第5章 転々、…… (6)

 衣擦れの音に、男は椅子に座ったまま振り返った。艶麗な笑みが間近にあった。
 流れる白い髪は、金属とはまた異なるをやわらかな光沢を孕む。
 衣に焚き染められた甘い匂いに、じんと頭の奥が痺れた。
 細い腕を、女は彼の首に巻きつけ男の膝に座った。
 しなやかに寄り添う女の背に左手を這わせ、右手で項を支える。
 口付けようとした。
 ふいに女は視線を逸らし俯いた。
 ばつの悪そうな様子に構わず無理にも唇を求めると、女は身を預けたまま、華奢な肩越しにちらりと後へと目を投げた。
 女を捕らえる力を緩めることはせぬままに、男はその視線を追う。
 目に入った光景の意味するところを、即座には理解できなかった。
 折り重なるように倒れている仲間に気付いた男にできたのは、ぽっかりと口を開くだけだった。
「なに……が」
 瞬間、男の顎に伸ばされた女の優しげな指が、思いもよらぬ力でその首を強く右へひねった。小さな、しかし嫌な音ともに首の骨をはずされた男が椅子から転げ落ちた。
 暗がりを滑り落ちる意識の彼方で、女が囁いた。
「言ったでしょう? 浄土でも天国でも、好きなところに連れて行ってあげるって」
 そうか、では俺はこの地獄から解放されるのだ、と思い、それが男の最後の思考となった。
「おやすみなさい」
 愛しげにかけられた声に目を閉じた男は、赤子のような表情をしていた。

 連幸は重い打掛を脱ぎ、真珠色の髪を解いて背に流した。
 結い上げるのは嫌いではない。が、まとめられた髪は重い。その上、釵やら花やらで飾り立てているのだから、肩が凝る。
 窮屈から解放され、彼は軽く伸びをした。
 解かれた髪が動きにあわせ肩をすべる。彼は胸元に垂れた後へと再度流した。
 そのままいつも通りに束ねようとして手を止めた。
 ひとつに束ねてしまうほうが動きやすいのだが、動きやすいことが一目で知れるいでたちは目を引く。
 単に目を引くだけならば問題はないが、花散里が戦えることを教えるのはよろしくない。
 髪から手を離す。
「胡蝶、蜻蛉。傷は?」
 部屋の隅に蹲る胡蝶らを振りかえり声をかけた。
 たいしたことはありません、と胡蝶が応え、蜻蛉が同意する。しかしどちらも息が荒く、蜻蛉にいたってはことばを返すこともできない有様だ。
 それでも数人を片付けたことを労いつつ、連幸はすばやく算段した。
 白狼の命令で斐竜の乗る船の機首を吹き飛ばした白王獅子は、しかし、斐竜の助けろ、という命令にも従った。
 白王獅子は、二人のうちどちらをより上位に据えているのか。
 もし、白狼が上位であった場合、脱出は難しいかもしれない。奥まった管制室にいるよりは、ここからのほうが、まだしも脱出しやすい。傷を負っているならなおさらだ。
 動かさない方が、彼女たちが生き延びるには都合が良い。
 では、彼女らをここで待機させた場合に考えられる不都合は。
 もともと、情報の穴を埋めることが潜入隊の目的だった。連幸、つまり花散里一人をさらわせる不自然をカバーするためだけに人選し、人選の結果ついでに管制室を抑えることになったが、当初の予定では管制室の占拠は石涼が受け持つはずだった。ここで当初通り石涼に任せたとしても、それほど問題はない。ひょっとして、諜報員が逃げ遅れることになり、救出予定の少女たちが死ぬことになるかもしれないが、胡蝶らが行動を起こし失敗した場合、その犠牲者の中に斐竜が含まれることになる。
「ここで日烏を待ちなさい」
「ですが」
「大丈夫。蛍は俺にまかせて」
「ここでお待ちするよりも、管制室で待ち合わせるほうが」
「時間的には節約できるね。できる?」
 最後の問いかけは行動の可否ではなく、任務の遂行が可能かどうか。
 胡蝶ができますと答え、蜻蛉が頷く。
「それじゃ、予定通り管制室を抑えて、待機。掃除は石涼たちにまかせて構わない。全部片付けようだなんて思いあがらないように。後は日烏の指示に従って」
 永遠に見開いたままの目を上に向けて倒れている男たちをまたいで、連幸は胡蝶と蜻蛉に歩み寄る。
 二人の帯を一度解き、いくつかの腰紐の位置を手早く変えた。器用にも纏ったままの自分の帯から前板を抜き、蜻蛉の帯には二重に挟む。そして結びなおした。
「これで少しは楽になる」
 ひびの入っているだろう肋骨を固定したのだ。充分とは言いがたいが、ないよりはいい。
「はい」
 体をひねるような動きは最小限にね、と言い置いて部屋を出かけ振り返る。
「胡蝶」
「はい」
「その打掛と帯も頼んでいいかな。焦がさずに持ち帰れたら、二人にあげるから」

 黒谷を翠燕は一直線に抜けてゆく。その速度は人の能力を凌駕している。青年が走り抜けた後には、ほぼ二列縦隊の死体の道ができる。彼が何を使って死体を作っているのか。あまりにも早いその動きは、遠目には残像さえ残さない。が、時折陽光を受けて、反射する光がある。
「あれは、剣?」
 雍焔の塞をほぼ真下に見下ろす岩棚の上で突入のチャンスを窺うジェスら三人は翠燕がどんどんこちらに近づいてくるその姿を見ていた。
「剣というよりは直刀です。似たようなものですけど。銃とは違って、弾数やエネルギー残量を気にする必要がありません。刃は荒れてゆきますが、切れなくなるほど刃こぼれがひどくなったり、脂がつくこともないでしょう。咽喉を狙っている限り」
「見えるのか? あの動きが」
「見えるというか……教練でなんどか手合わせしていますから。彼は教練では筆をつかいますけど。首に一の字を書かれて撃沈されます。今のところ首一文字を書かれないで済むのは連幸だけ。連幸の間合いは大きいので。あの剣を使えばまた別でしょうが、筆では、無理です」
 どこをどうとっても楽しそうに石涼はそう言った。
「筆ねえ……」
「以前サインペンでやりましたら、切れちゃったんです。ざっくりと。それでも手加減していたから、致命傷にならずに済みましたけど、手加減してなかったら、今頃王虎は首から上だけがオリジナルだったでしょうね」
 あはははは、と楽しげに笑う石涼に、ジェスが眉間を押さえた。何をどう考えても笑い話でないことは確かなのだが。
「頭を挿げ替えるほうがいいよ。……馬鹿の話はその程度にしておいて、そろそろ行くんだろ」
 日烏のことばに石涼が塞の入り口を確認する。
 近づいてくる翠燕の一隊に、少しずつ少しずつ、雍焔の手下たちは前へと持ち場を離れている。塞の入り口付近に隙という名の空間が作られてゆく。
「まだです」
「まだって、充分突入できるじゃないか」
「突入するだけなら、いつだってできます。ですが大切なのは、歌姫を無傷で連れ出すこと。そのためには中にいる敵もできるだけ外に引きずり出してもらわないといけませんし、我々が入り込んだことをできるだけ知られたくはありません」
 でしょう、と、訊ねられ、日烏がそっぽを向いた。
「面白くない! せっかく久々の前線なのにどうしてこんな地味な作業に割り当てられちゃったんだか」
 心底残念そうな彼女のことばに石涼が失笑する。
「気持ちはわかりますが、もう少しの辛抱ですよ」
 辛抱。戦いを前にして、「辛抱」!? その感覚のたくましさにジェスが笑った。
「まいったな。自分がまるで素人のような気がしてきたよ」
 こぼしたことばに日烏が瞬きをする。眉を上げて楽しげに言った。
「次は足がすくんだとでも言うつもりかい? 坊や?」
「言いたいね」
「さて、そろそろですよ」
 石涼のことばに二人が視線を塞に戻す。翠燕たちはとうとう塞の入り口から200メートルのところまで接近していた。
 磁石に曳かれる砂鉄のようにぞろりと敵が動いた。
 砦から湧くように現われた数十人も、その動きに同じて前進する。
 入り口にはまったく無防備な空間ができていた。
 派手なパフォーマンスを見せる翠燕に敵の視線は固定されている。
 その隙を狙って、敵の死角から3人は塞内に忍び込んだ。

 塞からおよそ200メートルの地点で翠燕は足を止めた。止めた理由は二つ。一つは、ジェスたちが行動を起こしたことを視界の端で察知したからだ。ここに敵の全勢力を集めること。もうひとつは、王虎の率いる部隊が追いつくのを待つためだ。
「李翠燕、か」
 立ち止まった翠燕の前に歩み出てきた男が尋ねた。男のことばはたどたどしいエリシュシオン語だ。翠燕は答えない。馬鹿にしたように薄い笑みだけを返した。答えない翠燕に男は宣言する。
「ここは通さない」
 通る。
 そう思ったが、もちろん声には出さない。返事をしない翠燕に、男はさらにことばを重ねた。
「案内が欲しいか。それならしてやる。おまえの両手足を切り落としてから」
 両手足? 笑止。
 男はじりとつめよる。つめられた間合いを保つため、翠燕はゆっくりと一歩後退した。
 後退した翠燕の動きにつられて、男は――おそらくは部下たちも全体的に――一歩、前進する。
 それを二度繰返すことで、10m少々の隙が砦と敵最後列との間に発生した。
 数十秒、男の口上を聞き流し、王虎らが後方の敵を蹴散らして追いつくのを待った。
 王虎らの距離は、ほかならぬ敵が教えてくれる。猛然と土煙を上げて突撃してくる王虎とその配下に、少なからず動揺した敵の小物たちは、目を忙しく動かして逃げ場を探しはじめる。
「どうした。声もでないか」
 黙ったままの翠燕を男はあざ笑う。と。
 翠燕の口の端が、くっと上を向いた。陽光を受けて白い光が走る。
 男の首は宙を舞った。
 砂地に落ちて数度バウンドした首が翠燕の足元に転がった。右足で、その動きを止める。首にはまだ笑みが浮んでいた。
「口上を最後まで聞くような紳士じゃないと、何度言ったらわかるんだ? 両手足を切り落とす? 馬鹿を言え。首を落とすほうが、よほど手間がない」
 いっそ涼やかなその声に逆上した男たちが襲いかかかる。
 石涼たちの姿はすでに塞の内に消えている。
 一人ずつ数十人を的確に「処理」しながら、翠燕は呼んだ。
「王虎」
「おう」
「任せる」
「へいへい。了解」
 王虎の返事と同時に、波間にはねる魚のように翠燕が敵の頭上に躍り上がる。そのまま囲みを抜ける駄賃のように7,8人を切り捨てると、彼は塞の中に駆け込んだ。
 翠燕を追いかけようとする敵の前に立ちふさがったのは王虎と二人の部下だ。
「さて、どう料理したもんかな」
 言いながら王虎は肩に担いでいる不恰好な二つの筒を構えなおした。近づく敵をその筒でなぎ倒す。間合いを取って対峙する敵を一瞥。ぺっと地面につばを吐いた王虎は腰で抱えた二つの筒を前方に向けた。
 機械の左目は通常視界から照準モニタへと映像を瞬時に変える。砲弾の予測軌跡がトレスされた。
「決まりだな。全部まとめてぶっ飛ばす。谷の肥やしになりやがれ。てめえら、ちゃんと避けろよぉっ」
 最後の一言は、混戦中の部下に向けてだ。言うと同時に、王虎は斐竜愛用の対空砲を、腰溜めで打ち放した。右で一発。左で2発。計3発を連打する。
「無茶です!!」
 という部下の悲鳴が聞こえたのは、トリガーを引いた後だったか、先だったか。
 細けぇことはどうでもいいやな。
 凄まじい音が谷に轟き、砂煙と陽炎が消えた後には、呆然とへたり込む敵の生き残りと、二度と動くことのない抜け殻が累々と横たわっていた。
「ちょっとはきれいになったじゃねえか」
 へへっ、と機嫌よく笑う王虎は左に抱えていた砲を投げ捨てた。
「王指揮官!!」
 砂塵にまみれたまま王虎を怒鳴りつけたのは、常は石涼の部隊に所属する青年だ。
「ほぅ、さすがに生きてるな、おめえらは」
 大地に伏せてやり過ごしたか、敵の体を盾にしたのか。
 砂と煤に汚れ、から揚げのネタのようになりながらもしっかりとした足取りで立ち上がるのは石涼隊の連中だ。
 さすがに連中の丈夫さは半端じゃねぇな、と王虎なりに感心する。
 少し遅れて頭をぶんぶんと2,3度振りながら身を起こすのは王虎直属の部隊に所属するものたちだった。
「あたりまえです。上官に背中から撃ち殺されなきゃいけないようなことをしてませんよ!!」
 がはははは。
 まあ、細けぇこたぁ言うな。
「毎度のことじゃねえか。なあ」
 そういった王虎から、彼は視線を転じた。王虎の直属の部隊の人間へと。
「毎度……?」
「まあな。慣らされちまったよ。この程度なら」
「よく、生きてるな……半分は生身のくせに」
「おう。毎度疑問に思ってらぁ」
 砂まみれの部下たちがあちこちから集まってくる。
「さあて。ぼさっとしてんじゃねえぞ」
 部下に号令をかける。
「さっさと片付けろ」
 今なお戦意のある数少ない敵を、次々に片付けて行く。4、5人一組で一人に対峙しているのは一夜漬け部隊だ。谷底の戦闘を上から支援していたはずの彼らだが、退屈したのか降りてきたようだ。
 その戦術を見ながら王虎は軽く頷いた。
 ジェスは一人一人の力の不足を、グループで補うことにしたらしい。それで死角はほぼなくなるし、守りに余裕があれば冷静でいられる。血の臭いや戦いの気に惑わされて自分を見失った挙句死ぬという、もっとも愚かしい末期だけはそれでふせぐことが可能だ。攻撃に転じても有利だった。動きの早い一人が敵の動きをひきつける。ひきつけておいて逃げるだけがその役目だ。が、もちろん、隙があればいつでも切りかかることはできる。攻撃の瞬間こそが、もっとも無防備であることを利用した戦法である。通常これはカウンター的に行うものであるため、相応の実力が求められる。しかし、どんなに強い相手であっても、複数と長時間対峙することは不可能だ。相手が疲れるまで根気良く、5人交互に攻撃を繰り返し、相手に疲れが見えたら止めを刺す。ケガをしたものの手当ての手際は予想以上によくできる。寄せ集めの即席部隊だが、鍛えりゃそこそこ使えるかもしれねぇ。
 もっと効率的な方法を選んだグループもある。遠くから狙撃、という方法だ。谷の上から狙い撃ちをするのは、さぞかし楽しかろう。間違って味方を撃ったりしないのは、照準をつけることに手間と気力を惜しんでいないからだ。安全な場所から狙撃するなら、時間だけは無限にある。
「卑怯な戦術だが、卑怯が一番効果的ってことだな。さて、と」
 後始末は部下に任せた王虎はゲートに向き直る。
 表の状況に色をなした敵が、酒樽の栓を開けたように外にあふれ出ようとしていた。
 翠燕の無事は、考えるまでもない。こともなく、先に進んでいるに決まっている。
「それじゃ、ちょっと手伝ってやるか」
 右に抱えていた砲を肩に担ぎ塞の内側に向け。
「よっ」
 気楽な掛け声と共に最後の一発を打ち込んだ王虎は、満足げに笑った。
 閃光。轟音、熱をともなった爆風。
 飛び散る無機有機の欠片が、右の生身部分を庇う王虎の左半身に、いくつもぶつかり、派手な音楽を奏でた。
 咄嗟に石涼の隊に所属する数人がその身で壁を作り、衝撃波を殺す。それでも王虎の周囲にいた生身の幾人かが大地になぎ倒された。
「王虎!!」
 手首の通信機から、翠燕の怒声。
「わりぃな。生きてるか……っと」
 ぶつり、と音を立てて通信が切られた。
「おーおー、こりゃ相当きてるぜ」
 決定的に怒らせたのはあなたでしょう、という石涼の部下のことばには
「聞こえねぇな」。
 すっかり崩れて塞がった入り口を確認すると、王虎は部下を集める。
「欠員なしか。上出来だ」
 もともとの部下、石涼、日烏から預かった連中。それらの副長の報告と、一夜漬け部隊の全員を確認した王虎は更なる命令を下す。
「俺はもうひと遊びしてくらぁ。おめぇらはまっすぐ帰ぇれ。めぼしいものがあったら回収していってよし。ただし、1時間以内に、この谷から出ろよ。この辺り一帯、地獄になるぜ」
 地獄にするぜ、と聞いた数人がため息をつく。
 自分も残る、という副官ほか二人に王虎は笑った。
「悪いことは言わんから、帰ってろ。あのキレた翠燕が恐くねぇってんなら、止めねえけどな。それより、夕飯の支度、頼むわ。今日の当番は日烏だ。ヤツのまずい飯食うより、その方がいいだろ、おめぇらも。あいつ、調理と有機物の化合と、なんか勘違いしてるところがあるからなぁ」
「そこまで酷くはありませんよ、隊長……他に食うものがない状況なら我慢できなくはないような……」
「いいえ、それでも漆喰を齧るほうがよほど現実的な対応だと私は思いますが」
「漆喰があればな」「水だけで何日命繋げるんだっけか」「その水が得体の知れない液体になっている可能性も……」
 口々に述べられる感想を聞きながら、口に広がったのはカメリア・シネンシスの芽の抽出液としか呼びようのない液体の記憶だ。いや、あるいは牛の上腕筋か豚の大臀筋の炭化物の記憶だったかもしれない。硫黄臭豊かな緑と紫の斑模様の玉子焼きもあったが、あれは斐竜がどこからか拾ってきた「何か」の卵で、日烏一人の責任ではないだろう。が、どれも、およそ人の食べ物ではないことだけは確かだ。
「そういうことだ。だから、まあ、おめぇらはメシでもこさえて待ってろ」

 メシを食えりゃいいんだがな、との呟きは、王虎の胸中のみで発せらる。
 無傷で帰ることはないとしても、首から下を全部ドールにするようなことになれば、これから先のメシは「ブドウ糖」に限定されちまう。
 ぞっとしねぇなぁ、と声に出された呟きと鬼神を思わせるその笑みに、身を震わせたのは王虎ではなく、その部下たちだった。