第5章 転々、…… (3)

「李司令」
 息を切って駆け込んできた青年は、告げた。昨晩白狼のラボで指揮を執っていた一人である。
 白狼の姿がどこにも見えないこと。
 それどころか白王獅子もいないこと。
 日烏との口論の末、王虎が再度淹れなおすコーヒーのサイフォンの音と立ち上る湯気が、突如冷え込んだ雰囲気に馴染めずに、奇妙に浮き出していた。
 ジェスは昨晩の白狼の思いつめた表情を思い出す。
「わかった」
 短い翠燕のことばに、報告を持ってきたその助手はうろたえた。
 うろたえもするだろう。
 わかった、わからぬ、ではない。欲しいのは、今後の指示だ。
「あの、指令」
「持ち場に、戻れ。あいつがいない今、開発室の責任者はおまえだ。谷で使用する重火器の用意は」
「整っています。しかし」
 脱出に使用するはずだった白王獅子がいない。
 城から廻した船は5機。ひとつが松月。残る4機のうち3機が護衛機。この4機の墜落信号はたった今受信された。
 残るのは1機。荷を運ぶための小型機で、白王獅子の代替とはなりえない。
 他の船を今から手配していたのでは到底間に合わない。
 そもそも今このときに白狼がいないのは何故か。
 そんなことを懸命に訴える。
 一通り聞いた後、なだめるような口調で翠燕は言った。
「わかっている」
 なにがどうわかったのか説明してやってくれ、と、ジェスは思った。
 ついでに俺にもわかるようWS語で教えてもらえるとありがたい。
「ですが、李司令」
 食い下がる青年に、一瞬、翠燕がわずらわしげな視線を向ける。
「あ……」
 声を失って1歩と半、後退した青年の背が石涼にぶつかった。
「崇庚、李司令は、わかった、とおっしゃった。心配には及びませんよ」
 石涼が笑う。人好きのする笑顔でのとりなしに、青年は青ざめたまま、それでも頷いた。
「はい」
「翠燕、急なことですから崇庚も気が廻らないことがあるかもしれません。今後は何を基準に判断すればよいか、目安だけでも教えてやってくれませんか」
 石涼のことばに翠燕は振り返りもせず、言った。
「何もしなくていい」
 特別なことは、という修飾語が抜けているのだろう。
「え? いえ、あの」
 ますます狼狽する崇庚に、翠燕は付け足した。
「手持無沙汰だというなら、落ちた船の回収にでも行ってくるか」
「やっ、いや、それは……」
 一昨日の襲撃後、医務室で王虎が言った。
 壊すのは俺の得手、直すのはあいつの得手。
 あいつとは白狼である。
 当然、白狼の下に配属されているものは、機器の維持と修理、調整が、その業務の主体だ。
 護衛もなしに敵地に落ちた空挺の回収になど、行けるものではない。いや、行くには行けようが、帰ってはこられまい。
 日烏が笑う。
「翠燕、あんまり苛めんじゃないよ。ほら、あんたももうお行き。でなきゃ本当に回収に行かされるよ」
 ぽん、と軽く背を叩かれて、崇高は一礼する。
 踵を返し、半ば逃げるように去ってゆく。
 その姿が消えるのを待って、翠燕はカップを手に取った。一口飲んでから言った。
「昨晩の内に出たようだ。白王獅子ともどもな」
「どこへ」
 間の抜けたジェスの質問にも、返答は淡々と返された。
「雍焔の元に転がり込んだようだな」
 雍焔の。
 裏切り!? まさか。どうして。
 聞いたことばの意味を考えて、立ちすくんだ。
「一体どんな難題をあの子に吹っかけたんだい? 翠燕」
 日烏の口調にとがめるような響きを感じたのか、翠燕がわずかに眉を寄せた。
「吹っかけてはいない。白王獅子のコマンドの最上位には、斐竜を据えろ、と言っただけだ」
「……白王獅子が本命ってやつに、そりゃ、マズいんじゃねぇか。ヤツにしてみりゃ吹っかけられたように思うぜ」
 歯痛に苦しむ熊のような表情で王虎が感想を述べた。
「でも納得、です。白王獅子だけさらって逃げたのでは、この件にかたがついた後、どんな報復を喰らうかわかったものじゃありません。雍焔と花竜を噛み合わせて漁夫の利を狙う。そんなところでしょう」
 石涼の分析を聞いて、なるほど、と日烏が頷いた。
「で、どうすんの? 翠燕」
「大勢に影響はない。おまえたちはそのまま動けばいい。必要があれば、おって知らせる」
 淡々と言い切った翠燕のことばに日烏がため息をつく。
「必要とか、必要でないとか、そういうことを聞いてるんじゃないんだけどねぇ」
 まあ、いいわ、と日烏は肩をすくめる。
 よくわからない。
「影響は、ない……?」
 首をひねったジェスに、翠燕が説明する。
 本当は面倒くさいのだが、オーナーの要望に形だけ応える。そういう口調だ。
「雍焔の組織は、塞ごと潰す。脱出のために白王獅子を運び込む必要性があった。結果として大差ない」
 運びこむ手はずは狂ったが、結果としてあちらにあるのであれば、問題ない、ということか。
「白王獅子のコマンドが白狼よりも斐竜のほうが上位にあれば、だが」
「下位だったら?」
「……」
 翠燕の周囲の空気が帯電しているように感じながら、ジェスはとりあえず頷いた。
 聞きたいことは他にもあったが、それ以上の説明を求めて翠燕を爆発させたくはない。
 考えればきりがないのだ。
 潜入している諜報員のこと、連幸のこと。白狼の真意がどこにあるのか。
 彼が、なぜ、こんな暴挙にでたのか。
 なにより斐竜が……花竜が敵陣にあるということ。
 白狼がそれを雍焔に漏らせば、戦いの意味そのものが失われてしまう。
 彼らにとっては。
 そこまで考えて、ジェスは苦い思いでいっぱいになった。
 なんという利己的な考えだろう。「彼らにとっては」などと……。
 もちろん、彼らが戦線を離脱しても、俺は退けない。退くつもりもない。だが、まるで他人事のように「彼ら」と切り離して考えてしまった。
 暗鬱な気分を振り払うために、視点を変えてみる。
 たった数日をともに過ごしただけの連中だ。この件が片付けば、二度と関わることはない。今回は利害が一致して協力し合っても、次に会うときはお互いに敵かもしれないのだ。いや、その可能性は高い。どうして「他人事」ではいけないのだろう。
 ……ダメだ。とてもそんな気分にはなれない。
 考え込むジェスの上を、石涼と翠燕の会話が滑り落ちてゆく。
「連幸への連絡はどうします」
「必要ない。おそらく、勝手に判断するだろう」
 まあ、そうですね。
 石涼が相槌を打つ。
「連絡しようにも方法がありませんし、下手に連絡をして覚られでもしたら、目も当てられません」
「しかし……思い切ったもんだなぁ。あの白狼がなぁ」
 あんぐりと口を空けたままだった王虎が、息を吐き出しながらそう言った。日烏も再度諦めたようにため息をつき、それ以上問うことはしない。手にしていたカップを机の上に置く。その隣に腰掛けて、足を組んだ。
 スラックスの裾がひらりと揺れる。
「どうせあんたが、意図的にそう仕向けたんだろ。それなら後のことも、ある程度予想はついてんだよね」
「ああ。粗方の予測はつく。だが今後のことは、向こうの出方次第にならざるえない」
 それだけを告げて、翠燕は管制室の中央、彼の定位置である椅子に座りなおした。いつもは隣にいるはずの斐竜の椅子に一瞬だけ視線を投げた彼はその後は微動だにしない。ただ、その周囲の空気が揺らいで見えるほど、穏やかでない波動がその体から静かに、静かに発せられている。
 置物のような翠燕を眺めていてもどう仕様もないのだが、彼の怒りの矛先が自分に向いた場合のことを考えると誰も声をかけることができない。
 場違いなほど和んだ音を立てていたコーヒーメーカーが静かになり、静寂が室内を浸す。その頃になってやっと食事からスタッフが数人戻ってきた。
 張り詰めた空気にわずかの間たじろいだ彼らは、それでも即座に立ち直り、無言でそれぞれの持ち場についた。
「淹れちまったし、とりあえず、飲め」
「ああ、ありがとう」
 ジェスが手にしたカップに王虎はコーヒーを注ぐ。
「こりゃ斐竜が言ったとおりの『出たとこ勝負』になりそうだね」
 不味い、不味いと騒いでいた日烏もさりげなくカップを差し出しておかわりを請求する。
「毎度のこっちゃねぇか」
「あんたは問題外だよ。いつだって言うことなんか聞きゃしないんだから」
 石涼も当たり前のようにカップを出した。王虎が翠燕のカップにもコーヒーを注ぎいれ、手渡すと、翠燕は無言のまま受け取る。デカンタの中には半分には少し足りないコーヒーが残った。
 好きに飲んでいいぜ、と王虎がスタッフらに告げる。一人がうれしそうに立ち上がり、人数分のカップを用意する。
 それを眺めながら、注がれたコーヒーを一口飲んだ石涼がつぶやいた。
「間が悪いです」
 なだめ役の連幸が留守ですからねぇ。
 しみじみとそう呟かれ、返答に詰まる。
 そんな呑気なことを言っていていいのか、と、怒鳴りたい気持ちを抑えれば、言葉さえもでてこない。
「交渉になんかなりません、きっと。最初から殴り合いでしょう。もう、聞く耳持たず、で」
「だろうな。止めに入ったら、巻き添えを食らうぜ」
「やだねぇ。男のヒステリーは」
「聞こえますよ、日烏」
「大丈夫。聞かれたって、目玉食らうのはあんたたちさ。あたしじゃない」
 日烏の断言に視線を交し合った王虎と石涼は2秒、沈黙する。
 カップを空けた石涼がしみじみとため息をついた。
「こっちも最終確認を済ませたほうがよさそうですね。準備が遅れたら盛大な八つ当たりを受けそうです」
 微動だにしない翠燕を見やり、そう言った石涼に、日烏が頷く。
「だろうね。石涼、あたしの装備もついでによろしく。あたしは一夜漬けの連中がおびえて泣いてないか確認してくる。これ以上予定外のことが起こるのは勘弁してもらいたいからね」
「おめぇの顔見て、泣くんじゃねぇか。地獄の番犬でもまだおめぇよりは可愛げがあらあな」
「はっ。あんたのご面相よりは、なんぼかマシだよ」
「このやろう……」
「おあいにくさま。残念ながら、野郎じゃございませんのよ。おほほほほ」
「なぁにが、おほほほほ、だ」
 憎まれ口の応酬をしながら出て行った二人の背中を見送って、石涼が小さく笑った。
「仲がいい」
 昨日とかわらぬやり取りに、ひとり緊張し続けることが馬鹿らしくなる。
 この様子なら、何らかの策が用意されているのだろう。
 どんな手段を選び、どのような方法をとろうとも、果たされる目的が同じなら構わない。
 ふ、と息とともに緊張を吐き出して、肩の力をぬいた。
「仲がいいのかい? あれで?」
「いいですよ」
 言いながら石涼が最初に選んだ得物はめずらしいことに短めのナイフだった。よく手入れされたそれは、やや大きめのディナーナイフといったところだ。それの手元を見つめるジェスに石涼が視線を上げた。
「日烏の得物です。音を立てずに片付けることができるので、重宝します。手に持っても使えますし、投げてもいい。強化セラミック製です。ちょっと重いのが欠点ですが、日烏なら、十本くらい立て続けに投げても外すことは滅多にありません。しっかり決めます」
 決める、とは相手の息の根を止めるということだ。もし、急所をはずしてしまうと、相手に反撃を許すことになってしまう。それだけが難点だが、まず起こりえないと石涼は言う。
「さすが医者崩れとでもいいましょうか。人体を熟知しているのでしょう。見事に捌くことといったら、惚れ惚れするくらいです」
「へえ……」
 レトロな武器だな、と言いかけて、ジェスは口をつぐんだ。飲み込まれたことばの見当が付いたのだろう。石涼がにこやかに言う。
「目的が達成できるなら、何を使っても同じです」
「確かに」
 考えてみれば、このナイフだろうがジェスのフレイアだろうが、果たす役割は同じだ。それに管制室を抑えるまではあまり目立ちたくない。音の出る武器はかえって行動の妨げになる。ナイフに長けた日烏が砦への潜入に抜擢されたのはそういう理由からだろう。
 ……王虎は潜入には向かない。
「君は? 石涼」
「わたしですか? わたしには特別必要ありません」
 これで充分、と彼は自分の腕を叩いた。
「念のため、ナイフも銃も携帯しますが、ここ数回の任務では抜いたことはないです。お守りみたいなものでしょう」
 もともとわたしたちの請ける仕事は、銃器を使用できるほど、敵との距離がないことが多いのです、と石涼は笑う。
「少人数でし止めようと思えば、ゲリラ戦にならざるえません」
「派手な戦いにしたくないだろうしね」
 ジェスのことばににっこりと笑い、「然り」と応えた石涼は、ジェスのフレイアを指して言った。
「それより、ジェスさん、そのフレイアですけど、適合するバックパックがあいにくとここにはありません。で、目いっぱい充填していくとして、何回くらい使用できますか?」
「通常十数回かな。フルパワーで」
「充分ですね」
 石涼が合点する。
 十数回と聞いて、足りないと感じるようでは素人である。
 フレイアはただの拳銃ではない。オーダーメイドフルカスタムのレーザーガンだ。威力は凄まじいの一言に尽きる。人体なら、出力60パーセントで重ねて十人は軽く貫通するだろう。ちょっと動かすだけで、シェルターの壁に大きな穴を開けることもできる。
 十回使用できるということは、ジェスの腕前ならおつりが来る。
「他になにか持って行きたいものはありますか? ほとんどのものはご用意できると思います」
「いや、いい。ナイフはあまり得意じゃないんだ。銃は……うん、これだけでいいよ」
「わかりました。あ、それと、服ですけど、前にお貸ししたあれを着用していただけますか? 先に潜入している諜報員たちが無事だった場合、ジェスさんを味方と認識させるのに都合がよいですから」
 疑わしきは殺れって教えてますので。お客様を敵と混同したことは、まだ、ありませんが、今後もないとは言い切れません。
 穏やかな表情で物騒なことを言う。
「ジェスさんが雍焔方じゃないことはわかっても、味方だと判別できなかった場合やっかいです。それから、諜報員たちも行動を起こすときには同じ服を着ているはずです。……ま、着てない場合は仕方がありません。わたしが判別できればお教えできますが、そうでない場合は遠慮なさならにように」
「うん」
「ま、これを見て攻撃姿勢を崩さないようでしたら、それは敵です」
 石涼は自分の戦闘服を親指で差した。

 その時。
 連幸たちが出発して、わずか40分後のことだった。
 通信が入った。送信者を確認したスタッフたちがあわただしく動き回る中で、翠燕だけが静寂を保っている。
 王虎と日烏が、先を争って戻ってきた。
 慌てるでもなく、王虎と日烏が呼吸と姿勢を整え終わるまで、翠燕はそれを保留し続け。
 やがて送信者がモニターに映し出された。
「よう、李翠燕」
 掠れた声の持ち主。全身にひどいケロイドを負った醜悪な容貌の大男。それが雍焔だった。腐れ団子とはよくぞ言ったもの。先刻飲んだコーヒーが逆流しそうな雍焔の姿にジェスは眉をひそめた。昨日見せられた「目玉」が目玉なら、これは何と言ってよいのだろう。かろうじて人のシルエットを保つ肉か。部分的に原型を止めているために、溶けて崩れた皮膚の醜さが一層目立った。
「久しぶりだな」
 唇までもが溶けているためか、黄ばんだ歯がむき出しになっている。発音がどこか明瞭でないのも、それが原因だろう。
 不明瞭な発音をカバーするためなのか、雍焔の声は大きい。
 聞き苦しいその声音から、声帯の一部もまた、外見と同じように失われていることがわかる。
 彫りの深い顔立ちであったろうその鼻梁も、右側は溶けている。顔の真ん中に黒々と開いた穴が、雍焔の呼吸にあわせてゆっくりと蠢いていた。
 凄惨な姿だが、まるで哀れだとは思わなかった。
 雍焔の発する毒々しい気配が、憐憫ではなく嫌悪を見るものに呼び起こす。
 息を呑むジェスとは対照的に、ゆっくりと目を開いた翠燕はそのままの姿勢を崩さない。ことばさえ返さずに、コーヒーをゆったりとした動作で飲んだ。
 あの顔を見て、よくものが喉を通るな、とジェスはやや見当違いのことを考える。呑みこんでしまった息さえも、喉にひっかかって逆流しそうだというのに。
 思考の焦点をあえて外さなければならないほどの緊張が、血流に溶け込んでジェスの全身をめぐっていた。引き結んだ口の中は乾いて、しびれたような感覚がある。高まる耳鳴りを抑えようと、空気を飲み込もうとするのだが、上手くゆかない。
 螺旋を描きながら落ちてゆく思考の渦から、意識を無理やり引き剥がす。目の前で、優雅なパフォーマンスを演じる翠燕に集中する。
 穏やかな風情でコーヒーを飲む翠燕に、雍焔が笑ったのだろう。頬に当たる部位の筋肉が、わずかに震えた。
「話すことなどない、とでも言いたげだな、李翠燕。だが、こっちには、山ほど言いてぇことがある。まずは、これだな。これを見て、話に応じないわけにもいかねえだろうよ」
 顎をしゃくって指示を出した雍焔の、やや左後ろに立っていた若い男が無表情のまま、足元に広がる場違いなほどに艶やかで美しい布に手を伸ばした。
 男が掴みあげそれがきれいな布ではなく少女であること、小柄なその美しい少女が、蛍を装った斐竜であることにジェスが気付くまでに、数秒の間。斐竜の前髪を乱暴につかんでいる男が白狼であることに気づいたのはそのさらに数秒後だった。
「フ……!」
 斐竜、と言いかけたジェスのスネを日烏が蹴りつけた。予備動作はもちろん、かなりの速度でジェスの脛を蹴ったにもかかわらず彼女の上半身は微動だにしなかった。
 あまりの痛みに前かがみになったジェスを、王虎が引き起こす。気の毒そうなまなざしには、同様の痛みを味わったことのあるものの色がある。
 人体を熟知している、とはこういうことか。
 スネの、もっとも肉薄な部分を選んで蹴りつけるなど、とっさにできるものではない。
 まだしびれたように痛む足から、なんとかモニターに視線と意識を戻したジェスの目に映るもの。
 醜くただれた雍焔の姿。整ったこちらの様子とはまるで異なる、薄暗く古く、まるで地下牢を思わせる室内。質の悪い映像からさえもわかる、赤茶けた錆……いや、もしかするとあれは、血痕かもしれない。お世辞にも衛生的とは言いかねるその世界。安酒に焼けた肌の男たち。白狼と「蛍」だけが、泥水に落ちた機械油のように、異様な浮きたちを見せている。
 遠く写りこむのは拘束された花散里。乱れた髪が広がって肩に落ち、その表情は伺えない。傍らに倒れている二人の女は胡蝶と蜻蛉か。
 そして。
 楽しげな微笑を浮かべて雍焔に寄り添うように画面に入り込んできたそれは。
 長い黒髪と灰色の瞳。清楚にさえ見える女。しかしどこか禍々しい光を浮かべるその目。狂気を装う理性の色。冷静に、冷徹に、穏やかに、優しささえ見せて柔らかな声でジェスに「お久しぶりね、お元気そうでなによりだわ」と微笑むその女が。
 ユリア・アリオール。
 かつての最愛の人だった。