第3章 不思議の国の道化師 (5)

 子供!?
 口を開きっぱなしにした蔡氏を見て、隻眼の男が小さく笑った。
 蔡氏にむかって微笑みかけた花竜はゆっくりと壇上から下り、花散里に歩みよった。
「花散里、蔡氏の話がすべて真実だとはわたしは信じぬ。信じぬが、花散里。おかげでよい医師をわたしは得た。此度のことは許そう。だが、二度は、ない。よいな」
 花竜の許しを得た花散里ではなく、見ていた蔡氏のほうが安堵のため息をつきそうになった。吸いこんだ息を吐き出す前に、
「花竜、しかしそれでは」
 隻眼の男が花竜のことばに異を唱える。
「それでは律が守れません」
「律、と?」
 花散里を見たまま、花竜が問う。花散里はかわいそうに、花竜に視線を捕らえられたまま震えていた。
「律を破り裏切りを犯したものに許しを与えては、他のものに示しがつきません」
 花竜はしばらく考えるように黙り込んだ。蔡氏の心臓が、また徐々に鼓動を早める。
 あの片目野郎、いらん事を言いやがって、と彼らしくない暴言を、蔡氏は心中で吐いた。
「此度の一件で、何かわたしは損害を受けたか」
 ゆっくり隻眼の男に視線を転じた花竜は問う。
「いいえ」
「そうか。花散里の行為は、あくまでも結果にすぎぬが、組織に利をもたらした。それが裏切りに当たるのか、わたしは問いたい。どうか」
「……いいえ」
 男の答えを聞き、花竜は満足げに頷いた。
「皆、自らの利益のために働けばよい。それがわたしの利益と一致するなら、一向に構わぬ。自らのために働くものこそが、組織を支える。かえって、皆のためと称すれば皆に損害を与えてもよいと心得違いをしている者のほうがよほど厄介」
 男をそうなだめると、花竜は再び花散里を見、その右肩を二度かるく叩く。安心したのか、蛍が大きなため息をついた。蛍の頭を花竜が優しくなでた。
「さて、蔡氏」
 花散里から視線を蔡氏に戻し、花竜は微笑んだ。
「誤解により、失礼を働いたことをお詫びする」
 ええ、とも、はい、とも声は出ず、蔡氏は何度も首を縦に振った。
「それでは、蔡氏。いや蔡先生、歓迎の宴を開きたいのだが、お受け頂けるか」
 蔡氏は頷いた。そして、言う。
「ですが、その前に、患者を診せていただけませんか。心配があっては、宴を楽しむどころではありません」
 医者らしい蔡氏のことばに花竜が高らかに笑った。
「これは失礼を。蔡先生、では、そのあとにまた。翠燕、先生を案内せよ」
 深々と李氏が花竜に頭を下げる。花竜は蔡氏にもう一度微笑んで壇上に戻る。御簾が、上げられたときと同じように静かに下ろされる。花竜が衣を翻して退出する。花竜の退出を、男たちは最敬礼で見送った。部屋の扉が開かれる。駆けこんできた数人が、緊張から解放され半ば意識を失っている花散里と蛍を支えるようにして連れて行った。男たちも一様に肩の力を抜き、ほっと息をついていた。退出しがてら、蔡氏に簡単に自己紹介をしてゆく。全員の名を覚えられるほど蔡氏の頭脳も明晰な状態ではなかったが、最後に王虎が近づいてきたときは危機感のためか、一瞬覚醒した。
 身構える蔡氏に、王虎は豪快に笑った。笑っても、恐い。
「感服したぜ。この俺を三下呼ばわりしてくれるとはな。俺を見ただけでちびるような腑抜け野郎が多い世の中で、あんたぁ、いい男だ」
 よろしく頼むぜ、と差し出された右手を、蔡氏が恐る恐る握り返す。王虎はその手を上下にぶんぶんと振ると、上機嫌で去っていった。
 ぼんやりとそれを見送った蔡氏は、李氏のかけた声に、焦点の定まらぬ目を向けた。そしてはっと正気づく。正気づくと同時に、再び怒り心頭に発した。
「君がついていながら、どうして花散里を危険な目にあわせるんだ。君が花竜の片腕なら、こんな大事になる前に止められたんじゃないのか。どうして黙ってみていたんだ。なんでそんなことができる」
 常々、李氏に対して抱いていた対抗心のため、掴みかからんばかりの勢いで蔡氏は李氏を責めた。対して李氏は無言で蔡氏の批難を受けている。無言であるばかりか、端麗な顔に浮かべる表情さえも変えない李氏をますます憎らしく思い、とうとう蔡氏はその襟元に手を伸ばした。
 瞬間、李氏の表情に驚愕が走る。
 李氏が驚いた理由がわからず、蔡氏は李氏の襟をつかんだまま李氏の視線を追った。つまり自分の後方へ。誰もいない。いや、御簾内に消えた花竜が、そこに居た。特筆するほどの長身ではないが、蔡氏の通常の目線よりも花竜の身長は低いため、気付かなかったのだ。ぎょっとしたまま固まってしまった蔡氏に、花竜は親しげに声をかけた。
「蔡先生、彼を許してやってくれないか」
 その柔らかく優しい声が花竜の喉から発せられたことに、蔡氏は驚いて李氏の襟をつかんでいた手を離す。先ほど聞いたとおりの美しい声だが、無機で硬質な響きは拭われたように消えていた。
「花竜、さん」
 名を呼ばれ、花竜はにこりと笑う。きれいな顔立ちだ。
「許してやっていただきたい。彼は私の腹心。そして無二の友。それゆえに、花散里をかばうことは、不可能だ」
 そう言われても、蔡氏には納得しがたい。李氏だから、花散里を救うことができるんじゃないか、と不服げな蔡氏に、隻眼の男が説明した。
「蔡氏、翠燕は花竜の片腕だ。片腕が、私心から規律を捻じ曲げ花散里を庇えば、彼女を救う可能性は、万に一つも無くなってしまう。それは組織の秩序を乱す行為であるばかりでなく、花竜が彼の意見に左右される傀儡だという印象を、皆に与えてしまうからな。あの場で組織の律に真っ向から反対を唱えられるのは、花竜の商談相手である蔡氏、あなただけだったんだ。あなたは花竜の部下じゃない」
 男のことばを、蔡氏は時間をかけて理解した。
「それじゃ、あなたも」
 男は苦笑する。
「あの場にいた者の中に、花散里が処断されることを望んでいたやつはいない。ただ、お咎めなしで無罪放免することは、できなかった」
「それを許せば、律を軽んじる者もでようし、私たちも悩んでいたのだよ」
 花竜が男のことばに添えてそう言った。
「一番苦しんでいたのは、翠燕だろうがね」
 花竜が李氏をからかって少し笑った。こどもの笑いではなかった。蔡氏は悟る。花竜が見かけどおりのこどもではないことを。
「そう、わたしからも礼を言わなくてはならない。蔡氏、あなたのおかげでわたしはわたしの大切な者をひとりとして失わずに一件を済ますことができた」
 花竜は蔡氏の後ろの李氏にゆったりとした足取りで近づいた。
「あなたが来てくれなければ、わたしは少なくとも三人の大切な家族を同時に亡くすところだった」
「三人……?」
 花散里と蛍のことか? しかし、三人とは?
 首を傾げる蔡氏をちらりと見た花竜は笑顔のまま李氏の懐へ手を伸ばした。優雅さをともなう動きだったが、李氏が身を引く間を与えぬ早業でもあった。
「万が一の場合、李翠燕、おまえ、これをどう使うつもりだったのだ」
 花竜のやさしげな手には片刃の短刀が握られていた。もちろん抜き身である。蔡氏は花竜の手元と李氏の顔を交互に三度見比べた。青ざめた表情の李氏に、花竜が穏やかに語りかける。
「いや、聞かずともわかる。私に向ける気がなかったことは。花散里を楽に死なせてやるつもりだったのだろう。それで、そのあとはどうするつもりだった? おまえも死ぬつもりだったのではないか」
 花竜が問い掛けると、李氏は無言で跪いた。
「やはり、な。立て、構わぬ。友をこの手で殺め、後悔せぬほど私は強くない」
 花竜は小さく笑い、李氏に許しを与えると、蔡氏を振り返った。
「そういう次第だ。ご不満も数々おありだろうが、彼の苦しみも察してやっていただけないだろうか」
 言われて、蔡氏は否やなく承諾した。李氏が花散里を見捨てようとしていたのでないなら、それでよかった。
 そして、切ないような悲しいような気持ちで思い出してしまった。
 蔡氏の席に侍っていた花散里の元に、李氏が訪れた知らせが入ったときのことを。
 花散里はあきらかに、李氏に会いたがっていた。普通の娘のように、そわそわとしていた。一秒でも早く、一秒でも長く、李様に会いたい、お傍にいたい。そういう心が、蔡氏の杯に酌をする花散里の表情から、仕草から見えていた。
 それが悔しくて、蔡氏は席を延々とひきのばした。財布の限界が来て、蔡氏が帰るとき、花散里は見送りもそこそこに、李氏の待つ座敷へと向かった。小走りに去る花散里の後姿を、玄関で振り返った蔡氏は見てしまった。振り返った自分を呪うほど情けなかった。
 この恋に勝ち目がないことなど、そのときから分かっていた。それでもあきらめがつかず、その後も花散里のもとへ通った。酒楼勤めの女に本気になるなんて馬鹿を見るだけですよ、と幾人もに何度も忠告されたにも関わらず。
 だからこそ、花散里を救おうとしなかった李氏に腹を立てたのだ。
 蔡氏が納得した様子を見て、花竜が隻眼の男に言った。
「翠燕の代わりに、蔡先生を案内してやってくれるか」
 花竜は優しい口調で、蔡氏の恋心に止めを刺した。その優しさは蔡氏のためのものでもあったが、知っていても苦く、分かっていても痛みを感じずにはいられなかった。
「翠燕、今日はもうよい。下がれ。花散里が会いたがっているだろう。行ってやるとよい」
 痛みを抱えたまま、蔡氏は隻眼の男に案内されて医務室へと向かった。
 それでも蔡氏は花散里を救えたことをうれしく思い、あの猛者たち相手に一歩も引かず交渉できたことを誇りに思った。そして、それを花散里への恋の名残として、大切に胸にしまったのだった。

 蔡氏を案内し終えたジェスは、連幸の部屋へと向かった。斐竜や翠燕がそこにいることを知らされたので。
 入ると同時に、斐竜の馬鹿笑いが聞こえた。
「ああ、ジェス、待ってたよ。面白かったねえ」
 斐竜は笑いが収まらないまま、ジェスにそう言った。ころころというよりはげらげらと笑う斐竜が、先ほどの花竜と同一人物にはとても思えない。よく似た別人のようだ、という表現があるが、全く似ていない。同一人物だから、当然造作も同じはずなのにまるで違って見えるのだ。
「お、おっかしかったぜ。俺、途中で笑っちまいそうになってよ、ひーっひっひひ」
 斐竜と一緒になってげらげらと笑っているのは王虎だ。
「王虎、笑いすぎですよ。そんなに笑っちゃ、気の毒というものです。翠燕が」
 口元をひくつかせながら、石涼が王虎をたしなめる。
「だけどよぅ、笑えるじゃねえか」
 うーっはっはっはっは、と堪えようとした笑いが、変な笑いになり、それに誘発されたのか石涼までもが笑い出した。
「誰の脚本だぁ? 連幸」
「翠燕に決まってるでしょ。あんなロマンチックな脚本、俺には書けません。歯が浮きそう」
 ニヤニヤと笑いながら連幸が答える。彼は鏡台のスツールに脚を組んで座っている。所作を見てわかる。花散里の衣装のままだが、中身はもう連幸なのだ。
 その後ろ、鏡台に寄りかかり腕を組んだまま遠慮がちに笑っているのは白狼だ。墨のように黒い髪と目の、きつい眼差しの青年である。
「浮きそう? こちとら浮いちまってらぁ。へっへっへへへへへ。なんで、また、けったいな、ふへへへへ」
「蔡氏を組織に抱きこんで、かつ花散里への思いを断ち切らせるため。いい脚本じゃないですか」
「そういうおまえだって笑ってるじゃねえか、石涼よ」
「いや、これは……。ジェスさん、よく笑わずに済みますね」
 石涼はジェスを見てそう言ったが、その光景を憮然として眺めている翠燕が視界に入ったとたん、我慢の糸が切れたようにジェスは笑ってしまった。
「見やがれ、ハンターさまでも、可笑しいってな」
 げらげらと笑いながら、王虎は膝を打った。
「さあて、思いっきり笑わせてもらったし、帰るとするか」
 王虎はソファから立ち上がり、ドアの前で笑っていたジェスに言う。
「本当のことを知ってるのはここにいる連中のほかにゃ、数人だからよ、この部屋の外では笑えねえ。はは、もちっとばかし笑いてえところだが、まあ、これで蔡氏が帰るまでは持ちそうだからな。あとはセンセが帰ってからにするぜ。じゃ、な」
 あんたも思う存分笑っとけよ、と言い残し、王虎は部屋から出て行った。
「それじゃ俺も持ち場に戻ります。蔡氏を送り届けるまで、持つといいんですけどね」
「うん。よろしくね、石涼」
 ご機嫌な様子で石涼にひらひらと手を振った斐竜に、石涼は手を振り返し退室する。ドアを閉めるためにふり返った石涼の視線が翠燕とかち合う。ぶふっと、石涼は吹きだした。翠燕が投げつける視線は物質化するのなら石涼の眉間を矢のように射抜いただろうが、あいにくとそんな奇跡は起こらず、石涼の笑いの経絡をますます刺激しただけだった。
 逃げるように石涼はドアを閉めた。ドアの向こうできっと声を殺して笑っているだろうことが想像できる。
 斐竜は視線をドアからジェスに転じると、あらためて笑った。翠燕は投げやりな態度でソファに身を投げ出している。
「ねえ、ジェス、さっきのお芝居、本当に面白かったよねえ」
「みんな演技派なんだな」
「そう? ノリがいいんだよね、みんな。こんなお楽しみあんまりないから」
「なるほどね。あ、それと、蔡さんに名前聞かれて、ジェスって答えたけど、よかったかな」
「蔡さん、なんて言ってた?」
「姓は、って聞かれたから、捨てたって答えたよ。まあ、嘘じゃないしな」
「上手い返答だ。そう言われて、なおその先を詮索するほど彼は不躾じゃない」
「適当に名乗るより、いいと思ってね。嘘はバレるからさ」
「そうですね、いまさら組織の全員に別の名前で呼ぶように指示するのは難しいですし」
「そうそう、うっかり呼んじゃうんだよね、ジェス、ってさ」
「おまえが一番うっかりしやすい」
「うるさいなあ。おまえ最近、小姑みたいだぞ、翠燕」
「こ……」
 ことばを詰まらせた翠燕には構わず、斐竜は白狼を手招きする。
「ジェス、彼は張白狼。張じいさんの孫」
 曾孫です、と訂正した白狼はにこりと笑った。笑うと目じりが、すこし下がる。切れ長でややつり目の白狼だが、そうして笑った顔は意外に優しげだった。額から頬骨にかけての雰囲気が、確かに張老人によく似ている。
「うちの筆頭エンジニア。それと白王獅子の新しいマスターだよ」
 斐竜がそう言うと、白狼が躊躇いがちに聞いた。
「本当にいいんですか? 俺がマスターで」
「うん。だって一番良く知ってるでしょ、白王獅子のこと。それに同じことだよ。お前は俺のだから」
「……その表現には語弊があります、斐竜」
 苦笑するでもなく、ごく真面目に応えた白狼に、連幸が失笑する。
「ねえ、白狼。白王獅子はどのくらいで復活する?」
 斐竜の問いかけに、白狼はしばらく視線を宙に泳がせ考え込んだ。
「四日、……いえ、三日あれば通常飛行に問題のない程度には調整できます」
 斐竜は、どう? と翠燕をふり返る。
「通常飛行、というのはどの程度だ」
「ハイパードライブとDD(デルタ・ドライブ:空間跳躍)は難しいですが、他は大丈夫です」
「全く不可能か」
「そうですね、……ハイパードライブだけなら、なんとか」
 連幸が頷いた。
「白狼、ハイパードライブが使える状態に、四日で調整してください。そのかわり搭載武器の調整は、使える程度で構いません。いや、使えなくても構わない」
 連幸の指示を畏まって拝領した白狼は、難題を課されたにも関わらず挨拶もそこそこに嬉々として去った。
「白狼は、本当に白王獅子が好きなんだなあ」
 斐竜の口調は呆れているようにも、感心しているようにも聞こえた。
「ところで、翠燕、どうしてあんなこと思いついたのさ」
 斐竜は連幸のベッドの上でクッションを抱えて転がりながら翠燕にそう訊ねる。あんなこと、というのは李氏と花散里の関係について、だ。
 何故、そこに話を戻すんだ、と小さく呟きながらも、翠燕は説明をした。
「蔡氏が花散里を身請けすると言い出さないうちに、彼に花散里は手に入らない、と教える必要があったからだ」
「それなら花散里の相手は、石涼でも、王虎でも、白狼だってよかったじゃない」
「王虎にそれが務まると思うのか。それにあのなりで城に出入りしたら、商売あがったりになってしまう。それ以前に、王虎や石涼は市街を頻繁にうろつくには不適当だろう。不法改造のドールだ。万が一、テラに発見されたらどうする。事情を心得ていて、花散里のもとに通えたのは残念ながら俺だけだった」
 心底、不本意そうな翠燕に、連幸が小さく笑った。
 そう。だが、適任者は翠燕しかいなかった。王虎、石涼の二者がその任を果たせない以上、彼が務めるしかない。なぜなら白狼も蔡氏からみればまだまだ大人と言いがたく、子供相手では蔡氏の戦意はさほど刺激できない。そして連幸は花散里で、斐竜は花竜だからだ。花竜が恋敵では、蔡氏は退くに退けなくなってしまう。それを収めることのできる人物が花竜と蔡氏の間に立てない。
「見ただろう。蔡氏は切れ者だ。そうでなくては貧民街の医者など務まらない。その蔡氏を騙しきるには、事前から花散里の思い人の存在が必要だった。仕方ない」
「うん、それはそのとおりなんだけど、あんまり思い通りに運んじゃったから、それも可笑しくってさ」
 そう。あまりにもことは思惑のまま簡単に運んでしまった。まるで蔡氏にさえ脚本が与えられていたように。
 そのことをジェスが問うと、連幸がこれですよ、と小さな薬包を差し出した。渡された包みをジェスが開くと、清々しい香りが広がった。
「これは……生薬?」
「城で蔡氏が口にしたお酒にこれが入っていたんです。これは、そう、いってみれば興奮剤です。はじめに蔡氏に強いストレスを与えておいて、それを飲ませました。じわじわと聞いてくるので飲ませたことを知っている者にしか、効果を確認することはできません。お酒を飲むと箍が外れやすくなりますよね。これはそれを助長するんです。蔡氏はもともと正義感と義侠心にあふれる人ですから、熱血漢になっちゃったんですねえ。それと、これ。これは、ジェスさんもご存知ですよね」
 そういって連幸が示したのは、あのお茶である。
「少しだけ成分が違っていて、微弱ですが肉体的な苦痛を感じるんです。胃痙攣とか、舌の痺れとか、です。そうでしたよね、翠燕」
「ああ」
「蔡氏は立派ですよ。ストレスを助長するような薬の影響を受けながら、あれだけの演説が打てるんですから」
 自分のことのようにうれしそうな連幸に、翠燕が冷ややかな視線を投げる。
「随分、彼のことを持ち上げるんだな」
「持ち上げる? 思ったとおりのことを言ってるだけですよ。見込みどおりで嬉しいのは確かですけど」
 連幸はそういうと、不意にニヤリと笑った。その笑いを境に連幸が花散里に変化する。
「なあに? ヤキモチ? もしかして」
「あー、そうなんだ、翠燕、ヤキモチ? 蔡氏にヤキモチ?」
 小猿のようにきゃっきゃと喜ぶ斐竜に翠燕が拳骨を食らわす。ひょい、と避けた斐竜が、連幸の後ろに逃げ込み、顔だけのぞかせて翠燕を揶揄する。
 これほどまでに笑われていることを知らない蔡氏と、眼前で笑われている翠燕とどちらが気の毒か、ジェスは一人こっそりと胸のうちで比較した。
 答え。翠燕がより気の毒である。
 蔡氏はいずれ他の女性と恋をするだろう。そしていつか真実を知ったとき、苦笑しながらその現実を受け止めるだけの器量を持っている。笑われるのも、この一時だけだ。だが、翠燕は笑われ続ける。斐竜や連幸が思い出しては彼を肴に盛り上がるだろうことは想像に難くない。
 うん、間違いない、とジェスが頷いたそのとき、翠燕が慌てふためいたように立ち上がった。
「連幸、何をしている」
「何って、着替えだけど」
 翠燕の視線を追って連幸を見たジェスは、自分が何を見ているのか認識するまでに五秒半かかった。ぱちり、とまばたきをする。そしてそれが何か理解し、一気に顔色が変わった。何色か。赤である。
 ジェスが見たのは白い肌だった。そして連幸の胸部には、その美貌に相応しいすばらしく美しい乳房があった。
 あまりの出来事にジェスは左手で口元を抑えた。よろめいて、床にしりもちをついた。それでも視線を外すことが出来ない。ユリアのより大きい? 冗談でも触らなくてよかった、いや触っておけばよかった? と、どこか的の外れたことをジェスは考える。
「ここで着替えるな!」
 悲鳴のような翠燕の声を聞くのは初めてだったけれど、それさえもジェスの目を連幸から引き剥がすことはできなかった。
「外で着替えたら、黒山の人だかりになる。ギャラリーが鼻血噴いて貧血起こしてもいいなら、外で着替えるけど、このうえ蔡氏に輸血の手間をかけさせたくないな。……何リットルくらい必要になるんだろう」
「そうじゃない。……斐竜、何を悠長に眺めている!!」
「いいじゃん、減るもんじゃなし」
「そうそう、それにここは俺の部屋だし。城ではあんなに仲良くしてたじゃない。いまさら何言ってんの」
 えっ、と、ジェスの視線が翠燕に反転した。
「ちがう、ジェス」
 翠燕が初めてジェスの名を呼んだ。狼狽する翠燕もジェスは初めて見た。
「やつは両性種なんだ。それだって観賞してたわけじゃない! 演技だ、芝居だ、偽りだ」