第3章 不思議の国の道化師 (3)

「手伝っていただくまでに、まだ四、五時間は余裕があるので、のんびりしていてください。呼びに行きますから」
 連幸はそう言ってジェスと私室のある居住棟へと歩き出した。
 廊下の血痕はだれが片付けたのか、幻のように消えている。磨かれた美しい廊下だが、これまでも血に濡れたことが度々あったのだろうと考えると、ジェスは切ない思いに駆られた。度々どころか、日常茶飯事なのかもしれない、と。
 底抜けに明るい斐竜も、穏やかで優しい連幸も、そういう惨状を目の当たりにして生きている。握手をしたときの斐竜のちいさな手を思い出し、嘆息した。あの幼く優しい手で、彼は人の命を奪ったことがあるのだ。一度ではなく、ひとりでもなく。
 それは殺人ではない、戦場では当然のことだ、と割り切ることはジェスにはできなかった。もちろん、ジェスもいくつもの修羅場を見てきた。殺傷許可が下された重犯罪者とはいえ、幾人もの命を奪ってきた。が、それはハンターという職業を選んだ結果である。ジェスは自らの決意と覚悟で、その生き方を選んだのだ。選択の余地なくここで血まみれになりながら生きるしかない彼らとは根本を異にしている。
 彼らには、他の生き方を選択することはできない。
 この生き方を拒否することは、生きることを放棄することでしかかなわない。
 できるなら、ここから連れ出してやりたい。
 どこへ連れてゆくというのではないが、せめて殺伐とした環境から解放したい、と思った。
「難しい顔して、何を考えているんです?」
 歩きながら連幸に問われ、ジェスは頭を掻いた。
 おせっかいを考えていたなどと言えなかった。
 仕方なくジェスは別のことをそれらしく答える。
「いや、本当にナンバー2だったんだな、って。みんな、君には一目置いてる」
 言ってみると確かにその通りなので、はじめからそれを考えていたように滑らかにあとを続けることができた。
「花竜のことを思えば、驚くには値しないんだろうけど、それでも君が花竜の双璧だって言う事実を目の当たりにすると、しみじみ驚くよ」
「しみじみ驚く……変わった驚き方ですね」
 連幸はころころと笑う。その仕種も表情も可憐な花のよう――一人前の男にそんな表現は相応しくないのだろうが、こと連幸に関しては間違いではない――で、曹連幸の名に纏わる風聞の血生臭さとはかけ離れていた。それでも、彼は花竜の片腕なのだ。花のような風情漂うその身で、戦場を生きている。そう、他の誰かの死の上に。
「組織自体が若いので、古参の年長者がいないんです。俺は最古参のひとりですから、順当でしょう」
「へえ、古参なんだ」
 いいかげん先入観を裏切られることになれたのか、連幸が古参だというのはわりと自然に受け止めることができた。斐竜とも親しいようだし、かえって新参だと聞かされる方がよほど驚く。
「ええ。表立った活動を始めたのは、人が増えたために自給自足では間に合わなくなったからなんです。それもここ五、六年のこと。その以前から寝食を共にしていた数人が、幹部として切り盛りしています。もちろん、幹部の中には古参じゃない者もいますよ。白狼とかね。彼はここへきて三年目、かな。ま、年功序列ってわけじゃないから、当然ですよね」
 と、いうことは、連幸も古参だからナンバー2というのではないだろう。そういえば翠燕が連幸の別の一面を語ってくれたではないか。この穏やかな連幸が浮かべる凄絶な笑みなど想像し難いが、あの翠燕が誇張表現するとも思えない。あの男は事実のみを淡々と語る、そういうやつだ。そして話したくないことには一切の口をつぐむ。
「ふうん。花竜はそのころからずっと、ボスなのか……そうか、斐竜は先代の子供か?」
 斐竜は谷生まれだと言っていた。誕生日が不明、ということは両親も不明ということだろうが、血縁でなくとも死してなお彼を庇護する存在があるのかもしれない。
 思いついたままに発言したジェスに、連幸が足を止めた。
「いいえ。違いますよ」
 きょとんとした顔で、連幸がジェスをふりかえった。
「実力主義のこの谷に世襲制度なんてありません。AG’だってそうでしょう? それとも世襲なんですか?」
「そりゃ、そうだけど……って、知ってるのか?」
 何を、とは連幸は問わなかった。
「ええ、知っていますよ。ジェスター・アレクシス・ディーン」
 フルネームでジェスを呼んだ連幸は、やわらかな微笑のままこう言った。
「AG’の創設者はダグラス・A・ジェファーソン。夫人の名はマリー。正しくは茉莉(マリ)さんです。ES.JAPAN飛香出身、旧姓は石塚。ジェファーソン夫人の母親は彼女の長女出産後に失踪しています。梨沙さん、とおっしゃいました。この方のフルネームは、リサ・アレクシア・D・イシヅカ。Dはリサさんの家族名の頭文字です。ジェファーソン夫人は、子供が生まれたとき、失踪した母の無事と安全を祈って息子に母の名をつけました。アレクシス、と。あなたのことですよ。アレクシス・ディーン・ジェファーソン。ジェスターはリサさんのお父さん、あなたの曽祖父さんのご職業、道化師(ジェスター)ですね」
「参ったな。そこまでお見通しか」
「もちろん。俺の姫たちは優秀ですから。と、いうよりも、どちらかといえばお父さんの口が軽いのかな。随分、花紫を気に入っていたみたいですから。そのうち彼女をお母さんって呼ばなくちゃいけないことになるかもしれませんよ」
 連幸はそう言った。
「あのクソ親父……」
「まあ、まあ。夫人が亡くなられてから、もう二十年以上です。お寂しいんですよ。子供たちも巣立っちゃいましたしね」
 仕方なく、ため息とともにジェスは頷いた。
「そうだな。……お袋は俺が八つのときに死んじまったし、親父は仕事で忙しくて家にいないことが多かった。AG’も今ほど大きな企業じゃなくて、必死だったんだろうな。他に生きてる親族はひいじいちゃん……曽祖父だけだったから、俺と姉貴は彼に育てられた。親父は家に帰ってくるたび、俺が曽祖父の真似をするのを見て苦笑しながら、こう、俺を呼んでいた。道化師(ジェスター)アレクシス、と。AG’に入るときに、俺の出自がおおっぴらになるのはごめんだった。それで、こう名乗ることにしたんだ」
「ミスター・ジェファーソン・ジュニア、とお呼びしましょうか」
「いや、ジェスがいい。ジェスター・A・ディーン、それが今の俺だから」
 AG’の社長令息ではなく、AG’を構成する一人のエージェントとしての自分こそが本当の自分なのだ、とジェスが無言のうちに主張する。親の威光の陰で生きてきたのではない、と。
「わかりました。ジェス」
「うん。そもそも花竜って組織の成り立ちはなんだい」
「花竜という組織は、もともと翠燕が斐竜を守るために作ったんです。だから、はじめから主人(マスター)は斐竜ですよ」
「へえ、あの翠燕がねえ」
 あの、ということばに含まれる意味を察した連幸がくすっと笑った。
「意外ですか?」
「ああ。彼のガラじゃないような……どうしてなんだろう。知ってるか、連幸」
「ここで生きてゆくために、必要だったからです。おそらく翠燕が生きてゆくだけなら、必要なかったでしょうね。彼は当時からスペシャリストでしたから……戦闘の」
 殺しの、とは言えなかったのだろう。連幸のやわらかな口調に、わずかだが紛れ込んだ寂しげな響きに気付き、ジェスは連幸から視線を外し前方へと視点を移動させた。連幸が見せてしまった隙に、気付いたことを悟られたくなかった。
「でも彼には斐竜がいたから、ちいさな斐竜を生かすためには、もっと力が必要だったんです。そこまでして斐竜を生かす理由は知りません。まさか親子じゃないでしょうし」
 いいながら連幸はくすくすと忍び笑いをもらす。仮に親子なら翠燕十二歳頃の子ということになる。いくらなんでもそれはありえないだろうと、ジェスも思った。年上の女がいた? それで押し付けられた、とか? 想像はいくらでもできる。冗談として楽しむことはできるが、それを信じることは難しい。なぜなら、あの翠燕がそんな不手際を冒すようには見えないからだ。たとえ、幼くても。
「聞いて教えてくれるはずもありませんしね。彼とあの子の繋がりがどういうものなのか、それこそ、ここにいるすべての者が知りたい謎の一つじゃないでしょうか」
 斐竜には聞いてみたんですよ、と連幸は言った。
「なんだって言ってた?」
「『なんでだろ。考えもしなかった』って」
 実に斐竜らしい返答だ。いや、翠燕らしい、と言うべきか。事実をそのまま受け止める。理由も事情もデータの一部ではあるが、それを主に据えない、というのは翠燕の特徴だ。育ての親の影響は大きいらしい。
「へえ……」
「どういう理由か俺は知りませんが、でも案外あなたの言うとおりかもしれませんよ。少なくとも翠燕にとって、無視することのできない存在が斐竜の背後に絡んでいると見るほうがむしろ自然でしょうね」
 斐竜の記憶は十年前を起点にしている。生まれてから四、五年の記憶が完全に欠落しているという。幼い頃のことを覚えていない、というのではない。ある日、気がついたら谷にいて、傍らには翠燕がいたらしい。それまで自分がどこに誰といたのかはもちろん、名前さえ覚えていなかった。
「斐竜、という名前も翠燕が付けたんです」
 連幸と出会う以前、翠燕は斐竜のことを「おい」だの、「おまえ」だのと呼んでいた。二人きりの生活において、互いを呼び合うときは代名詞で充分に事足りる。そこに連幸が加わることでそれぞれを示す符号、名が必要になったのだが、翠燕はそれでも初め「ないものはない。好きに呼べ」と一貫して主張した。当時斐竜は五つか六つで、彼らが何を原因に口論しているのかわからず、黙って部屋の片隅に座っていた。斐竜は極端に無口で静かな子供だった。声を発することさえ稀だったという。今の斐竜からはまるで想像できない。
 斐竜が五歳ということは、翠燕は一七、八、連幸は十五、六歳くらいだろう。そんなこどもたちだけで、よくもここまで生きてきたものだとジェスは感心する。それほどに翠燕の腕は確か、ということか。
 そうして彼は二人に教えたのだろう。他の誰かを傷つけることになっても、生きるために戦うことと、戦うための技術を。
「もう、喧嘩でしたね。名前がないなんて、そんなの子供の教育上絶対によくない、と俺が怒鳴ったら、一瞬ことばに詰まったようでした。根負けしたように言いました。『本当に、知らないんだ』ってね。知らないからって、そのままにできることじゃないでしょうって、呆れたのをよく覚えています。それから少し考えた後あの子を指して『斐竜、でいいか』と。それきり黙りこんでしまったので、あなたは、とあらためて聞くと、やっと名乗ってくれました。教える気がないのではと思うほど、長い沈黙の後でね」
「ははは。彼らしいな」
「ええ。でも、斐竜というのはいい名前ですよ」
 そういって連幸は先ほどの手紙の控えの裏に、持っていたペンで字を書いて見せた。
「この斐という文字には軽いという意味のほかに、紋様が明らかで美しいという意味もあります。竜文ということばをご存知でしょうか。これは竜を描いた紋様を指すと同時に、将来有望な子供、つまり神童を示すことばです。遠くない将来、あの子が竜、優れた人物になることを信じて、翠燕は名付けたのでしょう。いい、名前です」
「なるほどな」
 ジェスは書かれた文字を見ながら頷いた。斐も竜も左右対称のきれいな形だ。
「この文字自体が模様みたいだな。ふうん。……連幸はどう書くんだ」
「こう、です。幸が連なる、ですね。幸はluck(幸運)やhappiness(しあわせ)、fortunate(さいわい)それからblessing(めぐみ)です」
「へえ、すごいな。表意文字っていうのは、奥が深い」
「だから名前を付けるのは大仕事でしょうね」
 名前の音を重視する文化にあっても、もちろん名前の意味は考慮する。つまり子供にルシファやリリスと名付けはしない。だが、それはことばの意味を考慮するということで、文字ひとつひとつにまで意味があるのではない。音を選んでから文字を選ぶのか、よい意味のある文字を選んでから音を考慮するのか。考えているうちにジェスの頭は混乱し始めた。難しすぎる。
 紙を胸のポケットに片付けた連幸は、再び歩き始める。
「いい名前だな。親御さんはどんな人だったんだ」
「さあ。……俺も知りたいですね。死に別れたのが今から十四、五年前なので、さすがによく覚えてないんですよ。記憶なのか、想像から生まれたイメージなのかあやふやな部分も多くて」
 連幸の返答に、またやってしまった、とジェスの表情がこわばった。
 今朝、斐竜相手に失敗したばかりだというのに。
 ジェスにとって自然な話の運び、言ってみれば挨拶のような形式的な発言が、ここではその機能を果たさない。頭を抱えたい気分で連幸をちらりと見る。視線が合った連幸は軽く微笑んで気にする様子もなく話を続けた。先を促したつもりはないのだが、そう見えたかもしれないと、ジェスの気持ちは再び沈みこんだ。

 エリシュシオンの海に落ちた旅客機をあさりに来た谷の住人が一人の子供を見つけて連れ帰った。四百を越える屍の中に、彼はじっと座っていた。着ていたものに連幸という縫い取りがあったという。名前かどうかはわからない。あまり聞かないが、もしかしたら衣服のメーカーだったのかもしれない。谷の環境は厳しく、彼を拾った人物もその後死んだ。連幸はそれから斐竜らに出会うまで、今はない別の組織に身を寄せていた。翠燕が斐竜のために屠った最初の勢力が、そこだった。
「すごかったな。翠燕は。一瞬、って言うでしょう? 本当にまばたきを一度する間に、七、八人を片付けてしまう。あまりにも強すぎて、脚本があるように感じました。八十人以上の荒くれが、少年だった翠燕に始末されるまで、三十分なかったと思いますよ。死にたいと思ったことはありませんが、どうしても生きたいとも思っていなかった。俺はだから、戦うことも身を守ることもせず、それを見ていたんです。そして、彼は俺の前に立った。……一緒に来るか、ってことばを意外な思いで聞いたのをよく覚えています。もうすっかり殺されるつもりでいましたから」
 悲壮さのかけらもなく、にこやかに連幸は話す。彼にとってそれは、余所見をして階段から落ちて、という程度の記憶でしかないのだろう。それが連幸の強靭さから生まれる感覚であるのか、比較対象を持たないからこそのものかジェスは逡巡したが結論を出すことは避けた。
 彼を評価するのならそれは彼自身だ。俺じゃない。
「どうして、俺を殺さなかったかわかります? 斐竜の面倒を見る人間を探していたそうですよ。こどもの面倒を見るのは苦手だって言ってたけど、今じゃ彼が斐竜のお守り役。俺より適任だと思うんですけどね」
 可笑しそうに連幸はそう言った。
「君は不適任なのか?」
「さあ。だけどこの若さで、子持ちになるのは遠慮したいですね」
「二十五、六歳って聞いたけど」
「ジェスさん、二十五のときに子供欲しかったですか?」
「いや」
「ね? そうでしょう?」
 連幸の打ち解けた口調に安堵しながら、それでも彼の過去を聞いてしまったことへの後悔を感じながらジェスは軽く頭を下げた。
「立ち入ったこと聞いちゃって、ごめんな」
「いいえ。構いませんよ。秘密ってわけじゃないですから。これからお願いしたいことにも関わるので、まあ、予習みたいなものです。それに、自分のことだけ一方的に知られてる、って気持ち悪いじゃないですか」
 けろりとした顔で彼は言う。これが谷の外でなら、ひた隠しに隠したい過去になるだろうことを連幸は認識している、とジェスは感じた。そう知っていてなお隠そうとしないのはここが谷だから、ではない。この谷で生き抜いてきた自信と誇りがそうさせるのだ。
 連幸の眼はこんなにも穏やかでありながら、時に斐竜よりさらに硬質な光を放つ。その煌きは儚いもののようでもあり、しかし何者にも冒されぬ様はまさに不壊石のようだった。すなわち連幸の生き方もまた然り。汚れがつけば払い落とし、血に濡れれば洗い流す。そうして精神だけは高くありつづける。
 それは連幸だけではないだろう。
 彼らは巷で噂されるような無法者ではなかった。恐ろしい殺人者でもない。慈悲と優しさ、憎しみと殺意、怒りも悲しみもすべてをコントロールしている。一流の戦士だ。
 親の七光りが嫌で、ただそれだけの子供っぽい思いで名を捨て家を出た俺よりも、彼らは強い。
 何とはなしに、先ほど張った意地が――ジェファーソン・ジュニアと呼ばれることを拒否したことだが――気恥ずかしくなり、ジェスは話題を変えた。
「それで、何をさせたいんだ。俺に」
 待ってましたとばかりに、連幸がにっこりと笑って頷いた。
「これから花散里のお客様で名医と名高い蔡浩継氏をお迎えします。花竜とその幹部全員でお迎したいのですが、困ったことに花散里と連幸は同席できないんです」
 当たり前だ。同一人物が同時空に二人存在することは不可能だ。
 ふむ、と頷いてジェスは連幸に続きを促した。
「ところで、蔡氏にご足労いただく理由ですが」
 と、連幸は足を止めた。気付けばジェスに与えられた部屋の前である。
「花散里は、身内可愛さのあまり、花竜の許可も得ず組織の内情を外部の人間に漏らしました。これは許されることではありません。したがって、然るべき裁判の後、刑に処されます。まあ、通常死刑ですね」
 穏やかな口調とにこやかな表情で連幸は語るが、内容は穏当ではない。しかも死刑になるのは花散里で、つまりは彼自身だ。
「蔡氏にはその証人としてこちらに来ていただくのです。ですから幹部席に空きを作ることはできません。椅子の数が合わないなら、余分を片付ければよいのですが、花竜の双璧が揃わないのでは格好がつかないでしょう。王虎や石涼を準じ繰り上げてもよいのですが、王虎の有名はこの星を席巻していますし、石涼にしても同様です。繰り上げることでボロがでては困りますし、下位の者を暫定的に据えても、双璧の名に伴う空気まで演じることは難しい。蔡氏は聡明で、由緒正しい市民にしては豪胆な人物です。下手な芝居は通用しません。そこで、ジェス、あなたには花竜の双璧の一人を演じていただきたいのです。あなたは、お仕事柄いろいろな立場の人間を演じることになれていらっしゃる」
 連幸が言うことは正しく、それに関しての疑問も反論もなかった。ただ、一点を除いては。
「君を? 曹連幸を俺が演じる?」
「それは無理でしょう? 演じていただきたいのは双璧の一人という立場の人間、です」
 即座にぷっと吹きだした連幸を見て、ジェスは冷静に考える。どうしたって、俺が連幸を演じることには無理がありすぎる、と。
 そして、連幸を演じる自分というその姿を想像して、ジェスも笑い出した。
 滑稽すぎる。このナリで連幸の真似をすれば、蔡氏にも受けるかもしれないが、それでは喜劇になってしまう。
 道化者だ。まさに。
「双璧の替え玉か、わかったよ。それなら、なんとかできそうだ」
 笑いながら答えたジェスに連幸も笑いながら言う。
「双璧の噂とは少し違っちゃいますけど、噂なんて背びれ尾びれのつくものだし、どうとでもごまかせますよ」
 いずれ見てみたい気はしますけどね、あなたの演じる「連幸」を、と彼は言い音楽のような笑い声をたてた。
「それじゃ、俺は準備があるのでこれで失礼します。花散里の仕度、結構大変なんですよねぇ。衣装他小道具は誰かに届けさせますので。ゆっくりしていてくださいね」
 ジェスの部屋の扉の前で連幸はそう挨拶し、ジェスの演じる連幸を想像しているのか、止まらない笑いを廊下のあちこちにこぼしながら歩み去った。

 ジェスが連幸とわかれて部屋で一人のんびりとしていると、さほどの間もおかず、翠燕がやってきた。姿を見て息を呑む。なんと彼の長い髪は、斐竜と同じくらいまで短くなっていた。頭髪に釘付けになっているジェスの視線を追った翠燕は、ああ、と合点してやや長めの前髪を掻き揚げた。
「昼間の戦いで焦がしてしまったんでな」
 それにしても随分と思い切ったものだ。髪が短くなり中性的な雰囲気が払拭された翠燕には、確かな男くささが備わっている。彫像が生命を得たような思いでジェスは翠燕をしげしげと眺めてしまった。
 ジェスの様子には構わず翠燕は言う。
「連幸の代理だそうだな」
「そう、まさに替え玉。双璧ってほど粒は揃わないけどな」
 翠燕に座るよう勧めながらジェスは言う。一人掛けのソファに腰を下ろした翠燕は、ジェスの口調に表情を和らげた。
「対のように思われるのも、良し悪しだ」
 言ってから、ふと思いついたように翠燕はジェスを見た。
「そうか。説明しなければならないことが山ほどあるな」
「説明しに来てくれたんじゃないのか」
「いや、これを届けに来ただけだったんだが」
 言われてジェスは翠燕の荷物に目をやった。漆黒と表現してよい深い闇色の服だ。特に装飾はないように見えたが、同色の糸で繊細な刺繍が施してあった。よく見ると、その刺繍の糸に使われているのは防刃繊維であることがわかる。服地は耐熱繊維。上着には最高級の防弾布が裏地として使われていた。つまりこれは戦闘服だ。
 翠燕が、その服をさっと広げる。デザインとしては申し分ないが、それが入っていたのはちょっとくたびれた紙袋で、そのアンバランスが可笑しかった。
「これは『花竜』の幹部の正装だ。通常、着用するのは戦時だが、今回は蔡氏に威圧をかけるために、裁判に出席する全員が着用する。あんたにも着てもらう。サイズはこれでいいはずだ」
「わざわざ君が?」
「人手不足の折、致し方なく」
 確かにそのとおりだが。組織の実質的なナンバー1にお遣いをさせるなんて連幸はすごい、とジェスはつぶやいた。
「人使いの荒さでは、あいつが組織で一番だ。城の賄い人から、王虎まで使いたい放題だ」
 半ばあきらめているかのような口調に、ジェスが笑った。
「連幸に聞いたよ、経緯(いきさつ)。拾わなきゃよかった、とは思わないんだな」
「まさか」
 ジェスの冗談に、苦笑したらしい翠燕は穏やかな口調でこう続けた。
「誤算だったのは、あいつがここまでよい指揮官になるとは思っていなかったことだ。実務のほとんどを引き受けてくれるおかげで、俺は頭脳労働に専念できる」
「そうかい? 斐竜のお守りは肉体労働だと思うけど」
 ジェスのからかいに、翠燕はしかつめらしい表情を作ったが斐竜のお守りをさほど不本意には感じていない様子だった。
「それも誤算だな」
「人生に誤算はつきものだよ」
 年長者らしいことばを口にしたジェスに翠燕がため息をついた。
 ジェスは考える。
 翠燕が策を練り、連幸が指揮をとる。任務を遂行するのは王虎たちか。合理的だ。
 合点がいったところでジェスはあらためて尋ねた。
「説明って、なんだい?」
 翠燕はこれからジェスが出演する舞台の背景について、と応え、詳細に説明し始めた。
 聞く次第に、ジェスは失笑をこらえる羽目になった。こらえきれず吹きだすと、翠燕は実に青年らしいふてくされた様子で部屋を出て行った。翠燕にもそんな表情ができるのか、と新鮮な驚きを感じながら、それでもジェスは笑いを収めることができなかった。