第5章 転々、…… (4)

「聞く気に、なったみてぇだな」
 そう前置いて、雍焔は話し始めた。
「まずは、ハンター。てめえの女はもう帰りたくないとよ。そういうことだから、さっさと帰ぇんな。ぼっちゃんよ」
 雍焔がしなだれかかるように寄り添う歌姫の背中を爛れたその手でするりと撫でた。くすぐられて笑う歌姫に嫌悪の表情はかけらも見られない。
「これは、今のところ俺のものだ。他人に譲る予定は、とりあえずねえな」
 雍焔の首に腕を回す歌姫がジェスを振り返る。
「わざわざ迎えに来てくれたのにごめんなさいね。ジェス。せっかくだけどそういうことなの。だから早く帰ったほうがいいわ、パパのところへ」
 ほほほ、と高らかな笑い声が響く。声だけを聞けば、麗しい。いや、その姿も決して醜くはない。だが、醜くないからこそ、嫌悪を感じずにはいられない。
「それとも、まだ遊びたりない? ねえ、左目の調子はいかが? つぶすときは、ほんの少しだけど、躊躇ったのよ。だってとてもきれいなんですもの。そのきれいなブルーが宝石だったら、抉り出して指輪にでもしてあげたのだけれど、残念ね。本当に残念だわ」
 唇をかみしめるジェスに、ユリアは嫣然と微笑みかけ、雍焔の耳元に口を寄せ、ささやいた。
「それでも遊びたいと彼がいうなら、そのときは、少しだけ手心を加えてあげてね。彼のお父様には、ぜひ伝言を頼みたいの。忙しいAG’の総帥も、瀕死の息子のことばなら聞くでしょう? だから、耳が聞こえて、口が聞ける程度には生かしておいてちょうだい」
「へっ。難しい注文だな」
「そうかしら? わたしのことばを伝える間だけ持てばいいのよ。他はどうとでも、好きになさいな。そうね、五体無事である必要は」
 ふふふ、と楽しげに笑い、雍焔の溶けた右半面の頬を撫でながら、左の耳元に口付けた。
「ないのではなくて? ねぇ?」
 それじゃ、あとはお願い、部屋で待っているから。
 言いながら雍焔から身をゆっくりと離し、女はうっすらと冷たい笑みを浮かべたままジェスを一瞥し、背を向けた。姿がモニターから消える。握り締めたジェスの拳から滴る血に気付いた日烏がその手をとった。手を開かせると爪が食い込んだ手のひらが切れている。日烏は無言でハンカチを巻いた。
「それから、今回のために随分、手間暇かけさせたみてぇだが。へへへ。その苦労はこいつから聞かせてもらったぜ」
 悦に入った様子で雍焔は顎をしゃくる。白狼が斐竜の髪を掴んだまま前へ出た。
「さて、李。てめえの依頼人がこれで納得したら、俺たちが争う大義名分は消えちまうが……それは、困る」
 雍焔はおそらく笑っているのだ。右頬のケロイドがひくひくと蠢く。
「俺はなあ、てめえにこんな姿にされて以来ずっと仕返しをしてやりたかったんだよ。それを目前にして、あきらめられるかってんだ。そこで、だ」
 雍焔はジェスに視線を移した。
「あの女」
 くいと、顎をしゃくって、歌姫が消えた方向を示した雍焔は、引き攣れた口元で哂う。
「返してやらねえこともない。ただし、ここまで取りにこいや。生きてたどり着いたら、考えてやろうじゃねぇか」
 もちろん、と男は続けた。
「まあ、せいぜい歓迎させてもらうがな。俺たちの歓迎は手荒い。大事な客を死なせちまうわけにもいかねえなあ、李翠燕よ。そういうことだから、代理で勘弁してやらぁ」
 きゅきゅきゅ、という奇妙な音は、雍焔の焼けた咽喉がつむぎだす笑い声か。
「李。てめえはハンターの代理だ。ここまで取りにこい。あの毒のような女と」
 いいながら雍焔は白狼に捕まえられている斐竜のあごを捉えた。大きな手で鷲づかみにされた斐竜の頬に、雍焔の爪が食い込む。
「てめえの可愛い可愛いお人形をな」
 翠燕の顔色が、そのとき初めて変わった。

 ぎゃははははは。
 下品な笑い声がスピーカーから鳴り響く。雍焔の手下たちまでが、腹を抱えて笑っているのだ。
「それにしても、取り澄ましたてめえが、こんなガキにご執心とはなぁ。こいつがいなけりゃまんまと騙されるところだったぜ。あっちの姉ちゃんのほうがよっぽどしっくりくるからな。店にも出さず、片時も離さねぇたぁ、見上げたもんだぜ。朝から晩までずっと一緒とはな。今度の作戦も最後まで反対したってなぁ?」
 揶揄もあらわに雍焔は翠燕を見て笑い、斐竜のあごを焼け爛れた右手で掴むと、左手に取ったナイフを突きつけた。
「そうだな。てめえの不始末、こいつにつけてもらうってのも悪くねぇか。どっちがいい? 右目か、左目か? 舌にするか? ……舌がいいか。便所は口なんぞ聞く必要はねぇからな」
 あごをさらに締め上げて口を開かせようとする。さすがにこらえかねたのか、斐竜の喉から、小さなうめき声が漏れる。
「やめておけ」
 静かな声で雍焔の手を止めたのは白狼だった。斐竜を後ろ手に締め上げる左手の力にはいささかの変化も見られないまま、白狼はことばで雍焔を止めた。
「なんでぇ。不都合でもあるのか?」
 興ざめした様子で白狼を見た雍焔に、青年は唇の端を吊り上げる。
 くっと小さく咽喉を鳴らした白狼は、およそ彼には似つかわしくないほど挑発的な表情で雍焔を見、気が付いたように翠燕に視線を移した。
「せっかく無傷で捉えたんだ。無駄に傷を負わせるな。鳴かぬ鳥など、面白くもない」
 そう言って、右手で斐竜の前髪を強く引っ張った。
 悲鳴をこらえる斐竜が、白狼の手を振り解こうとするが、着慣れない「姫」の重い衣装が動きを妨げる。
 それでも抵抗を試みる斐竜に手を焼いた白狼が、髪をつかんだまま、左手で斐竜の頬を打った。
 髪を掴まれているため、倒れることもままならず――それは、打たれた勢いを殺すことができない、ということだ――斐竜は小さく苦痛の声を上げた。
 容赦なく二度、三度と打ち付ける。口の中を切ったのだろう。唇の端から血が一筋流れた。
 抵抗する気力をそがれたのか、斐竜は膝をおる。がくりと倒れるように座り込んだ斐竜の右肩に片膝を乗せ、その体重で動きを封じた白狼は、モニターに映る翠燕に視線を戻した。
「無駄な傷は負わせないんじゃなかったのかい?」
 棘を含んだ問いを発した日烏に視線を転じた白狼は短く応えた。
「無駄でなければ、いくらでも」
 その謳うような調子に虚を衝かれたのか。日烏だけでなく雍焔までが刹那、黙り込み、ついではじけるように笑い出した。
「なるほど。わかった。そいつの処遇はオメェにまかせた」
「なんてやつだい!!」
「口出し無用」
「……偉そうな口きいてくれるじゃないか。小僧」
「やめろ、日烏」
「だけど、翠燕」
 なおも食って掛かろうとする日烏を制し、カップをテーブルに戻し、椅子から静かに立ち上がった翠燕は、忌々しげに白狼を睨み、次に雍焔見た。
「……望みはなんだ」
「ちょっとした遊び(ゲーム)に付き合ってもらいたいだけだ。勝てたら、小娘も返してやるぜ。無傷でとは、約束しかねるがな」
 雍焔は言って白狼を振り返る。あごで白狼にことばを促した。
「殺しはしない」
 何を思っているのかうかがわせない表情で、まずそう言い、思いついたように付け足す。
「が……そうだな。せっかくだから少し遊ばせてもらう。……遊びすぎて、壊れないうちに、迎えに来ることだ。鳴き声に飽きてその舌を切らぬうちに。間に合うのならば」
「ゲームのスタート地点も決めさせてもらったぜ。黒谷の北端。そこから、ここまで一直線。道に迷うことはねえ。今……7時か。準備を整えてからこい。ゲームの開始は正午だ。ああ、今日一日は、保証してやるぜ。お嬢さん方の命をな」
 命以外は知らねえがよ。

 不愉快な笑い声の残響。
 言いたいだけ言って通信は切られた。

 通信が切れると同時に翠燕が振り返った。その怒りと苦渋の表情は拭い去られ、常どおりの端麗な顔には、なんの表情もない。
「予定通り、決行する。決行時間は4時間後、11時20分だ」
「待てや、基地内部の状況がわからねぇ状態でどれほどの勝ち目がある?」
「いや、わかった。万事滞りなし。そうだな、魏発」
「はい。発信人は、連幸さまです。今の通信の中のノイズにうまく隠されていました。諜報員たちも多くは無事だそうです」
 多くは、ということは、少ないが犠牲があったということだ。
 おそらくはその後、活動が制限されてしまった結果が、白王獅子回収時のあの痛手につながったのだろう。
「犠牲者は?」
 問いかけたジェスに答えるべきか、魏発は視線で翠燕に問う。翠燕は何の反応も返さない。何の反応も返さないということは、魏発の判断に一任するという表明だ。
 少し考えた後、青年は答えた。
「三人です」
「そうか……」
「翠燕。白狼は……他にも諜報員がいることを知っているのでしょうか」
 石涼の問いかけに翠燕がしばらくの間をおいて答えた。
「潜り込ませていた正確な人数も、その名前も、すべて連幸が管理していた。俺でさえ知らなかったことを、あいつが知っているとは思えない。三人が犠牲になったことで、生き残った諜報員はかえって動きやすくなる。痛い損失だが、仕方がない」
「と、なると問題は彼が何をどこまで話したか、ということですね……。今のところ蛍が花竜であることは、ふせてあるようですが。ばれたら即座に殺されるでしょうから、楽観できませんよ」
 白狼がそれを告げていれば、白狼の思惑には係わらず花竜の命は奪われる。蛍であると信じているから、雍焔は白狼の好きにさせたのだ。
「まあ、そういう意味では白狼に預けられてるのは不幸中の幸いってことか。雍焔が負けた場合、斐竜だけが白狼の命綱だものね。斐竜が生きてさえいれば、交渉の余地がある。おいそれとしゃべったりはしないでしょうよ。それにしても、どうやってあの子、雍焔の信頼をとりつけたんだろう」
「そりゃ、おめえ、『白王獅子』だ。谷を出て生きなおさねえか、なんて持ちかけりゃ、ここらのやつぁ、大方イチコロだぜ。そうだな、白狼にとっても白王獅子を取り戻した今、ここにいる理由なんざねぇ。タダで抜ければ追っ手がかかる。手を組まねぇか、と、ま、そんなところだろう。……考えりゃわかるだろうが」
「あんたにそれを言われるとは思わなかったよ」
 憮然とする日烏のことばに石涼がぷっとちいさく吹き出した。
「と、すると、雍があのうちの何人を連れて谷を出るつもりか。そのあたりに勝機がありそうです」
「全部は積めねぇからな。あのヤロウのこった。おおかた一人でトンズラじゃねえか? それとも……シートは、いくつだ? 6こか? 連れてゆくなら、女だな。売り飛ばせば金になる。ってえこたぁ、雍焔、歌姫、白狼、胡蝶、蜻蛉、蛍、花散里か……そのときまで生きてりゃ、船に積まれてからでもヤツを仕留められる面子ではあるな。問題があるとすりゃ、白王獅子が斐竜につくか、白狼につくか。まあ、連幸がいりゃ、それほど心配するこたねえだろうがな。最悪でも、あの二人は生き残る」
「で、しょう。ということは、部下をわたしたちに始末させる気でいることも考えられます。なるほど、それならかえってやりやすい。さすが、翠燕。策は万全。あとは斐竜の安全ですが」
「言っただろうが。殺されやしねぇさ」
「死ななきゃいいってモンじゃありませんよ。王虎」
「生きてりゃいいさ」
「死んだほうがマシってこともあるんだよ、世の中には」
「だから死なねぇうちに、行くんだろ。言っとくがな、危険だってことは承知であいつは行ったんだ。行かせた俺らに四の五の言う権利はねぇんだよ。それに、命の危機ってんなら、胡蝶と蜻蛉のほうがよっぽどだ。ありゃ、結構な手傷をおってるぜ」
「だろうね。呼吸が浅い。浅いのは、息を吸うと苦しいからさ。おおかたあばらの2、3本にひびが入ってんだろう。それ以上ではないだろうけどね。戦力の低下は否めない」
「心配なのはそこです。胡蝶や蜻蛉が動けない分、連幸や斐竜の負担が増し」
「石涼、王虎。行け」
 石涼のことばを短い命で打ち切ると、翠燕は顎をしゃくってドアを示した。
「はい。では。ジェスさん、日烏、行きましょう」
 徒歩での移動を余儀なくされている潜入隊は到着時間を考慮するとさほどの余裕はない。
 王虎らの部隊は、実のところ、今日未明には黒谷にて陣を展開しおえている。
 白狼のことさえなければ、まったく翠燕の手のひらの上なのだ。
「ジェスさん?」
 部屋を出かけて立ち止まった石涼が怪訝そうに振り返った。
「待ってくれ、俺は」
「帰りますか? しっぽを巻いて。ユリアさんをあきらめて」
「違う、そうじゃない。俺はウソを」
「ついていません。可能なら、取り返したい、あなたは斐竜にそう言った。それは、可能ではないときはあきらめることを意味することばです。なぜ、あきらめなければならないのか。連幸がそれを聞きとがめ、わたしに指示をだした。一度たりとも、失敗したことのない我々に、それを言う以上、なんらかの理由があるはずだ、と。あとは探り出すだけでした。脆いですね、A・G’という組織は……」
 痛ましげな石涼の口調に対し、ジェスが浮かべるのは自嘲でしかない。
 ユリア・アリオール。鷲羽由梨子は、病院に運ばれた時には死亡していた。書類上ではそう記録されている。そして、遺体が盗まれた。
 それが偽りであることは、わかっていた。そう、瀕死の重傷で、意識は混濁していたけれど、即座に死亡する傷ではなかった。A・G’の医療スタッフなら、治せる傷だった。だから、俺は離れた。犯人を捕らえるために。
 なのに。それなのに。
 あれは……あの歌姫の姿をしたものは、やさしい思い出の残り滓。あってはならないもの。
「レプリカント。死体から作られた、兵器。どのような機能を持たされいるのかまでは調査できませんでしたが、あれがユリアさんでないことは、すぐにわかりました。何故、あなたが、それを告げなかったのか、それも。あなたは、恋人の名誉を守るために、あれを狩りに来た。救い出すためではなく、仕留めるために」
 一呼吸おいて、石涼は続けた。
「黙っていてすみません。ただ、あなたが言えないことを、こちらから切り出すことはしたくなかったのです」
「……みんな、知っていたのか? いつから?」
「蔡の歓迎会の最中にな。途中からは、ヤケ酒だ」
 王虎がぶっきらぼうに言った。
「俺はゆるさねえ。あいつをほうっておいたおまえも、あいつをあんな汚ねえ人形にしたやつも。だが、それは、この一件を片付けてからのことだ。先ずは雍焔をぶちのめす。次はおまえだ」
「すまない」
「詫びも言い訳も、あいつらを片付けてから聞く」
 そのあとで、殴らせろ、と王虎。
「あいにくと無罪放免してやる気にはなれねぇ」
「先に殴ってもいいぜ」
「馬鹿やろう!! 楽しみは最後までとっておくモンだ!! とっとと行っちまえ!」
「さあ、行きましょう。ジェスさん」
 石涼に促されたジェスは、王虎に深々と頭を下げ、きびすを反した。
 躊躇した。その結果、右目を失った。今度は、迷わない。あれを仕留めて……。
「大丈夫、王虎はわかってる。王虎は歌姫の幸せを一番に考えてる」
 斐竜の声が聞こえた。
「俺は協力したいと思ってるから」
 助け出さなければ。自分のために危険にさらしてしまった斐竜を。
 そうして、全てに決着をつけた後は……。
 そのときに考えればいい。