第六章 選択の時 (4)

 考える時間を置けば、それだけためらいは大きくなる。迷いにつぶされるのは左目だけで充分だ。
 けれど目を閉じてしまったのは、銃口から迸る閃光を直視しないためだけではないことを、頭の端でわかっていた。
 目を射る爆発は壁までも打ち抜く。壁に埋め込まれていたいくつの装置が吹き飛んだのだろう。
 白王獅子が力場を作り、飛び散るそれらから四人を守ったが、狙撃に失敗したことは明らかだった。
「あまいわ、ジェス」
 天井を走るパイプに下がり、かわしたらしい。美しい声でそう歌い、女はひらりと舞い降りる。
 足音をさせないその動きは優美でありながら獣のようにも見える。やわらかな衣が女を追うように降る。
 異形、ということばがジェスの脳裏に浮ぶ。
 これは違う。ユリアではない。直観より本能的なものが、それを教える。
 繰り返し教えられた違和感だが、それでも違わない箇所を探そうとする自分の愚かさに腹が立つ。
「ばかね」
 その通り。
 俺は馬鹿だ、とジェスは思う。
 だから、端から一撃で済ませられるとは思わない。
 再度フレイアを構えるジェスに、女はあどけないまでの微笑みをむける。
 銃口が振れたのは、心が拒否しているのか、あるいは体が拒否しているのか。
 考える間もなく、右手が赤い霧に包まれた。
 一瞬遅れて焼けたような熱さを覚え、ついでそれは痛みに変わった。
 フレイアが砕かれ、人差し指と中指の間を裂かれたことを認識したのはさらにその数瞬後のことだった。
 手首を押さえ止血するジェスに、女は素早く歩み寄りそのやわらかな唇をジェスの頬に押し当てた。
「残念でした」
 耳元で囁かれた声には憐れみが含まれていた。
 傍らを通り抜ける女を掴むこともできず、ジェスは三度見送った。
 このまま見失ってしまえればと、意識の外で思う。
 けれどその逡巡は、ひとつの声に打ち消された。
「白狼、ジェスを頼む。それから、撤収の準備を。 俺は彼女を追う。連幸、来い」
「フェイ、待て。翠燕を待つんだ!!」
 呼び止める連幸に、振り返りもせず斐竜は返した。
「それじゃ間に合わない」
 軽く舌打ちした連幸が、ジェスに駆け寄った白狼に指示を出す。
「翠燕に伝えて。あれの捕獲は俺たち二人じゃ手に余る」
 まさか、という表情を白狼が浮かべる。
 その白狼に、
「あれは人間(ドール)じゃない。俺には抑えられない」
 言い残し、連幸は斐竜の後を追う。
「くっ……そ」
 傷みに呻くジェスの手を掴みとった白狼が、白王獅子に命じて応急手当をさせる。止血剤を噴霧し、痛み止めを注入する。傷口をジェルでカバーした後は白狼が引き継いだ。
 手の甲でクロスを描くようにテープを三度重ねて巻き、落ちていた自分の手袋を拾うと、その上からつけるように言った。痛みを堪え手袋をはめたジェスの手を再度取る。
 手袋の上から、今度は手首から指先へ向けて、らせん状にテープを巻く。
「これでしばらくは大丈夫です。すみません。生身には詳しくないので、これ以上は。牡丹、すぐに日烏に連絡を」
「いや、これでいい」
 フレイアを探し拾い上げたが、銃身部分が失われ、使えそうにはなかった。
「斐竜を連れ戻す」
「無理です」
 その言葉には、ジェスの身を案じる以上に、ジェスが二人の足手まといになることを恐れる響きがあった。
「西はマズイ。石涼の制御が届かない」
 目を丸くした白狼が斐竜と連幸の消えた先を見る。
「連れ戻す。だからできる限り、待っていてくれ」
 フレイアを投げ捨て、二人を追うために立ち上がったジェスを白狼が呼び止めた。
「これを。プロトタイプなのでフレイアほどの威力はありませんが、その分、体への負担は大きくありません。ここで、弾と、レーザーを切り替えられます。俺が狙って」
 と、銃を構える。際立った癖のない、理想的なフォームだ。
「だいたい、5,6m先で左へ8mm、上へ5mmほどずれるようです。曽祖父のくせでしょう。持って行ってください」
「助かる」
「先日の墜落時の記録を洗い出したとき、通常では考えられない波形の音が白王獅子のBBに記録されていました。一昨日、彼女を砕き、いまフレイアを暴発させたのは、あれは、音、ですね」
 白王獅子の修理にかかりきりだった彼は、歌姫の正体を知らされていなかったようだ。
 ああ、と頷き、ジェスは次の問いを待った。予測されるその問いに、答えを用意する。
「彼女がドールじゃない、それは俺にもわかります。でもサイバノイドでもない。あれは、ではレプリカント?」
 発せられた問いは、ジェスの予測どおりのものだ。
「そうだ。あれは盗まれたユリアの遺体から作られたレプリカだ。不可聴域の音で、対象に振動を与え、壊す。対象が発火物であれば、爆発する。……ユリアの姿があれば、要人にも簡単に近づける。暗殺用に作られた兵器。そして、事件は事故として片付けられる。誰も、歌姫の歌声が心臓を止めたとは、思わないから。雍焔がイーヴァ行きの船を襲ったのは偶然だったが、幸運だったんだ。もし、あの船が無事にイーヴァに到着していたなら、いまごろロタの大統領は生きていない」
 搭乗する直前、とらえたアレを、俺は逃がしてしまった。
 ユリアじゃない。
 わかっていても、情に流された。放して、と、目を潤ませるアレに。
 その結果、自分の目はあの音にやられて内側から弾けとんだ。
 傷痕が疼いた。
「なんてことを」
「すまない、話は後だ」
 通路の奥に消えた二人を追ってジェスは走り出した。

 斐竜を狙う男ではなく、アイツを撃つべきだったんだ。
 それで白狼が犠牲になったところで、なんの問題がある?
 どうしてそうしなかった。そうすれば、一撃で仕留めてやれた。
 彼女のためにもそうするべきだったんだ。何故、そうしなかった。
 ……ハンターだからだ。アウトローとはいえ、民間人に犠牲を出すことは許されないからだ。
 そうか。こんなときでも、あいつより、俺は仕事を選ぶんだ。
 とっくに捨てたはずの仕事なのに。
 ぼんやりと考えながら、追いかける。
 追いつけなければいいのにと、微かに思った。

 ジェスと入り違うように、うるさいほどの大声で揉めながら日烏と王虎が駆け込んできた。
「白狼、よく無事だったね」
「おかげさまで」
「さ、急いで脱出するよ」
 日烏の口調が珍しく慌てているように聞こえ、白狼は僅かに眉を顰める。その白狼に、蜻蛉が言う。
「主任、すぐに脱出を。F76区画で火災が発生しました。ここまで10分持ちません」
 痛みを堪えるかすれた声に、白狼は僅かに罪悪感を覚えた。しかし謝る暇は与えられない。
「で、斐竜たちは中か?」
 蜻蛉を抱えた王虎がそれに被せるように問いを放つ。
「ちいとばかり定員をオーバーするが、載せられなくはねえよな」
 蜻蛉をおろす。「歩けるか」と王虎がその手をとろうとしたが、すかさず伸ばされた日烏の腕に蜻蛉は奪われた。
「雑に扱うんじゃないよ。大丈夫かい」
 丁寧に扱ったつもりだったらしい王虎がむっとした様子で口を閉じた。
 胡蝶と蜻蛉を日烏が白王獅子に乗せる。それを見ながら白狼は問いに答える。
「定員数よりも、重量が問題です。三人は歌姫を追ってこの先へ」
「なんだってぇ!! 10分もないってのに」
 仰天した日烏を王虎がなだめる。
「まあ、大丈夫だろ。翠燕がいりゃ、大方のことは何とかなる」
「翠燕? ご一緒じゃないんですか?」
 人を探す風に辺りを見回す白狼に、今度は王虎が目を剥いた。
「一緒じゃねえのか」
「俺はまだお会いしてません」
 斐竜、連幸、と考え、日烏が額を叩いた。
「三人って……あの坊やか」
 翠燕はどこで遊んでるんだい、と苛立ちを混じりに日烏は吐き捨てる。
「おかしいじゃないか! あんたより先に入って、どうしてあんたより遅いんだい!!」
「そうだ。だが、会ってりゃ、こいつがピンシャンしてるはずがねえ。拳の2,3発もくらってゲロはいてらぁ」
「そこまで言いますか」
「殴ったわ、触ったわ、それでお咎めナシたぁ考えられねぇだろうが」
「そういう言い方はやめてください。翠燕に聞かれたら、殺されます」
「斐竜の手前、とどめは差さねぇと思うがな」
「生きてりゃいいってもんでもないんです!」
「この忙しいときに掛け合い漫才なんかしてんじゃないよ!!」
 日烏が両腕で、同時に二人の頬をひっぱたいた。あまった勢いで白狼の額の左上と王虎の右顎がぶつかり合う。互いの頭突きの痛みにそれぞれが黙り込んだ。
「で、この先に進んだのは、いつだ」
 端麗というよりはいっそ冷たいというべき声。
 振り返るその先にいた人物に、三人三様の表情が向けられる。
「翠燕!! 今斐竜たちが」
 縋るように響く日烏の声に、翠燕は鷹揚に返した。
「聞こえた」
 事情を説明しようとする日烏を宥め、翠燕は白狼を向き直る。
「……俺をペドフィリア(小児性愛者)にしてくれた礼は、帰ってから、きっちりさせてもらう。いいな、白狼」
 淡々とした声の隅々にまで怒りがしみこんでいる。
 だが白狼は軽く首を傾げる。
「意外な情報のほうが信頼を得やすい、とおっしゃったのはあなたです」
「……」
 絶句した翠燕が、似たようなもんだろうがよ、とつぶやいた王虎の声に眉を逆立てた。失笑したのは白王獅子から様子を窺っていた胡蝶と蜻蛉だ。
「王虎……」
 どういう意味だと言いかけた翠燕を日烏が遮る。
「いい加減におし!! そんなこと言ってる場合じゃないだろ? 生きるか死ぬかってときに、趣味の話なんかどうだっていい」
 軽く舌打ちした翠燕は、白狼に再度視線を転じる。
「時間は」
「3分ほど前です」
「そうか。石涼、聞こえるか」
『ええ、聞こえています』
 その声は王虎がもたれていた格納庫のコントロールパネルのスピーカーから流れた。
「びっくりさせんなぃ。お前ェ、また、乗っ取ったな、ここのマザープログラム」
『まだです。完全に支配できていればよかったのですが。翠燕、斐竜は歌姫を追ってK94区画です。今、歌姫が逃げ込んだ場所までの最短経路を表示します』
 ターゲットを示す赤い光点と、それを追う三つの点がコントロールパネルのモニターに示される。
『直進すれば、1分40秒です。王虎、白王獅子右舷後方の壁を壊してください』
「よっしゃ」
 気合一発左腕で壁をなぐる。いっそ気持ちがいいほどの音がして、壁にはぽっかりと大きな穴があいた。
『その先はとにかく直進です。行ってください。わたしは火をくい止めます』
「限界は?」
『長くは持ちません。西翼の制御はほぼ不能……よくもって、20分です』
「承知」
 翠燕は振り返り、指示を出す。その淡々とした様子がそれぞれを平静に導く。
「すぐに発進しろ。K87区画上空で待機。万が一の場合、……後はお前たちで何とかしろ」
「なんとかしろ? そいつぁ無責任だぜ、翠燕」
「死んだ後まで、俺に責任をとれ、と?」
 言外にできるか、という響きを含んだ翠燕の返答に日烏がもっともらしく頷いた。
「そりゃたしかに道理だね。ま、ミソが残ってりゃ、あたしが何とかしてやるよ」
 ここまで焼けちまわないように気をつけな。
 見送る日烏を、走り出した翠燕が一度だけ振りかえった。イヤそうな表情を浮かべて、というよりは、顔にはイヤだとはっきり書いてある。
「生きてりゃいいってもんじゃない。なるほどな」
 王虎がやけにしみじみとした様子で呟く。
 5人はいそいそと白王獅子に乗り込む。シート数は6。全員載せるとシートが4つ足りないが、詰めて詰められないことはないだろう。それに、おそらく石涼にシートは必要ない。
 石涼の誘導で、白王獅子はすでに熱を持ち始めている通路を進む。しかし延焼を防ぐためのシャッターに先を阻まれる。
「面倒くせぇ、撃ちぬけ!」
 王虎の大雑把な指示に、しかし白狼は首を振る。
「大型武器は搭載してません」
「何とかしろ、石涼!!」
『やれるものならやってます』
「ちくしょう。こんな時に役に立ってこそだろうがよ」
『言っておきますけど、誰かが好き勝手暴れたおかげですから。あー、西翼への回線さえ繋がっていればなあ』
「馬鹿っ、ばかばかばかっ。だから勝手するんじゃないって言ってるだろ!!」
「お前、俺がいなかったら、今頃ぁ生きてねぇんだぞ。感謝されこそすれ、罵られる謂われはねぇや」
「結局死ぬなら一緒じゃないか! どこをどうやったら感謝の言葉が出てくるんだい!! この役立たずっ」
「くっそ。反論の余地がねぇ。白狼、DDだ。跳躍しろ」
「DDは使用不可です。それにこんなところでデルタゾーンへの回廊を開いたら、要塞ごと木っ端微塵ですよ。斐竜たちはどうするんです」
「じゃあ、ハイパードライブだ。突破だ。機首に力場を張って耐えろ」
「そんな無茶です」
「茶ならあとで思う存分くれてやる。今はとにかくやっちまえ!!」
 一瞬泣きそうな表情を浮かべた白狼が、白王獅子に指示を出す。
「シャッターを突破する。バリアを機首に」
 諦めたように明滅で返した船は、出力を上げる。
 船内に震えが走った。
「構えろ」
 胡蝶と蜻蛉を庇いつつ、王虎は前方を見据える。
 衝撃とともに最初の壁が白王獅子のシールドに当り吹き飛んだ。
 二枚、三枚とシャッターを跳ね飛ばしながら、外へ向う白王獅子の中で王虎は考える。
 見ろ、俺は力技しか知らねえ。指揮官には向いちゃいねぇんだよ。全責任が肩にかかるなんざ、真っ平ごめんだ。
「全員無事に連れ帰る」
 呟いた声は衝撃にかき消される。
 けれど決意は揺るがない。
 俺は花竜の右腕だが、頭じゃないねえんだ。
 一際凄まじい衝撃の後、前方に、四角く切り取られた空が光った。

「よく追ってきたわねぇ」
 立ち止まったユリアが、穏やかな仕種で斐竜を振り返った。
 その様子がジェスのスコープの端に設けられた小さなモニタに映る。声は石涼から渡された端末を通して聞こえる。
「でもね、わたしが用があるのはあなたじゃないのよ、お嬢ちゃん。巻き込まれないうちに、おうちにお帰りなさいな」
「仕事を放り出して逃げ出すわけにはいかない。あんたをジェスの元に返すのが、今回の俺の仕事なんだ。だから、あんたが来てくれなきゃ帰れない」
 少し距離をおいて対峙している二人が、連幸の背の向こうに見えた。
「仕事熱心なのね。だけど、あなたの帰りを待つ人に危険が及ぶかもしれないことは考えて? 早く逃げないと、みんな焼け死ぬわよ。待っているんでしょ? あなたのために」
「危険が迫ったら自分で回避すればいい。それくらい、みんなわかってる。俺だって勝算もなしに追ったりしない」
 ふふ、と歌姫が笑う。
「大層な自信ね。でも、そうね。その通りだわ。……わたしも、そうだったらよかったのに」
「……」
「身を守るすべのないわたしには、それができなかった」
 帰りを待つ彼女に及ぶ危険を……ジェスが考えなかったと、言っているのだろうか。
 不意に肩を背後からつかまれて、びくりと斐竜が震えた。連幸を振り返り安堵するさままでもが見える。
 だが、進路直線上にあるその光景は、見えていながら届かないものだ。もどかしさに足が縺れそうだった。
「フェイ、離れて」
 連幸が斐竜の肩を掴んで歌姫との距離をとる。背後に斐竜を庇う連幸を見て、歌姫は微笑んだ。
「素敵なナイトがたくさんいるのね。あなたは戦うことができる、自らを守ることができる。その上にそうして守ってくれる人をもっている」
 うらやましいわ。
 口調には他意も悪意もなく、表情に毒はない。
 それだけを見れば、ふた月の時間が戻ったようにさえ感じられる。
 走って時を遡ることができるなら、と、詮無い願いが胸を焼く。
「すっかり騙されたわ。てっきり女の子だと思ってた」
 連幸に視線を転じたユリアが浮かべるのは、あどけなく、屈託のない愛らしい笑顔。
 年よりも幼く見えるその微笑に、どれほど救われてきたことか。
 そんなことさえ、今になるまで気付かなかった。
「よく間違えられる」
 連幸は同じく穏やかに言葉を返す。けれどその動きには一切の遊びがない。
「でしょうね」
「歌姫、帰ろう。きっと何とかできる。プログラムを書き換えることができるなら、あんたはユリアとして生きてゆける。組み込まれた殺意への欲求を抑えれば。そうしよう?」
 斐竜のことばに歌姫は微笑んで、首を振る。左右に。
「無理よ」
「無理じゃない、白王獅子なら、テラの基底制御を解くことができる。石涼もそれでテラから解放された」
 ありがとう、でも無理よとユリアが笑う。
 何をして無理と言っているのか、ジェスにはわかった。
 彼女はユリアには戻れない。
 この二ヶ月を、なかったことにはできない。
 いや、俺にはそれができないことを知っている。
 なぜならあれは、かつてユリアだったものだからだ。
 誰よりもよく俺を知っていた。俺の行動を読み、俺の心を読む。
「それが不可能だということは、あなたが一番よくわかってるわね、ジェス」
 やっと追いついたジェスに、「ユリア」が笑う。
「ああ」
「まあ、痛そうね。でもなんてきれい。命の色ね。わたしにはない色だけれど」
 ジェスの手を指して言う。
「ジェス」
 振り返り、見上げる斐竜の鏡のような視線から目をはずし、ユリアの上に置いた。
「ありがとう斐竜。でも、無駄だ」
「……どうして」
「時は、戻せないんだ」
 戻さなくても、と言いかける斐竜を遮った。
 そう。戻せなくても、やり直すことはできる。けれどそんな一般論は救いにはならない。
「彼女のプログラムは……AGが作ったんだ。この世界に存在する媒体じゃ、アクセスさえできない。テラが、そのように作ったんだからね」
 何かを言いかける斐竜に、ユリアが言った。
「マザー・テラの統治に反逆を企てる動きがロタにあったの。それを未然につぶすため器としてユリア・アリオールを選んだ。AG’の技術でなければ、彼女を生かすことはできない。それなら、死んだものとしてその体を利用することに、なんの問題があるのか、ということらしいわ。マザーらしい判断ね。そして危篤状態の彼女をさらって、わたしを作った。生体反応が消えないうちでないと、加工が難しいみたいね」
 ユリアを「彼女」と表現した「ユリア」の言葉に、斐竜が震える手で口元を覆った。
「ひど……」
「そう。とてもひどいことだ。だが、たった一人の犠牲で紛争に収拾がつくのなら、その方が有益だとテラは考える」
 その思考に、かつては自分も同調していた。
「情報統制が敷かれた。ユリア・アリオールは生きている、と。歌姫としての復活は難しい。でも、……親善使節という名の暗殺者として……」
 ジェスはことばを詰まらせた。
「ロタに送り込んだんだ。搭乗直前に捉えたが、逃げられた」
 ユリアの姿をしたものが楽しげに笑った。
「彼、わたしをマザーの制御から解放してくれたの。煩いマザーの声が聞こえなくなって、清々したわ」
 だが、マザーの支配下から解き放たれても、人として生きることはできなかった。
 殺意への誘いは、基底に組み込まれていたためだ。
「ロタに向かう船は必ずエリシュシオンに停泊する。この先のデルタ回廊を通るための調整が必要だからだ。その船が、谷に落ちたと聞いて俺はここへ来た」
「最初から、殺すつもりだったの?」
 問いかける斐竜の言葉を修正する。
「違う。破棄するつもりだった」
 彼女の存在を、そして彼女との関係を。
「戻せない。戻せないんだ。放すべきじゃなかった、離れるべきじゃなかった」
「だから、殺すの? 間に合わなかったから?」
 斐竜の声が震えている。
「そんなつもりで連れてきたんじゃない!! ジェス、だめだよ、彼女はまだ生きてる」
「ごめん。最初から全部を話しておくべきだった。ユリアは死んだ。これはユリアの姿をした兵器だ」
「なんでさ!!」 「……ごめん。連幸、斐竜を頼む」
 そんなの、だめだ、と叫ぶ斐竜の声を、耳から追い出そうとする。
「間に合わなかったのも、彼女を離したのもジェスじゃないか! それなのに!」
 突き刺さる斐竜の声に、ジェスは叫び返した。
「わかってる!! それでも、マザーの下へ戻すことだけはしたくない!」
 兵器として血を浴びながら生きる定めに、彼女を帰したくはない。
 そうね、わたしも嫌だわ、とユリアが笑う。
「マザーの下に帰るなんて真っ平よ。でも、死ぬのもいや。こんなモノにされたのはわたしの意思じゃないけれど、それならせめて終わりくらいはわたしの意思で決めたいもの。そして、少なくとも、今、終わらせる気はわたしにはないわ」
 その通りだ。彼女のことばに間違いはない。
 けれどそれでもこれを放置することはできないと、理性に促されジェスは白狼から借りた銃を構える。
 これは人を殺すことを目的に作られた兵器。自らの意思でそれをコントロールすることはできない。殺すことが存在意義であるコレは、自身がどんなに人畜無害な人形であろうと願っても、かなえられることはない。
 痛みを忘れるよう施された訓練が、ゆっくりと感情に蓋をする。
「ユリア」
 照準をそらすことなくジェスは語りかけた。
「謝っておくよ。ごめん」
「許すと、思ってる?」
「大丈夫。一人では死なせない」
「そう、それで?」
「そうか、違うな。一緒に、逝ってくれ」
「ご大層なこと、言わないで。いまさら、いまさらそんなことを!」
 確かにいまさらだ、と、怒りに震える唇を見つめながらそう思った。
 こんなにも歯の浮くような台詞が言えるなら、もっと早くに言うべきだった。
「許さない!! 許さないわ。わたしは、決して許さない」
 歌姫の高い叫びが室内の空気を震わせる。
「あっ」
 耳を押さえて斐竜がうずくまる。その斐竜を支えようとした連幸も、耳を押さえて膝をついた。
 照明がはじけ飛ぶ。薄い闇の中、歌姫の衣が仄かに光るように見える。
 意識がまた眩む。脳を襲う凄まじい痛みに滲む視界に歌姫の姿が揺らめく。
 間合いを詰められた。白狼から借り受けた銃が叩き落された。ふわりと香る歌姫の匂い。自分を見上げる顔はあのころと何の代わりもなく見えるのに……
「ジェス!」
 叱咤する連幸の声にも反応できない。ユリアの腕がそっと首に廻される。
「殺せない? わたしを? そうね。そうだわ。あなたはいつもそう。優しくて、残酷だったわ」
 愛しげにジェスの髪をなでるユリアの指は冷たい。
「ねえ、知ってる? 最初に、壊してくれれば、わたしの手はこれほどに汚れなかったのよ。あの後、わたしが何人殺したか、あなた、知ってるでしょう? どんな風に、彼らが死んでいったかも知ってるわね?」
 ああ、知っている、と答えたつもりだったが、声は出なかった。
「だって、あなたの目と、同じですもの。水の入った風船が、弾けるようだったわ。ねえ、ジェス。面白いわね。人には魂があるのですって。機械にはないものだそうよ。じゃあ、わたしはどうなのかしら。ひとであったわたし、ひとでなくなったわたしには、魂はあるのかしら。ないのなら、何時奪われたのかしら。ねえ、魂ってどこにあると思う? この体のどこに宿るのかしら。どれもこれも、中を曝して見れば、ただの肉でしかないのに。不思議だわ。何度ひき裂いても、つぶしても、どれも同じにしか見えなかった。それともあなたは違うのかしら」
 頬の傷をなぞられる感触に、背筋を這い登る震え。そうだった。彼女の手はいつもひんやりとしていた。
 形の良い指に光るリングを見止める。左手の薬指。
 俺が贈った……
 でも、人前ではつけられないわ。こっちの指にしてくれればよかったのに、と中指を指した。
 そうしたら、いつもつけていられたのに
 いやかい
 いいえ。でも、ときどき、すこし寂しくなるの。すべてがまぼろしのような気がして
 どうして
 ……あなたが、どこかで死んでしまっても、わたし、弔問にもいけないわ
 馬鹿だな。死なないよ。俺は
 そうね
 ……そう、俺は死ななかった。死んでしまったのは
「ねえ、ジェス」
 身じろぎさえできずにただユリアを見つめるジェスに、彼女は微笑んで口づけた。
 なぜ、人に見られても良いのだと、言わなかった。
 そうだ。さっさと籍に入れてしまえばよかったんだ。
 AG’の家族には、護衛がつく。危険な任務に携わるエージェントの心労を軽減するために。
 なぜ、そうしなかった。どうしてこんなことになるまで、気付かなかった。
「選んで。わたしと共にくる? それとも、わたしを殺す? それとも、ねえ、死にたい?」
 細い指がジェスの心臓の上に当てられた。
 この細い指が、胸骨を砕き内蔵を抉り出す、それも見てきた。
 ああ、そうだ。死んでしまえたら……俺が、死んだのであれば、彼女は泣いてくれただろうか。こんな馬鹿のために。
「ユリア」
「選んで。あなたは、どうしたいの。わたしはどれだって構わないの、本当は」
「俺は……」
 戻りたい。
 戻れない。
 戻せない。
「選べない?」
「ユリア、俺は」
「選べない? それとも、選びたくない? 選択が難しい?」
 ユリアはゆっくりとジェスから身を離す。
「それじゃ、もっと簡単に聞くことにするわ」
 背伸びしてもう一度軽く口づけたユリアは、身を翻す。
 耳を押さえうずくまっていた斐竜を捉える。
「動かないでね。動いたらわたし、きっと驚くわ。驚いて、手を滑らせてしまうかもしれない」
 斐竜の首に懐から取り出した華奢なナイフを突きつけ、歌姫は連幸を牽制した。そして視線をジェスに戻す。
「これなら、選べる?」
「ユリア、その子を放せ……」
「銃なら足元に落ちているでしょ。拾うのをとめたりはしないわよ。それでわたしを撃つ? それとも、わたしがこの子の喉を引き裂くところを見てる? ああ、全て投げだしてあなたのこめかみを撃ってみるのもいいかもしれないわ。どれを選ぶ?」
 楽しげなその微笑が、何よりもジェスの心を乱した。