夜話― 花の名を持つ彼の人へ ―

 夕刻近くなって、アジェルは突然居室から引きずり出された。
 まさに引きずり出されるとしか言いようのない連れ出し方だった。
 驚いて声さえでないアジェルにその男は笑う。
「宴のご用意ができました」
 その声にやっと自分を捕まえている人物を見る。
 神殿騎士団長だった。
「義兄上……」
「義兄と呼んでくだされるか、これは、ありがたい」
 神殿騎士団長は、アルディエート女公の娘婿である。アルディエート公家に養子として迎えられたアジェルとは、養子と婿と言う違いはあっても、たしかに義理の兄弟だ。
「ということは、わたしは聖騎士(エルディアード)の義理の甥、ということにもなるのか。これは気を抜けないな」
 うれしげな表情の中に断固とした決意が垣間見える。
 アルディエートに迎えられた男が今さら、とは、アジェルも思わない。
 祭主の娘婿、王の義兄、それ以上に聖騎士(エルディアード)の縁者であることが、彼らにとって誉なのだということは、この数年でよくわかっている。
 促されるままに並んで歩きながら、叔母上とお呼びになってみてはいかがです、と冗談半分に言ってみる。
 恐れ多いと苦笑し、それから少し考える素振りを見せた騎士団長は呟いた。
「宴の席なら、そうお呼びしてもあるいはお許しくだされるかな」
「あの、宴とは」
 長身の騎士団長を見上げたアジェルに、義兄である男はにこりと笑う。
「名残の宴です。今朝方暇を出したはずの賄夫らがなぜかまだ厨房にいる。早く退去せよと近衛兵が言うと、もう少しだけお待ちくださいという。何を待てというのだ、と問えば、こう応える。これが最後のお勤めなれば、腕によりをかけてご用意しております、と」
 ほら、と示された広間には、見事なまでの料理が並んでいた。
「いったい、どこにこれだけのものが……」
「半分は籠城を考えて蓄えてあったものだそうです。残りは、あの、ああ、イフォーリユ殿」
 神殿騎士団長は陽気に声をかけた。
「陛下、こちらはランガにその人ありと謳われた名将。かつて陛下の叔父上カルシュラート公の副官として働かれ、後にはファ・シィン殿の右腕と呼ばれた方。イフォーリユ将軍閣下です」
 はじめまして、将軍と、アジェルが会釈する。
 初老の男は皺の刻まれた目元を、優しげに細めた。
「しがない爺でございますよ」
「いいえ、ご高名はかねてより。お会いできて光栄です」
 いやいや、とイフォーリユは首を振った。
「昔の話です」
「何を仰る」
 謙遜するイフォーリユにかわり、騎士団長は言った。
「陛下、イフォーリユ殿は、サハンより、有志を募りご参戦下されたのです」
 それに山のように荷を積んで、と、彼は甕(かめ)と果物をさした。
「それは……お礼申し上げます」
 頭を下げたアジェルにイフォーリユは破顔した。
「手ぶらで来てもこのような老いぼれらに用はないと、門前払いされるのではなかろうかと思いましてお持ちしたのですが……これは今宵の内に食べきるのは難しゅうございますなぁ」
「いいえ、これは全部皆でいただくのです」
 陽気に答えた騎士団長が笑う。
「そして明日の客人には、残った鋼をたっぷりと馳走して差し上げましょう」

 かいがいしく給仕を務めていた者たちが、アジェルとファ・シィンに別れの挨拶し退出した後も、なお宴は続いた。
 時刻は当に深夜、日も変わったというのに兵たちは誰一人、席を立とうとはしない。
 朝には戦が始まることを忘れているのか、忘れようとしているのか。
 飲み、語り、食べ、笑い、そしていつの間にか広間の床に転がって眠りに落ちている者もあちこちに見られた。
 義兄に率いられる神殿騎士団や、近衛師団の面々、そして古くからのファ・シィンの部下たちに囲まれてアジェルも杯を重ねる。
 しかしアジェルの杯に湛えられているのは、酒ではなく清水であった。
 水に恵まれぬエルディアでは、酒こそが日常の飲料である。
 酒の種類も豊富だ。
 物心つくころから、これらを「水」に育つエルディアの民は総じて酒に強い。
 さらに戦場に水を携帯することは衛生面で難があるために、兵ともなれば「酒に強いこと」が当然のように求められた。
 が、しかし、アジェルの身は脆い。酒のもたらす酔いとは異なる作用に、心臓が耐えられぬ。
 ゆえに彼の杯に注がれるのは、果汁で香りづけた清水が常であった。
 酔いにまかせて心地よく語らう者らを眺め、取り残されたような疎外感にふとため息をつく。

 ランガ以来の知人と話すファ・シィンの声は、聞いたことがないほど穏やかだった。
 口調さえもたおやかで、どこかやわやわしささえ感じさせた。
 アジェルには馴染みのないそれを指摘する者はない。ということは、ランガにいたころの彼女は、この声でこの言葉で語ることが普通だったのだ。
 ランガを離れてからの彼女の緊張が、ここへきて解けつつあるのかもしれない。
 王宮は彼女にとって住み良い場所ではなかった。彼女はエルディアナ(娘を生む妃)として求められここに上げられたが、決して歓迎はされなかった。
 敵意とは言わずとも好意的ではありえないこの王宮で、彼女が心を解いて接するのは僅かの人々だった。
 サキス、イルージア、そしてアジェル。
 身近にいたつもりだった。だが支えにはなれなかったのだと思い知らされる。
 そう思うと、口の中が砂まみれになったような苛立ちを覚えた。
 手元の杯を傾ける。
 空けるとそれを見計らったかのように、すい、とひとつの杯が眼前に差し出された。
 差し出された手をアジェルの視線は辿る。
「叔母上」
 淡い金色のその飲み物が酒であることは一目で知れた。
「わたしは」
 飲めないと言いかけたその言葉を、穏やかに封じファ・シィンは微笑んだ。
「八割がた水でございますが、よく冷えておいしゅうございます。召されませぬか」
 彼女が飲んでいたのは、花酒(コルシャ)と呼ばれる花の香りづけをした酒である。香りと同様、味も甘く、しかし酒として軽いものではない。それを発泡水で薄めて呑む。好みで、さらに果汁を加える者もいる。
 いただきます、と受けとる。
 固辞するのも申し訳なく、仕方なく含むと甘さに隠された穏やかな酸味、かすかな苦味とともに、仄かな香りが口の中に広がった。
「いかがでございますか」
「はい。おいしゅうございます」
 よろしゅうございました、と笑むファ・シィンから目を逸らすために、アジェルは杯を口元に運んだ。

 競うように酌み交わす中で、とうとうファ・シィンが根を上げた。
「わたくしも、少々過ごしたようでございます。風に当たってまいります」
 陽気に微笑んで、ファ・シィンは立ち上がった。動きにつれて裳がさらりとすべる。
「ファ・シィン殿、すぐにお戻りくだされ。まだまだ空けねばならぬ酒甕(さかがめ)が、ほれ、そこかしこに待っておる」
 誰かがかけたそのことばに、ファ・シィンが歩を止めて振り返った。
「我らはあのように甘い花酒は飲みませぬゆえ、あれは是非にも二の姫君(シャリズ)に開けていただかねば」
 二の姫君とファ・シィンを呼んだのはイフォーリユだ。
 主であるランガ守護の二番目の息女だからだろう。であれば、アジェルの母イルガ・ファムは一の姫君(シレリズ)と呼ばれていたに違いない。
「何をおっしゃいます。もはや味などわからぬでしょうに。先ほどから何度、わたくしの杯を取り違えたやら……と」
 その膝が、ふらりと揺れる。
「叔母上、危のうございます」
 立ち上がり、手を貸そうとするアジェルに、大事ございません、と言い置いて彼女は露台に出た。

 ファ・シィンが席を外した後、ますます昂じる宴をアジェルは持余してしまった。
 もともと酒宴に縁のない暮らしを送ってきたうえに、酒に酔っての狂騒の中、一人素面でいるのだからそれも仕方ない。
 もはや微笑んで相槌をうち続けるしかすることのないアジェルの耳に、激しい罵りあいが飛び込んでくる。
 驚いてそちらに目を向けると、少し離れた場所では二人の男が互いに額をつき合わせるようにして睨みあっている。
 二人とも呂律がまわらぬため、何を言っているのか聞き取るのは至難だった。何度も繰返される言葉の中からようやく意味を拾い出す。
 あのときの一番槍は俺のはずだったのだ、それをおまえが!
 おまえなど永遠に後方で矢でも運んでおればよいのだ!
「あれは、十七、八年は前の諍いではござらんか」
 つぶやくイフォーリユに、その友人らしき男が同意する。
「一番槍も何も、そもそもあやつらは槍脇だったのだが」
 槍脇、と呟いたアジェルに神殿騎士団長が耳打ちした。
「戦の手順です。まずは弓を射掛けあう。距離が詰まると槍兵が突撃する。しかし槍隊は側面からの攻撃に弱い。その側面を守るのが槍脇と呼ばれる兵で、通常の得物は弓か剣です。矢が尽きる、あるいは敵との距離が詰まれば、剣を抜く。槍脇は重要な役目ではありますが、まあ、その、槍を持たせてもらえる者ではなかったということです」
 エルディアの兵は槍で戦う。
 その槍は王から賜り、これをもって一人前とされる。十八年前、彼らはまだ駆け出しの半人前だったのだろう。
 ふと思い出すのは、はじめてハルギスを持ったときのことだ。
 重さと扱いづらさに辟易し、槍であればわたしにも自在に扱えるでしょうかと問うアジェルに、イルージアは笑った。
「ハルギスにくらべれば、槍は随分扱いやすうございます。けれど槍はハルギスには及びませぬ。これこそがエルディアの至高の武器。まさに神器と讃うべきもの。もし、継ぐべき名と務めがなかったなら、わたしもこれを得たいと思ったことでしょう」
 神殿騎士がハルギスを武器とするのは、彼らの戦いの場が神殿内に限られることにある。屋内では長い槍は不向き、といって短くすれば槍本来の機能が奪われる。通常の剣では槍を持つ侵入者を退けることは難しい。
 しばしお貸しいただけますでしょうかと言われ手渡すと彼女は見よう見まねで数度振るった。
「これは確かに難しゅうございますね。長さに重さ。その上剣の重心が切っ先によっております」
 振りかぶるよりも、角度は変えず、槍のように前後に動かすほうが負担は少のうございましょう。
 それから数年、正神官となったアジェルのもとに届けられたのは一振りのハルギスだった。
 長さは変わらぬものの、刀身をやや細く作ったためか随分軽くなっていた。
 切っ先を薄くし、その分柄元に厚みを持たせたため重心が手元により扱いやすくなっていた。手元に巻かれた赤い紐は、ファ・シィンやイルージアと揃いだった。
「お祝いもうしあげます」
 微笑んだ従姉は、今頃ダル街道を駆けている。
 思い返しつつ、アジェルはイフォーリユの声を聞く。
「寄ると触ると、あの喧嘩。よほどの遺恨があるのかと思い隊を分けたに、此度はまた一緒か」
「此度こそは決着をと思うておるやもしれませんな」
「しかし、まあ、うれしそうにいがみ合って……」
 見れば両者とも実に楽しそうである。
 何を、と、矢運びと呼ばれた将が立ち上がり、もう一人の襟首を掴む。
 それ、やれ、とばかりに周囲は手を叩いて囃しだす。
 酒に酔っての殴りあいは、双方ともに足元が決まらず、拳もよろよろのたのたと繰り出されるだけ。
 情けないぞ、の野次が飛ぶ。
 喧騒に苦笑しつつ、アジェルはイフォーリユらに会釈してそっと席を立つ。
 王が中座したことにさえも気づかない騒ぎに、アジェルは一人ごちた。
「湿っぽいよりはいいのかな」

 冷たい風が心地よい。宴の熱気が払われて、アジェルはほっと息をついた。
 暗がりにファ・シィンを見つける。
 露台に造りつけられた石の椅子に座り、手すりに寄りかかっている。
「叔母上」
 声をかけて近づくと、ファ・シィンが首をあげた。
「いかがなされましたか」
「皆の勢いについてゆけなくなりました」
 遠く聞こえる宴の声。どうやら喧嘩には「矢運び」が勝ったらしい。
「で、ございましょうね」
 静かなファ・シィンの笑みに、アジェルもまた笑みを返した。
「叔母上は、もう、席にお戻りにはなられませんか」
「いささか疲れました。お許しがいただけるなら、休ませていただきたく存じます」
 もはやこの城に、アジェルの身を危うくする者はない。
 その安堵が、ファ・シィンを酔わせたのだろう。
「では、お部屋までお送りいたします。叔母上」
 皮肉なことだ。
 アジェルはファ・シィンに向けた穏やかな微笑みの裏でそう思う。
 キ・ファという脅威に晒されて、やっと手に入れた安寧。
 ファ・シィンもアジェルも、エルディアに生まれながら、エルディアにこそ脅かされ続けてきた。
「足元に、お気をつけ下さい」
 手を差し伸べて、ファ・シィンの身を支える。
 二、三歩踏み出して、ファ・シィンの膝がかくりと砕けた。
 互いに小さく苦笑を返す。
「肩をお貸しいたします」
「かたじけのうございます」
 しとりとかかった重みに、ファ・シィンの存在を急に強く感じた。
 吐息に含まれる花酒の香りに、頭の芯を溶かされるような心持ちをおぼえる。
 腰を支える手に、必要以上の力を込めぬよう努めて意識しながら、アジェルは居室への回廊を歩いた。