第4章 一日千秋 (5)

「拉致?」
 頓狂な声をあげたジェスに、石涼がにこやかに説明をした。
「拉致されるのは、花竜後宮きっての姫、花散里とその付き人です。既に、花散里がこちらに来ていることは花街のうわさを通じて雍焔も知っています。そこで、彼女が城へ帰る道のりを襲っていただこう、と、こういうことです」
「ひとつの策で幾つもの効果を挙げる。戦略的省エネかな。何通りも策を講じる時間も人間もいないからね」
 斐竜が楽しそうに補足した。
「捕えられた花散里は花竜の腹心、李翠燕の恋人だから、向こうにとってはいい取引材料にもなるでしょ。多分、返して欲しかったら花竜の首を持って来い、とか言うんじゃないかな。で、交渉の場をセッティングさせる。もちろん、花竜には内緒で、って言うだろうね。だって交換物が花竜のクビじゃ、いくら恋人の命がかかってても即座に決心できないでしょ。翠燕は弱みを握られてる上に、花竜には内緒だから、少数で出向いても不思議がられない。逆に、あっちは一気に俺たちを殲滅する気で来るだろうし、そうしたら基地の守りは手薄になるよね? だって李翠燕は花竜の腹心で、一番の実力者だもの。全力でつぶしにかかるよ、きっと。罠だとも知らずにさ。馬鹿だから、あいつ」
「その隙に、か」
 連幸が「我慢できない」といった理由にも思い当たる。おそらく塞内に残った戦力を骨抜きにするのだろう。そういうことか、と呟いたジェスに斐竜がニッと笑った。石涼が再び作戦の説明を開始する。
「ご納得いただけたところで、人員配備と参ります。まず、陽動部隊、こちらの総指揮は翠燕に。指揮官補佐として王虎。翠燕には雍焔との偽交渉も担当していただきます。ただし、王虎は交渉が決裂するまで、敵に存在を気づかせないように注意してください。交渉の場には、翠燕と数人の部下だけと思わせたいのです。交渉決裂のタイミングは、翠燕にお任せいたします。この陽動部隊の主たる目的は、主戦力を、敵基地から引き離すことです。が、叩けるだけ叩いてくださって結構です」
「おう。まかせとけ」
「ただし、おびき出した敵兵を、基地内に戻さない。どちらかというとこれが重要なので、相手を敗走させないでください」
「……そいつぁ、厄介だな。覆面でもしてゆくか」
 心底厄介そうにつぶやいた王虎のことばに斐竜が小さく吹きだした。たしかに、王虎の姿を遠目にしただけでも逃げ腰になる者は少なくない。
「次に、突撃隊。これは交渉決裂と同時に敵基地内に切り込んでいただくという任務。目的は歌姫の救出です。この時点ですでに潜入している連幸たちは内部の霍乱を担当します。この突撃を、ジェスさん、お願いできますか。もちろん、わたしと日烏が同行します」
「俺でいいなら、ね。知ってると思うけど、今の俺がまともに戦える保証はないぜ」
「結構です。あなたを連れてゆけば、歌姫に信じてもらうのに手間がないですから。無事にお連れしますよ。では、最後に潜入隊、ですが、連幸、人員のリストアップは完了していますか」
「ああ。俺と、補佐には胡蝶(こちょう)と、蜻蛉(あきつ)。それと蛍(ほたる)」
「蛍!? あのコか?」
 あまりにも突飛な人選に、ジェスの声は裏返った。が、驚いているのはジェスだけだった。給湯室の蛍には聞こえないのだろうか。そちらを一瞬見たジェスは、そこに蛍がいることを知り、更に驚いた。彼女も承知しているのか!?
 ジェスと視線が合った蛍は、あの困ったような眼差しで、連幸を見る。連幸がその視線を受けて、ジェスに言う。
「ジェスさん、花散里と、俺が同一人物であることを雍焔は知りません。そして、花散里を知らない。知らない花散里を彼はどう本物だと判別するでしょう? 誰にでもわかる本物である証明が必要なのです。蛍は、花散里の禿ですから、彼女の存在が、花散里が本物であるという証拠になるのです。」
「だけど、それじゃ……」
「もうひとつには、明らかに花竜の手勢ではない者、犠牲にするには忍びない者が必要だということ。怪しいと、少しでも思えば、雍焔は動かない。蛍は、囮です」
 戦闘が始まれば、蛍は死ぬだろう。おそらくは、一番最初に。そうでなくても……。
 そうと知っていて連れてゆくのか。この幼い少女を。
「その件でなんだけど、変更してもらいたいんだ」
 唐突にも思える斐竜の発言に、全員の意識が斐竜に集中する。次のことばを待つが、躊躇しているのか、斐竜は視線を手元に落としたまま、黙ってしまった。
「変更? 何を?」
 首を傾げてうながした連幸に、斐竜は大きく息を吸った。そして、一息の元に発言した。
「蛍を外してもらいたいんだ」
「は?」
 意外な提案に石涼が、笑顔のまま――浮かべるべき表情の選択ができなかったということだ――首を傾げた。
「蛍を外して欲しい」
 繰り返す斐竜に一番不思議そうな表情を向けていたのは蛍だろう。
「フェイ」
 たしなめようと手を伸ばした翠燕を振り切って、立ち上がった斐竜は、机に乗り出して訴える。
「蛍は市民だ。城に在籍していても、テラのIDを持っている。不必要に、谷に関わらせたくないんだ」
「必要なんだ、フェイ。花散里が本人であることの裏づけには、禿の蛍は外せない」
 理解させようと説明する連幸に、斐竜はあの、硬い美しいけれど独特な声で宣言した。
「認めない。蛍は、ダメだ。連れてゆくことは絶対に許可しない」
 頑強な態度で、斐竜、いや、花竜は許可しないと言い切った。花竜が許可しないと言った以上、蛍をミッションに伴うことは不可能だ。では何か別の方法で、花散里が本物である証明をしなくてはならない。
 斐竜の要求をかなえようと別の案を講じる連幸と、斐竜の翻意を促そうとする翠燕はまったく対照的だ。斐竜を真ん中に挟む光景。それがなんとなく可笑しくて、ジェスはつい、笑いそうになって唇を噛んだ。それに気付いたらしい白狼が、同意するように目元で笑う。ふと見渡すと、それに気付いていないのは考え込んでいる連幸と、なんとか説得を試みようとする翠燕と、頑として譲らない決意の斐竜だけだ。石涼も王虎も日烏も、蛍でさえもが三人の様子に僅かだが笑みを浮かべている。
「これは斐竜の勝ち、です」
 隣に座る石涼が、ジェスにだけ聞こえるような小声でささやいた。
「こういうときは、絶対に譲らないですから」
「そうなのか?」
「ええ」
 石涼が頷いたそのとき、それまで静かに諭していた翠燕が、とうとう声を荒げた。
「いいかげんにしろ。フェイ、私情を挟むのは……」
 翠燕のことばを、斐竜の視線が封じる。その眼差しは、恐ろしいものではなく、どちらかというと嘆願に近い印象を受けるものだった。
「蛍は、市民だ。城に努めていても、テラのIDをもつ市民だ。谷の仕事に関わらせるのは、よくない。一度関われば、戻れない」
「しかし」
 なおも言募る翠燕のことばに被せるように斐竜は言った。
「どうしても、蛍の存在が必要なら、代理を立てればいいんだ。蛍の名は花散里に付随するものとして知られている。それはつまり、蛍と言う名の禿が花散里の側に居ればいいってことだろ。本人じゃなくても充分に事足りる。胡蝶や蜻蛉はもともと谷の住人で、なにより戦力として数えることができる。蛍は戦力にならない。かばってる余裕もない。死ぬと判ってるところに、蛍は遣れない!」
「誰が代理をやれるんだ。戦力になりそうな禿はいない。禿の真似事が似合いそうな戦闘員もいない。不可能だ。それとも、彼女でないなら、死なせてもいいと、そういうことか、斐竜」
 静かな口調で激しい問いを放った翠燕に、斐竜は鋼の目を向ける。そして言った。
「俺がやる。俺なら完璧だ。背格好、年の頃合、前後の事情に詳しく、確実に戦力になる。だろ?」
 斐竜の主張に、連幸が顔をあげ、翠燕が黙った。3秒ほどの間をおいて、翠燕は椅子を後ろに跳ね飛ばしながら立ち上がる。
「馬鹿をいうな! だめだ、許可できるか! 私情を挟むのもいいかげんにしろ!!」
 斐竜を怒鳴りつける翠燕に、連幸が座ったまま声をかけた。
「待って、翠燕。斐竜の意見はもっともだ。俺もそのほうがいいと思う。戦闘になった場合、『蛍』を気にしなくていい分、俺たちは自由に動ける」
「連幸!」
「翠燕、私情を挟んでるのはあんたのほうだ」
 絶句する翠燕に、連幸が微笑んだ。
「そう見える」
 まあ、座って、と連幸に促され、斐竜と翠燕はそれぞれ着席した。
 連幸の巧みな仲裁に、ジェスは感心する。
「翠燕、大丈夫。俺はそうそう簡単には死なないよ。ね?」
 翠燕の顔を覗き込む斐竜を翠燕は見る。その顔に表情はない。ただ、静かな怒りが、身にまとう空気に滲んでいる。その怒りは斐竜ではなく、連幸に向かっている。
 連幸はその怒りに満ちた視線を一旦しっかりと受け止め、その後少し微笑んでさらりと流した。
 時間的には数秒のことだろう。しかしその数秒は、凍てついたように動かない。
 凝る時間を打ち破ったのは、日烏の声だった。
「死ねたらいいだろうってことも、世の中には、あるよ。わかってるかい? 斐竜」
「うん。わかってる。だから、蛍にはやらせない」
「そう。わかってんなら、反対はしないよ。やってごらん」
 苦笑を湛えたまま、日烏は頷く。
「日烏!」
 当然、翠燕の怒声が彼女に向かって飛んだ。が、それ以上翠燕が発言する前に、王虎が頷いた。
「ま、そういうことなら、それでいいんじゃねえか。それに潜りこんでるやつらが生きてるかどうかも判らねえんだ。戦力は多いにこしたこたぁねえ。役立たずを連れてゆくよりはよっぽどいい。失敗したら、それこそ、元も子もねえしな。問題があるとしたら、斐竜に『蛍』が務まるかってことだけだ。へへ、こりゃ、面白ぇ」
「そうですね。斐竜なら、戦力として不足はありませんしね。ああ、これで、潜入隊の戦力の増強になりましたね。よかった。これが一番の心配でしたから。じゃ、そういうことで」
「王虎、石涼、何を!」
 がたんと音を立てて、再び翠燕が腰を上げる。
「翠燕、落ち着いて。蛍は一流の姫になる。そういう有能な人材を、あたら犠牲にするものじゃない。俺としても、手塩にかけて育てた蛍を捨て駒にするのは躊躇いがある。この子に匹敵する人材をもう一度探しなおして、教え込むのも面倒だからね。その点、斐竜なら、捨て駒じゃない。りっぱな駒だよ。そうだろ? 大丈夫、怪我はさせないよ」
 翠燕が黙り込む。不機嫌そうに椅子に座りなおした。目も口も閉じ、体の前で腕を組んだ翠燕からは、極めて消極的な受諾が窺えた。
「じゃ、決定。蛍はここで待ってなさい。それと、斐竜。君は蛍だから、それらしくしないとね」
「うん。よくわかんないから、そのあたりは、適当に頼むよ。連幸」
 斐竜はそう言い、翠燕を振り返った。まだ不満気な翠燕の顔色を窺うような表情で。
「いい?」
 押し切られる形で、翠燕は承諾する。投げやりなため息を返事に代えて。
「では、決定。潜入隊は、花散里、胡蝶、蜻蛉、蛍、ただし蛍は斐竜の変装、ということで。そうしますと、あとは、撤収ですね。彩の谷南岸から撤収でよいですか? 翠燕」
「……いや。そのルートの確保はする。諜報員はそのルートで退避させておけ。……内部に入るのは結局何人だ」
「連幸他潜入隊の4名、及び突入する我々の3名の7人です」
「白狼、白王獅子には何人乗れる」
「シート数は6です。重量的な意味でしたら、もう3、4人は可能でしょう」
「運び込め。最終的には、白王獅子で、退却。おそらく、雍焔は追い詰められれば、自滅を選ぶ。深部、唯一使用されている地下4層の雍焔の私室から、足で脱出するには無理がある」
「白狼、修理の状況はいかがです。この案件に対する懸念は」
「ありません」
 白狼の返答は短い。しかし、その短いことばの中に、絶対の自信が窺える。
「結構です」
 石涼も白狼の技量に信頼を置いているようで、それ以上の報告を求めなかった。
 いいな、とジェスは思う。A.G’のあの煩わしい報告会議と比較すると、それぞれへの信頼の上に成り立つ花竜の組織は理想的だった。考えてみれば、細かい報告を必要とすることは、相手を信用していない、もしくは相手との意思の疎通がなされていないことの表われだ。わかりきったことを延々と説明させられるあの苦痛。演説好きな人間ならそれも楽しかろうが、現場で働くことを第一義にしているハンターにとって、報告会議への出席ほど嫌なことはなかった。だいたい、ハンターの稼ぎがA.G’という組織の収益の4割を支えているというのに、ハンターに対する人間的信用や技能への信頼は、薄かった。一度も現場に出ないやつらが、訳知り顔で組織の運営に携わるようになってからは、一層その傾向が増した。
 汚名を雪いだとして。
 と、ジェスは思う。もう一度あそこに帰りたいとは、思えない。親父は激怒するだろうが、知ったことか。俺は俺で自由に生きて、自由に死ぬ。ざまあみやがれ、クソおやじ。
「医療班の出動は?」
 石涼に尋ねられた日烏が、かすかに眉をよせた。
「蜚廉や青鸞が留守というのは痛いね。呼び戻してもいい?」
「それでは蔡氏が不安がるでしょう?」
 連幸の指摘に日烏が肩をすくめた。
「問題ないとは思うけど。念のためにおいておくか。じゃ、指揮は岐飛熊。補佐は亘永。他に負傷者の回収と応急手当を主体に、多少は戦える人間が14人。この14人は戦力として数えるのは難しいけど、足手まといにはならない程度の能力は備えてる。質が落ちても構わないなら、あと18人は出せる。どうする?」
 どうする、と日烏が振ったのは連幸である。
「出してください。と、その18人がとりあえず足手まといにならない程度に身を守れるように、教育しなくちゃね。ええっと、これは……ジェスさん、お願いしてもいいですか?」
「いいよ。戦力としてプラスにならなくても、マイナスにならなきゃいいんだろ? その程度なら、2,3時間で仕上げられるよ。素地はできてるようだしね」
「よろしくお願いします」
「蔡氏の医院の警護については、これで不足なし、と。他に、医院に張られてる網の処理ですが」
「ああ、目星は付いてるよ。後は、どう始末するか、さ。ま、それに関しては楊黄麗の判断に委ねたい。情報を売って食ってるような小物だしね」
 抱きこめるなら、それもよし、と日烏は締めた。
 そのことばと、日烏が回したメモをざっと一瞥した7人が頷く。たしかに、粛清が必要な相手ではない。
「これで、陽動を担当する部隊、王虎指揮下には王虎の部隊に所属している63名と、わたしの部隊の9名、日烏の部隊から32名、の合計104名が確保できましたね。よし、と。もうひとつは、花散里の護衛ですが……いかがしましょう。翠燕」
「犠牲がでない程度に適当に戦って、撤退しろ。石涼」
「はい」
「おまえの部隊から10人、護衛につけろ」
「了解。それでは、最後の議題。雍焔の最終的な処分ですが」
「殺っていいでしょ。っていうか、仕留めて。いいかげん鬱陶しいから」
 言いかけた石涼を制して、斐竜が心底鬱陶しそうに決定した。
「あんなヤツが同業者面してると、こっちまで品性を疑われちゃうよ。あー、ヤダヤダ」
「討ち取ったあとはどうします?」
「ああん? 捨てるにきまってるでしょ。それともトロフィーにでもするの? 言っとくけど、俺の目に入るようなところには絶っ対に飾んないでね。うっわぁ、気色悪ぅっ」
「部屋のインテリアに似合わないから、俺はいらないよ」
「玄関や客間もやめたほうがいいな。客が逃げる」
「あ、あたしんとこ、飾る? ちょっとは医務室に来るやつが減るかも」
 トロフィー。つまりは、首を壁面に飾るあれである。一般的なところでは牡鹿の首だ。
「何を言っているんです! 飾りませんよ、汚らしい!」
 汚らしい、と言った石涼のことばに少々の疑問を覚えたジェスに、斐竜は視線を転じ、訊ねた。
「じゃ、ジェス、記念に持って帰る? 塩漬けとか、蝋漬けとかして。……干し首とか? できないことは、ないと思うケド」
「いらないよ! そんなの」
 即答したジェスに、斐竜は「だよね」と微笑んだ。
「よかった。持って帰るって言ったら、どうしようって思った」
「ご冗談!」
「では、討ち捨て、ということで、決定ですね。ええっと、そうしましたら、その部下も、ご同様で」
「当然!」
 斐竜が言い、7人が頷いた。
「それじゃ、今後の行動について確認いたします。まず、連幸」
 呼ばれた連幸がかるく右手を上げて応じる。
「胡蝶らと共に明朝6時、出立してください。こちらの予測では、9時過ぎには雍焔の一隊と遭遇する見込みです。装備等、万全を期してください」
「了解」
「次に、翠燕。明日の正午には雍焔からの連絡が入るはずです。それまでに交渉場所として指定されうる全ての場所の地形の確認、戦術等の考察をお願いします。王虎は現地での指揮をお任せすることになると思いますので、人員の配置および、作戦に必要な武器弾薬の装備を」
 無言で翠燕がうなずき、王虎が「おう」と低い声で返事をした。
「ジェスさん、日烏。突入のルートはわたしの一存で構わないでしょうか。中央管制室を抑えた後は日烏はそこに待機。わたしたちは、歌姫の元へ急ぎます。先行している連幸たちとの合流は、……連幸、どうします?」
「管制を握ったら、こちらから胡蝶と蜻蛉をそっちにやる。日烏はその二人と管制室を確保。石涼はジェスさんを連れてユリアさんの所へ。俺と斐……蛍もすぐ向かう。歌姫の身柄の確保ができた時点で、撤収開始。そんなところでいいかな」
「わかりました。それじゃ集合場所は歌姫のいるところ、ですね……。突入隊は雍焔との最初の接触から5分後にはスタンバイ完了してください。交渉決裂と同時に攻撃をかけますので、準備よろしくお願いします。では、決議はこれにて終了。あとはそれぞれの裁量にお任せいたします。以上、解散」
 石涼が立ち上がり、片づけをはじめた。翠燕はまだ考えることがあるらしく、目を閉じたまま椅子に座っていた。
 王虎は、部屋を出かけたところを日烏に呼び止められた。どうやら王虎の左足の不具合が日烏には気になるらしい。嫌がる王虎の右耳を引っ張って、多分あの研究室へ向かう。数歩、歩きかけ、彼女はジェスを振り返った。
「教官、早くおいで」
 教官、とはどうやら俺のことらしい、と立ち上がったジェスは、廊下で待つ日烏のもとへ急ぐ。
 去り際に振り返った部屋の中で。
 連幸は蛍を呼び、斐竜の変装に必要だと思う品を用意するよう指示を出していた。蛍はその指示に頭を下げ、ふと斐竜に視線を移す。じっと見つめ、黙ってお辞儀をする。困ったな、と斐竜がそのお辞儀を受けながら、右手で後頭部を掻いていた。
 そして。
 翠燕が、白狼に何事かの指示を与え、それを漏れ聞いた石涼が仰天の表情を浮かべるのを見た。
 白狼は背を向けていたため、その表情はジェスからは見えなかった。