第4章 一日千秋 (3)

 「いい腕だね」
 あんた見かけよりずっとしっかりしてるじゃないか、と日烏が蔡氏に話し掛けた。手術中、日烏は一言も発せず、終始蔡氏の助手に徹していた。日烏の技量もまた見事なもので、説明も指示も、ほぼ必要ないそのフォローに、蔡氏は舌をまいた。これほどの技術の持ち主が、なぜ、谷にいるのか。その問いを発することができるほどには彼女と親しくない。しかし、問いかけは視線となって日烏に注がれる。術衣を脱いで、彼女は背伸びをしながら、彼女は言う。
「もったいないよ。こんな街にいるのは」
 背伸びをする姿は猫のようにとたとえられるが、日烏の伸びは贔屓目に見ても虎か豹だ。衝立一枚隔てて着替える蔡氏は、日烏のシルエットを見てそう思う。彼女の動きにはどこかぎこちない硬さがあった。
「一気に六人も手術するのは大変だったろう?」
「八人一度に見たこともありますから。ここも執刀できるのはわたしだけですからね」
「そうか。こんな下町じゃ、それも当然か。ま、これで後は傷が塞がるまでやることはないしね。多少はゆっくりできるさ」
 日烏のことばに蔡氏は驚いた。脱いだ術衣を持ったまま日烏をふり返る。傷口が新しいうちに、再生槽に入れるほうが、失われた手足の再生は容易なのだ。当人の遺伝子を分析し、傷口の細胞を人為的に未分化にする。未分化の細胞をそれぞれの組織になるよう誘導する。傷口が塞がった後では難しい。
「再生槽に入れないと……」
「ダメだ。再生槽の遺伝子データバンクはテラと直結している。身元が割れる。いずれは再生槽も作るつもりではいるが、今はだめだ」
 衝立越しに日烏の返事がきっぱりと返ってくる。
「でも、それじゃ……」
「全部あたしがドールにする。どのみち、再生された手足の神経系が完全に回復するまでに数年はかかる。そんなに長いこと転がしとくわけにもいかないだろ? 無駄メシ食いを」
 そう、臓器の再生はよほどでない限りすぐに日常生活に戻れるが、手足の再生は簡単ではない。なぜなら再生された手足が自在に動くようになるまでにはリハビリ期間が必要とされるからだ。もちろん移植と異なり、自らの手の延長として再生するため、移植より他に術のなかった時代に比較すれば格段の進歩だ。が。
 例えば外科医の手首から先が失われたとする。遺伝子解析と細胞培養により再生された手は0歳児並みの神経しか持っていない。訓練により得た技術にともなう神経の発達がなされていないのだ。したがって元のように執刀できるようになるまでには、長く辛抱強いリハビリ期間が必要になる。場合によっては、職を変えるしかないこともあるだろう。そういった場合によくとられるもうひとつの方法。それが、ドール加工だ。
「その点、ドールなら賢いナノチップさえあれば、簡単に元に戻せる。神経は光ファイバー、骨格は医療用合金。アレルギー体質のヤツはいなかったはず……上に被せるのは、何がいいかしらね。生素材は、維持経費がかかるし、手入れも大変だから……」
「……人体の不法改造は、連合の法律で禁じられています」
「あの子たちは存在自体が禁じられてるんだ。改造の不法性なんか今更説いたってはじまらないだろ」
 何、マヌケたことを言ってるんだい、とその後に続いたように聞こえたのは、蔡氏の空耳だろうか。
 着替え終わった日烏が衝立をその足でよけた。
「へえ、いい体してるじゃない。なまっ白いけど」
「よけいなお世話です」
 着替えを再開した蔡氏を椅子に座った日烏は観賞する。その眼差しは不思議といやらしさを感じさせない。人体の一例として眺めているせいだろう、と蔡氏は思う。おそらく、再生するドールたちの手足の参考データなのだ。
「どうしてこんなところで開業医やってんだい。大学病院にいたって聞いたけど」
 蔡氏を眺めながら日烏が尋ねた。日烏は蔡氏ほどに遠慮の心を持ち合わせていないようだ。
「喧嘩したんですよ。病院の神経内科の院長と」
「ふうん」
「若かったんです。院長にも失礼なことを言ってしまったな」
 さして懐かしむ気持ちはない。あそこに勤めつづけることは、医師としての自分に背くことだったと今でも確信しているのだから。ただ、あんな風に喧嘩をする必要はなかったし、するべきでなかったとは思っている。
 蔡氏の口調には、暴言への反省はあっても、それ以上の思いは含まれていないようだった。
「腕とは逆にマネジメントの能力はないようだけど、大丈夫なのかい? ここ。まあ、レトロなこと。これじゃ、あたしのラボとさほど変わらないじゃない」
「医薬品や設備を必要に応じて運び込むより、患者を移動させるほうが手間がないでしょう」
「ま、そうね。予備もなさそうだし」
 ここの設備を谷へ運んだら、この医院は実質「開店休業」に陥るだろう。
「維持は、お察しの通りかつかつ、です。親の遺産と弟思いの兄のおかげで、赤字経営なりにやっていけてるんです」
「なるほど。それで姪っ子が派遣されたってことか。あんたの作る赤字を些少でも解消するために」
 よくできたいい子だねえ、と日烏は黄麗を誉めた。
「わたしの姪ですから」
「あんたの姪とは思えない、って言ってるんだよ」
 日烏に容赦ない一言を浴びせられて、蔡氏は口を半開きにした。しかし、ことばは出てこない。口答えする愚を、そろそろ蔡氏も学習していた。
「健気じゃないか。あんたの足りない部分を補おうとして懸命なんだ。口に出すとちょっとばかり汚いことも、きっぱりはっきり言うのも、いいね。なかなかできることじゃない。かわいいだけのお嬢さんじゃないんだねぇ」
「もう少し口を慎むように、言ってはいるんですが」
「そりゃ、無理ってもんさ。あんたが言わせてんだから」
「わたしが、ですか?」
「あんたは善い人だ。世の中の汚いモノやコトをまるで考えやしない。だから、あの子が代わりに考えてくれてるのさ。幼い身でね。よく出来た子だよ。本当に。あんたもあの子を鬼にするつもりがないなら、もっと世の中の暗い部分を直視するだけの気力を持つんだね」
 あー、一仕事終わったら腹が減った、と日烏はさっさと歩き出す。日烏があけたドアの向うは蔡氏の診察室だ。小さくはないが大きくない病院で、執刀医が一人しか居ない環境では実に効率の良い間取りである。
「とは言っても、適材適所か。あんたには無理かもしれないし。ま、せいぜい感謝することだ。あんたは仏、彼女は護法」
 結局姪っ子に保護されてんのよね、気付きもしないってんだから、笑っちゃうわ。
 声には出ていなかったが、日烏の視線が雄弁に物語る。
 ドアを後ろでに閉める日烏の声無き嘲笑に蔡氏の脳内で、何かがかちりと音を立てた。同時に体温が1度ほど急上昇する。交感神経が刺激され、顔の毛細血管が膨張し、蔡氏の顔色は全体として赤くなった。
「随分なことをおっしゃる」
「そうかい? 事実だろ」
 ふふん。
 閉めかけたドアを日烏は再び開き、それだけを言い終えると屈辱感に震える蔡氏を一瞥し、日烏は今度は声に出して笑った。
「おやおや。真っ赤になって。恥じ入ってるの? それとも怒ってるの? やだねぇ、これだから世間知らずは」
 日烏は診察室にあった予備のメスを玩びながら、蔡氏をからかった。足を組んで堂々と椅子に腰掛ける。そのさまはまるで部屋の主である。
「怒ってなんかいない! 知らないことをさも知っているようなあなたの口調が気に入らないんだ」
 着替えを済ませた蔡氏が日烏を追って、診察室に入る。
「屁理屈つけても事実は事実。それさえ見えない節穴じゃ、黄麗もお気の毒さま」
「違う!」
「違わない」
「違う、違う、違う!」
「違わないよ。どこが違うっていうのさ」
「どこでも、絶対に、違う!」
 声高く蔡氏が叫び否定する。その蔡氏の頬を掠めて、日烏の手からメスが放たれた。蔡氏の鬢の毛が二本、宙に舞う。ドアを抜けて手術室の壁に突き立ったメスは、びぃぃぃぃぃんと小さな音を発していた。
 驚きのあまりことばどころか、表情さえなくした蔡氏はその小さな音が消えてもまだ、息を詰めて棒立ちになっていた。
 二呼吸には少し足りない間をおいて、日烏が言う。
「あ、そう。どこが違うって言うのさ。そんなに言うなら、じゃ、証明して見せてもらいたいね。あたし一応、科学者だから、証明されないことは信じない主義なんだ。精神論や根性論、そういうのは胡散臭くてかなわない」
「い、いいでしょう、証明してみせます」
 たどたどしく頷いた蔡氏に、日烏がにこりと微笑んだ。この日烏にそんな微笑が可能だったのかと仰天するほど優しく、艶やかに。その微笑に一瞬気を取られた蔡氏の腕を、立ち上がった日烏が絡め取る。蔡氏よりわずかに背の高い日烏が、ほんの少し身を屈め、蔡氏の肩を抱くと耳元で囁いた。
「そう。それじゃ、さっそく戻りましょう。これからばんばん負傷者は発生するし、死人も出るかもしれないわねぇ」
 食事はおいしいし、デザートもつくかもね、というような口調だった。
「戻る、……って、何処へですか」
 毒気を抜かれた蔡氏が、どこか茫洋としたまま、日烏に訊ねる。日烏はいつもの表情でさらりと言った。
「決まってるだろ、谷だよ、谷。こんなこともあろうかと思って、食事は弁当にしてもらったんだよね。あ、ほら、持ってきた、持ってきた」
 日烏の視線を追った蔡氏は、ガラス張りの壁の向う、廊下を歩く一人の助手に気がついた。
「朱先生、弁当、用意できました。3人分でよろしかったですね」
「ああ。ありがとう。手間かけたね」
「いえいえ。黄麗さんたちも、資料室に缶詰でして、結局、今日の昼食は全員松花堂形式の弁当食です。入院されている患者さんたちも、楽しんでいましたよ」
「そう言ってもらえると、こっちも気が楽だ」
 もう一度ありがとうと言いながら、日烏は弁当を受け取る。
「あ、お車のほう、もう玄関に来てるんで、急いで下さい」
 青年は蔡氏と日烏を急き立てる。小走りに廊下を進む青年に、蔡氏の手を引いて歩きながら日烏は話し掛けた。
「手際いいんだね、あんた」
「蔡先生のおかげですよ」
「なるほど。段取り悪いだろ、蔡センセは。苦労するねぇ、あんたも」
「手術以外のことにも、段取りってもんを考えていただけるといいんですけどね」
「無駄無駄。段取りがあるってことも知らないよ、きっと」
 あっはっは、と高らかに笑う日烏と、助手のやり取りをただ見つめるだけの蔡氏に、助手は小さめの旅行鞄を手渡した。
「これ、日用品と着替えです。必要なものは揃っていると思います。足りないものは、現地で調達して下さい。それと、お財布。黄麗さんからお預かりした分です。全部使っちゃだめですよ。怒られますからね。それじゃ、お気をつけて。よい旅を」
 まだ蔡氏が持っていた術衣を取り上げるようにして受け取った助手は、車のドアを開け、蔡氏を押し込む。
「ほら、先生、ぐずぐずしない」
「あ、ああ、うん……?」
「じゃ、朱先生、よろしくお願いします」
 手を振る助手に見送られ、蔡氏の乗せられた車は軽快に走り出したのであった。

 どうしてこんなことに、と無言で首を傾げる蔡氏に、日烏はのうのうと言ってのけた。
「助かるねえ。うちの医療班は慢性的な人材不足に泣いててね。あの雍焔と戦争するってんだ、ドールの大量生産になるのは目に見えてる。あんたが手伝ってくれるなら、あたしも随分ラクできるよ。ドールは専門外だろうけど、学校では教えてもらったんだろ? あ、とりあえず、死なない程度に処置しておいてくれたら、あとはあたしがやるから心配しなくていいさ。いやあ、それにしても立派、立派。地獄のような谷の戦争の従軍医師に志願するとはねえ。見直したよ。あんたただのイイ人じゃなかったんだねえ。正真正銘、本物のイイひとだ。まるで如来さまか菩薩さまのようだね。本物の仏にならないように、せいぜい気をつけるんだよ」
 あははははははは。
 日烏の笑い声が、蔡氏の脳内で反響する。
 何故だ、どうしてこうなった!?
 機嫌よく笑う日烏と、目を白黒させている蔡氏をバックミラー越しに見ていた運転手、石涼は無関心を装いつつ体内で笑った。
 組織内で唯一の医師である彼女は、このところ前線から退いていた。医療班を率いての後方支援に徹していたのだ。しかし、雍焔との兵力差を少しでも埋めるために、今回は彼女も前線に出ざるをえない。そう、そのために、連幸は蔡氏を引き込むことを決意した。
 日烏は正確には医師ではない。けれど、彼女以上に医療に詳しい者はこれまでいなかった。彼女が失われるということは、取りも直さず花竜の組織から医者が消えるということだ。そのために、彼女は戦場に立つことを許されなかった。彼女の死が、花竜の死にも繋がる。
 だが、彼女は戦場に帰る。後詰に一流の医師を配備した彼女は憂いなく突撃する。
 ワルキューレ、とわたしたちは彼女を称えている。もちろん、当人には秘密で。
 硝煙を纏い、砂塵と血で化粧した戦女神。
 はじめて戦場で邂逅した瞬間の彼女を思い出し、石涼は口元に淡い笑みを刻んだ。

 どうして連れ帰ったのだ、と翠燕のまなざしが語ったのを石涼は見た。
 どうして連れられてきてしまったのか。視線を医師に転じた石涼は蔡氏の声無き声を聞いた。
「手伝ってくれるって言うし、人手は多いほうがいいだろ? それとも、イヤ?」
 日烏だけが平然としている。
 ダメ? ではなく、イヤ? という尋ね方は、素晴らしい。
 なぜなら、イヤということばは、主観的な要素を多分に含む。つまりその問いかけを肯定し、「ああ」と答えるということは「わがまま」を言うに等しいのだ。もし、日烏が、「ダメ?」と聞いていたなら、何某かの理由をつけることも可能であっただろうが、「イヤ?」と訊ねられたことにより、反論も異論も封じられてしまう。
 何か言いたげに、しかし、適切なことばを見つけられないでいる蔡氏と、嵌められたことに気付きながらも承諾せざる得ない背景を慮った翠燕の間で、石涼は笑いを堪えることに全力を費やしていた。
 二人の男の反論をたった一言で封じた日烏は、助手のひとりを呼びつけて、蔡氏の身柄を引き渡す。
「蔡先生、このコは趙賢。医療チームの出世頭。元は医学生。ただし、教養課程がやっとすんだところでお気の毒にも谷入り」
 基地内のことで、わからないことがあったらこのコに聞いて、と日烏は言う。 「小賢、粗相のないようにね。それから、しっかりと勉強させてもらいなさい。あたしは今回のミッションは表に出るから、あんたたちのボスはこちらの先生だ。それと、先生はここのことに詳しくはないから、よろしく頼むよ。一人で出歩かせないようにね。万が一迷子になったら大変だから。じゃ、あたしはこのあと別の仕事があるんで、あとはよろしく。センセ」
 諦めた様子で日烏のことばに蔡氏は頷き、趙賢に案内されて医務室へと向かった。
 ここでもめているよりも、医務室にいるほうがいくらか落ち着く。
 消毒液の臭いを懐かしみながら、蔡氏は振り返らずにその場を去った。
「意外に度胸据わってんのよね、あのセンセ。おとなしげな顔して」
「もう少しうろたえてもいいくらいですよ。人は見かけによりませんね」
 それぞれに感想をつぶやく日烏と石涼を無言で見つめ。
 蔡氏の背中を見送った翠燕は、その姿がエレベーターの内に消えるのを待って、命じた。
「医務室と客室からは、出すな」
 その後にしばらくの間をおいて付け足した。
「可能な限り」
 蔡氏にとって翠燕は花散里の恋人の李氏である。これからミッションが架橋に入ると言うのに演技をしながらでは面倒この上ない、ということだ。加えて、いつ斐竜がボロをだすか、見当もつかない。もちろん、ばれたところで一旦引き受けた仕事を蔡氏が放り出すとは思わない。それでもそのときに蔡氏が受ける衝撃は小さくないだろう。わずかの隙も許されない状況で、喜劇を演じているヒマはない。
 くす、と口元に笑みを刻んだ日烏が、なだめるような眼差しで翠燕を見る。
「了解。もっとも、あのセンセ、自発的に出歩きたいなんて思うはずもないだろうけど。で、こっちは今どんな具合なんだい?」
 日烏の視線をさりげなくかわして、石涼、日烏を左右に従えて歩きながら翠燕は状況の解説を始めた。