご機嫌の涼子がおじさんの背中を捕まえた。
「そうでしたー。可愛い娘がもうひとりいましたー。涼子ちゃん」
「お父さんって呼んでもいいですかー」
「いいですよー。どんどん呼んでください」
 最初から俺などいなかったかのように、おじさんの興味は涼子に移る。
 助かった。
 俺はおじさんの注意を引かぬよう、その場をそっと離れた。
 ふと、静けさがほしくなり、俺は庭の奥へと歩いた。

 いかに勝手知ったるとは言え、許しもなく人さまの家の庭をうろつくのは不躾だった。が、夕刻から気持ちよく飲んでいたせいだろう、そういうことにはまるで気が回らなかった。
 懐かしい、と思いながら、子供のころよく遊んだ庭をそぞろ歩いた。

 山吹の立ち儀ひたる山清水
       酌みに行かめど道の知らなく

 庭を飾る鮮やかな黄色の蝦夷菊に、ふとその歌を思い出す。
 十市皇女が死んだとき、高市皇子が詠んだ三つのうちのひとつだ。
 山吹がそのほとりに咲く山の泉――その水を汲みに行きたいけれど、道を知らない
 面白いことに、涼子はこれを復活の泉と結びつけて考えていた。
 西方に蘇りの泉があり、そのほとりには金色の小菊が生えている、というものだ。たしか古代シュメールの神話だったと思う。
 普通は、山吹の黄色と泉を掛けて「黄泉」と解し、常世まで会いに行きたいけれどわたしには道がわからない、と約す。
 後を追えばいいのにと思わなくもないのだが、彼に課せられていた務めは投げ出すには重すぎた。
 その葛藤が、「どうしてよいのかわからない」にかかるのだ。
 ……それを、あえて「死者を蘇らせるその水を」と解釈をたがえたのは、もし父母が生きていたのならと思う気持ちのなすことだろうか。
 蘇りの泉に咲いたのは金色の小菊だが、彼が歌う泉に咲くのは実を結ぶことのない八重山吹。
 叶わぬ願いの象徴として、これほど似つかわしい花はないと思った。