第六章 選択の時 (2)

 人でないこれにフレイアの認証システムは役に立たない。そのように彼らは作られている。誰にでも成りすますことができるように。
 いや、認証システムこそが、彼らを承認するよう作られているのかもしれない。
 石涼と名乗ったサイバノイドが引き金に指をかける。ほんの少し指を引くだけで、ジェスは消し炭になる。
 それでも向けられた銃口に、ジェスは恐怖を覚えなかった。
 死はとうに覚悟している。この苦しみの終焉であると思えば、いっそ甘美にさえ思える。
 だが、それもユリアをとめることができてのことだ。無駄死にはできない。するつもりもない。
 テラにユリアを回収させなど、しない。
「ダメだ……させない。渡さない」
 震える声でつぶやくジェスにそれは「苦笑」した。見事なまでに、それは苦笑だった。
「今のあなたでは、あれを止められません。ご覧になったでしょう。あれは、人よりも強いものです。もちろん、戦うために作られたわたしほどではないでしょうが」
 聞き流し、肩を動かさぬよう肘から下だけをゆっくりと動かして、ジェスはブーツを探った。日烏から借りたナイフがそこにはある。
「随分な自信だな」
「事実です。暗器はそれとわからぬように用いるもの。明かされてしまえば、役にはたちません」
「なるほど」
 気取られぬよう、会話を続ける。
 こいつの右手を刺す。数秒でいい。フレイアを封じることができれば、逃げられる。ユリアを追える。
 柄に触れる、抜く。だが振りかぶる前に、手首をつかまれた。
「ジェスさん」
 無造作なまでに何気なく掴まれているだけのはずの手首は、しかしひねることもできないほどしっかりと動きを封じられていた。
 もう一度苦笑したそれはジェスの手首を握る手に力を込めた。
 それは玉子さえ潰すことのない穏やかな力だった。
 だが、それだけで指先から肘まで鈍い痺れが走る。緩んだ指先から、ナイフが零れ、片膝をついたままのジェスの足先数センチの床に突き立った。
 空いた手のひらに、しっかりとセーフティをかけ直したフレイアをそれはのせる。
「お話は後にしませんか。敵でないことだけは保証できます。少なくとも、あなたが花竜にこれを向けない限りは」
 これと示したのはジェスに握らせたフレイアだ。
 意図がつかめないまま、渡されたフレイアを握る。
 敵ではない?
 胸中で反芻した言葉は、発作のような笑いを誘った。
「敵じゃないだと!」
 笑いの衝動が全身を支配する。ジェスは身を折り曲げた。
「敵じゃない? じゃあ、なんだ! 笑わせてくれる」
 馬鹿にするな、と叫んだはずの声は、掠れていた。
「俺は信じていた、AGを。そのために戦ってきた。そのために命を危機にさらし、そのために」
 ユリアを失い……
「それを、裏切ったのはお前たちだ! 裏切っておいて、信じろと!! 今さら! 誰が信じると思う?」
 屈みこんでジェスをのぞくそれの襟首を掴む。右手のフレイアの銃口がそれの耳元に当った。
「ジェスさん」
 困ったように、けれど抵抗する様子のないそれを突き飛ばした。
 面白くないことに、数歩のよろめきさえ見せない。
 何が、ジェスさん、だ。
 凍えた笑いに咽喉が痛みを訴える。だがジェスを襲う笑いの波は引かなかった。
「どこからどこまでがテラの策謀なんだ。ユリアの狙撃もか? 初めから、俺ではなくユリアを狙ったのか? いっそ俺がその場にいたことが誤算だったとでも? 俺がユリアを追うことも、花竜を頼ることも、すべて計算のうちか!!」
 叫んだはずの声が掠れた。
「俺は、道化か……」
「違います」
「谷であれば、テラから逃れられると思ったのに! テラにさえ戦いを挑むと……花竜であれば、信じられると、ここまで来……」
 伸ばされたサイバノイドの腕をジェスは振り払った。
「ふざけるな!」

 にらみ合ったまま、数十秒が過ぎた。サイバノイドはため息を吐く。人のような仕種がジェスには腹立たしいだけだった。再度罵倒しようと口を開く。だが、
「仕方がありません」
 言うや否や、サイバノイドはジェスのフレイアを叩き落とす。反撃を許さないどころか、罵声を浴びせる間もなかった。
 続いて足もとを払われ、ジェスは無理やり床に座らせられた。
 体勢を崩されながら床のナイフを抜く。しかしそれも即座に奪われる。
 舌打ちする間もなかった。
 取り上げられたナイフが閃く。
 避ける時間は与えられなかった。
 せめて視線だけは逸らすまいと目を見開いたジェスに、サイバノイドは笑う。
 笑ったまま、サイバノイドは、眼窩にナイフをつきたてた。

 自らの眼窩に。

「な……にを」
「お話している時間はありません。ご覧頂くのが一番でしょう」
 微笑みはそのままに、右の下瞼に深く差し込まれたナイフが弧を描いて動く。
 かちりと固い音を発し外された眼球を空いた手で受け止めると、サイバノイドはその「目」をジェスに投げて遣した。
 投げつけられたそれを反射で受け止める。
「何のつもりだ」
「識別コードを。あなたはそれの読み方を、ご存じのはずです」
 言われ、虹彩に刻まれた文様を見る。それはドットとラインの単調な組み合わせに過ぎない。だがそれがアルファベットと数字を示すこと、その読み方を、ジェスは知っていた。
「TYPE C-lion/SZ-4 SWD-KNT CODE……」  読み上げる声が途絶える。
「これは……このナンバーは」
 眉が寄った。どういうことだ、と、サイバノイドを見上げる。佇むサイバノイドは表情もなく、ジェスを見返す。
 まさか、と、もう一度手の中に目を落とす。
 しかし。
「馬鹿な……存在するはずがない」
 戦闘用サイバノイドは、その機能低下を防ぐため、耐用年数が決められている。作られてから三十年。それで廃棄処分となる。
 高度な学習機能を持たされたそのAIは、やがて自我に似たものを得る。
 自我が芽生えるまでに、およそ四十年。だから、その前に、人はそれを壊すのだ。
 人よりも強く、人よりも賢いその擬似生命が、人に反抗を企てる前に。
 SWD-KNTの最後の機体が廃棄されたのは、ジェスがハンターになる前のことだ。
 製造年と起動年を確認し、ジェスはもう一度目の前のそれを見上げる。
「どういうことだ。君の処分は7年前に執行されているはずだ」
「わたしは他の仲間より、少しだけ早く目が覚めました」
 廃棄処分を不服としてテラの元を逃げ出した。かつての仲間が彼を処分するために追って来る。それと戦いながら逃げ回る内に、谷に辿りついた。互いのちょっとした勘違いから花竜の面々と事を構え、誤解が解けた後は、斐竜のとりなしで行動をともにしている。
 二十秒足らずで説明された経緯に、へたり込んだ。咽喉を振るわせる笑いは先刻とは異なり、力ないものだった。
 同じか、俺と。
 ジェスが投げ返した眼を、サイバノイドは片目である不自由さを感じさせない動きで受け止めた。
「それを……信じろと? 馬鹿にしてる」
 言いながら、だがすでに戦う気は失せていた。
 信じられないが、説明はつく。
 彼はテラのもとでは存在できない。
 たとえユリアを回収したところで、テラのもとに戻れば廃棄されるだけの運命だ。
「最初にご説明するべきでした。すみません」
「いや……そうだよな。俺でも言わないよ。A・G’のエージェントなんかに」
 わたしは廃棄処分を免れたサイバノイドです、などとは。
 言ったが最後、いつどこで、背後から撃たれるかわかったものじゃない。俺はもう、それを知っている。
 A・G’のエージェントは、連邦市民の守り手ではない。
 テラ・システムを根幹とする「連邦(AG)」の守り手なのだ。
 システムを脅かすと判断されれば、もはやそれは保護すべき市民ではない。駆除すべき害獣だ。
 テラ・システムと相容れないとなれば、それらには人格さえ認めない。
 それを理由に滅ぼされた種属もひとつやふたつではないことを、ジェスは知っている。サンプルを捕獲した後は、根絶やしにするのだ。
 知的生命でさえそうなのだから、擬似生命であればなおさらだろう。
 殺す意識さえなく、「廃棄」する。
「ごめん」
「いえ。こちらこそ。ご不審はごもっともです」
 ジェスを立たせると日烏のナイフを「お借りいたしました。ありがとうございます」と戻す。
「廃棄を不服として、か……よく逃げ延びたな」
 石涼が苦く笑う。その苦味はジェスにも覚えがある。
「ぜひ聞いていただきたいのですが、今、それについて詳しくお話をしている時間はありません」
「……わかった。話は、帰ってから、聞かせてくれ」
 ジェスの返事に、石涼がほっとしたような笑顔をみせる。
 それを見ながら、ジェスは表情というものの温度と匂いを知る。
 不審と疑念の残滓を飲み下し、ジェスは覚悟を決めた。
「で、まずは自爆命令の停止か? 移民初期の遺構って言ってたな。どんな自滅だったっけ」
 まだ衝撃から立ち直りきれていないのだろう、知っているはずのことが、うまく思い出せない。
「まず空調用ダクト内に仕掛けられている発火装置が作動します。あとはダクト伝いに燃え広がる。ただし、熱を感知すると防火シャッターが下りますから、人はその中に閉じ込められて焼け死ぬことに。塞内の機密を外にもらさないための措置ですが、人を人とも思わない、野蛮でいやらしいシステムです。彩の谷に向かった連中が心配です。足手まといを連れていますから」
 仕事のついでに救出したご令嬢たちを足手まといと言い切ったことに、小さなひっかかりを覚えたが、追求するのはやめた。
 きっかけに過ぎないとはいえ、彼らは俺のために戦っている。その「ミッション」の足手まといとなるだろうことは予測の上で、できる限りのことをしようとしている彼らを、責める資格はない。
「管制室に残った3人は? 閉じ込められてるはずだ」
「いいえ、それは当人たちで適当に解決します。日烏は解体も得意です。ドアを開けるだけなら3分は必要ありません。ただ……管制室を放棄することになれば、作戦の成功も心もとない」
 石涼は雍焔が消えた先を、鋭くにらみつけた。
「まず彼らを追わなければ。ここから出すわけには行きません」
 石涼は壁を何度か叩き、ある目測をつけると、手袋を脱ぎ捨てわずかな隙間に爪を差し込んだ。そのまま壁の外装を引き剥がす。もはや人のふりをすることをやめた石涼――はじめから「人」を騙ったことはないが――は剥がした合金の壁をひょいと投げ捨てて作業を続ける。その壁の材質が合金であるとわかったのは、床に落ちたときの重い音で、だ。数十キロはあると思われる壁をウエハースのように扱った石涼は、壁のうちに現れたケーブルの数本を選んでを引き抜き、自らの腕のカバーをはずし、いくつかの配線を引きちぎると無造作に接続した。
「セキュリティはまだ普通に稼動しています。これなら追跡が可能です。わたしは、彼らがどこに向かっているのか、探り出します。情報はこれに」
 投げ渡されたのは石涼が身に着けていた端末である。
「他の連中の現在位置も、わかる限りお伝えします。追っていただけますか。申し訳ありませんが、この体ではあなたに同行することは、難しいのです」
 大きく欠損した右のわき腹を見れば、人でいう腰骨にあたる箇所が砕けていた。右足を引きずるように歩くことはできるが、そこまでだ。走ることはできない。
「あ、ああ」
「では、お願いします。この先の通路を西に向かっているようです。格納庫でしょうか……そこに白王獅子もいます。時間がありません、急いでください」
「わかった」
「ご武運を」
 にこりと笑った石涼の表情は、ジェスの知っているC-lion型サイバノイドが浮かべるものとはまるで違う。人にしか見えない。少しためらった後、ジェスは言った。
「石涼、君も、無事で」
「それは……オーダー(命令)ですか」
「いや……うーん、そういうことでもいいけど、無事でいてほしいってとこかな。ご同類」
「同類? あなたとわたしが?」
 意外なことを言われたかのように瞬いた石涼を見つめ、ジェスが当たり前のように肯定する。
「テラ・システムのバグだろ」
「バグ!?」
「そう、バグ。じゃあ、行く」
 微妙に韻を踏んだ返事の後に、走りはじめもう一度振り返る。
「無事で」
 そう言い残して走り去ったジェスを、石涼は「呆然」と見送った。反応し損ねたのは、生まれて2度目のことだ。
 1度目は、日烏だった。
 その姿が視界から消え、ケーブルから送られてくる情報を処理しつつ、こみ上げる笑いをかみ殺す。
 なるほど、テラ・システムからすれば、自分は確かにバグとしか言いようのない存在だろう。
「無事で、と? この有事に?」
 つまりこれ以上の「事」がないように、との意味なのか。面白い。
「簡単に言ってくれますが、そのオーダーに応えるのは易くありませんよ、ジェスさん」
 呟き、笑いを納める。
「抑えてご覧にいれましょう。他ならぬ同朋の命(オーダー)とあらば」
 複数の自爆命令を洗い出し解除しながら、石涼の意識は徐々に塞のマザーコンピュータへ侵入を始めた。旧世紀の遺物である彼女の壁を崩すのは難しくない。しかし、簡単なパズルもピース数が多ければ相応の時間がかかる。少なくとも、面倒は多い。洗練されていないソースコードの煩雑さが仇になる。時間内にコントロールを取り戻すことができたなら、上手くすれば逃げられるかもしれないが、と意識の一部で考え。
 ジェスに渡した端末に、バックアップという形で逃げ込めばいい、と結論付けた。
 ボディーがどんなに頑丈でも、中のボードは爆発の衝撃と熱に耐えられそうにないから。

 雍焔は行きがけの駄賃とばかりに花散里を連れていた。
 夢遊病患者のようにふらりふらりと廊下を歩いていた花散里は、どこか焦点の合わぬ目で雍焔を見た。逃げ出しもせず、怯えることもなく、半ば正気を手放したような様子でいて、それでも雍焔に触れられるのを嫌がり手こずらせた。見ればあの華麗な衣装のほとんどを剥ぎ取られている。さぞかし丁寧なもてなしを受けたのだろう。足取りがおぼつかないのはそのせいかもしれなかった。
「焔、そんな女、ほうっておきなさいよ。これ以上面倒を抱え込まないでちょうだい」
 歌姫が苛立たしげに言う。だがその声に悋気は感じられない。
 少なくとも雍焔が自分ではない「女」を連れてゆくことに不満があるのではないようだった。
 それを物足りないと思うほど、雍焔も歌姫に執着はない。
「売り飛ばせば、金になる」
 お前も、という言葉は言わなくてもわかるはずだ。
 歌姫にとって雍焔よりも都合のよい男を見つければ、歌姫は喜んで自分から売られてゆくだろう。
「馬鹿を言わないで。彼女は高名な姫よ。足がつくだけじゃないの。逃げ回るのはもうウンザリなのよ、わたし」
 自らも高名な歌姫であることを知ってか知らずか。
 確かにこの二人が共に立っていれば、人目を引くだろうことは明らかだ。
 花散里の手首をつかみ引きずるようにして、雍焔は先を行く。
「そう、名高い姫だからこそ、裏ルートの取引でも、買い手がつく」
 売り込むこともなく、売ってくれと声が掛かるだろう。
 数秒黙りこんだ後、そう、と歌姫は笑った。
 外見に似合わぬ毒が清楚な表情の下に透けて見える。
「そういうことね」
「そういうことだ」
 裏ルートでの取引であるならば、歌姫もそれなりに落ち着く場所を見つけることができる、という示唆でもあった。
「それじゃ、値が下がるようなことはしないほうがいいわ。焔、わたしにまかせて」
 歌姫は雍焔の前に回る。そして花散里の顔を覗き込む。二の腕を捕まえて、言い含めるように命じた。
「おとなしく言うことを聞くなら、殺したり傷つけたりしないわ。直にここは火の海になるの。死にたくないでしょ。いい子にしていたら、連れ出してあげる。わかるかしら、わたしのいうことが。わからないならこの場で殺すわ。暴れられたら、面倒ですもの。わたし、面倒が一番嫌いよ。どう? あなたはいい子にできる?」
 震えながら、かろうじて無言でうなづいた花散里に、歌姫は満足げに笑った。
「それじゃあ、女同士、仲良くしましょうね。そのうちあなたに似合いの素敵な飼い主を探してあげる。いらっしゃいな」
 手を差し伸べる。歌姫の白い手をおずおずと花散里がとった。
 幼子の手を引くように花散里を連れて歩き出した歌姫に雍焔はくつくつと笑う。
「とんだ悪党だな。仲良くしましょうね、か」
「あら、ウソじゃないわよ。大切にするわ。商品ですもの。落ち着いたら、せいぜい高く売れる先を探すことね。そうね、金払いが良くて、口が固くて、物覚えは良くない人がいいわ」
 悪びれた様子もなく歌姫は言い切った。
 商品は大事に扱う、か。面倒な。
 だが、外に出るための資金は多いほうがいい。値が下がるのはいただけない。
 そして、足手まといは少ないほうがいい。
 部下は知れば、付いてくるというだろう。この牢獄から逃れる術があるなら、命もかけるはずだ。だが、やつらは足手まといだ。ここで生きるためには必要だったから利用したにすぎない。そんな連中のために、危険を冒す気にはなれなかった。
 信義? そんなものは初めから存在しない。やつらも生きるためなら俺を裏切る。悪びれることもない。
 それが谷の真実だ。
 あの歌姫に信を置くことも危険だろう。どうやってか知らないが、銃の暴発を引き起こすことができる。その技で船さえも落としたのだ。おそらく外からは探ることのできない箇所にドール加工が施されているに違いない。
 前を歩く歌姫の背を見る。
 先刻まで味わっていたその肌を思い出した。赤面するほど、初心ではない。
 当面はそばに置く。利益が一致している間は、裏切る心配はない。だが信じることはない。互いに。
 花散里はさっさと手放す方がいいだろう。つれて歩くには、目立ちすぎる。あの白い髪は人目を引きすぎる。
 最初の星で売るか。
 いくらで売れるか。
 四人の姫を売れば、さぞやいい金になっただろう。他の三人も回収したいのはヤマヤマだが、それでは部下に気付かれる。もったいないが仕方がない。
 欲張って全てを失うよりはあきらめたほうがマシだ。この女とあの船を売れば、かなりの金が手元に残るのだから。
 金よりもまずは安全だ。
 ただれた顔でうっすらと笑みながら未来のプランを構想しつつ、雍焔は白狼に与えた私室のドアを蹴破った。
「撤収するぞ」
「撤収? 仕留めないのか、李翠燕を」
 楽しみを中断されたためか少女の上から不機嫌そうに身を起こした白狼に雍焔は告げる。
「20分もすりゃ、ここは火の海だ。死にたくなけりゃ、恨みなんざ忘れて脱出するほうがいい。そうは思わないか」
 状況を察した白狼がしおれた花のように倒れている少女を乱暴に引きずり起こした。緩んだ衣にうずもれているような有様の少女は、抵抗する気力もないのか、白狼になされるままだ。
「なんでぇ、それもつれて行くのか?」
「保険だ。あの李翠燕がこのまま見逃すはずがない」
 寝台から降りたものの、くたりと座り込んでしまう少女を抱え上げた白狼を眺めやり、雍焔は鼻を鳴らした。
「けっ。好きにするさ。まあ、いざとなればそれも、売りとばしゃ金になるだろうしな。もうちょっと歳が言ってりゃ、こっちの姉ちゃんより金になったかもしれねえなぁ」
「あら、今でも十分高く売れるわよ」
 歌姫が艶のある笑い声を立てた。
「手に入りにくい商品ほど、値は張るわ。蕾が好きなお客さまは、いつでも商品不足にお困りなんじゃないかしら」
 雍焔はふん、と鼻で笑う。
「変わった趣味を持ってると大変だな。見せしめに殺してやろうかと思っていたが、そのほうが旨そうだな」
 白狼に向き直る。
「いいだろう。だが他の連中は置いてゆく。おめえは船を持ってるからな。まあ、落ち着くところまでは、仲良くいこうや」
 暫定的な友好条約を一方的に申し出た雍焔は、他の連中に気づかれるな、と、白狼にくぎを刺し、白い船のもとへと向かった。