第4章 一日千秋 (1)

 医師、蔡浩維が首都の自宅兼医院に帰りついたのは翌日の朝であった。出迎えた姪に小言を言われつつも、彼は通常と何ら変わる様子もなく帰宅した。ただし、重症患者六人、およびその付き添いを連れての帰還である。
 おどろく助手たちに蔡氏は、城で知り合ったさるやんごとなきお方のご子息とそのご友人で、公になると少々どころでなく困ったことになるので、極秘裏に治療しなくてはなりません、と説明した。ご子息はあまり外聞のよくない事件にまきこまれたのです、と付け足す。
 外聞のよくない事件、と聞き、助手たちは一様に納得した。確かにその患者たちは、善良な一般市民が負うに相応しくない損傷を受けている。ご子息とそのご友人はどうやら道楽と横着の果てに行き着くところまで行き着いてしまったのだろう。それを指すのにもっとも適したことばがある。極道、と言う。窮まった道の先には何もない人生の最果てだ。
 もっとも、「谷」は確かに人生の最果てで、その地に生きる彼らが、行き着くところまで行ってしまっているのは当然だ。だが、そのことを知らない助手たちの目に、彼らへの少なくない軽蔑の色をみて、蔡氏は少しだけ不愉快になった。ほんの数時間ともに過ごしただけの彼らだが、けっして軽蔑の対象になるような人間ではなかったから。
 そう、お大尽のご子息が、親の権勢をかさに着て犯す困ったいたずらと、生きるために否応なしに戦いに身を投じている彼らが同一視されることに、漠然と感じる不快感。
 彼らがもし、好んであの環境にあるのであれば、話はまた違ってくるだろうが、彼らには職業や住処を選択する自由はない。
 犯罪者の巣窟、と谷をそのように呼ぶことは幼子でも知っている事実であるが、では、実際に彼らがどのような罪を犯してあの谷に追いやられたのかを知る者はない。
 彼らの仕業と言われる事件のいくつかは蔡氏も知っている。けれど彼らの仕事とA・G’の仕事のどこに違いがあるのか、蔡氏には分からない。ようするに、錦の御旗さえあれば何をやっても許される、それだけの違いだろう。
 テラの庇護下に甘んじ、谷の現状を知らぬ者に、彼らをとやかく言う権利も、非難する権利も、有りはしないのだ。
 そこまで考えて、ふと蔡氏は昨晩の自分を思い出した。
 同じか。
 わたしも、さんざん怯えていたではないか。
 軽蔑と畏怖は裏表だ。
 異端者への感情は複雑である。優れていると感じれば、それは畏怖に。評価にあたわないと感じれば、蔑視へと変化する。さらにそれは、評価したくないと感じたときにも起こる作用だ。
 仮に彼らが谷の住人であること、生きるために死地に立つことを甘受せざるを得ないのだと知っても、おそらく助手らの視線に含まれる棘は消えないだろう。

 しかし、誤解とはいえそれなりに得心した助手たちの行動は実に迅速であった。
 蔡氏の指示に従って、使われていなかったちいさな病棟を貸切とし、患者を運び込む。そして好奇心の強い在住患者たちに、それとなく情報を漏らす。さるやんごとなきお方のご子息とご友人が、事故を起こし、怪我をして運び込まれた、と。そのやんごとなきお方とは、もしかするとセレクトかもしれない。いや、どうもそのようである。あの尋常でない警備隊を一目見れば瞭然ではいか、と。
 噂は可及的速やかさで院内に浸透した。
 これがただのお大尽の親族というのであれば、好奇心から患者の身辺を嗅ぎまわる輩もいようが、相手がセレクトとなれば話は別だ。セレクト――マザー・テラの補佐官であり、文字通り選ばれた人種である彼ら――は、一般市民の視点から見ると非常に高貴な存在であり、同時に触れてはならない禁忌でもあった。なぜなら彼らは、神のように敬われ、恐れられているマザー・テラを構成する一部なのだから。
 セレクトがらみとわかっていて首を突っ込む馬鹿もいないので、彼らの情報が外に漏れることを心配することなく治療に専念できる、というわけだ。この発案者は李氏で、子供だましとも思えるような手段に蔡氏は正直不安を覚えた。が、疑うことさえ憚られるのか「セレクト」のことばに周囲が沈黙するのを見て、いささかならず腹が立ってくる。李氏の思惑通りということにも、好奇心を覚えながらも「セレクト」に沈黙する不甲斐ない者たちにも。皮肉なことである。何せ、テラの監察から逃れるための方便に、テラの従僕(セレクト)を語るのだから。
 しかし有効な策であったことは事実なので、不満ながらも蔡氏は患者の治療に取り掛かることにした。
 もちろん、その患者たちとは花散里の弟(と、蔡氏は信じている)他数名である。
 花竜の砦で彼らを治療することは不可能と判断して、自らの医院に連れてきたのだ。花竜の病棟は彼らの治療に適していない。そう、明らかに設備が不十分だった。あの環境で応急手当を施し、死なせずにいただけでも、感嘆に値する。
 昨晩の治療も、すべきことは多くなかった。せいぜい持参した麻酔薬と化膿止めを投与する程度だったことを思い出したそのとき。
「さるやんごとなきお方、ねえ」
 姪のつぶやきに似た叱責が、蔡氏の心臓をつかみあげた。
 姪は呟き、蔡氏をじっと見据える。黄色味を帯びた明るい緑色の虹彩に縁取られた深い藍色の瞳孔は、彼女の意思を良く反映する。さしづめ今は獲物を見据える猫のようだ。蔡氏は当然睨まれたねずみのようにじっと固まっている。患者のことが気になるのか、時折視線をそちらに走らせるが、姪を振り切ってどうこう、とは考えなかった。患者の容態も一応の安定を見せている。手術室の準備が出来るまでは、さし当たって急ぎの用事もないのだろう。運ばれてゆく患者を見送って、蔡氏は姪に視線を戻した。門をくぐって、わずか2歩のところで姪につかまった蔡氏は、歩きながら話そうとしたが、姪が頑として譲らなかったため、仕方なくここにいる。
「それで、相手は? ご子息に怪我を負わせた相手。だれなの?」
「そこまで聞かなかったんだ」
 そう、蔡氏は怪我の理由と状況は治療に必要だとして確認したが、彼らに怪我を負わせた相手については特に何も聞かなかった。これに関しては、連幸までが後日、ああまで大物とは思わなかったと述懐している。事情も一切聞かず、「医師を必要としている」ことだけを行動の源流にできるのは確かに常人では難しい。翠燕に言わせると、大物ではなく大ばか者の間違いらしい。
 しかし、蔡氏が聞かなかったのには訳があった。問えばこう答えるだろう。治療に必要のない情報だからだ。……本当は彼らに傷を負わせた相手がいることさえ、思い至らなかったのかもしれないが。
 案の定、問われてはじめてそのことに気がついた様子の叔父に、姪は苛立ちを押さえながら次の問いを放った。
「そう。で、ご子息とそのご友人のせいで、ここが襲撃されるような可能性は?」
「おそらくないだろうという話だった。でも、一応の警戒のために、何人かは貸してくれたよ」
「あのねえ、叔父さん。あんな物々しい警備隊を遣すってことは、その可能性があるからなのよ」
 姪の視線の先を見る。
 物々しい、かな。
 首を傾げる。何せ花竜の要塞で、幻のようにしか思えないほどの武器類を見せられた後なのだ。あれのおよそ30倍ほどの装備で乗り込もうとした護衛隊を、それではあまりに目立ちすぎると隻眼の大男……ジェス、と言ったか、が、静止しなければ、そうか、ここは花竜の支部にでもなってしまったのかもしれない。各人、最小限の装備で、と命じる李氏にしたがって、整えなおした彼らの装備。この程度なら、と思って携帯を許可してしまったが、やっぱりちょっと派手だったかな、と蔡氏は後悔した。
「……そうか」
 困ったな、と呟く叔父に、姪は大仰にため息をついて見せた。
「困るだけですめばいいけど。あれ、どうみても堅気じゃないわね。プロって感じするもの」
 ぷいとそっぽを向いた姪を見ながら、叔父は申し訳なさそうに肩を落とした。
「でも、今さらお帰りいただくわけにもいかないだろう。それに一刻も早い治療が、患者には必要なんだ」
「わかってるわよ。そんなこと。帰れ、なんて言ったら、間違いなくあの警備隊に占拠されちゃうわ、ここ」
 冷たい口調の姪に、叔父は所在無さそうに立ち尽くす。
「この際だから言わせてもらうわよ、叔父さん。人間を区別するときには患者か否か以外にも基準を設けてちょうだい。患者にもたくさんあるのよ、種類が。理想的なのはノー・リスク、ロー・コスト、ハイ・リターン。今回みたいなハイ・リスク、ハイ・コスト、ハイ・リターンっていうのは、ノー・リターンと同義語よ。最悪、ノー・リターンどころかマイナス収益になる可能性だってあるのに」
「収益も大事だけど、人命はもっと大切だよ、黄麗(ファンリー)」
 諭すような蔡氏の物言いに、黄麗と呼ばれた少女の眉が急角度に跳ね上がった。
「だから、どうしてわたしがこんなこと言わなくちゃならないのか、きちんと考えて! 叔父さんがちゃんと考えてくれていれば、わたしだってこんな風に、金の亡者みたいなことばを言わなくてもすむのよ。いつだって物事の善い面半分しか考えないんだもの。それじゃ、いつか足元をすくわれちゃうわ。いい? 叔父さんの考えが足りないせいで叔父さんが転ぶのは構わない。だけど、ここにいる患者さんや、従業員もその煽りを受けざるを得ないんだからね。わかってるの!? 叔父さんにはみんなに対する義務も責任もあるの。身勝手な善意は凶器に等しいわ!」
 一分の隙もない姪の正論に叩かれて、蔡氏は口篭もる。澱みない黄麗の口調から察するに、この会話は何度となく繰り返されているようだった。
「あああ、もう。何よ。その顔は。まるでわたしが虐めてるみたいじゃないの!」
「ごめん」
「謝ってすむうちはけっこうですけどね。お墓の前で手を合わせらてもらたってどうしようもないしっ」
「黄麗……」
 遠慮のない笑い声が二人の間に割って入ったのはそのときだ。
 不躾にも感じられる笑い声に、少女が声の主を振り返る。肩で切りそろえられた細い茶色の髪が、その勢いで宙に舞う。それはまるで毛を逆立てた猫のようにも見えた。
「はじめまして。わたしは朱日烏。あなたが蔡氏自慢の姪御さん? よろしく」
 姪御さん、という丁寧な表現にも関わらず、その人の口調は「子猫ちゃん」とでも言ったかのような気軽い響きがあった。深みのあるよい声だったが、語調とその人の表情には敬意のかけらもなく、少女の不快感は否応にも倍増した。
「楊黄麗(ヤン ファンリー)よ」
 差し出された右手を黄麗は無視し、朱日烏と名乗った人物を観察した。頭のてっぺんから足元までを、敵意を込めて眺め回す。
 が、しかし、敵意を込めて眺め回したというのに、その人物の容貌にこれといった欠点は見当たらなかった。長身痩躯と言う表現が一番似合うだろう。端正な顔立ちに、何より印象的なその瞳。差し出された手が意外にも繊細で、その猛禽のような金色の瞳の人が女性であることを知る。男に見えるというわけではなかったが、あまりにも強い気を放つその人が女性であることに驚いてしまう。
 しかし、驚きはしたものの、黄麗はそれに惑わされはしない。
「よろしく、と言いたいところだけど、場合によっては、手術の後は、帰ってもらうわ」
 刺々しい言い方で黄麗は相手を睨むように見つめる。だが、
「そう」
 気を悪くした様子もなく、自然な動きで朱日烏は右手を引っ込めた。拍子抜けした黄麗に、日烏はかえって機嫌よく頷く。
「まあ、それも当然。で、こちらとしてはどうすれば、いい? ここにおいてもらうためには?」
「初歩的なことよ。ここでは決して騒ぎを起こさないでほしいわ。騒ぎを起こしたら即座に出て行ってもらうから。それから、坊ちゃんの喧嘩相手の撃退も、この敷地外でやってちょうだい。当然だけど、ここが拠点だって知られるような失敗も許さない。あなたたちのせいで、厄介ごとに巻き込まれるのはごめんよ」
「ごもっとも。わかった、騒ぎは決して起こさない。それと、喧嘩相手は……、病巣はまるごと取り除かなくてはならない。対症療法はこの場合、効果的ではないから。ああ、もちろん執刀医師の派遣は検討済みだ」
 患部はまとめて摘出(後、廃棄)という日烏の言葉を聞き、黄麗は小さく息を飲み込んだ。空気の塊が咽喉を通過する。それはつまり、と考え始めて、意識的に中止した。いいえ、考えるまでもないわ。そういうことね、と。
 飲み込んだ三倍くらいの量の息を吐き出す。時間を掛けて息を吸い、驚きも恐怖感も、呼吸と一緒に吐ききってしまうつもりで、もう一度ゆっくりと息を吐く。一瞬跳ね上がった心拍数と血圧が正常値に回復するのを待って、黄麗は日烏に問い掛けた。
「あなた、お医者さん?」
「そう呼ぶ人も、いるね」
「病巣の摘出手術における失敗の確率は?」
 病巣とはこの場合、坊ちゃんに手傷を負わせた相手のことである。
「0パーセントさ。ただ、そうだね」
 くくく、と日烏の咽喉が音を立てた。
「治療は成功したが、患者は死んだっていうの? そういうことはあるかも知れないね」
 日烏の含み笑いが、足元を吹き抜ける朝の風に溶け、体内に染み込む。
 かつて種痘の実験で死んだ男の事例を引き合いに出した日烏が、明らかにそれを狙っていることを知り、善良な医師である蔡氏は貧血をおこし数歩よろめいた。
 ぞくり、と身を震わせる二人に日烏は、すこし首を傾けて肩をすくめた。にやり、と笑う。けっして恐ろしげではない。どちらかと言うと、その笑み自体は魅力的だった。しかし。
「……」
 眩暈をおこした蔡氏とことばを失った黄麗はともに顔を見合わせる。
 しばらくの沈黙の後、いまだことばを見つけられないでいる叔父に代わって、黄麗がため息混じりに応えた。
「治療するだけ、無駄なんじゃない? そういう場合って」
「へえ。話がわかるじゃない。街のお嬢さんにしては。そう、死ななきゃ治らない病気もあるからね、世の中には。それに、もう手の施しようのない患者に限っては安楽死って選択肢もある」
「病状が末期であるという第三者による証明と公的な許可、患者自身の希望がない限り、成立しないのよ。安楽死は」
「末期だよ、当然じゃないか。なにより希望したくなるでしょうよ。間違いなく、ね。お願いしますって泣くかもしれない……愉快だねえ」
「……叶えてあげるの? わざわざ?」
「もちろん、可能な限りの延命処置のあとで、さ。法律でそう定められてるだろう?」
「法律? いまさら気にするとは思わなかったわ」
「まさか。気にしちゃいない。一例よ、一例。たとえ話」
 あくまでもにこやかに受け答えする日烏をもう一度じっと見つめ、黄麗は瞼をしんなりと閉じ、恐怖と不満の残滓を吐息とともに体外に吐き捨てた。
「絶対に周囲に正体を知られないでね。花竜の朱珠」
 日烏の通り名を口にした黄麗に、蔡氏がギョッとする。同時に、余裕の笑みを浮かべていた日烏から、拭いさるように表情が消えた。
 花竜の朱珠といえば、別名「死返し(まかるかえし)の玉」と呼ばれる存在であった。死者をひとときこの世につなぎとめ、その無念を晴らす手立てを与えると言われている。
 おとぎ話のような眉唾物のうわさだが。それが全くの空言でないことを、実は蔡氏は知っていた。
「殺した相手にやられた」と言い残して息を引き取った患者。その数4人。その誰もが、「花竜の朱珠」の力を借りて報復に来たのだと、傷を負わせた相手に言われたようだった。「殺したのに、たしかにこの手で殺したのに。あの傷で生き延びたはずがない。それなのに」と、そう、うわごとを残して死んでいった。
 患者のプライバシーは守られるべきであるし、内容も内容だったので、蔡氏はこれまで他の者にそれを話したことは無い。ただ、罪人であってもその命を救えなかったという苦味だけは、「花竜の朱珠」の名とともに記憶に残っていた。
「違っていたら、ごめんなさい。でも、間違っていないはずよ。花散里さんの城は花竜後宮とあだ名されてる。重傷を負った患者さんに、あの護衛。朱となのる医者。そうでしょ」
 恐れる風も無く確認する黄麗に、日烏は頷いた。
「ひどいことをするのね。……待って、わかってる。最初に仕掛けたのが、彼らだってことは。それじゃ、なぜ、ひと思いに殺してあげなかったの? 中途半端にいたぶって。あなたは医者だと言ったわ。どうして医者のあなたがそれを認められるの」
「……そっくりそのまま、お返ししただけだ。助からなかったのは、担当医の適性の違いだろう」
「なんですって!」
「勘違いしなさんな。あんたの叔父さんの腕がどうこうと言ってるわけじゃない。わたしにとって患者といえばいつでも瀕死だ。街中で悪戯を重ねた挙句の怪我人とは、レベルが違う。運び込まれてきた患者の姿を見たなら、あんたにもわかるはずだ。わたしにはそれが普通。慣れているんだ。あんたの叔父さんはそれに慣れていない。それだけの差だ。止めを刺させなかったのは、過剰報復を良しとしないからだよ。わたしの主人がね」
「……あんな重傷者を助けられるのね、あなたは。それならどうして叔父さんを巻き込むの。ご自分でなさったらいかが?」
「そうできるなら、そうしている。だが、ベッドの数が足りない。医師の数も足りない。安心して預けられる先を探していた。以前から」
「それで、ここへ来たってこと? 仁に厚く義を重んじる蔡浩継を頼って?」
「と、その腕だな。いくら人が良くても、患者を死なせるようなヘボ医者に、大事な患者を預けられるか。もちろん、腕が良くても口の軽い医者じゃ、なお悪い」
「つまり、安心して治療に専念できる場所を、患者に与えたい。そういうこと?」
 満面の笑みで日烏が頷く。
「その通り。……楊黄麗、あなたの提示した条件は全て了承する。こちらは負傷者の治療とそのための施設、設備を利用することを承諾していただきたい」
 日烏の口調が、改まる。取引の相手として、黄麗が相応しいことを認めたのだろうか。その声には先ほどまでの、からかうような響きはなかった。
「いいわ。そのかわり、自分たちの面倒は自分で見てね。こっちは在来の患者さんだけで手一杯だから、患者じゃない人の面倒までは見ないわよ」
 そして黄麗は料金を提示した。黄麗が提示した料金に蔡氏は仰天したが、日烏は「妥当だな」とサインする。商談は成立した。ちなみに提示額は、蔡氏の病院の全敷地面積と同じ面積の一等地を購入できそうな金額だった。ただしその8割は保証金である。何事もなく患者たちが退院すれば、その金額は返還される。……はずである。
「なんなら、あいつら適当に遣ってやって。あれでも一応、掃除洗濯はもちろん炊事場でもそこそこ役に立つはずだから。給料は気にしなくていい。日当にそれも含まれていることは彼らも承知している」
「護衛のくせに?」
「兵隊さんは大概のことが自分でできるものだよ」
 にや、と笑った日烏が号令を掛ける。総勢七名が日烏の前に整列した。物々しい装備だが、間近に見れば意外に普通の青年たちである。黄麗と目が合った一人の青年がにこりと笑って会釈した。どうやら、彼がリーダー格らしい。
「高蜚廉(カオ フェイレン)、柳青鸞(リャオ ツィンラン)、魯清(ルー シィン)、許……ええっと、他数名」
 日烏の大雑把な紹介に、四人目以降が姿勢を崩しよろめく。
「あんたたち、とりあえず今のところ役に立ちそうにないから、こちらのお嬢さんの指揮下でできることに精を出しなさい。なお、口答えは一切禁止。お嬢さんの手を煩わせないように。以上」
 これまた大雑把な指示を出した日烏は、黄麗をふり返る。
「じゃ、好きに遣ってやって」
 それから、病棟から走ってくる助手を見とめた日烏は蔡氏に視線を転じ、
「さて、準備ができたようだ。蔡先生。お手並み拝見、と参りましょうか」
「あ、ああ、うん」
 捜査官に連行される被疑者のように力なく蔡氏は日烏に連れられていく。
「で、わたしはどうするのよ」
 二人を見送りながら、黄麗は呟いた。昇りきった朝日が整列したままの護衛たちの影を長く地面に描いている。影から実像へと視線を移した黄麗はそれらを一瞥し、盛大にため息をつく。
「……坊っちゃ……路さんたちの病室の点検は済んだ? 万が一この病院内部に病巣が転移していたらコトモノだもの。ちゃんと調べてね。それから、一応、在来患者さんたちのカルテと身元証明を見せるから、確認してくれる? クロでも勝手に処分しちゃったりしないで、相談して。もちろん、書類だけじゃなくて、本人も、よ。あなたたちの宿泊場所は、路さんの病室のある棟の空き部屋。適宜使ってくれて構わないわ。でも、壁を壊したり、棟内の間取りを変える場合には、一言ちょうだい。特に反対はしないと思うから。ただし、場合によっては退院時には原状復帰してもらいます」
 そして、黄麗は首を傾げ、言った。
「それじゃ、ええっと、高さんでしたっけ。患者さんのファイル、お見せするのでこちらへ。他は病室、病棟および周辺の点検と、お掃除。終了後は厨房の手伝い。以上、解散」
 ご指名を受けた高蜚廉を羨ましそうに眺めながら、柳青鸞他六名は指示された仕事を片付けるべく、路氏が使用する病棟へ向かって歩き出した。