母、として慕っていた。
それは、間違いない。
では、いつから、と、自問する。
おそらくは、あの晩からのように思う。
晶花(カシヤン)の匂いが母の記憶を呼び覚ました。
それは取りも直さず、彼女が母でないことを知らしめた。
そうして初めて見るその女性は、子供のころから憧れ続けた英雄ではなかった。
声もなく、身じろぎひとつせぬままに、涙するその人は、自分が信じていたよりもずっと脆く儚かったのだ。
あの人の身の上に降積もる武勇や名声が、あの人本来の姿を隠していたことに気づいた。
握る手の上に落ちた涙が、その塵を洗い流す。
そう、その刹那。
痛みに身が震えた。
晶花(カシヤン)ではない。
それは臓腑の痛みではなかった。
身の底から突き上げるようなあの痛み。
おそらくあれは、決して明かすことのできぬ思いが胸に刻まれたそれであったのだ。
聖騎士(エルディアード)としてファ・シィンは葬神殿に暮らすことになった。
その際に賜ったのは、もっとも奥の間、それ以前は大神官が使用していた部屋だ。
大神官は聖騎士に部屋を譲り、葬神殿に隣接するアルディエート公家の一室に移り住んだのである。
これは特に奇異な処置ではなかった。
アルディエート公家は、代々エルディアの儀礼と祭祀を司る。大神官を爵位で呼ぶならばアルディエート女公。
つまり、彼女は自宅の葬神殿にもっとも近い一室に移った、ということである。
しかし。
ファ・シィンは賜ったその部屋ではなく、病身の甥の部屋に居ついた。
ほぼ終日を、アジェルの傍らで過ごす。
食事は一切を手ずから作ってあたえ、眠るときは毛布に包まって床に寝る。
湯浴みのための湯さえも、人任せにはしなかった。
それは戦地に暮らしたファ・シィンにとっては、どうということのない行いだった。
が、それはファ・シィンが、この葬神殿を暗に「戦地」として認識している表れと解すこともできる。
井戸と部屋を往復する、桶やたらいを抱えたファ・シィンが民人に目撃されるにいたり、王ならびに王族議会、貴族議会の諸侯らは頭を抱えた。
民人はファ・シィンを女神にも等しく崇めていたし ―― 聖騎士(エルディアード)が王とともに神籍に入る者であるとするなら、まちがいなく彼女は生きた女神なのだ ―― ファ・シィンが聖騎士(エルディアード)という名の虜囚になっている、などとの噂が城下に蔓延することになれば、面白くない事態になることは予測できた。
彼女の信奉者の多くは軍属であることも、議会の危機感を煽った。
だが、これを止めようにも、本来死者であるはずの聖騎士(エルディアード)に対して何ごとかを規制する法がない。
病床の甥の身を案ずる叔母に正統な理由もなく「手ずからの世話をやめろ」とはさすがに言えなかったし、言ったところでファ・シィンが聞き入れるとも思えない。
病に伏した少年がただの貴族の子息であれば「聖騎士の重責を担う者が、身びいきをすることは好ましくない」と理由付けすることもできたのだろうが、困ったことにその少年は先王の第一王子であり、次のアルディエート公でもあった。
聖騎士が献身するに、これ以上の者はない。
思わぬ頭痛を抱え込むことになった彼らを気にかける様子もなく、ファ・シィンは日々を送る。
議会とファ・シィンの不和を見かねたアルディエート女公が、アジェルの部屋と隣室とを続き間にし、その部屋にファ・シィンのためいくつかの調度を運ばせた。
アジェルの部屋の中庭に面した箇所に水場を設け、炊屋を建てる。
アルディエート女公が手配したこれらのことは、一神官への処遇として特例ではあった。
しかし、そもそもアジェルが葬神殿に入ることになった要因には、アルディエート公家側の事情が大きく関わっている。そこに議会の思惑が介在したことは事実だが、表向きには出奔したアルディエート公嫡子の代わりに、先王の第一王子はアルディエート公家に迎えられたのだ。
ファ・シィンにとってアジェルが亡き姉の一子であるのなら、アルディエート女公にとっては自らの跡を継ぐ息子である。
その費用の全額がアルディエート公家から拠出されたこともあり、議会も表立っての反対はできなかった。
ところがこれは次のような噂を生んだ。
「何が何でも、ファ・シィンを閉じこめる気らしい。ただの一歩も内殿から出さぬよう、中庭に水場まで設けたそうだ」
神殿騎士団から近衛師団へ、さらには辺境騎士団へとその噂は瞬く間に広がった。
彼らは虜囚となった ―― 有能な指揮官を神殿に囲い込む行いを、彼らは決して好意的にみなかった ―― ファ・シィンを心から尊敬していたし、なにより、無能な上官は有能な敵より厄介であることを、骨身に沁みて知っている。
ファ・シィンなしに、この戦は勝てぬ。
すぐにもファ・シィンを解放すべし。
これからますます激しくなるであろう戦地で日々を生き延びるものと、王都に座したまま権力闘争に明け暮れる者との温度差もこれを助長した。
これを鎮めるために議会は布告する。
ハン大老の子息、現王族議会書記長の娘、第六位王位継承権を持つ娘とアジェルの婚約を。
議会とファ・シィンは決裂しているのではない、との宣言でもある。
それこそがファ・シィンの目論んだことであったと知っていたのは、アジェルただ一人。(あるいはファ・シィンの従妹でもあるアルディエート女公も一枚噛んでいたかもしれないが、彼女はこれに関して沈黙を守った。)
「王となり、この国の最後をわたしとともに看取っていただけませぬか」
あの日、ファ・シィンがアジェルに告げた決意。
その布石はこうして敷かれたのであった。
そしてアジェルと形だけの婚儀を交わした娘は、この城を出た。
シェル・カンの妹を戴冠させるために。
そう、エルディアの儀礼と祭祀を司る、アルディエート公夫人として、近衛左軍の将カルシュラート女公イルージアとともに。
キ・ファ軍が王都の四門を塞ぎ、包囲を完成させたのはその二日後、一昨日の昼過ぎであった。
明朝までに城を明渡さねば攻撃を開始する、との通告があったのは今朝方早く。
後に控える軍勢を嵩に、高飛車に開城を迫った使者に対し、ファ・シィンはあくまでも他国の使者を迎えた、と、だけの儀礼で応じる。あまりにも穏やかな空気に、かえって使者のほうが戸惑ったようだった。
「玉座の間までグァンドール殿にお越しいただければ、この城はお譲りいたしましょう」
いぶかしげに眉を顰めた使者に、彼女は微笑む。
「明朝、王都の四門を開け放し、門兵を下がらせます。
大道をまっすぐ、王城にお進みなさるとよい。
ただし、この城は広うございます。案内なしでは迷われるやもしれませぬな。
それに、今この城に残るものはわたしと同じく無骨なものばかり。粗相があればご容赦を。
明日、日没までに玉座までお越しいただけたなら、この城は差し上げましょう」
欲しければ、奪い取れ、と暗に仄めかす返答に、使者は顔をゆがめた。
「我らを退けられるとお考えなのですか」
「いいえ」
「では、なぜ」
ファ・シィンはその問いには答えなかった。他国の大使が訪れたときと同じように、使者に労いの水を与える。
「では、ご主君にはよろしくお伝えくださるように」