第六章 選択の時 (5)

「ユリア」
 やめるんだ、と続けるジェスの言葉にそれは声を被せた。
「いやよ、やめないわ。やめさせたいなら、はやく決めてちょうだい」
 楽しげにさえ聞こえる声に、ジェスの思考はさらに整合を欠いてゆく。
「もう一度言うわ。わたしを撃つ? この子を見殺しにする? あなたが死ぬ?」
 優しい声音で提示される残酷な選択肢に視界が不規則に揺れた。
「難しいことじゃないはずよ。どれもあなたにとっては馴染んだことでしょう」
 その通りだった。
 ターゲットを仕留めることも、人質を救えなかったことも、死を垣間見たことさえ一度ではない。
 殺すことで間接的に死を見、見た死に生の終りを実感し、いつか同じような死が自分の上にも訪れるのだと信じていた。
 予見や予感などという生易しいものではない。
 確信でもない。
 他者の死も己の死も忌むほど遠くにはなかった。
 まるで肌のように寄り添い、いや、半ばは己と同化するものだった。
 死は誰にでもいつか訪れるものであり、それが少々早まったところでなんだというのだ。
 そう思っていた。そう信じることは死とともに生きるためには必要だったのだ。
 そのくせユリアの死は思わなかった。
「さあ、銃を拾って」
 のろのろと屈みこみ、白狼から借りた銃を手に取った。
「決めて。それで誰を撃つ? わたし? この子? それともあなた?」
 ユリアに抱かれ、短剣を突きつけられている斐竜の顔に恐怖の色はない。
 それがジェスへの信頼に所以するものでないことをジェスは理解していた。
 彼も死と共に生きてきた。いや、死の上に土台を築き生きている。
 いずれ己が誰かの生の土台となるべく死を迎えることも、覚悟のうちなのだ。
 静かな表情がそう語る。
「どうしても選べないなら彼でもいいのよ。彼も避けたりはしないはずよ。ねえ」
 彼女が視線を投げた先にいるのは連幸だ。
 のろのろと首を向けたジェスにではなく、連幸は彼女に問う。
「もし俺が避けたら?」
 意外なことを問われたとでも言うように彼女は眉をあげる。
「構わないわ。この子は助からないでしょうけど、わたしには関係のないことだもの」
 後ろ手に鞭を構える連幸に彼女は微笑んだ。
「あなたの鞭とわたしの剣、どちらが早いかしら。試してみる?」
「斐竜は助からないかもしれない。でも俺がしくじっても、人質をなくしたあなたは身を守る術をひとつ失う。それでも試してみていいの?」
 それがどうかして、と連幸の言葉に彼女は小首を傾げる。
 金属めいた光沢を持つ長い髪がさらりと斐竜の頬に降りかかった。
 同じ色だった。
 二人のゆがみの無い髪が混じる。
「言ったはずよ。わたしはどれだって構わない、と。……あなた、耳は聞こえてる?」
 本気で案じているようにも聞こえる口調に連幸が苦い笑いを浮かべた。
「お気遣いをどうも」
「いいえ、どういたしまして。聞こえているのならいいの」
 それで黙ってくれるのなら面倒がなくていい。
 連幸に向けられた穏やかな眼差しが、声よりも明確な意思を伝える。
 連幸が構えを解き、肩の力を抜く。それを確かめ、彼女は再度ジェスに視線を戻した。
「ねえ、ジェス。早く決めないと、誰一人助からないわ」
 彼女の言うとおりだった。石涼から借りたモニタに映し出される図面はじわじわと小さくなってゆく。
 ダクトを伝って広がる炎がこの砦を侵蝕している。
「どれかを選ぶだなんて思うから決められないのよ。でも、そうね。ひとつに決められないというなら、ひとつじゃなくてもいいのよね」

 同じ言葉を聞いた。
 ねえ、ジェス。なぜ悩むの。
 約束をしていた。仕事が入った。一度赴けばふた月は戻れない。
 ジェス、悩むようなことじゃないわ。あなたの助けを必要としている人がいるのでしょう。わたしは待てる、その人は待てない。それだけのこと。どちらかを選ぶだなんて思わないで。わたしを選ばなくても、あなたはわたしを失ったりはしないのだから。さあ、早く行かなくちゃ。こうしている間にも、犠牲は増えてしまうかもしれない。
 ごめんと言いかける俺の唇を細い指が塞ぐ。向けられた笑みに混じるのは哀しみではなく諦めだったのか。
 でも「お帰り」は最初に言わせてね。

 たった半年前のことだ。
「ねえ、それとも二人とも連れて逝くつもり? 欲張りなのね」
 眩暈とは別に視界を濁らせるものにジェスはただ一つの目を覆う。だが耳をくすぐる声は目を覆う闇の向こうから心に突き刺さる。
「でも、あなたたちが黒焦げになるのを見るのも素敵。大丈夫、立ち去ったりしないで最後まで見ていてあげる。引き裂いて見つからなかった魂も、炎には見えるかもしれないのですもの。どんな色かしら。どれほどの光を放つのかしら。ねえ、言葉どおりの命を糧に燃える炎はきっと美しいのでしょうね」
「……やめてくれ」
 ジェスのかすれた声に、彼女は哀れむような眼差しを向ける。手に覆われてなお揺らぎ濁る視界でも、それだけはわかった。
「わたしはやめないと言ったでしょう。やめさせたいのなら、ジェス。あなたが決めて。わたしを撃つか、全員で死ぬかよ」
 選べない。それでは決して彼女を選べない。けれど他人の命を犠牲にすることも、俺にはできない。
 どうして俺の命だけを求めてくれなかった。
 それならいくらでも差し出せたのに。
 瞼の闇の向こうから、しかし彼女は言うのだ。
「あなたの命をほしがると思ってる?」
 今さら俺に用はないということか。
 ユリアの記憶を持ち、けれどユリアではないこれだからこそ言える本音なのだろう。
 ジェスの口元に微かな自嘲が閃く。
 白狼から借りた銃が酷く重い。
 銃口が下がった。

「つまらないわ」

「どうして戦おうとしないの? わたしに挑んではくれないの」
 投げやりな声にジェスは目を開いた。
「つまらない」
 水気の晴れた視界に映ったのは彼女ではない。口調も声音も表情も、覚えのない女がそこにいる。
「つまらないわ。少しも面白くない。生きようと抗うから仕留めたいのに、そんな風に投げ出されたのではつまらないわ」
「……」
 ユリアと呼びかけようとして、声は咽喉の奥で消えた。
 ユリアではない、ユリアの形代でもない。
「微かな希望に縋って抗って、無駄だと知らされる。全てに裏切られた瞬間のあの表情がみたいのに」
 灰色の目が、いや、目によく似た器官がジェスの上を緩やかに走査する。
 生き物ではありえないその空気に、先刻まで感じていたとは比にならない嫌悪感がこみ上げた。
 ユリアでないユリアの姿をしたものに覚えた後悔さえもが遠ざかる。
「あなたは決して絶望への一歩を踏み出してくれない。そのくせ命乞いもしてくれない」
「……」
 何を言おうとしたのか。
 考える暇もなく、それが作った笑みらしき表情に総毛だった。
 飛び下がり、下げた銃口を咄嗟にそれに向けたのは、直観、いや本能とでも言うべきものか。
 力の抜けきっていた筋肉が、瞬時緊張したために、全身を震えが走った。
「どうしたらあなたは選んでくれるのかしら」

 何かを考える表情を見せたそれが再びジェスを見る。
 再度「ユリア」を纏いなおしたそれが、見慣れた、しかしユリアが生前には見せた事のない笑みを口元に描く。
「選べないのでしょう? この子をを犠牲にすることは。それならなぜわたしを止めようとはしないの? 止められはしないと初めから諦めているの? 諦めているのに惜しむの? それに何の意味があるのかしら」
 自己弁護のつもりなのかとそれは問う。
 斐竜の死を俺は選ばなかった、俺は斐竜を惜しんだ、けれど避けられなかった、というスタンスを作るためなのか、と重ねて心の内部に切り込んでくる。
「違う」
 否定する声が弱いのは、それも事実だとわかっているからだ。
 救えない理由を外部に求めようとしていることに、ジェスはすでに気づいてしまっている。
「それは事実のすべてではない、けれど大きくは違わない……そんなところでしょう?」
「その子を放せ。俺だけなら死んでやる」
 遮った言葉にそれは優しげな笑みを口元に作る。
「まだわかってはくれないのね。……惜しまない命に価値はないのよ。価値のないものを奪って何になるというの」
 それは自身の言葉から何かに気付いたように瞬きをする。
「ああ、そういうことね」
 ナイフを軽く構えなおし、斐竜の咽喉に刃ではなく切っ先を当てた。
「やめろ」
「じゃあ、止めてちょうだい。どうやって止める?」
 銃を握る手が大きく震えた。片手では支えきれず、両手で構えたが揺れは治まらない。
 意志が照準を合わせようとし、思念がそれを裏切る。理性が彼女を殺すことを求め、感情はそれを否定する。
 意識の下で暴れまわる心を抑えつけやっとの思いで引き金に指をかけたが、今度は体がそれを拒んだ。
 動けない。
「撃っちゃいけない。ジェス、さがって。連幸も」
 斐竜の指示に連幸が大きく一歩退く。それを視界に納めながらも、ジェスは動けない。
「ジェス、銃を降ろして」
 動けないのだ。動けば引き金を引いてしまうかもしれない。
 混乱した意識と思考に神経は正常な反応を返さない。
 動かないでいるだけができるただ一つのことになってしまっている。
 それを伝えるために声帯を震わすことも叶わない呪縛。
「お黙りなさい、お嬢ちゃん」
 動けないジェスを嬲るように見つめ、それは斐竜の首を握る。
 斐竜の咽喉を締め上げる細い指はさほどの力を持つようには見えない。
 だが斐竜の顔は見る間に赤くなる。
「いっそこのまま握りつぶしてしまいましょうか。あの醜い男のようにこの咽喉を。いいえ、二度と声など出せないように潰してみせましょうか。ねえ、お嬢ちゃん、鳴けない鳥になってみる?」
 美しく彩られた爪が斐竜の首の皮膚を傷つける。
 突きつけた切っ先にもゆっくりと力が込められる。
 まだやわらかい斐竜の咽喉は、その切っ先の進入をあっさりと許す。
「ねえ、お嬢ちゃん。あなたさっき言ったわよね。自分の身は自分で守ればいいって」
「……」
 何事かを言いかけた斐竜の咽喉を一方の手がさらに絞める。
 傷口から血が吹き零れた。
「どう? 守れない気分は? ねえ、聞かせてくれる? 足手まといになる気分がどんなものか、ねえ、言ってみてくれない? まだ、声は出るでしょう? 聞かせてちょうだい、今、どんな気分かしら」
 掠れた声はジェスには聞こえなかった。ユリアが笑う。
「ありがとう」
 笑ってナイフに力を込める。
「やめろ!!」
 見たくない。見せないでくれ。この(ハンターの)俺に……!! 俺は君を撃ちたくはなかったんだ!!

「だめだ、ジェス、撃つなっ」

 連幸の声だったのか、それとも斐竜の声だったのか。
 いくつのことが、同時に起きたのだろう。
 歌姫のナイフが斐竜の咽喉を大きく切り裂く。ジェスが銃の引き金を引く。
 やっと駆けつけた翠燕が持っていた剣を投げる。ジェスの右腕にそれが突き刺さる。
 喉から血をあふれさせながら斐竜が歌姫のナイフを奪い取る。
 連幸が鞭で打ち壊した貯水槽からの水流がレーザーを遮断するのと、歌姫を庇うように立ちふさがった斐竜の身にジェスが撃った銃の光線が吸い込まれたのは、どちらが早かっただろうか。
 光線の一部は斐竜が構えたナイフにはじかれ、翠燕の足元を焦がした。

 あふれる水と、噴出す血。
 斐竜の手から弾き飛ばされたナイフの残骸は歌姫の右頬を掠めて後方に飛び去った。
 水の壁が落ち、流れ去る。倒れこむ斐竜の姿が見えた。
 棒立ちになった歌姫の眉間に、ジェスは日烏から借りた短剣を左手で投げつける。
 狙いは大きく逸れ、短剣は歌姫の咽喉下に突き立った。

「間に合わない!!」
 胡蝶の悲鳴が白王獅子の内部に響く。
「上昇」
 白狼の短い命令を白王獅子は即座に実行に移す。爆発で発生した大きな炎がその白い腹部を舐める。
 紅蓮の炎と漆黒の煙が交互に立ち昇るそこで、乗り込んだ5人は呆然と下を見つめていた。
 あの下には、斐竜がいるはずだった。翠燕が、連幸が、石涼が、ジェスと歌姫がいた。
 打つ手なし……。
 巻き起こる熱風に揺れる機体の均衡をとりながら、白王獅子も沈黙したままそこにとどまっていた。

 一瞬の間に水は流れ去った。
「フェイ!!」
 駆け寄った翠燕が抱き起こす。
「外側が切れただけだ。たいしたことない」
 斐竜が生きていることに安堵し、ジェスは座り込んだ。声が出るのなら、すぐにも死ぬことはないだろう。
「動くな」
 しかし手当てをしようとする翠燕の腕を斐竜は押し下げる。
「俺はいい。早くしないと、壊れる。中の……初期化され」
「何をする気だ」
 翠燕が問いには答えず、斐竜は倒れた歌姫に這いよった。咽喉に刺さる短剣を抜き、胸を切り開く。
 流れるはずの血はない。閑散とした空間がそこにはあった。空虚な闇を、鋼の骨格に纏いつくファイバーの明滅が照らす。
「あった。……だめだ、取れない。早く……」
 静止する間もなく、斐竜はまだ電流の流れるその胸部に奥深く手を突っ込んだ。
 肉の焼ける音、そして臭い。引き抜こうとして引き抜けないでいる斐竜の腕を掴んで翠燕は無理やり引き抜いた。電流を遮断するその手袋がなかったら、斐竜の腕はすっかり使い物にならなくなっていたはずだ。
「これを……」
「何をしている!!」
「こ、れ、を早く、石涼に」
 そこまで言って声をなくした斐竜の手から、指先ほどのチップが零れ落ちる。
「連幸、撤収するぞ」
 簡単に止血し、斐竜を担ぎ上げた翠燕が厳しい口調でそういった。
「爆発する」
 冷たい水が、燃え広がっている炎や、それに熱された壁に触れれば、即座に蒸発するだろう。蒸発した水は、液体であったときよりも体積が増える。あれだけ大量の水がいっせいに膨張すれば、地上部はあっさり吹き飛ぶ。
「ジェス」
 呼ばれ、座り込んでいたジェスはのろのろと首を上げる。
 見上げる先に、翠燕の冷ややかな顔がある。
「腑抜けるな」
「俺のことは、置いて行ってくれ」
「そうは行きません」
 連幸はジェスの右肩を、歌姫の衣装を裂いて作った紐できつくねじり上げた。その上で二の腕に刺さる翠燕の剣を抜く。さらに傷口をおさえるように包帯代わりの布を巻いてゆく。
「足は無事ですね?」
 反対側の腕を掴んで立たせようとする連幸に――翠燕の両手は斐竜で塞がっている――ジェスは懇願した。
「頼む。このまま死なせてくれ」
「そうさせてさしあげたいんですけど、あいにくと料金の半分をまだいただいていません」
「な……」
「大丈夫、どうしてもと仰るならご精算の後で俺がきれいに片付けてさしあげますから」
 あまりといえばあまりな言葉を浴びせかけられる。
 それはまさに冷水をかけられたように、ジェスの目を覚ました。
「……それはオプションサービス?」
 訊ねると連幸は笑った。安堵を露わにしたその表情に、許されていることを知る。斐竜にあれだけの傷を負わせてしまったというのに。
「アフターサービスですよ」
 それから小声でつけたした。
「大丈夫。斐竜ならすぐに元気になりますよ。だから翠燕の報復は、斐竜に止めてもらってくださいね。俺は保護責任を果たせなかった立場上、口を挟めないでしょうから」
 苦笑しかけたジェスに、翠燕が言う。
「フェンリルで床を撃ちぬけ。出力は最大」
 フェンリル、と言われて、一瞬何のことだかわからず混乱した。が、出力、と、撃ちぬけという二つのことばが、フェンリルとは自分が手にしている銃であることを教える。
「ここでいいか?」
「右だ」
「了解」
 穿たれた穴からは一層下の階が見えた。床までの距離は思った以上にある。
 だが迷う間もなく連幸に襟首を引き捉まれ、ジェスは穴に落ちた。
 細い腕からは想像もつかぬ強力だ。
 連幸が手を放す。考えるより先に、自由になった体は教えこまれたとおり着地の姿勢を整える。
 それでも着地の衝撃は傷ついた腕には堪えた。辛うじて呻きを呑み込んだジェスに連幸が言う。
「ジェス、どいて」
 連幸の指示に転がって場所を空ける。
 その後から斐竜を担ぎ上げた翠燕が降りてくる。
 足音が無いどころか、担がれた斐竜には一欠けらの苦痛さえ与えなかった。
 作り物めいた完璧さ、という彼への感想に疑念を抱いたそれが最初になるのだが、このときは突きつめて考える余裕はなかった。
 思い出すのは何年も後になってのことだ。

 二層の床を打ち抜いたところで、フェンリルはパワー切れになった。
「蒸発させる気だったのか」
 斐竜を撃ったレーザーの出力に翠燕が首を傾げる。
 もう2,3回は使えるはずだったろうに、と続けられた言葉に冷や汗が背を伝い落ちる。
 しかたなく最下層めがけて三人は階段を駆け下りた。
「7層まで降りられれば、助かる可能性もなくはない」
「確実じゃないわけだ。翠燕らしくないな」
 連幸の軽口に、翠燕がどこまでも真面目に答える。
「6層では爆発に巻き込まれて死ぬ。それは確実だ」
「へえ、それは心強いね」
「7層と6層の間にはなにがあるんだ」
 ジェスの問いには、連幸が答える。
「この都市の7層以下は今で言うセレクトのプライベートスペースとして使われていたんですよ」
「なるほど」
 機密保持のために捨てられるのはいつでも市民だ。選ばれた者とその家族には、安全が保証されている。
 市民のために作られたはずのテラ・システムは、システムを守るために市民を見捨てる矛盾を移民初期から抱えてきたのだろう。
 その矛盾に気付いたものを、ひそやかに片付けながら。
「可能性でしかありませんけど、抜け道かシェルター程度のものは用意されているんじゃないかと」
「シェルターがある。この区画からは二層下からしか入れない」
 翠燕の応えに連幸が笑う。
「7層へ入るのに、8層(最下層)より下からしか入れない? 洒落てるね、その仕掛け」
 上部に入り口がない、横からも繋がりを立たれている。それだけに助かる可能性は高い、ということだ。
 それを調べるために翠燕は遅れたのかもしれない。
 雍焔がこの砦を捨てることも、「ユリア」に戻る気などないことも、斐竜がそれでも諦めないことも、連幸はそれに付き合うだろうことも、そのせいで逃げ遅れるだろうことも予測の範疇だったに違いない。
 唯一の誤算はジェスのフレイアが無事でなかったことだろう。
 フレイアが無事なら、階段を駆け下りる必要はなかった。
 ハンターになってからを共に過ごしてきた戦友の最後をふいに思い、胸が痛んだ。
 フレイアは失われた。ユリアも失った。ハンターではなく、市民権さえ棄てた。
 幽霊だ。
 いまさら死ぬまでもなく、俺は幽霊なのだと思う。急に身が軽くなった。
 ならばと思いついたことに、たとえようのない心地よさを覚える。
 亡霊となり、怨霊となり、テラにとり憑いてやろう。
 歪んだシステムを維持しようとする全てに災厄をもたらす悪霊になってやる。
 そうだ禍を運ぶ者、怒りの具現者に俺はなる。
 テラは俺をこう呼ぶだろう。堕ちた天使、竜(ドラゴン)の化身、即ち「悪魔」と。
 悪くない。実に愉快だ。
「アフターサービスには、別のことを頼みたいんだが」
 前を走る連幸に声をかける。なんですと振り返った連幸の顔に走った驚愕にジェスも背後を振り返った。

 踊り場の壁が砕け散る。熱風に煽られジェスは階段を滑り落ちた。
 手すりを握ろうと手を伸ばしたが紙一重で掴み損ねた。
 段差に肩を規則正しく叩かれながら、連幸の細い足を見ながらその足元を通過する。この強風の中、踏みとどまれる筋力が素直に羨ましい。
 一際強い衝撃を後頭部に覚えた。ひとつしたの踊り場の壁に頭をぶつけたのだろう。眩む視界で辛うじて捉えたのは、鮮やかなオレンジだ。
 視界を染める炎の中央に人型の影が黒く浮き上がる。
「斐竜! 翠燕!」
 連幸の声を最後に意識は途切れた。

 三人の上を炎と熱風が吹きぬける。
 斐竜を抱いているため遅れ気味だった翠燕が炎に巻かれた。
 風に煽られたジェスが、自らの意思とは全く無関係に階段を転がり落ちていった。
 手すりを掴もうとはしたようだが、傷ついた右腕ではその体重を支えられなかったようだ。
「翠燕、ジェス!!」
 上か下か。
 とっさに動きを決めかねた連幸の耳に
「連幸!」
 呼ばれ翠燕を向き直る。同時に降ってきた小柄な人影を抱きとめる。
「行け、早く」
「戯言を」
 斐竜をひとまず床に降ろすと連幸は炎を踏み越える。
 この程度の炎に炙られる程度で己の肌が焦げることがないことは実証済みだ。
 翠燕を抱え上げると階段を駆け下り、ジェスと斐竜の転がる踊り場でひとまず翠燕の衣服に絡む炎を払い落とした。
 とは言え、この三人を無事に連れ帰るとなると厳しいものがある。
 まずは階下へと向かうしかない。問題はどう三人を運ぶかだ。
 酸素喰らいの炎が階下から空気を吸い上げる。吹き飛ばされないように三人を押さえ――実は足で踏みつけていたりもしたのだが、意識のない面々にそれを知られることはないだろう――思案する連幸の耳に異様な音が聞こえた。
 風圧に階段が軋んでいるのだ。
「耐用年数を越えてるのは確かだけど、メンテナンスもされてないけど、まさか」
 言い終える間もなく、まず手すりが壁の一部を掴んだまま炎へと飛び込んでいった。
「壊れる? それは拙いかも」
 最下層以下の構造も定かではない。
 瓦礫の下で蒸し焼きにされたらいくらなんでも無事にはすまない。もちろん自分以外の3人は炭になるだろう。
 また一人になってしまう。ようやく居場所を見つけたのに……!
 熱気に晒されているのに冷たい汗が背を伝う。
『連幸、右です』
 石涼の声が聞こえた。ジェスのつけていた端末からの声だ。言われるままに右を見る。古臭い金網が見えた。換気口だ。
 立ち上がり駆け寄る。熱を持ち始めていた網の端を蹴り飛ばす。
 歪んだ金網は奥から噴出す風に耐えかねて吹き飛んだ。
 翠燕と斐竜を左右に抱えジェスを右手の先で引っつかむ。半ば引きずるようにして換気口に身を潜める。
 振り返ったそのすぐ鼻の先を掠めるようにして、階段の瓦礫が頭上方向に落下してゆく。
 水の匂いのする冷たい風が吹き上がった。
『飛んでください。最下層までの最短経路です。下りた先は西へ。突き当たりのドアがシェルターへの入り口です』
 確認でさえない石涼の言葉に連幸は軽く舌打ちした。
「三人を抱えてこの高さを? さすがの俺でも捻挫するとは思わない?」
『迎えは手配しておきます』
 安心して捻挫しろ、と言わんばかりの言葉に思わず笑ってしまう。
『もっとも翠燕と斐竜ならそこから投げ捨てても死ぬことはありません。……ご存じなんでしょう?』
「……何を、とは聞かないでおくよ」
『お聞きになってもわたしには答えられません。許可を頂いてはおりませんので』
 それが答えだと連幸は閃いた苦笑をかき消す。衣を髪を結っていた紐で翠燕のベルトと斐竜のベルトを繋ぐ。
「機会があったら、ばれてるって翠燕には言っといて」
 そのときにはおそらく決別が待っている。
 だが互いが共にあることを望む限りその日は来ない。
 斐竜がそれを俺たちに「望ませる」
 紐の中央、やや翠燕よりを右手で握り、左肩にジェスを担ぎ上げると底めがけて飛び込んだ。