第5章 転々、…… (1)

 翌早朝、花散里の一行が塞を出る。
「お気をつけて」
 そうことばをかけた蔡氏に、花散里は華やかな笑みを返す。
「先生、また、城へ遊びに来てくださいね」
 一昨日の出来事を考えれば残酷でもあるこの誘いに、蔡氏はいつものように穏やかに微笑んだ。
「ええ、そうさせていただきます」
 朝日のようにと喩えれば、多少大げさになるだろうが、それでも蔡氏は晴れやかな表情でいつものように挨拶を返すのだ。
 ふいに花散里から、笑みが消え、今にも泣き出しそうな表情になる。
 少しためらった後、花散里は衣をふわりと翻す。一旦船から降り、蔡氏の手をとった。
「ご厚情は、忘れません。ありがとうございます」
 その右手を額に押し頂くように深々と礼をする花散里の肩に、ためらいがちに蔡氏の左手が伸ばされた。
 ぽん、と軽く肩をたたき、花散里の身を起こす。
「医者ですから。……医者でよかったと、思ったくらいなんです。力になれて、よかった。だから、そんなにかしこまらないでください」
「はい」
 潤んだ瞳で蔡氏をみつめた花散里は、三度瞬きをし涙を払うと、艶やかな笑みを作った。
「お待ちしております」
「はい。きっとお邪魔します」
 乗り込む直前に、花散里はもう一度振り返り、蔡氏に会釈する。姐さま、と禿、いや、先日まで禿であった年少の姫に促され、機内に消える。
 花散里の一挙手一投足に釘付けになっていた蔡氏は気づかなかった。
 蛍、と呼ばれていた少女の面差しが、異なることに。
 ひょっとすると、彼には花散里以外の姫や禿など、区別がつかないのかもしれない。
 それほど、彼女に心酔しているということか。
 一昨日の晩大笑いしたことが申し訳ないような気がして、ジェスは蔡氏の後姿から、視線を外した。

 気の毒な人だなぁ。
 ジェスの正直な感想である。
 意図的に遊ばれているのではないにせよ、事実を知ったときの蔡氏の驚愕を思うと、気の毒でならない。おそらくは悪びれもせずに連幸は事情を「都合の良いところだけかいつまんで」説明し、翠燕にいたってはそ知らぬふりを通すだろう。王虎がニヤニヤと笑い、石涼が笑いをこらえて背中を向け、白狼が下を向いて肩を揺らす。ことばさえ失って呆然とする蔡氏を、訳知り顔で慰めるのは日烏、そして斐竜が遠慮会釈なく笑い飛ばすのだ。
 ありありと目に浮ぶ未来に思わず眉間を押さえたくなった。
 救いは、おそらくその場に自分がいないことだろうか。同席させられるのだけは勘弁してもらいたい。なぜなら、気の毒な蔡氏を前に、それでも笑いをこらえる自信はないから。
 そこまで考えて、ふと思う。
 彼は花散里と肌を併せたことがあるのだろうか。花散里が両性種であることを知っているのか、知らないのか。では花散里が両性種であると知ったら、なんと思うだろう。
 平等を謳うはずのAGにおいても、地球型生命から離れた存在を忌避する風潮は否めない。
 それも地球型生命に類似していればしているほど、その傾向は強い。
 おそらく、まるで異なるものよりも、似て異なるものへの違和感のほうが大きいのだろう。
 ドールたちへの嫌悪感も、それに近しいものだ。
 ここにいる者たちへの蔡氏の接し方を見ているかぎり、云われない差別をするような人間とも思えないが、両性種をはじめ、非地球型生命に対する漠然とした嫌悪感、表立って話題にならないほどあやふやな、けれども不思議にAGの市民に根付いている感情が存在することは確かだった。
 実際、生態が異なる種族との相互理解は非常に困難なのだ。なにせ生命維持に関する根本的な価値観が異なるのだからどうしようもない。
 だからこそ、ドールはドールであることを隠すため、その機能にリミッターを設け、擬似生体組織を合金の上に纏い、人工皮膚をかぶる。
 そして、地球型生命に似た者は、地球型生命であるかのように振舞うのだ。
 椅子から転げ落ちるほどに驚愕したわりには、嫌悪感と結びつかなかった自分をふと不思議に思い振り返り、ああ、そうか、と思い至る。
 谷と谷の外でのギャップのほうが大きいのだ。
 ここでの生は死と密着している。
 自らが死と隣り合わせにあるとき、些細な生態の差などに関わってなどいられない。
 それは飢餓に苦しむ人間に、テーブルマナーを説く愚かさに近い。
 では、花散里が連幸だと知っても、蔡浩継には如何ほどの影響もないかもしれない。
 彼もまた、谷の内外を知った者だから。
 いっそ、彼が翠燕とそういった関係でないことを知れば……。
 彼?
 初対面の印象は女性だった。
 その後男性であると思った。
 実は両性種であると知った。
 連幸に対し、常に彼、という三人称をが先行するのは何故だろう。誰も女性扱いしないからか? では何故皆が皆、彼に男性を見る?
 どちらでもかまいまいませんよ、と、柔らかな声がよみがえり、ジェスは一人苦笑した。
 なるほど。そう言いながらも、男性ではないことを全く思わせない彼の手管に。
 花散里はともかく、曹連幸は、男なのだ。
 となると、やはり蔡氏が受ける衝撃はかなりのものだろう。

 昇ったばかりの陽に溶けるようにして消える飛行艇を見送る蔡浩維は、観察されていることをも知らず、まぶしげに目を細めながら、しばらく無言でその場に立っていた。
 もっとも、花散里に同行する少女が蛍ではないことが蔡浩維にわかったところで、彼が何も言わないのはあたりまえなのだ。
 何故なら、彼は医師であり、軍師ではないのだから。

 それにしても。
 ひかえめではかなげなあの若い姫が斐竜、つまり花竜であるなどと、誰が思うだろう。
 見送りにでたジェスに、その姫がわずかに視線を上げて、にやり、と笑うのがあと3秒遅かったなら、「フェイはどうしたんだ」と周囲に訊ねるところだった。
 結局翠燕の言うように別の人選をしたのか、と、当初はそう思ったのである。
 薄物を何枚も重ねた衣は、斐竜の体型を隠すためだろう。
 手合わせしたときの軽装の斐竜を思い出し、ジェスは考えた。
 華奢ではあっても、女性らしい丸みにかけた薄い体はやはり少年のものであって、少女のものではない。姫を騙って少年が潜入する。それが何を意味するか、わからないほど敵も馬鹿ではない。
 しかし。
 黒を基調に、金糸銀糸で刺繍を施された上着さえも重荷と思えるほどになよやかで ―― 着慣れないために動きにくいだけだろうが ―― 本音を言えば、蛍よりも見栄えがする。さすがに花散里はそうでもないが、胡蝶、蜻蛉の二人が翳んで見えるのには驚いた。
 まったく見事なものである。
 夕べの大騒ぎからはとても想像できない仕上がりに、感嘆せずにはいられない。

「こらっ。そんなガサツな所作の姫がいると思ってるの? 斐竜。ばれたらおしまいなんだからね。その演技に俺たちの命がかかってるんだ。ほら、もう一度やりなおし」
「えー。もう、いいよー。やめようよ、疲れたよ、俺。あの腐れ団子面のアイツにわかるはずないって。本物を見たことがないんだから、イミテーションだってバレやしないって。胡蝶や蜻蛉だってそうでしょ」
「斐竜、わかってないのは君も同じ。この俺が、本物が、同行するんだ。隣に並べれば一目瞭然。胡蝶たちだって、相応の教育を受けてる。まったくの素人は君だけ。そんなこともわからないようじゃ、もしかして頭の餡子は腐りはじめてる?」
「うわっ。ひどっ。翠燕だってそこまで言わないぞ」
「言わないだけだよ」
「……どうせイロイロ教えてもらうなら、花散里がよかったなー」
「ごちゃごちゃ言ってない。ほら、もう一度。立つ、座る。基本の基本」
「うーわ、サイアクー」
 昨夜、さんざん連幸に指導され斐竜は、たしかに口を開かない限り、胡蝶や蜻蛉よりも「姫」らしい。やや伏し目がちな表情は、あの鋼のような瞳をまつげが隠すためか、実に愛らしくみえる。姫独特の発音に不慣れな斐竜は、覚えるよりも無口を装うことに決めたのだろう。とても初々しい様子で、それがかえって艶めかしく映るのは不思議なものだった。
 自分の依頼を受けての先発部隊の出陣であるにもかかわらず、どこか他人事のように感じながら観察し、観賞してしまう。
 理由はわかっている。他人事でいたいからだ。そして、ジェスはあるひとつのことに気が付き、瞬いた。
 同類はよくわかるとは言ったもの。
 もう一人、他人事でいたいと願う者がいる。
 その事実を発見し、ジェスはふき出しそうになった。
 そう、翠燕は花散里の一行を、見ようとしていなかった。
 視界に入らないのではない。視界に入れようとしていない。もちろん不自然というほど違和感のある動作ではない。あれやこれやと指示に忙しい彼の職務とそれにともなう動きを考えれば、当然のようにも思えるのだが。
 わざわざ出発する一向に背を向けて方向転換する程度には、今回のことに不服があるようだ。
 つまりは斐竜を前線に投じることについてだ。
 あえて不服を唱えないのは、それが必要だからだろう。
 過保護なんですよ。
 昨晩の連幸の苦笑がよみがえる。
「考えてみてください。幻のような花竜が本物の幻になったところで、大差ないでしょう? フェイが生きていようが、死のうが、組織として困ることなど何ひとつありません。それこそ、花竜の役所を演じさせるなら蛍でもいいのですから。それが、納得できないというのは、花竜の右腕として花竜の身を案じているとは言いませんよ。ただの過保護。そういうことに気付いていないところが、彼の親馬鹿たる所以でしょうね。あいにくと、俺はそこまで身内贔屓になれないので、やっぱり仮親としては彼のほうが適任なんでしょうよ」
「だよね。そういう意味では俺も、連幸のが正しいと思う。翠燕は甘い」
「ほらね、甘やかしてる当の本人に言われるくらいですから」
 そんなもんか。
 回想にふけりながら見ているジェスの視線にも気付かず、
「反撃は最小限でいい。自らのできる範疇で、襲撃者を始末しろ。分が悪いと感じたら、即座に撤退。速やかに基地まで戻るよう。以上」
 淡々と護衛に指示を出した翠燕は、一行を見送ることなく、管制室に戻っていったのだ。
「つめたいなぁ、李翠燕は」
 もう見えない花散里の乗った船の消えた方向をじっと見つめていた蔡氏がそうつぶやいて、振り返る。ジェスを見るその目は、黒に近い深い茶色だ。柔らかにみえるその色の、硬い印象は今の彼の精神状態を表しているのだろう。
「そうは思いませんか。もう少し、別れを惜しんでもいいじゃないですか。またしばらくは会えないんですから。いくら衆目があると言っても……それにあんな少数の護衛で大丈夫なんでしょうか。……淡白なんですかねぇ。心配さえしない。照れているって感じでもありませんし。……わからないなぁ」
 話しかけられて、苦笑する。
 解説できるほどに、翠燕のことを知らない。
 実は花散里は彼の恋人ではないのだとも言えないし、斐竜(蛍)の身を案じ、この作戦に反対で、不機嫌だったのだとはなお言えない。
 その作戦が、あの船を襲わせることから始まるのだ、などと言えば、この実直な青年医師は負けを承知でジェスに掴みかかるだろう。
 作戦提案者が連幸、つまり花散里だと知れば、へたり込むかもしれない。
「さあな。護衛の腕を信じているのか、それとも他に、気がかりでもあるのか」
「気がかり……愛しい人以上に気がかりがあるものでしょうか」
 目下のところ、翠燕の一番の気がかりといえば作戦が成功するか否かだろう。しかし、これも、言えない。彼に何をどこまで話すのか、ジェスには決定権がない。
「……公私混同はイヤなんだろ」
 ことばすくなに答えたジェスから視線を逸らし、公私混同、とジェスのことばを繰り返した蔡氏が、しきりに首をかしげながらひとりごちた。
「公、か。彼にとっての公ってなんでしょうね。およそ公から程遠いところに生きているのに。私一色でも、かまわないような気がするんだけどな。わたしだったら、片時だって手放したりしないのに……」
 ため息混じりにつぶやく蔡氏に軽く礼をして、不自然にならないよう気を遣いながらその場を離れた。
 視界の端で、迎えにきた医務室のスタッフに連れられてゆく蔡浩継を見ながら、あてがわれた自室に向かって歩く。
 蔡氏のことばだけが、しかし、ぐるぐるとジェスの中で廻っていた。

「愛しい人以上の気がかりがあるものでしょうか」
「公ってなんでしょうね」
「私一色でも、かまわない」

 どれもこれも、胸に痛いことばだった。
 いつも仕事を気にかけていた。いつも任務を優先した。一緒にいるときでさえ、おそらくはそうだった。
 何度も約束をすっぽかした。笑って「仕方がないわ」と許してくれる彼女に甘えていた。
 そのくせ、会いたいと泣いた彼女を、甘えないでくれと突き放した。
 失った今になって、聞かされる皮肉。
 もし、失う前に、そのことばを聞くことができたなら、運命は違っていただろうか。
 いや。
 ユリアはわかってくれている。
 そう一蹴しただろう……。

「わたしだったら手放したりしないのに」

 そう、あのとき、放さなければ。せめて、そばについていれば。
 俺はなぜ、離れたのだろう。

 ぶん、と勢いよく首を振ったジェスは、その問いかけを頭の隅に追いやった。
 それでも。
 砕け散ったはずの闇の微かな粒子が、ぞろりと動き、ざらついた心の底をゆっくりと撫でているような気がした。