第5章 転々、…… (2)

 すでに出発した一行に付き合って、日が昇る前に食事を済ませていた幹部の面々は、管制室に集まって、コーヒーを飲んでいた。
 自室へと歩いていたところを、石涼に呼び止められ、「ご一緒にお茶でもしませんか」とまるで街中で女の子に声をかけるような口調で、けれど強引にひっぱってこられたため、ジェスもここに居る。
 管制室、とジェスが判断した理由は、さまざまな機材 ―― 何故かほとんどの製品に見覚えがある。AG’御用達で作らせた製品に酷似しているのだ。類似品であるなら、AG’の機密が漏れている可能性を示唆するものであるし、正規品であるなら、AG’の内部の誰かが、横流ししているということだ。多くは型落ち品だが、それにしたって忌々しき事態である。ここに在るからには、他の組織にも流れているのだろう。これについては、俺の知ったことじゃない、と半ば以上投げやりに、ジェスは黙殺することにした ―― が整然と設置されていたことと、なにより、生活の匂いがほとんどしない空間だったからだ。つまり、翠燕の雰囲気に似ている、それである。
 その部屋のヌシである翠燕は、彼の場所と思わしき椅子に落ち着いて、コーヒーを飲んでいた。軽く頬杖をついた姿勢で、ほとんど動かない。コーヒーを飲むための喉の小さな動きを見てさえも、まるで精巧なからくり人形を眺めているような気がした。
「まずい」
 鼻にしわを寄せた日烏が、カップの中のコーヒーを、泥水でも見るようなまなざしで見つめる。何事か困難な事態にでも遭遇したのかと首をかしげるジェスの前で、芝居がかった重々しさで石涼が同意した。
「お茶係がいないと、こうも違うもんなんでしょうかねぇ」
 ああ、まずいって、「不味い」か。難しいなエリシュシオン語は。同音異義語が多くて。
 お茶係。つまりは連幸のことだろう、とジェスは推察する。たしかに連幸の淹れる飲み物は旨いが、このコーヒーもそれほど不味いようには思えない。
「やかましい。がたがた抜かすなら、飲むんじゃねぇや。この不平屋どもめ!」
「なんだい、飲んでやってんじゃないか。恩知らず! ああ、ほんっっとに、まっずいコーヒー。豆がもったいないったらありゃしない」
「口のへらねぇ……それじゃてめぇでやってみろ」
「はっ。人が作ったモンだから文句も言えるんだろ。自分で淹れて不味かったら誰に文句を言えって言うんだい。馬鹿言ってんじゃないや」
 すごい理論だ。
「不味い不味いと……畜生」
 見かねたジェスが助け舟を出す。
「そうかな、A・G’の食堂のコーヒーより、ずっと旨いと思うけどな」
 だろ? と表情を一瞬和ませた王虎に、石涼がことばを重ねた。
「それは、ひどい」
「おい、石涼、そいつぁ、どういう意味だ」
「AG’のコーヒーは泥水並で飲めたもんじゃない、それにくらべりゃ多少マシってコトだろ。やだねぇ、これだから察しの悪い馬鹿は。全部言っちまったら気の毒だって思いやりも無駄にするんだから」
「けっ。ああ、ああ、どうせ美味かぁねえよ。言ってろ、言ってろ」
 緊張感もなくぎゃあぎゃあと騒ぐ王虎と日烏を見ながら、石涼がジェスに訪ねた。
「そんなに不味いんですか? AG’の食堂のコーヒーは」
 そんなに、ということばを肯定すると、王虎のコーヒーを不味い、と評することになりそうだな、と思う。
「まあ、美味いと思ったことはないかな」
 明言を避けるジェスに、石涼は両の掌を合わせ目を伏せた。
「ご愁傷様です」
 たしかこの仕草は、ESでは「死者の冥福を祈る」を意味するのではなかったか。
「……いや、そこまで気の毒がられるほどでも」
「三度の飯がまずいのは、至上の不幸せだと、斐竜は主張しますよ」
 生きている限り食べ続けなくちゃならないのですから、それがまずいってのは、食べ物がない次に不幸せだとわたしも思います。
 真顔で主張されて、そんなもんかなと思う。
 美食家でないジェスは毒物以外は何でも食べるし、何でも飲む。空腹と渇きが癒せて、生命を維持することが食料を摂取する第一の理由であり、食事の味付けにこだわったことはなかった。
 場末の酒場で安酒を呷ってクダを巻くのも、仕事。
 社交場で伝説的な銘柄のワインを片手に陽気に話すのも、仕事。
 頼まれればなんでもこなすAG’のエージェントにとって、美味い食事は困難な仕事に付随するちょっとした余禄に過ぎないし、不味い食事に堪えることで命の駆引きをひとつでも避けられるなら万々歳。
 たとえ肝臓に負担をかけるような不健康な食事でも、鉄の弾やナイフを喰らうよりはずっとマシだ。
 健康のことなど、仕事を終えてから考えればいい。どうせAG’に戻れば念入りな健康診断が待っているのだから。
 そして思い出す。
 ねえ、おいしい?
 あの問いかけに俺はなんて応えたんだっけ。並べられた手料理を前に、どう言った?
 さあ。こんなもんじゃないか。
 その瞬間の瞳を思い出す。
 傷ついてくれたならまだよかったのかもしれない。
 穏やかな、諦めにも似た優しい微笑で、彼女は俺を許そうとした。
 それにさえ、俺は気付きもしなかった。度し難い、バカだったと今は思う。
 最悪だ。
 思い出した自らの対応にジェスは思わず天上を仰ぐ。
「ほら、ごらん。ハンター様でも耐え難いってよ」
「けっ」
「いや、ちがうよ」
 われに返り否定するジェスの肩をぽんぽんとたたきながら日烏が訳知り顔でこう言った
「無理しない、無理しない。言ってやればいいんだよ。まずいって。気づかい無用。それだけが取柄なんだから」
「くっそう……わかった。もう一度淹れてやる。うまいと言わせてやろうじゃねぇか」
 翠燕だけが無言で飲んでいたが、彼はもともと口数が多いほうではない ―― どうやら、斐竜や連幸以外と、雑談することはあまりないようだ ―― ただ、話だけは翠燕も聞いていたようで、時折、視線を投げかけては、あきれるともあざけるともつかぬ表情でやりとりを見ていた。
 この場に斐竜か連幸が居たのなら、おそらくはこう言っただろう。
「でも、王虎。翠燕が飲んでるんだから、おいしいんだと思うよ。だって、不味いと思ったら、翠燕は絶対に口にしないもの」

「遭遇予定時間まで、あと2時間か」
 船内で退屈したらしい斐竜が欠伸混じりにつぶやいたのは、奇しくも翠燕が王虎らの騒ぎに飽きて、小さくため息をついた頃だった。
 胡蝶がお茶を点てる姿を眺めつつ、斐竜は誰にともなく語りかけた。
「結構、広いんだな」
 松月という名のこの船は、もともとは宇宙港と城を往復する送迎船のひとつである。白王獅子より一回り小ぶりだが、送迎を目的に作られた船の中では最大級に属する。込み入ったシティの城のポートを離着陸に使用するため、これが大きさの限界なのである。白狼の作品のひとつで、遠目には白く、間近に見ればごく淡い紅の塗装を施された繊細なシルエットの美しい機体だ。
 内部は操縦室、客室、控え室、貨物室に分かれており、客室は茶室を模して作られている。広くない船室を狭く感じさせない演出としては上出来だろう。設えられた床の間には、てっせんの花が生けられていた。
 常であれば、ここに客人と姫、控え室には城が派遣する護衛、貨物室には客をもてなすための茶道具や護衛が使用する器械が数種つまれているはずだった。
「白狼が作ったんだよね、これ。外見は白王獅子とちょっと似てるけど、中身は似てないな」
 白王獅子の墜落で、急遽、城と谷を繋ぐ船に流用されただけあって、谷を飛ぶにはまるでふさわしくない。
 囮に使用されることが決まってたった二日とはいっても、これではあまりに軽装ではないかしら、と胡蝶がつぶやく。
 同じことを考えたのか、斐竜が蜻蛉を振り返った。
「ええっと、装甲をちょっとだけ厚くして、でも、武器は積まなかったんだよね。どうして? なんとなくこれだと一撃で落とされそうな気もするんだけど」
 訪ねられた蜻蛉が、にこりと笑って応じた。
「重量制限があるからです」
「あ、そうか」
 エンジンと翼、そして重量の均衡が崩れれば空を飛ぶことはできない。
「松月は、最大乗客数が4人、乗員数6人。10人乗りの軽量空挺ですから、エンジン出力も高くありません。火器を積んだら、羽虫ほども飛びませんもの」
 それに、一撃で落ちるほうがいいのだとか、と蜻蛉が続けた。
「一撃で落ちれば、過剰な砲撃にさらされずにすみますでしょう? 墜落時の安全を一番に考慮したと、白狼さまは申されましたわ」
 白狼のスタッフの一人でもある蜻蛉はそう説明した。
「ふうん。まあ、そうか。そうだよな、言われてみれば」
 納得したらしい斐竜に胡蝶は作法通りに点てた茶を勧める。
 ありがとう、と作法とはまるで程遠い所作で胡蝶の点てた茶碗を畳からとった斐竜はくいっ、と茶碗を傾けて飲む。茶碗よりは杯が似合う仕草だった。
「だけど、待つだけって面倒くさいね。今すぐ来いよって感じ。準備万端でこっちは待ってるんだからさ。退屈させないで欲しいな。ねぇ」
 ふあぁ、とあらためて大欠伸し、重い衣装をわずらわしげに見下ろす。
「もし、来なかったら、すごい無駄足。俺、ただのバカ?」
 両手を広げて衣に施された豪奢な刺繍を見分する。胡蝶の手によるものだ。
「きれいだけど、着るよりも、着てる誰かを見るほうが楽しそうだね、これ」
「あら、とてもよくお似合いですのに。そうだわ、来なかったら、このまま城まで行ってしまいましょう。ねえ、胡蝶」
「それは名案。きっと明晩には、一目みたいと行列が」
「ね。お可愛らしくていらっしゃるから」
「あー、やめてやめて。冗談じゃない。だって、これ、絶対、見てるほうが楽しいよ。みんなよく動けるよ、このびらびらでさ。しかも重い。肩がこる、脱ぎたーいっ」
「ご心配にはおよびません。雍焔がその帯を解いてくれますよ」
「さわられたところから腐りそうだよ。それくらいなら城へ行く。ご飯おいしいし」
「まあ、花より団子?」
 そう笑う胡蝶に、斐竜がとんでもない、と否定する。
「団子より花。城詰めのみんなはきれいだし、腐れ団子とは比べ物にならない」
 打解けて穏やかに笑いあう三人の様子に、連幸が袖の陰で笑った。斐竜が聞きとがめたように連幸を振りかえる。
「連幸、そうやって笑ってるけどさ、俺、金輪際、絶対やらないからね、こんなこと。もう十分すぎるくらいくたくただよ。見る専門がいいな」
 見る専門、のことばに深い意味はないだろう。再度くすりと笑った連幸は斐竜の額をついと指で軽く押す。
「言い出したのは、君。ちゃんと最後までお役目をはたして下さい」
「こんなに大変だって知ってたら、言わなかっ」
 たのに、と続けるつもりだったのか。中途半端にことばを切った斐竜が見えない何かを見ようとするように、眉を寄せる。
 大気を引き裂く微かな、けれど鋭い音が耳を掠めた。
 はじけるように顔を上げた斐竜が、裾を蹴捌いて膝を立てる。
 パン、と歯切れのよい音を立てて窓を飾る障子が開け放たれた。
 昇ったばかりの日が、真横から差し込む。
 日を正面にとらえ、斐竜の瞳孔が絞られる。虹彩の鋼色が際立った。
「連幸!」
 斐竜の影が黒く畳に伸びる。
「来た!!」
 地上からの対空砲火に松月は高度を上げる。
 松月の周囲を守る3機の護衛機が旋回した。
 速度を上げた松月と護衛機の距離が開く。
 遠ざかる護衛機の影を見送った斐竜がちいさく舌打ちした。
「今の、ダメかもしれない」
 左翼を貫かれ、風に遊ばれる木葉のように護衛機のひとつは落ちていった。
「フェイ、こっちへ」
 連幸が左手ですばやく斐竜を引き寄せ、腕の中に抱え込む。
 直後、被弾した船はバランスを崩し、急速に高度を下げ始めた。
「早すぎる!」
 怒声は斐竜のものだ。出迎えが遅い、と言い、今はまた早すぎる、と怒鳴る斐竜に、連幸が微かに笑った。
「動じないんだね」
「動じる? なんでさ? 計画通りだろ。翠燕の読みが外れたことは、これまで一度だってない」
 しかし、早いのは襲撃のタイミングだけではなかった。
 機体が宙を滑り落ちるその速度に、胡蝶が短く悲鳴をあげる。
 何かにつかまって、と胡蝶、蜻蛉に指示を出した連幸に、斐竜がしがみついた。
 天井が床に、床が壁にと、目まぐるしく移動する。
「連幸、不時着できるの? この速度で!?」
「さあ。できなかったら、全員お陀仏」
「ご冗談!!」
 掛け合いもそこまでだった。それ以上ことばを発すれば、舌をかむ。しっかりと口を引き結ぶ。
 その間に、体勢を整えることができなかった蜻蛉は、激しい揺れに、壁と床の間で三度、強く体を打ちつけた。
 意識を失ったのか木偶のように不恰好な舞を、嵐の室内で見せる蜻蛉をどうすることもできず、ただ、見ているしかない。いや、見ていることもできなくなる。三半規管が悲鳴をあげる。上下の感覚がなくなってゆく。
 一向に治まる気配を見せない揺れに、
「項頤。何をしている!!」
 連幸は叱責を飛ばし、操縦席を見、舌打ちをした。
「どうし……」
 連幸の視線を追った斐竜は、その先にあるはずのないものを見て、言葉を失う。
 青。
 深く鋭い青。それは空の色。
 操縦席と客室を仕切る扉の窓に、ありえない色を見る。
 船首をやられた?!
 認識すると同時に、扉が風圧に吹き飛んだ。室内の空気が勢いよく機外へと吸い出されていく。客室の備品が次々と空へと吐き出される。
 大地と空の反転。めまぐるしく交代する赤と青。視界で黒く溶ける景色。
 激しい対流に胡蝶と蜻蛉の身がすくわれる。わずかに浮き上がった体が、操縦席のあった方向にずるりと滑る。とっさに胡蝶が斐竜の衣装を右手でつかむ。その左手には意識のない蜻蛉の帯をつかんでいた。
 腕の中から引き抜かれそうになった斐竜を抱えなおし、連幸は胡蝶に命じた。
「胡蝶、離せ」
「是」
 迷うことなく右手を開いた胡蝶が滑り落ちる。
「だめだ。胡蝶。蜻蛉!!」
 胡蝶が蜻蛉と共に船外に引きずり出されるその直前。
 風にはためく胡蝶の紅い比礼を、身を乗り出して斐竜は掴んだ。
「連幸、支えろ。蜻蛉を離すなよ、胡蝶」
 吹き込んだ風が、室内を暴れまわる。
 頬を叩く風が耳元で唸る。呼吸さえもままならないほどの風。その圧力に耐えかねて、連幸の結い上げた髪が風に解けて広がった。髪から落ちた幾本かの簪が陽光にきらめきながら空へと散ってゆく。
 吹き込む風をはらむ胡蝶の衣は大きく広がり、蒼天に紅の花を咲かせる。胡蝶の左手につかまれる蜻蛉の帯が長く蔓のように揺らめいて延びる。
 風の唸り声しか聞こえない。
「絶対に、死なせない」
 死なせない。これ以上、一人だって、死なせない。死なせるわけにはいかない。死なせるものか。
「邪魔するなあぁぁぁぁっ」
 目を開けていられない風圧の中で、斐竜が叫んだ。不意に途切れた風に、不気味な静寂が戻る。降下を続ける飛空挺の窓から陽光を反射する何かが見えた。
「白王獅子、助けろ」
 雷のように飛来した白王獅子の背が開く。貨物室に胡蝶がまず飛び移る。いや、落下し叩きつけられたというほうが正しいだろうか。掴んでいたはずの蜻蛉の帯が解けて、その身が貨物室の壁に打ちあたる。風にあおられて外にこぼれでようとする蜻蛉を、見覚えのある男が捕まえた。胡蝶はかろうじて床の突起に指をかけ身を伏せて風をやりすごす。
 斐竜は白王獅子に飛び移ろうと、連幸の腕を押し下げ。
 驚愕に目を見開いた。
 胡蝶の衣を踏みつけ、蜻蛉の胴を左腕で抱えた彼はまっすぐに銃を斐竜に向けていた。
 奇妙な静寂の中、斐竜と連幸に向けて構えられた砲から、投網のように網が放たる。
 まるで荷物のように絡げられ、二人は船内から引きずり出された。
「さて、どうしたものかな」
 落下し続ける機体から離れるよう白王獅子に命じた彼は、しばし考え、くつりと笑って墨色の髪をかきあげた。
 網に絡めとられた二人と、力なく倒れたままの二人、計四人をゆっくりと見回してつぶやく。
「手土産には、ちょうどいい、か」
 白王獅子に松月から離れるよう命じ、彼は薄く笑った。
 落ちてゆく松月を後方に見送って振り返ったその顔が陽光に溶ける。
 黒々とした髪が、光を拒んで風にはためいた。