第六章 選択の時 (3)

「なんでここにいるんだ」
 手首の端末に描き出された見取り図にWと書かれた光点が映し出された。そのWは、見取り図の壁を突き抜けて行動している。
 誰なのかは、すぐに予想がついた。どういう状況であるのかも、およそ予測できる。
「やっぱりこれは王虎なんだろうな……」
 交戦中なのだろうか、時折不規則な動きを見せるものの、ほぼ直線を描いて進んでいる。
 画面を切り替えると、2階層上に、Zの光点があった。
「石涼、聞こえるか」
 とりあえず端末に向かって話しかけてみる。
『どうかしましたか』
 端末から石涼の声が発せられた。
「こっちは順調に進んでる。そっちはどう」
『まあまあですね。王虎が配線の一部を壊してくれたおかげで、西翼の手間が省けました。もうお手上げです』
 詳細をお聞きになりたいですか、と問われ苦笑で返す。
「やめておく」
 そう仰らずにぜひ聞いてください、と石涼の声が言った。
『西翼にはなるべく立ち入らないでください。物理的に閉ざされてしまっては、わたしの手も届かない』
「わかった。気をつける……ええっと、西翼っていうとL区画からだな?」
『正確にはK90から先です。念のため、そちらに見取り図を転送しておきました』
「ありがとう。そうだ、この先には連幸と斐竜がいるんだろう? 三人いれば当面は何とかなると思う。王虎たちには管制室の三人を救出に行くよう伝えてほしい」
『かしこまりました』
「それとZってのは翠燕か? それなら彼はこっちに誘導してくれ。いないところで斐竜に怪我でもさせたんじゃ、どうなることやら」
「了解」
 笑いを含んだ石涼の短い返答が、終わるや否や近くにあったドアが開く。状況を察しかねたその男が声を上げる前に、ジェスは振り返りざま、手の甲でこめかみを一撃した。バランスをくずし、よろめいた相手の延髄に組んだ両拳を打ち下ろす。脆くもへたり込んだ男を彼が出てきたドアの中に放り込み、ジェスは先を急いだ。

 薄暗く、錆の浮いた、箱の中にそれはあった。
 場違いな、というのがそれを見た者の印象だろう。
 解体工場の中に紛れ込んだ花のように異質で、互いに調和することは決してないと万人に思わせる光景だった。
 奇妙に有機的な、それでいて鋭角的なラインを持つその船は雍焔の目にも美しく映った。
 少なくとも、前回これを落としたときのあの丸めた紙くずのような姿より、何倍も美しい。
 もっともこの牢獄から外へと連れ出してくれる存在だと思えばこそのことかもしれないが。
 神など信じない。正義も信じない。だが、ここから外への足がかりとなるその船を、この一時崇め讃える程度には、己にも人らしさが残っていたのだと、雍焔は笑う。
 惜しむべくは、これの主は「まだ」自分ではないということだ。
「行こう」
 出立を促すと、その主は軽く頷き船に視線を向けた。
 ただそれだけで、船に変化が現れる。
 さらに白狼が小声で何事かを呼びかける。
 エリシュシオンの言葉でも、ES語でもWS語でもない。
 雍焔の知るどんな言語とも異なる、いや言語と言うよりも、それは風の鳴る、あるいは波の音に近い。
 それを習得しなくては動かせないのかと聞くと、そうではないと白狼は答えた。
「どんな言語でも、これは理解する。だが、この言葉での命令を、最上位に据えている」
 何語なのだと訊ねると、薄く笑って答えた。
 今はもう失われた言語だ。
 なるほど、であれば、この小僧を始末すれば事は済む。
 折を見て片付けてやる、と腹の中で笑った。
 白い機体が内側からやわらかな光を発する。擦りガラスの向こうに灯る光のように淡い光だが、その眩しさに雍焔は目を細める。
 ゆっくりと数度明滅し、やがて一定の明度に落ち着くさまは、まさに眠りから覚めるといった様子だ。
 そうだ、悪夢からの目覚めだ、と思った。
「これでこの谷ともお別れだ」
 惜しむ別れではない。いつだってここから出て行きたかった。
 船があれば、一時だろうとここには居たくなかった。
 やむを得ずここに逃げ込んだときでさえ、できるなら他の場所を探したかったのだ。
 賞金首の自分でさえ、流れる谷の噂には眉を顰めるものだったのだから。
 それでも命には代えられぬと、追うハンターを振り切ってここへ逃げ込んだ。
 住めば都とまではいかなくても、それなりに生きて行けるとたかを括っていたからだ。
 噂が、真実だとは思わなかった。
 法の庇護を受けられぬ世界と言われることは知っていた。
 庇護など受けた覚えはなかった。あれは己の行為を常に拘束するものでしかないと信じていた。
 その枷から逃れ、何をやっても許される世界にひととき身を隠すつもりでいた。
 だが現実は違った。
 何をやっても許される世界は、何をされても不思議のない世界、だった。
 さらにいうならば、誇張されていると思っていた噂は、真実より格段に優しかった。
 同業者同士の私闘を禁じるそれだけが唯一の掟だが、それは組織同士の戦いを禁じるだけであって、個人と個人の戦いには拘束力を持たない。
 目には目を、歯には歯を。
 そんな法則さえも存在しない。
 被った痛手以上の報復を制することさえなされない。
 歯を折られた仕返しに、四肢をもぐのは序の口だ。
 そのうえ、まさか、出られないことになるとは思いもしなかった。
 外へ出るための「船」がない。
 この谷への道は一方通行なのだと気づいたときには、荒れた大地に足を繋がれていた。
 繋がれて、10年。
 やっと得た、解放のチャンスだった。

「やっとだ……やっと、出られる」
 ほとんど息だけのかすれた声が言う。それが己の呟きと知り、雍焔は苦く笑う。
 笑いつつ、白王獅子に向かって数歩進んだ。
 背後を焦す敵意に振りかえった。
 とっさに身をひねる。
 勘と、その動きはこの10年で培われたものだった。
 敵よりも早く守りを固めること、可能ならば敵よりも早く仕掛けること。
 僅かの遅れが命取りになる谷で、10年を生き延びることは稀だった。
 その快挙を成し遂げた男の身のこなしは、たとえ背中からであろうと一撃で仕留められるものではなかったのだ。
 だが至近距離で放たれた銃弾を避けられるほど早く動くことは人には難しい。その右肩からは鮮血が滴った。
「……いまさら寝返る気か」
 右肩からはすでに痛覚は失われている。半身を焼かれたとき、共に奪われたものだ。
 それでも動くことに支障ない、それが可笑しかった。
 発作的な笑いがこみ上げる。
 敵意の中にも気味悪げな様子が隠せないでいる青年が、また笑いを誘う。
「驚くようなことじゃねえ。俺の右側は当に死んでる」
 一歩踏み出すと、白狼は無言のまま、そっと少女を自分の後ろに下がらせた。
「今なら勘弁してやらねえ事もねえ。俺は寛大だからな。いまさら戻ったところで、あいつがてめぇを許すはずもねえだろう。死ぬだけだ、考え直せ」
 傷ついた左肩を抑え、雍焔は白狼に言う。いいながら向けられた銃口を恐れることなくずいと詰め寄った。
 白狼は詰められた間合いを保つため一歩下がる。
「おまえもこんなところで一生を終わりたかぁ、ねえだろうが。そっちのお嬢ちゃんと平和に暮らせるんだぜ」
 じりっと、雍焔はさらに間合いを詰める。あと一歩近づけば、銃を叩き落せる。そしたら殴り殺してやろう。いや、外へ出るまでは生かしておいてやる。そのあとは半殺しで置き去りにするのだ。始末はテラがつけてくれる。
「さあ、どっちが得か、ようく考えるんだ。李翠燕を怒らせて、ただで済むか? こんな風になりたかねえだろうが。俺は、おまえのためを思って言ってやってるんだぜ」
 思考とは相反する優しいことばをささやきながら、雍焔は最後の一歩を踏み出す。
 白狼の手首を捕まえると力任せに引っ張った。
 痛覚をなくて以来、この右手は人を凌駕する力を発揮する。
 青年の腕が付根から引きちぎれることを期待して加えた力は、しかしあっけなく振り払われた。
 視界が凄まじい勢いで流れる。
 投げられたと認識したときには、額に銃口を突きつけられていた。
「……てめえ、ドールか」
 掴んだ腕の感触は、到底人のものとは思われなかった。触覚が失われた手でさえ、生体でないことがわかる。
 腕だけで銃を払い除ける。さすがに手放しはしなかったがその一瞬、白狼の体勢が崩れた。
 袖だけを掴み引くと袖を縫いとめていた糸が切れ、左肩が覗く。
 白狼は雍焔を突き飛ばし少女を小脇に抱える。即座に飛び離れ少女を床に降ろすと、彼は肘の辺りにたまる切れ端を手袋とともに抜き捨てた。
 その腕は「機械」としか形容できない代物だった。
「やってくれる」
 投げをうったあの力、そして今の動きから察するに、おそらくはその四肢はすべてドールだろう。
「なるほど、おまえも谷の人間ってわけだな」
 ゆっくりと立ち上がる。
「あの船を手に入れるために、俺を利用した。上手くいかないとなれば、捨てる。実に合理的だ」
 視線を船に移す。
「だが、李翠燕はそれを理解しない。合理も現実も、この谷では強者のものだ。俺を仕留められねぇお前に、あいつは討てねぇ」
 ここらで手打ちにして、とりあえずは外にでようじゃないか。
「今、李翠燕に出くわしたら、問答無用で殺されるぜ。俺も、お前もな。あれは裏切り者を生かしておくようなヤツじゃない。花竜とやらもそれは同じだ」
「無用な世話だ」
 一言も返さない白狼に代わっての突然の声に、雍焔が声の主を見た。
「なんだと」
「無用、といった」
 それは漆黒の衣装をまとう幼い姫の姿をしている。
「それともその溶けた耳は、中まで爛れているのか」
 玉を打ち当てるような、高く澄んだ声だった。
 伏せていたまぶたが上げられ、雍焔の目をその視線が鋭く射抜く。
 切り裂くような鋼の色の眼光は、鍛え上げられた剣のようだ。
 雍焔は我知らず半歩下がった。
 真っ直ぐに向けられた銃口よりも、娘の目が恐ろしい。
「手下(てか)の始末は、わたしが決める。おまえに案じてもらう必要はない」
 笑い声は、耳障りなものではない。だがその楽しげな笑みには、毒の塊のような歌姫をはるかに凌ぐ凄まじさがあった。
「よく我慢したな、白狼。すぐにでも、仕留めたかっただろうに」
 良い子だといわんばかりの表情と口調に、白狼が言う。
「ご褒美をねだっても」
「かまわん」
「では、もう少し憂さを晴らさせていただいてもよろしいでしょうか」
 存分に、と娘が頷く。
 意味を測りかね立ち尽くす雍焔に、白狼がさらに2発の銃弾を打ち込む。左腕と左わき腹から鮮血が飛び散った。
 激痛に悲鳴ものみこまれた。
「無様にただれたその身でも、なるほど、それでも血は赤い、か」
 流れ落ちる血を愛でるように笑う娘の……いや、少年か? その声の冷たさに雍焔は知らず身震いをした。
「ま、さか……てめぇが、花竜、か」
「さあ、どうだろうな。……白狼、もういいのか?」
「殺したところで、飽き足りません。母の分、姉の分、曽祖父の分。これでよしとします」
「そうか。では下がれ。後はわたしが引き受ける」
 白狼は目礼し半歩下がって場所を空けた。花竜がすいと前へでる。
 流麗というにはあまりにも静かな所作だった。

 逃げ場を探し忙しく動かした両眼に、それが映った。命綱だと感じ、飛びついた。
「おおっと、待てよ。この女がどうなってもいいってのか?」
 歌姫から花散里を引ったくり、その喉元に銃を突きつける。
 わずかに花竜は目を見開く。
「下がれよ、お嬢ちゃん」
 動きを止めた花竜はため息をついた。
 仕方がない、か、諦めか。
 人形のように整った容貌に、わずかな表情がのぞく。
「そうだ。いい子だ。そのまま下がれ。下がって膝をつけ」
 雍焔に指示されるままに二歩、三歩と後退した花竜は、しかし膝はつかない。
「膝をつけ。女を殺してもいいのか」
「三流役者のセリフはいつも同じ」
 くくく、とこらえようとした笑い声が、はじけ飛ぶ。
「もういいぞ、連幸」
 まだそのことばの残響さえ消えぬうちに、雍焔は腕の中に捕らえていたはずの女が、まるで影のように自分の腕をすり抜けてゆくのを見た。花竜と白狼に歩み寄る。白かったはずの衣装に、炎のような模様が浮き出ていた。
 いや、違う。
 数瞬遅れて脳に達した激痛が、それを教える。

 あれは、血だ。
 俺の!!

 女は、わずかの動きさえ感知させず、雍焔の左腕の肘から下を切り落とした。得物が何であったのかさえ、わからないほどたくみに。
 噴出す血を押さえるために、雍焔は傷ついた左腕を腹で抱え込んだ。右手でかばえば、戦うことができなくなる。
「……そういうことか」
「の、ようだな。雍焔」
 痛みと失血で朦朧とする意識の中で、傲然と笑う花竜の声だけが聞こえた。
 返り血を浴びて真っ赤になったその衣装を剥ぎ取って、歩み寄った女は一礼する。
 いや、美麗なだけで動きにくい衣装を脱ぎ捨てた若い姫は、瞬時に青年に変化した。漆黒のスーツに身を包む彼が手首を軽く動かすと、何かが空を切った。ひゅるん、と音を立てるそれが、鋭い刃を持った鞭であることがわかったのは、彼がそれを手元に片付けてからだ。
「……へ、へへへへへ。なるほどな、手の込んだマネをしてくれるじゃねえか。だが、一人では死なねえ。てめえらみんな道連れにしてやるぁ!!」
 雍焔の叫びと同時に、変を察した部下たちがなだれ込んできた。
「テメエら、逃がすんじゃねぇぞ。この塞は落ちる。こいつらのせいだ。自爆システムを起動させやがった。殺せ、殺せ、殺せぇぇぇ!!」
 よく言うわ、と歌姫が小さくつぶやいた。しかし部下は塞と共に捨てられようとしていたことなど知らず、忠実にその命に従った。
 連幸、白狼を左右に従えた花竜と雍焔の間に数十人が立ちふさがる。
 じりっ、と間合いを詰めた数人の男の動きを連幸の鞭が牽制した。唸りを上げる鋼鉄の鞭が、不運な一人の首を切り飛ばす。同様に背後から襲いかかろうとした数人の肩を打ち砕く。
 近づこうにも近づけない男たちを、白狼が手にした銃で片付けてゆく。
 撃ち殺そうと銃を構えても、発砲が躊躇われるのは標的を囲んでしまったからだ。どこから撃っても、仲間に当たる。躊躇する間に、連幸の鞭に銃を持つ手首ごと落とされてしまう。
 見る間に自分を守る肉の壁が薄くなることを察した雍焔が逃げ出す。
 瞬間、花竜の気配が一変した。静から動へ。
「逃がすか!!」
 衣装を脱ぎ捨てた斐竜は、瞬く間に間合いを詰める。左足を軸に右足で邪魔になる男の膝を払う。その勢いのまま、くるりと一回転。転んだ男の頭を後ろから左足で蹴る。延髄に入った踵が男を床に沈めた。斐竜を捕まえようとする数人を連幸の鞭が弾き飛ばした。
 雍焔の背後を守っていた男3人を瞬く間に倒した斐竜が雍焔の前に回りこむ。
「逃がさないって、言ったでしょ」
 親しみさえ感じさせるにこやかな笑みで斐竜は雍焔に近づいた。穏やかな表情だか、その目に浮ぶ光にやさしさは欠片ほどもない。この目は以前にも見たことがあった。
 2歩、3歩と元来た通路を後ろへ下がる。そして背後の静けさに気づいた。振り返り、絶句する。倒れ伏す部下に動くものはない。
 無駄のない動きで歩み寄った青年が、やわらかな微笑でこう訊いた。
「さあ、どうする? 死ぬ? それとも殺される?」
 真珠色の髪を飾る血赤の珊瑚が、その動きに流れて落ちた。ぺちゃりと小さな音をたて床に落ちたそれは、潰れて広がる。
 くすくすと背後の少年が笑い出した。通路の前後を挟まれた雍焔は、どちらが崩しやすいか考えることも忘れて、立ち尽くした。
「驚く? 馬鹿だね。一人ぐらいは、手もとに残して置けばよかったんだよ。有能な部下を全員、谷に向かわせたでしょ。こんな連中で、花竜の精鋭を止められるとでも思ってた?」
「な」
「ま、有能って言っても、あの程度じゃ、いてもいなくても変わんないか。今頃、あんたの思惑通り、連中、谷に転がってるだろうね。お気の毒さま。あんた、軽々しく人に判断を委ねるべきじゃなかったんだよ。あやしすぎるとは思わなかったの? それともそんなにここから逃げたかった? 逃がすはず、ないでしょう? 逃げて、どうするつもりだったの? テラの庇護下で生きる? 俺がテラなら、アンタみたいな悪党、絶対庇護しないけどな」
「よくも……」
 斐竜の親しげな表情は仮面を取り去るように消え、あざ笑うかのように口もとがゆがんだその刹那。
「ばぁか!! ちゃちな手に引っかかってくれてありがとうよ! 挙句に自爆までしてくれるとはね。おかげで掃除の手間が省けらぁ!!! くたばれクソやろうっ」
 斐竜は渾身の力で、前かがみの姿勢でかろうじて立っている雍焔のあごを蹴り飛ばした。
「汚い手で、さんざん触りやがって! かぶれそうだぜ、首筋が」
 後方に倒れる雍焔に再度叩き込む容赦ない蹴り。砕けた歯を巻き散らしながら、雍焔は床に倒れこんだ。
「お……おう」
 立ち上がろうとする雍焔の腰を右足で踏みつけて押さえ込む。傷口から溢れ床に溜まりを作る血に滑り、まみれる雍焔に。
「止めだ、やったれ!! 牡丹」
 斐竜のそのことばが誰に向けられたものであったのか。
 雍焔は最期まで認識できなかった。斐竜が雍焔を踏み台に跳ぶ。その着地を待たず、彼の体はその直後、白王獅子から放たれた熱線に焼かれ、牡丹が何であるのかを知る間を与えられず彼の脳は炭と化してしまったからだ。
「ご苦労さま」
 白い機体をぽんぽんと叩き、斐竜は白王獅子を労った。答えるように白王獅子のボディーが明滅する。テラの影響を受けない人工知能。数世紀前に作られたそれは、鋼の体を持つ生命だ。
「ベースに戻ったら、声と姿も作ってもらうといい。前のあの姿、好きだったよ。あれはだれ? もしかして白鶴のお母さんなのかな。ちょっと白狼に似てるよね」

 雍焔は白狼の家族を殺した。12年前には母を、5年前には姉を。そして先日は曽祖父を。それは白王獅子の家族でもある。仇討ちの機会を得た二人は、考えうる一番効果的な方法で敵地に乗り込んだのだ。

「この谷からでて、人生をやり直してみないか」
 それは谷の人間の泣き所。人間を捨てたような雍焔の耳にも心地よくしみ込んだ。
 外へ。
 この地獄から抜け出して……そして。

 発案者は翠燕だった。敵陣に乗り込んだ斐竜の身の安全を確保するために、白狼を動かしたのだ。もちろん、直に雍焔を討つ機会を白狼ら二人が見逃すはずもなかった。
『白王獅子を、今夜中に運び込んでおけ』
『なにか、方法が』
『この船で、外にでないかと持ちかければいい。おそらく一も二もなく乗ってくるだろう。たとえ、罠かもしれないと、疑っても、な』
 罠かも知れない。はかりごとがあるかもしれない。
 そう思っても、この谷を出る可能性がわずかでもあるのなら、無視できないのが谷に生きる人間だ。その誘いを断れるのは、谷の外を知らない者、もしくは、谷のほうがマシだと思える者だけだ。
『疑うようなら、こういってやれ。
 歌姫と、4人の姫を売り飛ばせば、その姿を整えて、街に帰るだけの資金が手に入る、と。
 おまえ自身になんの利益があるのかと問われたら、
 花竜の下にいたのはこの船を手に入れたかったから。手に入った今、彼らに用は無い。
 そうだな、こうつけ加えてもいい。
 外に出たあと、追っ手を気にしたくない。おまえなら、やつらを全滅させられる』
『わかりました。ついでに、こう言うのはどうでしょう。
 上手くすれば、あんたの周囲も、きれいにできる』
『それもいい。手下を俺たちに片付けさせるつもりになってくれれば、こちらも動きやすくなる』
『翠燕、それと』
『わかっている。花竜の安全を、まず確保しろ。戦闘が始まるまでは騒ぎはおこすな。……だが、その後は任せる。好きにしていい。もし、ここを離れたいなら、それも認めよう』
 そして白狼は白王獅子とともに、夜明け前に雍焔のもとを訪れたのだ。

 雍焔は、誘いに乗った。
 白狼のことばをすべて信じたのではないだろう。だが、白狼が何を考えていようと、いざとなれば力でねじ伏せられると、高をくくったのだ。
 若造一人、どうとでもできる、と。白王獅子が意思を持つものとは思わなかったからだ。
 それでも、型どおり不信をあらわにした雍焔に、白狼は、信じられないのであれば、証明して見せよう。そう言った。
 そして花散里をのせた船にひそかに近づき、船首を吹き飛ばした。
 そこが一番斐竜に危険の及ばない箇所だったからだ。
 操縦桿を握っていた項頤が無事に脱出できるかどうかは、賭けだった。
 昨晩のうちに、操縦席から客室の床下への非難口を作っておいた。白王獅子の接近を知らせるセンサーも取り付けた。
 万が一の場合には、ここに逃げ込めと、指示を出した。
 あの状況で、白王獅子が戦闘形態で近づくことの意味を悟ったならば。
 成功しているだろう。
 成功しているなら、運がよければおそらく2,3週間の怪我で、悪くても死ぬことはないはずだ。……たぶん。
 生け捕った、と花散里ら4人を手土産に戻ると、雍焔は思いのほか喜んだ。
 意趣返しができると笑う雍焔は花散里に手をかけた。止めに入った蛍……斐竜を白狼は力いっぱい殴った。自分が殴らねば、雍焔の部下に斐竜が殺される。
 その後も一切手加減をしなかった。
 何度も打たれて、まだ赤く、腫れている斐竜の頬。
 痛々しい、と先ほどまでは感じていたが、いまでは戦いの興奮のために顔全体が紅潮しているためさっぱり目立たない。
「斐竜。翠燕には、ちゃんと説明していただけますよね」
「何が? 翠燕とは打合せ済みなんだろ?」
 先刻二人きりになった室内で、適当な音と声を演出しながら筆談したのだが。演出であるとしても、翠燕の不機嫌は収まらないだろう。
「いえ……乱暴はしなかった、と」
 それを証言してもらわないことには、今後の身の安全が危ぶまれる。たとえ白王獅子とふたりで谷を離れたところで、ネオ・キャメロット前会長の例がある。いや、斐竜の目が届かない場所のほうが、危険は高い。
 彼が「言わずに片付けた」人間の数を思い出せば、両手でも足りない。
 そのうちの数人は、自分が手を下したのだから、明白だ。
「? わかってると思うけど。まあ、それじゃ、一応言っておくか」
「お願いします」
 うん、と斐竜が頷いたその瞬間、小さな音が三人の耳を打った。起き上がった部下の一人が斐竜を銃で狙っていた。
 咄嗟に白狼がその身を盾にする。歌姫の動きを牽制していた連幸の反応がわずかに遅れる。
 間に合わない。
 連幸の鞭が男を襲う前に引き金が引かれることは明白だった。白王獅子の攻撃もわずかに届かないだろう。
 しかし、引き金が引かれることはなかった。
 白い残像を目に残した光が、男の腕を吹き飛ばしたからだ。

「なるほどね。そういうことだったのか」
 光の発生源を追った斐竜が、表情を輝かせた。
「ジェス!」
 ひょっこりと姿を現したジェスがフレイアを軽く掲げて斐竜に見せた。
「心配したぜ。間に合ってよかった」
「助かった。ありがとう」
 鬘をむしりとった斐竜はぽいとそれを投げ捨てる。
 頭を大きく一振りする。鬘のせいで蒸れていたのか、水滴が飛び散った。
「すっかり騙されちまったよ。君らがみんな演技派だって、知ってたのにな」
「ま、ね。教えておいてもよかったんだけど、話す余裕がなくてさ。夕べはさんざん連幸に仕込まれて、そのまま寝ちゃったんだよな。上手だったでしょ?」
「斐竜、誤解を招くような発言は控えるべきかと」
 生真面目に注釈する白狼のことばも、それを聞いた斐竜が首をかしげるのも、連幸が小さく笑ったことも。
 聞きとめる余裕が、ジェスにはなかった。

「さて、と」
 炭になった雍焔を足で蹴り砕きながら、斐竜は歌姫に視線を移した。
「どうする? ジェス」
「決まってる」
 ことばと同時に彼は歌姫にフレイアを向け、引き金を引いた。