夢現 ―― 忘れえぬ記憶 ――


 寂れた庵に居を構えるその老人がわたしに話を聞かせてくれたのは、もう十年以上も昔のことだ。そぼ降る雨に、竹の葉が濡れていた。雨音のほかに聞こえるのは、時折老人がすする茶の音だけ。わたしはと言えば、勧められた茶を飲むことさえ忘れ、彼の話に聞き入っていた。

 あの日、わたしは心に大きな迷いを抱えていた。慣れ親しんだ竹林をそぞろ歩きながら考えていたのは、ただ一つだった。
 どうしたら、決断を悔いずにすむか。
 ふと気付けば目の前に庵があった。なぜ、こんなところに、とも思ったが、思考とは別に足は庵に向かって歩み始めていた。
 いったい、どこをどう通って、その庵を見つけたのだろう。それすらも定かではない。

「ところで、お若い方。忘れられぬ、という記憶をお持ちかな」
 突然の客人を快く迎え入れた老人は言いながら、皺だらけの口元でわずかに笑った。
「忘れられぬ記憶、ですか?」
 唐突な問いかけに、わたしは彼のことばを反芻する。
「どういった、ことでしょう? たとえば」
 老人は手元の茶碗から目を上げることもなく、今度ははっきりと笑みを浮かべた。柔和そうな、年老いた男の笑みに、これほどまでの凄惨さが含まれようとは。わたしは、乗り出していた身を思わず退いてしまった。
「持っておらぬ。当然のことでしょう。そのような記憶を抱えるほどには、あなたは生きていない」
 わたしは、年若さを嘲笑うような彼の口調に、不愉快を感じた。事実、そういった些細な不快感さえ、隠す術を持たぬ若造であった。
 彼はわたしの不快に気付いたのか、それとも気付かなかったのか。しばし沈黙し、二度三度、お茶で口を潤した後、話を再開した。
「わずかばかりの人生の中で、忘れる記憶が多いはずもない。それでは、忘れられぬと比較することさえできません。愚かな問いかけでありましたな」
「そうでしょうか」
「人生の大事といえど、歳月を重ねれば、その思いは日々鮮やかさを失うもの。色あせるもの。無理に留め置こうとしても、それは得手勝手な彩色を施した贋(いつわり)の記憶。どれほど真実に則していても、そうなった思い出は、事実ではない。……しかし、それらはまた、優しく美しい」
 そこで老人は、初めてわたしを、目に映すのではなく、しっかりと見た。
「お幾つですかな」
 愚弄されているように、わたしは感じていた。話しても理解できぬだろう、と言われているようだった。
「失礼だが、ご老人にもわたしと同じ時分があったでしょう。聞き手としてわたしの若さが気に入らぬとでも、おっしゃるのか」
「いや、いや」
 わたしの険のあることばに心底驚いたように、老人は、しかし愉快げに目を細めた。
「これは失礼をした。うっかりしておりました。そう、年若いことを引け目に感じる。そんな時分が、確かにわたしにもありましたな」
「……引け目になど、思ってはおりません。年齢など、誰にでも加算されるものですから」
「うむ。当時は、そう、気負っておりました。人の実力は決して経験ではない、と」
「気負っている? わたしが?」
 老人は楽しげに笑い、わたしは押し黙った。
「そのように、不愉快を顕にしていることさえ、矜持となり得た日々。染め替えることのできぬ記憶を、わたしが持ってしまったのも、ちょうど今のあなたと同じ年頃だった」
 その顔に、笑みが浮かんでいたのは幻かと思うほど急激に、老人の表情は暗く凍てついた。
「記憶は色あせることなく、この皺だらけの身と魂に刻まれております。しかし、年老いたわたしは、それさえも弁護する知恵を得てしまった」
 茶碗に目を落とした彼は、染みの浮かぶ骨ばった手で茶碗を撫でる。
「もう一度、確かめたい。己が何を成し、何を得たのか。そして何を失ったのか」
 再びわたしに視線を戻した彼は、白濁しつつある目でわたしの姿を通して過去を遡る。
 その時になって、わたしは初めて思い当たった。
 彼は、わたしを嘲ったのではなく、彼自身の若き日の姿を嘲ったのだということを。
 わたしの見当違いの正論は、老人の話の腰を折っただけだった。他に付け加えるなら、自らの未熟さを曝したことだろう。
 粋な謝罪さえも知らなかったわたしは、小さく頭を下げて老人に話の続きを頼んだ。
「お話いただけませんか」
 老人は微笑んだ。それは嫌味のない慈愛に満ちた笑顔だった。
 長い話になります、もう一服、頂いてからお話しましょう、と老人は言った。
「申し訳ないが、戸を閉めていただけますかな。初夏とはいえ、今日のような雨の冷え込みは、このようにくたびれた身には堪えます」
 わたしは立ち上がり、縁に近づいた。
 庵を取り巻く竹が、雨に小さな音を奏でている。濡れた葉の冷たい光沢に、わたしも肌寒さを感じわずかに身を震わせた。
 扉を閉める手を止め、竹の向こう、燻した銀のように暗く柔らかく光る空を見上げる。
 その色は、老人の目に似ている。

 彼の話す長い長い物語は、わたしを恐怖の底に突き落とした。

 老人がすべてを語り終えたとき、わたしは震えていた。吐息さえ、乾いた咽喉の奥に張り付いてしまう。体を包むのは氷のような冷気。わたしの様子にはかまわず、老人はわたしに聞いた。
「いったい何を、どこで間違えたのでしょうな。忠実な臣であり続けたいと思っていた。その思いに偽りはなかったというのに。そして何を得たのでしょう。失ったものだけが輝いて見えるというのに」
「何を、知っているのです?」
 ようやく出た声は、惨めなほどにかすれていた。
 この老人は何者なのだ。何を、知っている。いや、知られてはならないことを、何故知っているのだ。
 震える手で、鞘をつかむ。右手で、柄に触れたが、強張った指はまるで言うことを聞かなかった。
「何も。知っているのは、お若い方、あなたではないのですか」
 冷えたお茶で唇を濡らした老人は、その落ち窪んだ目をわたしに向けた。
「わたしは祈った。死に逝く床で。もういちどあの日に戻れるのなら」
 戦慄が背を駆け上る。伸ばされた老人の腕を払いのけ、わたしは立ち上がり、身を引いた。茶碗が勢いで転がった。が、老人はそれ以上わたしを追わなかった。じっとその瞳でわたしを見るだけだった。
「この道だけは、歩ませまいと」
 ことばを詰まらせたのか、老人は黙り込んだ。
「教えてくださらぬか、わたしは何を得たのであろう。手に入れた玉座で政を執り、その玉座はわが子が継いだ。今はその子供が玉座に着こうとしている。わたしの治世は、今でも称えられている。それなのに、朽ち果てようとしているわたしには、なにもない。なにもないのですよ」
 すがるようなまなざしに、わたしは震えながらことばをつむいだ。恐怖はすでにわたしの内にまで沁みこんでいた。意味のあることばをつむげただけ、マシというものだ。
「あなたは、玉座を得た。得る代わりに、友と信頼を失った。いや、捨てたんだ。一番の友を裏切ったあなたは、誰も信じることができなくなった。誰も信じないあなたを、誰もが信じなかった。あなたの妻も、子も、その子も!!」
 一息に言い終えたわたしに、老人はやんわりと笑った。
「そうです。そのとおりです。生きるため、と彼を殺し、殺した後に死にたいと、思いながら生きてまいったのです。大義のためにといいながら、わたしは友と大義を斬った」
 老人が長いため息をついた。
「それで、お若い方。あなたは、どうなさるおつもりですかな」

 わたしは庵を転がり出た。扉を体当たりで打ち破るように、逃げだした。
 まっすぐに主の元へ向かい、ありのまま包み隠さず全てを語った。
 王位簒奪のたくらみがあること、首謀者の名、それにわたしが加担しようとしていたこと、全てを語り、処断を待った。
 あっけにとられる友人の顔を見ながら、わたしは安堵していた。
 彼を殺め、生きながらえて、栄誉と名声を得た挙句、あの老人のように朽ち果てるくらいなら、ここで友である主から死を賜るほうがよい。

「荒唐無稽な話だ」
 彼は大口を開けて笑った。屈託なく笑う彼は、幼いころと何ら変わらない。
「信じられん」
「言うな。今となっては、俺自身も夢ではなかったかと思うのだ」
「小心者の夢で、大望を土壇場で裏切られた宰相こそが気の毒だな。たくらみが知れたときは生きた心地がしなかっただろう」
 自分を殺そうとした男だというのに、彼はそう笑う。
 たくらみを知った後、彼は宰相を呼び出していった。
「玉座をくれてやるわけには行かぬ。やがて玉座に座るものの祖父で我慢してはくれぬか」
 そして彼は宰相の娘を妻に迎えたのだ。
「その老人は、本当におまえだったのか? おまえが謀反に加担した、成れの果てだったと?」
「知らん。だが、あの時はそう思ったのだ。そうとしか思えなかったのだ」
「ならば、言ってやりたいことがあるのだがな」
「何をだ」
「知っていた、と」
 感情を隠す術は、すでに身につけていた。動揺も驚愕も、身を包み、心を包む鎧の下から見えることはない。だが、このとき、すべて隠しきれたのかどうか、自信がない。
 無表情を取り繕うわたしの顔を見て、彼はにやりと笑った。
「おまえはわたしよりデキがいい。そのおまえがわたしを斬ると判断したのなら、そのほうがいいのだろう。そう思っていた。だからあの日、おまえが決死の形相で乗り込んできたとき、ああ、今日がわたしの最期だと覚悟した。ところがおまえは宰相の罪を暴き、そのうえ自らもそれに加担したと言った」
 彼は視線を城壁の外に向けた。わたしもそれに倣う。町が見える。そして更なる向こうには、長大な川が。
 目に熱を感じる。
「あのときほど驚いたことは、なかった。こんなわたしでも王であってよいのだ、と、許された心地だった」
 ふと彼が黙り込む。
「だが、どこか別の時間で、わたしを殺めたことを悔いながら死に逝こうとしているおまえがいるのなら、言ってやらねばならぬ。悔いることはないのだと。他ならぬおまえの決断だったからこそ、それを信じ、受け入れたのだから」
 会いに行かぬか。
 彼はそういった。
 その竹林は、どこにある。会いに行こう、わたしも話がしたいのだ。
 たとえあの老人が、わたしではなかったとしても、十年の年月が流れた今、生きているとは考えにくい。それに。
「もう、聞いた。きっと聞こえている」
「そうか」
 残念そうに彼は言う。
 会いたかったのだがな。シワだらけのおまえに。
「ま、いずれ、会えるか」
 壮年にさしかかろうとしているのに、彼の笑顔には曇りがない。
「言っておくが、そのときにはおまえも皺だらけだ。干し梅のようになっているさ」
 そう返したわたしを、彼は戯れに「無礼者」と叱りつけた。大げさに驚いて見せたわたしは言った。
「わが主に置かれましては、千歳万歳までも、御健やかにあれと、申し上げたのですよ」

 聞こえているだろう。だから、わたしを止めに来たのだ。死に逝く最後の瞬間に、魂を過去へと放ち。

「俺は裏切らない。あなたとは違う。裏切らない、死ぬことになっても」
 叫ぶようにそう答えたわたしを、満足そうに見つめ、頷き、老人は塵と消えた。

 雨が降る。笹を揺らす。
 それだけで、よみがえる幾つもの記憶。塗りかえたくない、大切なもの。
 年老いて、飾り立てることなく、持っていられるなら、それもよいのだと。
 今は、そう思う。

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