第3章 不思議の国の道化師 (6)

「両性種!?」
 鸚鵡返しに叫んだジェスに翠燕がうんうん、と肯定する。仰天してジェスは再び連幸を振り返る。いや、振り返りそうになった首を無理やり止めて翠燕に視線を戻そうとしたために、ジェスの頭は王虎にシェイクされたときのようにめまいを起こした。
「そんなに驚くようなことでもないでしょう、ジェス」
 着替え終わったらしい連幸の苦笑交じりの声に、ジェスはおそるおそる連幸を見た。
 自分が着ているのと同じ花竜の戦闘服だが、体のラインが顕になっているため、かえって艶かしい。
「だいたい、俺が男性だったら、城務めは無理じゃないですか。飲み食いだけで満足する人は多くないのですから」
 そのことばに含まれる状況を生々しく想像してしまい、ジェスはさらにうろたえた。立ち上がることができない。それ以前に床に座り込んでいる現実を認識できていない。思春期の少年のように頬を紅潮させたジェスを斐竜が笑う。
「俺は両性種、いわゆる完全体です。伴侶に選んだ相手次第で性別は変わります」
 連幸はジェスの動揺をどう受けとったのか、両性種について講義してくれた。
「あなたたちが長命種とよぶ種は、長命であるために種として弱いのです。いや、種としての弱さが、個の強さになったとも言えます。そして個の強さは同時に、種の個体数を制限します。そう、たとえばうさぎの数よりも、とらの数が少ないように。生態系の上位に立つ生物は、下位の生物よりも個体数が少ないのです。そうでなくては、界の均衡が保てません。
 ところが、個体数が少ない、ということは種の存亡にも関わってきます。
 われわれは、あまりにも個の生命力が強すぎて、種を存続させうる限界の個体数を維持できなくなってしまった。同族に遭う機会は、限りなく少なくなりました。やっとめぐり合った同族が、偶然にも同性であったら?
 いえ、個人の趣味としての恋愛は別として、種の保存という、生物学的見地から見て、あまりよろしくありません。それが、われわれが両性種として進化した理由です。
 俺はまだ伴侶を決めてないし、生殖年齢には達しているわけですから、どちらの姿もとれますが、……そこまで驚くようなことでしょうか」
 いまや口も目もこれ以上の完全はありえないほど丸く開いているジェスを見て、連幸は首を傾げた。
「異性の肌を見て、動揺する心理というのは不思議なものですね。それでいて見たがるのですから、俺にはよくわかりません」
「わからなくても構わないから、人前で着替えるのはやめろ。やめてくれ。俺にはお前を見て楽しむ趣味はない」
 ぐったりと疲れた様子で翠燕がソファに身を沈めた。
「どっちだって連幸なんだから、そう身構えること、ないのにねえ」
 斐竜が無邪気にそう言い、ねえ、と連幸も同意した。
「連幸、いつまで女の子?」
「完全に雄性に変化するまでは、まる二日。外見的に分からなくなるまでだったら、あと三時間もすればいいんじゃないかな。でも蔡氏がここにいる間は花散里でいなきゃならないし、しばらくはこのままだね。まあ、明日には蔡氏にお帰りいただく予定だけど」
「やった。それじゃ今日はこのままなんだ」
 猫の子が擦り寄るように連幸にじゃれついた斐竜の襟首を引っつかんで翠燕が離す。不満そうな斐竜に、翠燕は言う。「早くからそういうことに馴染むのは健全な成長を阻害する」と。
 やっぱりワンダーランドだ。よくわからないどころか、さっぱりわからなくなってきたぞ。俺の認識の範囲を超えることが多すぎる。もしかして、俺の認識の幅が狭いのか?
 やっと自分が尻餅をついたままだということに気づいたジェスは手近にあった椅子を支えに立ち上がる。立ち上がったが凄まじい疲労感に襲われて、その椅子に体を投げるように座ってしまった。ラタンの椅子がみしっと音を立てた。
「それで、連幸」
 ジェスはなんとか自分に理解できる範疇の事実を確認しようと、連幸に問い掛けた。
「ええっと、どっちの君が自然なんだ?」
「さあ、あまり意識してませんし……。あなたの好きなように認識して頂いて結構ですよ」
「そ、そうか。じゃあ、どうやって変化するんだ、その、雌雄を」
「仮想伴侶とでもいいますか、まあ、この人がいいな、と思うような相手を想定するんです。それがそもそもの性を決定する引き金ですから。慣れないうちは結構たいへんで、意識の切り替えに一、二週間かかってたんですけど、今じゃ一瞬です」
「あ、そう……じゃ、その、両性種と単性種のハーフは、両性なのか? 他に両性種の人はいるのか?」
 ジェスにとってこれは非常に気になるところだった。
 例えば、花紫が連幸と同種だった場合。
 考えることさえ恐ろしいが、父の再婚相手、つまり義母となるかもしれない存在である彼女は、彼にもなれる。ということになると、俺には父が1.5人と母が1.5人という不思議な境遇ができてしまう。あまつさえ二人にこどもができた場合、それは弟なのか、妹なのか。
「そうそう簡単に出会えるなら、単性だっていいでしょうね。それと、両性種と単性種のハーフは単性ですよ」
 やんわりと否定を返した連幸はにこりと笑う。
「AG’のエージェント・スクールでは、両性種については学ばれないのですか?」
「存在は、教えられるよ。強い生命力を持つこととね。でも、それだけだな。絶対数が少ないから会うことなんてないと思ってるんだろう。俺も、だけどさ」
 そうそう会えないのは事実ですから、と連幸は頷く。
「AG’の任務は命がけ。だから現実に起こりうる事態に対応できる知識と能力を重視した教育を優先して、当然だと思いますよ」
「まあ、そうだけど。ふうん、ここの皆は、君の存在を通して両性種を知る、ってことか。うらやましいな」
 うらやましい? と翠燕が呟く。どこが、と続きそうな口調だった。
「そうか、君は知らなかったんだ。彼……彼女? 連幸と初めて会ったとき、気付かなかったんだろう? 彼が両性種だってことに」
「……」
 翠燕の無言の返答に、ジェスはもう一度吹きだした。翠燕が事実を知ったそのときに、居合わせてみたかったと思う。この浮世離れした鉄面皮が、どんな表情を浮かべどんな感想を持ったのか、興味があった。
「似たようなもんだったよ」
 斐竜が言う。
「さっきのジェスと、さ」
 斐竜は、そのときを思い出したのだろう。くすくすと笑いながらことばを続けた。翠燕はそれを目の端で捕らえたが、静止する気力もないようだった。
「それまではさ、俺、翠燕のこと、怖かったんだよね。よくわかんないんだけど。それが、連幸が来てから、平気になった」
「なるほどね。翠燕はこども受けしそうな雰囲気じゃないもんな」
「だよね」
 さて、と斐竜は翠燕を顧みる。
「この先は? 翠燕」
「予定どおり決行」
「それに関して、ちょっとだけ変更して欲しいことがあるんだけど、いいかな」
 なんだ、と問う翠燕に、斐竜が曖昧に笑った。
「会議のときに言うね」
 斐竜の態度に引っ掛かりを感じたのは翠燕だけではなかったが、少年の口はそれきり閉ざされてしまったので、年長者三人はそれ以上問いを重ねることはしなかった。
 作戦会議のときに話すと言うなら、それもいいだろう。
 そのときは、そう思ったのである。

 蔡氏がここに滞在する間、出歩きを制限される連幸のために、蛍が食事を運んできた。蛍は斐竜とおなじ年頃の少女で、美しい顔立ちをしていたが、その美しさよりも、ジェスの目には幼さが目立つ子供だった。
 花散里さまと言いかけた蛍は、連幸さま、と呼びなおした。そのことで、ジェスは蛍が組織の内情によく通じたものであることを知る。
「お食事を持ってまいりました」
 それから部屋の中の面々を見渡して、みなさまもこちらでお召し上がりになりますか、と少女は確認した。
「うん、そうする。蛍も一緒に食べない?」
 斐竜のことばに困ったように首をかしげた蛍は、指示を求めるように、視線を斐竜から連幸に移す。
「そうしなさい、蛍」
 連幸にそう言われて、蛍は素直に頷いた。
「では、ご用意してまいります」
 優雅に一礼した蛍を連幸は止める。
「いや、あまり出歩かないほうがいい。……斐竜、頼めるかな」
「いいよ。行ってくる。四人分だね。翠燕、行こう」
 ベッドからひょいと飛び降りると、衣装を脱ぎ捨てる。豪華な肩掛けの下は、翠燕らと同じ、黒いスーツだった。
 斐竜は部屋を出る。手伝いを指名された翠燕がしぶしぶ立ち上がる。彼の姿がドアの外に消えてから、ジェスは連幸に言った。
「本当だね。人使いが荒いって聞いてたけど」
 連幸が笑った。
「翠燕も、文句を言わなかったでしょう? それは翠燕も賛成しているってことなんですよ」
 おいで、蛍、と連幸は翠燕の座っていたソファに蛍を座らせた。
「可愛い女の子が出歩くのに適した場所じゃないですからね」
 大人の男にとっては興味の対象にならないこどもでも、もっと蛍に年齢の近い者にとってはそうではない。女性が少なく、かつその数少ない女性が、彼らの求める女性像とはかけ離れている環境で――そんなことを言ったら日烏は鼻先で笑うだろうが――蛍はその視線と関心を一身に集めてしまう。純粋なだけに歯止めの効かない、大人になりきらない年頃の若者に、蛍の存在は刺激が強すぎる。
 連幸の説明にジェスは苦笑した。
 そういう連幸自身の刺激のほうがよほど強いのではないか、と。
「俺もそういう対象にはしにくいと思いますよ。まあ、面と向かって言わないだけかもしれませんが」
 連幸は笑う。
「想像するだけなら、本人の自由ですからね」
「想像されて、平気なの?」
「想像してるだけでいいの? って聞いてみたいですね」
「それは、……やめた方がいいな。年頃のこどもにはかなり残酷な問いだぜ、それ」
「そう、残酷なんです。実は」
 楽しげに笑う連幸は、たしかにこの件においては優しくないだろう。そういった輩を、いともあっさりと袖にしてきた様子がありありと目に浮かぶ。
「半人前はお断りです。自由恋愛、そういう大人の特権を味わいたいなら、まず一人前になってもらわなくてはなりません」
 その意味でも、修行中の見習のモラルが下がるような要因は、少ないに越したことはないのです。
 そう言いながら連幸は蛍の頭を撫でた。
「斐竜は例外なのか。ボスの特権?」
「あの子は、見習じゃありませんよ。一人前の戦士です。それに、そうですね、そういったことに積極的、具体的な関心を持っていないようです。さすが翠燕の養い子、ってところです」
「へえ。それなりに興味があるように見えるけどな」
「興味はあるでしょうね。他愛のない、かわいらしい興味ですよ。それ以上の関心が湧かないほどこどもなんでしょう」
 くす、と笑った連幸の仕種には、ぞくりとするような色香が漂う。彼は――彼女か――はこどもではない。
「それに、斐竜が花散里に懐いているような素振りをするのは、翠燕の反応が面白いからですよ。だから、翠燕のいないところでは、やりません。小さい頃から一緒に暮らしているんです。家族みたいなものですよ。いまさら慌てる翠燕がおかしいんですよ」
 そうじゃない。家族だって、慌てる。
 ジェスは眉間を抑えて目を閉じた。
「俺がAG’の寄宿学校に入る前。だから十五歳のときだ。バスルームで姉貴と鉢合わせた。俺が入っていると知らずに彼女がドアをあけたんだが、悲鳴をあげたのは彼女で、平手打ちを食らったのは俺だった」
 シャワーをとめて、少年は扉に向かった。開けようと手を伸ばしたそのとき、扉は開かれた。ノブを掴んだまま立ち尽くす姉の姿があった。一瞬の沈黙。そして姉はかん高い悲鳴を上げ、茫然自失の弟の頬を往復で打った。
「だから、家族なら平気っていうのは、間違いだと思うぜ」
 そうでなければ可哀想な少年が往復で平手打ちされたあと、心理的ショックと肉体的ダメージに足を滑らせて転びタイル張りの床で後頭部にこぶを作り昏倒した挙句、姉の裸を除こうとしてK.O.されたなんて不名誉なうわさは立たなかったはずだ、とジェス説明した。
「確かに不名誉なうわさだ」
 夕食を両手に戻ってきた翠燕――どうやらドアは足で開けたらしい――の感想に、ジェスは眉間に皺をよせ深々と頷いた。
「おかげで親父にはこってり絞られた。無実の罪で。濡れ衣だと言う俺の主張は全て却下されたよ」
「ハンターJの冤罪を憎む心の発端だね」
「さあね」
 斐竜のことばに投げやりな返事をしたジェスは立ち上がり、斐竜から一人分の朝食の乗った盆を受け取った。
「はい、蛍」
 斐竜は残った盆を蛍に手渡す。蛍はもう一度連幸を振返り、その許可を得てから、大げさなくらい畏まって斐竜から盆を受け取った。
 翠燕から一人分の盆を受け取り斐竜はベッドに腰掛ける。翠燕はソファの蛍を見、頷いて斐竜のとなりに座った。そう、蛍の座るソファは二人がけであるが隣に座ると、斐竜の正面に座ることになるのだ。
 朝の誓いどおり、斐竜の正面に座ることを避けた翠燕の着席を待って、斐竜が言う。
「いただきます」
 夕食は随分質素だった。理由は簡単である。蔡氏の歓迎の宴の準備のために、賄方は大忙しだったのだ。
 そして、蔡氏の診察が終わるのを待って夜の十二時を回るころ宴は始まり、深夜2時に架橋に入り、酔いつぶれたものから脱落し、明け方引き止める花散里に別れを告げた蔡氏は、ふらふらしながらも自分の足で飛空挺に乗り込むと重傷者他十三名の患者と護衛七人を引き連れて、都市に帰っていった。
 朝日に消える飛空挺を見送ったジェスは、壁を伝うようにして部屋に戻ると、ベッドに倒れこみそのまま意識を手放した。

 夢さえも見ずに、眠った。
 眠りに落ちる直前、意識の端で幽かな歌声を聞いた。
 ユリア?
 思考を溶かす睡魔の誘いに抗う術もなく、ジェスの意識はやさしい闇に包み込まれていった。