夜話― 花の名を持つ彼の人へ ―

 ファ・シィンは聖騎士である。したがってその居室は葬神殿にあった。
 しかし、アジェルが即位した日を境に、彼女もまた王城で暮らしている。
 かつて次妃としてつかの間を暮らした奥の宮ではない。
 アジェルの部屋、つまり王の居室の控えの間を使っていた。
 葬神殿でも続き間を使っていたこと、アジェルの身が弱いこと、この城にファ・シィン以上に腕が立つものが居ないことなどの要因が合わさって、異例であるその振舞いを誰も咎めなかった。
 アジェルが即位する以前から、すでに王城はその機能の大半を失っていた。そのため、誰がどこに住まうなどと言う程度のことを気に留める余裕がなかった、と言うほうが正しいのかもしれない。
 彼の妻である正妃は婚儀が交わされたその晩を除き、政庁で暮らしていた。日に日に数を減らす官に代わり、その務めを果たすためだった。
 将来を嘱望され、時にはその才気ゆえに疎んじられることもあった有能な官吏は、正妃に立った以後も辣腕を振るった。いや、彼女を阻んできたイデルナートという存在が失われ、その才覚は一層発揮された。
 このわずかふた月で、倒れかけたエルディアは持ち直してさえいる。
 正妃が政務を執るようになって以来、一日たりとも落とされることのなかった政庁の灯を思い出す。政を知らぬアジェルよりも、よほど「王」らしい正妃だった。
 顔を会わせたことは僅かに数度。面影はあまりにも朧だ。だがその凛とした声はよく覚えている。
 聞こえるはずもない声を求めてだろうか、アジェルはふと視線を政庁へとめぐらせる。
 そこに灯りはない。二度、灯されることがないことを、誰もが知っていた。
 それから本来彼女が暮らすはずだった奥の宮へと目を移す。
 もし、このような時でなく、と考えて苦笑がこぼれた。
 であれば、己は神殿にあり、彼女は正妃となることもない。この時の流れの中でしか、ありえぬことだ。
 もしという過程は、己と彼女、二人の間には存在しない。
 月に黒々と浮びあがる奥の宮を見つめ、そこにも灯りのないことを憂えた。
 奥の宮にはアジェルの父王の三妃とその娘である先王の妃が暮らしているはずだった。しかしアジェルの即位から日をおかず、彼女らは姿を消した。
 奥の宮は封じられ、再び開かれることなく風塵に帰すだろう。
 回廊から奥の宮に仰ぎ見るアジェルにファ・シィンが微笑んだ。
「懐かしゅうございますね」
 その微笑の陰で、流されることのない涙が彼女を浸し、緩やかに冷やしながら、その心を蝕んでいった。
 消したのか、消されたのか。
 三妃とその娘たちの行方はしれない。
 問うべきか、問わざるべきか逡巡しつつ、ファ・シィンを見る。
 アジェルの視線に含まれる意味に気付いたのだろう。ファ・シィンは僅かに声を立てて笑った。
「ご案じ召されませぬよう。お二方も御子さまがたも、みなファーレントへとお預け申し上げました」
 思いもよらぬ言葉に足を止める。
 己に知らされなかったことは疑問に思わなかった。
 聞いたところで特に言葉はない。己が玉座にあるのは便宜であることを熟知しているからだ。
「ファーレントへ?」
 はい、と頷き、ファ・シィンはアジェルから離れる。欄干にもたれると、ゆっくりと宮を仰いだ。
 遠く宴席の笑い声が響く。
「皆さまには継承権もございません。あるいは正統なる継承者が失われれば、もう一度お戻りいただかねばなりませんが……いいえ。そうなったとき、エルディアは書に名を残すのみ。継承者は必要ございませんでしょう」
 それからもう一度静かに笑う。その笑みの清(きよし)さに、手を汚したのでないことを確信し安堵する。ファ・シィンと並び、奥の宮を望んだ。
 その安堵の中、継承権がないとの言に気付き、アジェルは首をかしげた。
「しかしシャルハイン殿の娘には……」
「イデルナートを王族から除籍いたしました」
 呆気に取られたまま除籍と呟いたアジェルにファ・シィンは頷く。
「妃殿下はわたくしよりも、容赦がのうございます」
 笑い混じりのその声に、正妃がそれを断行したのだということを知る。
「事由は」
「王の妃としてもっとも近しく仕えながら、王を支えるべく務めずは怠惰の極み。むざむざと、母娘二代に渡り二人の王を失わせしその罪は一族に及ぶ、と」
 除籍の上、国外への退去を申し付ける。
 処分を言い渡す正妃の声が聞こえたような気がした。
 つまり三妃もシャルハインもその娘も、「王の娘」ではなくなった、ということだ。
「このままエルディアに残っても、未来(さき)はございません。皆さま不服は申されませんでした」
 だが、それは逃げることだ。妃の務めばかりか、王族としての務めさえも捨てたことにはなりはしないか。
 考えるアジェルにファ・シィンは静かな声で言う。
「あの方も、わたくしと同じなのです」
 奥の宮、三妃に与えられていた居室をその目は見ていた。
 ファ・シィンの部屋とは異なり、訪れる者の絶えなかった部屋だ。
「あの方ご自身に、何かを選ぶことは許されてはおりませんでした。何一つ、選ぶことはできず、イデルナートに繋がれていた」
 三妃とファ・シィンを同様に語りたくはなかった。
 アジェルの目には三妃は好んで繋がれているように映っていたからだ。が、それを真実だという根拠は持ち合わせていない。
 肯定しないことで否定の意をあらわし、けれど声にして何かを言うことはせず、黙ったまま奥の宮の影をアジェルは見つめる。
 その視界の端で、ファ・シィンが顔を伏せた。
 冷たく乾いた風が回廊を吹きすぎてゆく。
 ふと、静けさの中、ファ・シィンが呟いた。
「それでもあの方は、わたくしが得られなかったものを、失ったものを……わたくしが望む全てをお持ちでした」
 これまで聞いたことのない言葉にアジェルはファ・シィンを振り返った。
 佇むファ・シィンがひどく儚く見えた。
 不安を覚えた。
 決然と言うには頼りない風情、しかし、何ものをも拒絶する頑なさ。
 声をかけることも、手を伸ばすことも憚られる。
 立ち尽くすアジェルの視線に、しばらくして気付いたのだろう。顔を上げたファ・シィンが戯言を申し上げましたと苦笑した。
「今宵は随分と過ぎたようです。お忘れください」
 聞き分けよく忘れた風を装いながら、その声に、知らされる。
 決して対等ではない関係、そして、ファ・シィンが背負うことを課せられ、己が担うことを許されぬ役(つとめ)を。

「叔母上」
 戻るとそのままいつものように長椅子に横になってしまったファ・シィンを起そうとして、アジェルは手を止めた。
 お風邪を召しますよ。
 飲み込んだ言葉に苦笑する。
 明日死ぬとわかっていて、風邪をひくもなにもあったものではない。
 それでもこの季節、屋外であれば酒に火照った体に夜気が凍み、翌日には骸になることも稀ではない。
 さすがに城内ではそんな話は聞かれぬものの、三の廓の外に暮らす貧しい人々が寒気に命を落とすのは珍しい話ではないのだ。
 火を焚いた室内とはいえ、石の壁や床から伝わる冷気はアジェルの足もとからひたひたと満ちてくる。
「落城前夜、酔いつぶれて凍死しました、と、史書に書かれてもよろしいのですか」
 言ってから、それを想像し、少し笑う。
 あるいは正妃がこの戦の後も生きていたならば、それを記すよう指示するかもしれない。
 だがそれを指示通り記述する者がいたら、なかなかの傑物だ。
 おそらくは正妃の目を盗み、こっそりと史から削りとるだろう。
「叔母上、起きてください」
 肩を軽くゆする。
 構わずお休みなされませ、と首だけを上げてファ・シィンは答え、そのまま、また浅い眠りに落ちてゆこうとしてる。
 キ・ファが夜襲をかけるとはまるで思わぬ潔さ、いや、あるいは武人としてのグァンドールへの信頼か。
 敵襲と叫んでも、お戯れをと微笑まれるだけだろう。
 呆れと感心、わずかの苛立ちが胃のあたりで渦をまく。
 先ほどのファ・シィンの言葉ではないが、彼は、己が渇望するほぼ全てを持っている。
 羨んでいるのだろうかと思う。あるいは妬んでいるのか。
 複雑な思いが晶花(カシヤン)とは異なる痛みを投げかける。
 けれど、とその痛苦の中で思う。
 その彼ですら、もっとも望むものを手にすることはない。永劫に。
 それが救いであるのか、あるいは絶望であるのか判別はつかなかった。
「違うな。わたしにとっては救いでもあるけれど」
 彼の人には絶望だろう。
 そしてその人の絶望は、決して己の救いにはなりえない。
 嘲るまでもない愚かさだが、そう思っても笑いはこぼれた。
 死を真際にし、些末ごとに拘れる己が可笑くもあり、だが
「いつだってすぐそこにあった。いまさら忌むようなことじゃない」
 生の終わりを間近にし、平静を装わずにはいられない兵たちを憐れに思った。

 しばし燭台の灯を見つめていたアジェルだが、足元の冷えに物思いを断ち切った。
 横たわるファ・シィンを再度顧みる。
 ファ・シィンの眠りは浅い ―― 実のところ、アジェルはファ・シィンが熟睡している姿を見たことがない。子供のころはもちろん、今でさえ、アジェルが目覚めるときにはすっかり身支度を整えて待っているし、アジェルが眠りつくのを待ってから寝るようで、彼が起きている限りいつまでも起きて話しに付き合ってくれる。晶花(カシヤン)の痛みに堪えかねて夜半に目を覚ましても、その気配を感じると、ファ・シィンは起きてしまうのだ ―― 冷えこめば目を覚まし、火に薪を足すくらいのことはできようし、それでも寒ければ外套でも被ればよい。
 だがそれは常であればこそ。ここまで酔っていてはそれも難しい。
 冷えを覚えぬままに凍ってしまう。
「困ったな」
 とりあえず外衣を脱ぎ着せ掛けたが、どの程度役に立つかは疑わしい。
 何か掛けるものを、と探したけれど見当たらない。
 ふた月を過ごしたにも関わらず、この部屋のどこに何があるのかアジェルは知らない。
 葬神殿の自室ならば知ったものだが、取りに行くには遠すぎる。
 誰か、と呼ぼうとしてやめた。
 女官たちは、もういない。
 部屋に立ち入ったことのない兵にわかるはずもない。
 なにより、先ほどの乱痴気騒ぎを思えば、とても呼ぶ気にはなれなかった。
 ここが第二会場になろうことは、明白だ。
 もれ出でた何度目かのため息が、燭の火をゆらめかせた。
「仕方がないな」
 己の寝台に向かうと幾重にも重ねられた掛け布を引っ張る。
 一枚でもあれば随分違うはずだ。
 しかし、それは思いのほか重労働だった。
 寒さの厳しい土地柄、冬の掛け布に使われる綿花は、夏の掛け布の十倍以上である。
 晶花(カシヤン)に倒れて以来、力仕事とは縁のなかったアジェルにとって、それは渾身の力をもって当たるべき大事業だった。
 できるだけ温かそうなものをと選んだ一枚は、上から三枚目。羊毛を織ったやわらかなものだ。
 だがえいやと引っ張ると、その上の掛け布が巻き込まれついてくる。
 ではこれもと二枚まとめて引っ張れば、それはさらに別の掛け布が絡んでくる。
 ええい面倒くさい。じゃあこれもと引っ張ると、それは足元の部分を敷布の下に畳み込んでたあったらしく、布団が丸ごと寝台からずり落ちた。
「……まあ、いいか」
 これが平時であれば、明日の朝寝台を整えに来た女官に何を言われたものか。
 しかしその者たちにも皆、暇を取らせた。
 ご武運をと潤む目でアジェルの手を握ったのは、老いた女官だった。
 数ヶ月、玉座を温めるだけのアジェルによく仕えてくれたと思う。
 考えるだけで首を竦めたくなる彼女の苦言の声が、なにやら懐かしく温かく思われ、アジェルは小さな笑みをこぼした。
 今城に残っている者でこれを見て苦言を呈すのは、ファ・シィンだけだろう。
 そのファ・シィンも大事の朝に布団を片付けろとは言わないはずだ。
 掛け布をファ・シィンに着せかけたなら、自分はこのうえで丸くなればいい。
 そのまま目的の掛け布を取ろうとして腰を屈める。
「何をなさっておいでです、王」
 振り返ると、横になっていた長椅子から上体を起こし、ファ・シィンがアジェルを見ていた。
「あ、叔母上。お目覚めですか」
「床でお眠りになる……?」
 寝台の無残な有様を見て、ファ・シィンはわずかに首を傾げる。
「いえ、叔母上に掛け布を、と思い、失敗を」
 肩をすくめて弁解する。
 ファ・シィンが微笑んだ。
「お直しいたしましょう」
 長椅子から足を下ろす。微かな衣擦れの音が、楽のようにファ・シィンを飾る。
 燭の光に淡くその姿が浮き上がった。
 練り絹は重みのある布だ。
 纏えばしとりと身に馴染む。
 少々の動きであれば空に舞うこともない。
 いくら緩やかに襞を取ろうとも、その衣は体の形をなぞってしまう。
 たとえようもない息詰まりを感じる。
 不自然にならぬよう何気ない素振りを装いつつ、アジェルは視線をファ・シィンから逸らせた。