五月雨

 雨が降っていた。音もなくしとしとと降り続くこの雨が、わたしの転機にはいつもあった。

 声をかけれらた。ふり返る。そこに思いがけない人物を見出して、わたしは黙り込んだ。いや、その声は、ふり返る前からわかっていた。しかしその声の主は、かつて、決して自らわたしに声をかけることはしなかった。
 その日は、午後から雨になった。家を出る際、振りそうだとは思ったが、荷物になるのを嫌って、わたしは傘を持たずに出勤した。おかげで、帰り道、雨宿りをすることになったのだ。

 もし、という過程は無意味よ。
 と彼女はよく言った。
 だが、もし、傘を持って出でていたなら。

 雨宿りをしているのはわたしたちの他に数人いた。
 わたしに声をかけたのは、周囲の目を惹く美しい女だ。
「元気そうね」
「ああ、君も」
艶やかに微笑む彼女は、変わりなく美しかった。いや……そうだろうか。以前とは、どこかが。
「本当に久しぶりね。8年ぶりかしら。それとも9年だったかしら」
「8年と5ヶ月だよ」
 即答できる、自分がおかしかった。指折り数えていたようで。……数えていたのかもしれない。
「そう、そんなに経つのね」
 懐かしむような表情を浮かべた彼女にわたしはとまどいを覚える。
 なぜなら、彼女は過去を懐かしむような女ではなかったから。だからわたしは彼女が次に続けたことばに対して返答ができなかった。
「懐かしいわ」
 社交辞令でも、「そうだね」と相槌を打つべきだったのかもしれない。だが、わたしにはそれができなかった。
 知らない。
 こんな女は、知らない。
 黙ったままのわたしに、彼女は小さく笑った。その気遣うような笑顔が、ますます違和感をかきたてる。
「そうね、あなたにとっては懐かしむ過去じゃなかったわね」
「いや」
 そんなことはなかった。この8年、わたしはずっと彼女を懐かしんでいたはずだった。
 今、この女を目の前にするまでは。
「どうしたの?」
 どうした、か。そんな問いかけを、彼女から聞くのははじめてだ。
「どうしたんだ?」
「え?」
 問いかえしたわたしのことばに、彼女の笑みが、張り付いて不自然な笑みが消えた。
「何かあったんだろう」
 重ねたわたしの問いに、彼女は俯いた。わたしの中の違和感はますます大きくなる。
 記憶の中にある彼女なら、わたしのこの問いになんと答えただろう。
 そう、おそらくは。

「あなたには関係ないわ」
 降り続く窓の外の雨を見つめたまま、眼差しさえ俺には与えず、彼女は言う。冷たいと言うよりはむしろ関心がないという言い方だった。手のひらに砕いた氷を乗せ吹くような冷ややかさは、彼女をいっそう引立たせていた。白く輝く雨が、よく似合う。
「関係なくはない」
 否定する俺に、彼女は言った。
「何ができると言うの? あなたに」
 そう言いながら、口の端でうっすらと彼女は笑う。
 俺はその笑みが好きだった。
「できることなど、ないでしょう?」
 声に出されなかったことばをわたしは聞く。彼女はわたしの力添えなど、まったくあてにしなかった。いや、自分以外の誰をも、必要としていなかった。
「……君には、俺なんて必要ないんだな」
「? 必要とされたいの?」
 そこで彼女は初めて不思議そうな表情を浮かべるのだ。彼女の問いかけは必要ないわ、と言われるよりも胸に堪えた。
 だが、同時に俺はそう応える彼女だから好きだった。

 傲慢で誇り高く、美しい女だった。
 彼女と別れるときも、だから、わたしは平気だと思っていた。
 なぜなら。
 彼女が、他の誰かに膝を屈することなどないと、信じていたからだ。
 たとえわたしのものにはならなくても。

「ペットだよな、おまえ」
 わたしと彼女の関係を、そう揶揄したやつがいた。
「愛されてるだろうさ、確かにな。でも、犬をかわいがるようなもんだよ。気まぐれに投げ与える餌に、満足してるってんじゃ、野良犬だぜ」

 そうではなかった。
 そう気付いたのは、別れて後のことだったが。
「お互い、好きなようにやりましょう」
 勝手気ままな言い草。俺という存在は必要ではないと明言する彼女のことば。彼女に人生に俺は必要ではなかったのに、それでも彼女は一緒にいた。妥協も我慢も知らない彼女のその行動が何を意味していたのか。その事に気付くことができたならよかったと、わたしはずっと思いつづけてきた。必要だろうがなかろうが、彼女がわたしと共にいたいと思っていた現実を、わたしの愚かな願望、いや、妄想が打ち砕いた。

 終局は、俺が切り出した。
 別れよう、と言った俺に、彼女は「そう」と答えた。彼女は理由さえ問わなかった。
 俺は怖かったのだ。
 彼女に捨てられることが。
 飼い飽きたと、捨てられることが怖くて、捨てたのだ。
 そして。
 若かった俺は、心のどこかで期待していたのだろう。
 彼女が俺にすがることを。

「そう」
とだけ、こたえた女は、去った。霧雨の中、彼女はふり返りさえしなかった。青くけぶる雨の中に、彼女は消えた。
 結果的に背中を見送ったのはわたしで、客観的に見ると捨てられたのはわたしだっただろう。

 その女は今、目の前にいる女であるはずだった。
 だが、わたしの目にはまるで別人のように映るのだ。
 驕慢さも、気位も、片鱗は残っていても、まるで違った。出来損ないのレプリカのように感じる。何故だろう。
 記憶は美化されているのか?
 いや、美化できるほど生易しい記憶ではないのだ。彼女の在る記憶は。
 気になった。
 愛しさも恋しさも、この女の変わりようの前に冷めてしまったが、何があの美しい存在を、どこにでもいるような、つまらない女に変えてしまったのか、興味だけは残った。
「何かあったんだろう?」
 もう一度問い掛けたわたしに、彼女は俯いたまま頷いた。
 以前の彼女なら、この二重に問いかけるという行為さえさせなかった。それが、素直に頷くのだ。この事実をどう受け止めればよい?
「捨てられたの」
 形だけは変わらない、あの目に、涙が浮かぶ。彼女が捨てられとことや、泣いたということよりも、たった8年で人間がここまで変わってしまうのか、ということへの驚きが強かった。
「ごめんなさい。あなたには関係ないわね」
 そう言いながら、続きを聞いてくれと訴える眼差しに、わたしは遭わなければ良かったと強く思った。
 傘は、もって出るべきだったのだ。
 やはりこの女は彼女ではない。彼女ではないのだ。
「いや、構わないよ」
 別人なのだと割り切ったわたしの口から、自分でも驚くほど優しい、憐れみに満ちた声が発せられた。こんな声で語りかけることを、許さなかった彼女を思い出しながら。
「どこかに入ろうか。肩が濡れてる」
「ごめんなさい」

 そうして女が語ったのは三文小説にもなりえない、ありふれた身の上話だった。尽くして尽くして、裏切られ、捨てられた、と。わたしは聞いている振りをしながら、目の前の女の中から、かつての影を探していた。おそらく、わたしがこの女と時間を共有した目的はそれだったのだ。この女の中に、彼女の存在を感じたかった。

 最後まで、見つけることはできなかった。

 会わなければ、彼女はわたしの思い出の中にひときわ輝く宝石として存在しつづけただろうに、と。
 しかし、そう思いながら、一方では、あの気高い彼女がこんな女になってしまうほどその男が彼女の心を苛め抜いたということに、わたしは怒りを感じていた。
 いや、そのどちらの思いも、根源は同じだったのだろう。わたしにできなかったことを成し遂げた男への嫉妬。そして、わたしと彼女をこんな形で再び引き合わせた運命。彼女が昔と違って見えるのは、顔さえ知らないその男のせいなのだ。
 わたしはこの女を哀れんでいるのだろうか。夢の残滓として憎んでいるのだろうか。それとも。  女から視線を逸らし、わたしは窓の外を見る。夜の闇を溶かしこんだ、暗い雨が降り続いている。

 破綻しそうな思考の中で、ただひとつはっきりしているものは。
 その男は、わたしの大切な宝石を砕いたのだ。過去において、そして現在において。その喪失は未来においてさえも。

 彼女とはそれきり会っていない。

 おそらく今後も会うことはないだろう。それでいい。思い出さえも打ち砕かれたわたしには、もはや何もないのだ。

 赤く染まった雨が、アスファルトにゆっくりと広がってゆく。それはやがて側溝へと流れ込む。
 腹を抑えながら、ゆっくりと倒れこむ男を見る。伸ばされる腕から逃れるために、半歩、わたしは後退する。わたしをつかみ損ねた男の腕が、地面に引っ張られるように下がる。男は濡れたアスファルトに転がった。わたしは空を見上げた。

 ……。
 雨は、止みそうになかった。

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