ふとため息がこぼれた。
いかがなされましたかと、いつものようにかけられる声に、アジェルは微笑を作り首をふる。
「いいえ。花酒(コルシャ)に少々」
酔ったのだと告げる。お加減はと重ねられる問いにも微笑んで返す。
「よい心地です」
安堵にファ・シィンが口元をほころばせ、ただいまお直しいたしますとアジェルに温かな眼差しを向けた。
「おそれいります」
「いいえ。昔はよくこうして……」
それから思い出したように付け足す。
「添い伏もいたしましょうか」
笑いを含んだその声に、冗談ではないと心で叫ぶ。しかし
「正妃に叱られます。いつまでも幼子のように、と」
にこやかに応じ、流す。
笑うのは難しいことではなかった。予め用意した仮面をつけるように、他愛ないことだ。
晶花(カシヤン)に蝕まれてゆく苦痛を露(あらわ)にすれば、この人が苦しむ。
それを理由に手にした仮面は、晶花の痛苦が増すごとに――倒れ、吐血するその度に――より精巧なものになっていった。
もちろん晶花のもたらす苦しみのすべてを隠しおおせているとは思わない。
だが笑みさえ浮かべていれば、今日はお顔の色が良うございますね、とファ・シィンが笑う。
鮮やかな水色の目に紛れ込む暗い色が、そのときだけは和らぐのだ。
この病が癒えることなどないとアジェルは知っている。ファ・シィンも知っているはずだ。それでも一時の安堵に縋らねばならぬその人が憐れだった。
短く小さな声に、物思いは途切れた。
裾を捌き損ねたのか、姿勢を崩すファ・シィンが見えた。珍しい、と思った――その裾の長い女装束で、彼女は難なく馬を走らせ槍を繰るのだ――のはつかの間だ。
やはり相当に酔っているのだろう、ファ・シィンはさらにもう一歩深く裾を踏む。
裾が強く引っ張られ、腰帯を留めるピンが小さな音を残してはじける。はらりと緩んだ衣から、ファ・シィンの白い喉がのぞいた。
一瞬目を奪われ、直後頭の中で己を罵倒する言葉がいくつか飛び交った。それからあわてて手を差し伸べる。
支えようと手を伸ばしたのはよいが、もとより頑健でないアジェルの腕で支えられるはずもない。
もつれるようにして床に倒れこんだ。
倒れながら、風に燭の灯りがひとつ消えるのを見た。
「痛……」
ファ・シィンを抱えたまま仰向けに倒れたアジェルは、頭を寝台の角に打ちつけた。
不幸中の幸いは、さきほどずり落としてしまった敷布の一部がその角を覆っていたことだろう。
落城前夜、寝台の角に頭を打ちつけ、最後の王は身罷られた。
淡々とそれを記すよう指示する正妃を思い浮かべ、アジェルは苦笑した。彼女ならやりかねない。
はたして深酒と寝台の角のどちらがより不名誉だろうか。
ともかく不慮の死を遂げた王の骸を背に、聖騎士は槍を取る。
物語としては美しいが、戦の価値は全く失われてしまう。
くだらないことを考えながら、痛む頭をさすり、目を開けた。
正面には心配そうに覗き込むファ・シィンの顔があった。
「お怪我は?」
「こぶができました」
言外に大したことはないと伝えたつもりだった。
しかしファ・シィンはその手を伸ばし、アジェルの後頭部を撫でた。
自然、前かがみになったアジェルの目にはファ・シィンの胸元が映る。
「大丈夫です」
思わず手を払いのけ、身を引いた。
硬い声と払いのけられた驚きからか、ファ・シィンの動きが止まった。
不審気に顔を覗き込まれ、目を逸らす。
自らの息とは異なる花の香りが鼻腔をくすぐった。
「いかがなされました。どこかお怪我を?」
「いえ、大丈夫です」
なお構おうとするファ・シィンから逃げるように立ち上がる。
いや、勢いをつけて立ち上がろうとした動きは、半ばで阻まれた。
引いたはずの身が繋ぎとめられ、重心が大きく前方に傾く。
均衡を崩しながら、その原因を悟る。
先ほどアジェルはファ・シィンを抱えて後方に倒れた。
つまり、アジェルの衣の上には、重石のようにファ・シィンが乗っていたのだ。
「あ」
という声が、自分のものだったのか、ファ・シィンのものだったのか。
よく似ていると言われるその声が、どちらのものであったのかわからない。
ただ、再び倒れこみ、起き上がろうとしたとき、アジェルは図らずもファ・シィンを組み敷いていることに気がついた。
結い上げたファ・シィンの髪が崩れる。
彼女の髪は結い上げるには少し短い。
それをいくつかの櫛で留めているから、こうして何かの拍子に櫛が抜け落ちると、すぐに崩れてしまう。
解けた髪は広がり、燭台の炎を映して赤く染まる。
退かなければ、という思いと、触れてみたい、という思いが同時にアジェルの背を駆け上る。
相反する二つの意思に、アジェルは動きを縛られた。
ファ・シィンは、よく知った甥の不可解な様子を、けれど穏やかな表情で見上げている。
「大事ございませんか」
訊ねる声にも、変わらずアジェルを案じる響きだけがあった。
いつまでもただ案じられ、守られているだけの子供ではないというのに。
「いいえ。何も」
突放した物言いに、ファ・シィンの眉がすいと顰められる。
「陛下?」
以前は「公」だった。公と呼ばれるその前は幼名だ。
己はファ・シィンの甥であり、主君であった。
それがこのエルディアでどれほどの価値を持つものであるのかは知っている。
しかしついぞこの人の目に、一人の人間として映った覚えがないことが、ひどく胸に痞(つか)えた。
亡き姉の一子、大神官、あるいは国主。
それはすべてアジェルの立場と役目を示す符号であり、アジェル自身ではないのだ。
「どれほどのこともありません」
言いながらふと思い立ち、顔を近づける。
何事か想像さえもしていない。目を開いたまま、その人はアジェルを見ている。
腹立たしさに、口付けは噛み付くようなものになった。
さすがに驚いたのか、一瞬、ファ・シィンの体が緊張する。
衣の合わせ目から手をすべりこませる。
滑らかな肌が指先に感じられた。
絞ったような腰のくびれ。そこから胸元へと指を滑らせる。
すぐにでも止められるだろうと思っていた。
止められたらやめるつもりだった。
幼子ではない己の存在を知らしめたいだけで、いや、それはたぶんいいわけだ。
しかし、強引に事を為したいわけでもなかった。
為せるはずがない。
制止されればやめざるを得ないことは、己の意向とはかかわりなく決定されている。
ファ・シィンが本気で抵抗すれば、アジェルなど物の数ではない。
意図的な手加減さえも必要ないはずだ。
自身はおろか、アジェルの身さえ何一つ損なうことなく、やすやすと退けうる。
だからこそ仕掛けた、八つ当たりまじりの悪戯だった。
だがかかると思っていた制止はなかった。
戸惑い、身を離す。
「あの」
恐る恐る呼びかけたが、顔を直視する勇気はなかった。
どのように弁解したものか言いよどむ。
「何故、お止め下さらないのです」
意図せぬままに含まれるのは、「甥」であることへの逃げか。発せられた問いは、図らずも拗ねるような響きを伴っていた。
ファ・シィンはわずかに笑う。
「驚きましてございます」
嫌悪も怒りも、そこにはない。さもあろう、と思う。
やはりこの人の目に己は幼子としてしか映らないのだ、と強く認識させられる。
だが不服を覚えるより、失意が先に立つ。
ただ一人で戦うこの人を、支える存在にはついになれなかったのだ、と。
ファ・シィンの頬を撫でる。
「ファ・シィン」
叔母上、としか呼びかけたことはなかった。
名を呼べば、その瞬間にも庇護されるべき甥としての自分が失われることを知っていた。甥でなくなれば、傍らにあることはできないからだ。
頬から顎へ、顎から喉へと指を移動させる。
シャリズ(二の姫)と呼ばれていた彼女がファ・シィン(王家の花)の名を冠したのはいつのことなのか。
始祖アディナを意味するその花の名で呼ばれるべきは、未来王妃となる定めを課せられた者、つまり本来であれば、彼女の姉イルガ・ファムだった。
しかし今、ファ・シィンの名で呼ばれるのはこの人をおいて他にはない。
むしろアディナの紋をファ・シィンの音で呼ぶことは憚られるようにさえなっている。
それは取りも直さず、彼女がアディナ以上に尊ばれていることの証しでもある。
それでも、彼女が槍を取り戦場に立ったときエルディアを守る者であることを期待して冠せられたのであろうその名が、アジェルには痛々しいもののように思われた。
とうに呼ぶ者の失われた、彼女の名を囁く。
わずかに目を見開いたその人に口付ける。衣の裾をたぐる。露になった白い足に左手を滑らせる。
歯列を割り、舌を差し入れる。彼女の舌を絡め取る。
どこか茫洋としたその顔が、視界の端に映る。
だが見開いたままの目からこぼれたものが、アジェルを正気に返した。
ただ王の血を引く娘をもうけるためだけに、彼女は王に身を委ねた。
その娘は日を経ずして彼女の胎内に宿り、十月後に生まれ出でる。
その後は?
語るまでもない。
彼女は娘を産むための妃ではあったが、王の妻ではなかった。
彼女は、王がもっとも信頼した「臣」なのだ。
ランガを守り、シェル・カンを築き、堅牢な砦として常に前線にあって国を守ってきた。
彼女はそれだけのために在った。
己が、この国の最後を担うためだけに王位にあるように。
そして僅か二ヶ月の己の務めに対し、彼女はその生の半ば以上を務めに縛られてきたのだ。
彼は身を離した。
晶花(カシヤン)のもたらす痛苦に二年の年月を堪えてきた彼の意志は固い。昂ぶる思いを封じるにも、それは力を発揮した。
間近に見るその人はやはり美しい。乱れた胸元を目に入れぬよう、その顔を見つめる。
「お泣きになるくらいなら、なぜ、そのように……」
後は言葉にならなかった。
半ばはわかっていた。
拒むことを、この人は知らない。
亡き兄に代わってランガを守れ、亡き姉に代わって妃となれ、シェル・カンへ行け、王都に戻れ、聖騎士となり葬神殿に入れ――これは死者となれにも等しい要求だ――それら全てに「畏まりました」と応えることをしか、この人は知らない。
憐れに思い、同時に怒りに似た激しい感情を覚えた。
つまりは、わたしも彼らと同類に見られているのだ、と。
ではいっそ同類になってしまえば、と思い、今度はそれにぞっとする。
アジェルの葛藤を知らぬままに、その人は言う。
「迷っておりました」
「迷う?」
「ええ。……どのようにお止め申し上げるべきか」
苦さは胸に満ちる。
なるほど並みの男であれば、強か打ち据えてやればよい。
だが此度彼女に無体を強いようとしたのは、病身の甥であり、王であり、明日の大事を控えて傷を付けるわけにもゆかぬ者だ。
手を講じかねるのも無理はない。
自嘲を浮かべ、ファ・シィンを放す。
はだけた衣を軽く調えてやり、身を起こすのに手を貸した。
「失礼をいたしました」
失礼で済む振る舞いでないことは確かだったが、他にことばが出てこない。
じじっ、と燭台の蝋燭の芯が音を立てる。
沈黙が寒気とともにゆっくりと部屋に満ちて行った。
その静けさに堪えかねて、アジェルは立つ。
「お休みください。わたしは奥の宮で休みます」
今は住まう人もない奥の宮だが、王である己がその一室を使うことに不都合はない。
しかしその袖がそっと掴まれる。
「お止め申し上げるべきか」
彼女は繰り返し、そして穏やかに続けた。
「それとも、このまま委ねてもよいものかと」