第3章 不思議の国の道化師 (2)

 連幸に連れられたジェスが医務室を訪れる。ドアを開けた途端、怒号がジェスの耳を左から右へと貫通していった。
「痛えっつってんだろうが、このヤブ!」
 医務室というよりは、研究室だ。怒りに満ちた声に驚きながらもざっと部屋を見渡して、ジェスはそう思った。部屋は広く清潔だった。ずらりと並べられた寝台のうえに、意識のある患者が数人唸っていた。怒号を発したのはおそらくその一番奥の寝台に寝かされていた男だ。叫ぶと同時に上体を起こしたのだろう、左ひじで体を支えながら隣に立つ人物を睨んでいた。睨まれているのは医師だろうか。白衣に身を包んだその人は一向に気にする様子もなく、淡々と男を見返している。診察ではなく観察に近い眼差しだ。医師は消毒された医療用手袋の調子を確かめるように、数度手を広げては握るを繰り返す。が、不意ににやりと笑った。
「そいつぁ、よかったな。痛いのはおまえさんが生きてっからさ。死んじまったら文句も言えないだろう? めでたい、めでたい」
 言いながら患者の右の大腿部を縦に走る傷を躊躇いも労わりも見せず左右に広げた。自然治癒は望めない大きな傷だが、それでも彼の体は自己修復を始めていたのだろう。小さな音――それはくっつき始めた傷口を、無理やり引き剥がす音である――とともに大量の血が噴出し、医師の白衣に鮮やかな紅色の花を描いた。
 ぐあああああ、と叫ぶ患者の太ももの大きな傷口に、その医師らしき人物は容赦なく左手を突っ込む。助手が四人がかりで暴れる患者を押さえ込んだ。医師の手が傷の内部を探る。患者の叫び声が可聴域から消えた。その光景にジェスは息を飲み、思わず二歩ほど後退した。ずるり、と何かを掴んだ手が引き抜かれる。助手らしき人物が捧げ持つトレーに投げ捨てられたそれは、ガランと重く硬い音を立てた。その大きさは大柄なジェスの掌より、一回りは大きいようだ。
「ごらん。こんなもんが入ってりゃ、痛くて当然だ。脚がくっついてただけましだと思うんだな。これがあと〇.一秒速かったら、骨ごと断ち切られてただろうよ。……これは白王獅子の尾翼上部の小骨だ。ふん、尾翼まで木端微塵か。白王獅子の総重量が、4トン強。奴(やっこ)さんも、随分景気よく吹き飛ばしてくれたもんだ」
 新たに吹き出す鮮血を右手のガーゼで抑えながら、左手で脚の付け根に止血帯を巻く。手際がよいと言うには乱暴すぎる手つきである。そして気のせいでなければ、その医者の意識は患者ではなく白王獅子の破片に向いていた。
「熱量はさほどでもないようだ。その破片、割れているけれど、溶けてはいない。……変わった爆薬だな。白王獅子の特殊合金が砕けているのに、焼けた気配はない、か。ふうん。墜落の衝撃でもともとヒビが入っていた可能性は否定できないが……茶碗じゃあるまいし、そう簡単に割れるはずもなし」
 ふと、思い出したように、その人の意識が患者に戻った。懸命に悲鳴をかみ殺す患者を視界の縁でちらりと見、鼻先で笑う。
「大の男が、ちょっとばかり大きいだけのトゲに、おおげさなこった」
 痛くて当然、という先ほどのことばとはまるで反対のことを言いながら、血まみれの手袋を外し消毒桶で手を洗う。その意外なほど優しげな手に、ジェスはその医師らしき人物が女性であることに気付いた。低く響く声も、その物腰も到底女性らしさとは無縁のものである。男性的とは言いがたいのだが、世間一般の女性にはない迫力があった。
 彼女がボトルに入った消毒用アルコールをためらいもなくだばだばと傷口に注ぐにいたって、とうとう患者は失神した。
「さて、やっと静かになったね。触った感じでは、骨は無事だ。筋肉馬鹿もたまには役に立つもんだ。天然肉鎧ってとこだな。今の暴れ方から診て神経にも異常なし。動脈も逸れてる。さ、おとなしいうちに縫っちまっとくれ」
 目が覚めると麻酔が必要になるからね、と助手に向かって言うと、医師は振り返った。
「あら、連幸さま。何の御用です?」
 連幸を見とめると、彼女は口調をあらためた。
「こちらは今回のオーナー、ジェスター・A・ディーン氏。医療の心得があるということで、お手伝いをお願いしました」
「そう。そりゃ、願ったり叶ったり。……じゃ、早速で悪いんだけど、あそこの生身連中を診てくれないかい」
 彼女が――優しげな手に似合わず大柄な彼女の背丈は連幸とさほどかわらない。紫檀に似た赤みがかった黒髪と、通った鼻梁。細いけれど形のよい眉。猛獣を思わせる野趣にあふれる双眸は爛々と輝く朱金色。淡い褐色の肌。やや大きいと感じる口は受け口気味だ。艶やかに光る唇は赤いが、化粧気はまるでなく、頭髪も無造作に束ねられているだけだった。ジェスよりも二、三歳年長かと思われるが、みなぎる生気はジェスの十倍はありそうだ。好みによって彼女を美しいと感じる者と、そうではないと思う者にはっきりと分かれるだろう個性的な容貌。彼女の野性的な空気は、隣にたつ連幸を華奢な小鳥のように見せる。それほど獰猛で、同時に喰われたいとさえ思わせる、印象的な人物だった――指差す先には、廊下で見たあの十数人のうちの六名が寝台の上で唸っていた。
「ドールたちが退屈し始めててね。それに生身の患者はとにかく叫び声がでかすぎる。あたしはうるさいのは嫌いなんだ」
 うるさく叫ばれたくないのなら麻酔を打てばよいだろうにとジェスが首をかしげたとき、女医はこう付け足した。
「麻酔は極力使用しないように。大物に使う予定だから。脊椎損傷、両足切断、それから右半身の大火傷を負った子。あの子たちはこれからしばらく痛みと戦わなくちゃならない。ここには再生槽なんて気の利いたものはないし、張白鶴の定期便ももうない。医薬品の供給は、今後はすべて城経由になる。少なくとも数日間は、痛み止めも重傷者優先。当然だろう。なに、大丈夫さ。痛がるだけで死にはしないよ。違うかい?」
 そして患者の群れに近づいて一人一人の容態を簡単に確認すると、にやっと笑った。半ばいたぶるような口調で、
「よかったねぇ、おまえたち。こちらの先生はあたしより、いくらか親切そうだよ」
 くくく、と喉が音を立てる。ちいさな笑い声なのだが、そうやって笑うその人は本当に獲物を前にした虎か、そうでなければ獅子のようだった。悔しそうに、また幾分か安堵した表情で女医を見上げる一群が、鹿かガゼルのように見えたのはあながちジェスだけの錯覚ではあるまい。
 そして虎は、ジェスを振り返る。反射的に身構えるジェスに一瞥をくれて、医者は指示する。
「あんまり、甘やかさないどくれよ。癖になると面倒だからね。怪我なんかしないに越したことはないんだ。ここは地獄の一丁目くらいに思わせとかないと、無茶ばかりしやがるんだから、こいつらは。それじゃ、ここはよろしく。……待たせたね、王虎」
 彼女は間仕切りのカーテンを開けた。退屈しているドールたちが十人ほど、寝台に転がっていた。
「おや、白狼は?」
「あいつなら、適当にてめえで治して行っちまったぜ」
「そう、手のかからないいい子だね。あんたもちょっとは見習いな。壊すばっかりなんだから」
「俺は戦闘のプロ。言ってみれば壊すのが専門よ。作ったり直したりするのが専門のやつと一緒にすんじゃねえや。……よう、元気か。ハンター」
 今朝と変わらず豪快に笑う王虎の左半身は、黒こげで、でこぼこになっていた。もちろん右側も傷だらけだ。歪な顎を器用に動かして王虎は喋る。だがその発音は不明瞭で、声は掠れていた。声だけを聞くと重度の風邪を患っている病人のようだった。
「元気か、って、それは俺のせりふだよ」
「違いねえ」
 はっはっは、と全身で王虎は笑う。なぜなら左の顎がゆがんで軋んでいるために、口元だけでは笑えないのだ。今朝、機能美と翠燕が誉めた姿も、いまではスクラップのようだった。
「大丈夫なのか」
「小型とはいえミサイルが直撃してこれなら、かなりマシと思うぜ。日烏(リーウォア)さまさまだな」
 直撃、と口中でつぶやいたジェスが、愕きの表情を浮かべるまでのわずかな間に、日烏と呼ばれたその女性は王虎の生身側の額を拳骨でぶった。彼女は左利きのようなので、意識して生身側を殴ったのではないだろうが、手加減なしの一撃に王虎の頭部が六十度ほど角度を変えた。
「おいおい、あんまり乱暴すると目玉がこぼれちまう」
 左頭部にぶらさがった義眼――義眼というほど肉感的ではないのだが、代用することばをさがすのは難しい――を押さえながら王虎がめずらしく慌てたように叫んだ。
「何がこぼれちまう、だい。あたしの傑作、こんなにしてくれちまって。全部取っ換えじゃないか。あたしの会心の作だったのに」
「そんなこと言っても、ほっとけねえだろうがよ」
「だからって火の中、ひっくり返った白王獅子の下敷きになった人間を掘り起こそうとする馬鹿がいるかい!」
「ほっといたら、いまごろ柳(リャオ)は燃えカスになっちまってるぜ」
「お前さんも焼けたクズ鉄になるところだったんだよ。少しは自重しな!! ……自重ってことば、知ってるかい?」
「なさけねえ、ってテメエでテメエを笑うことだろ」
「ああ、これだから無学な人間は困りもんだ。はいはい、聞いたあたしが馬鹿だったよ」
「でもよぅ」
「でもじゃないよ。柳香(リャオシャン)を助けたのは立派さ。だけど、確実を期すなら、下敷きになってる部分を切り離すべきだ。もたもたしてる間にあんたが行動不能になったら、柳香(リャオシャン)も助からない」
「まるごと助けられるならそのほうがいいじゃねえか。ドールになるのは誰だっていい気はしねえやな。俺の体はパーツの取替が効くが、あいつのはそうもいかねえ」
 表はこげちまったけど、中身まで焼けねえうちに助け出せてまあまあよかったと思うぜ、と王虎は笑う。
「それで二人とも燃えつきちまったらドールにもできないじゃないか。それに忘れてるだろうけど、半分は生身なんだ。こっち側に被弾してたら、ナマも加工も併せてグチャグチャだ。いいかい、いくらあたしでも、肉片からドールはつくれないんだよ。焼肉や生肉の脳みそ和えになっちまったらどうしようもないんだ。少しは考えな」
「おう、不便だな。これに慣れてくると、ナマの華奢さが面倒くせえ」
 これ、と言いながら右手で左腕をさする。王虎の様子を眺めていた日烏が、腕をくんだまま、あながち冗談でもなく呟いた。
「……なんなら、ミソごと全部取り替えてやってもいいんだよ。そのほうがあんたみたいな脳足りんには、いっそいいかもしれないねえ」
「勘弁してくれよ。そんなことになったらまた何ヶ月もここに缶詰にされちまう。あれは退屈でいけねえや」
 ジェスはその会話を聞き、二人を見つめ呆然としていたが、連幸にかるく肩を叩かれて我にかえる。話しながら修理道具をセッティングし終えた日烏が、連幸に軽く会釈してカーテンを閉じた。
「彼女はもともと生体工学が専門なんです。朱日烏(チュ リーウォア)。王虎たちは彼女に任せておけば大丈夫ですよ」
 閉じられたカーテンの向うから王虎の陽気な鼻歌と、日烏のやかましい、という叱り声が聞こえてきた。
「そうみたいだな。ええっと。次の人は……と」
 どうやら彼女も重傷者から順に診ていったようで、ジェスに残された患者たちはどうやら「麻酔なしで堪えてくれ」と言いやすい者ばかりだった。多少ではなくホッとしながら、手当てを始める。そして気がついた。血の臭いに包まれたこの部屋に入って、なんの発作も起こさなかったことに。
 そう、発作を起こす間もなく、日烏に圧倒されたのだ。
 なんだかなあ。
 呟いたジェスの耳元に口を寄せ、連幸が囁いた。
「すごいでしょう? うちの閻魔様」
「連幸さま、聞こえてますよ」
 カーテン越しの日烏の声に、連幸が首を竦める。地獄耳、と声には出さず唇だけをそう動かした。
 ともあれ、ジェスは診察を開始した。患者六人を見渡せる位置に立ち、助手らしき青年が用意した消毒桶で軽く手をすすぐ。
「そっちの彼の腕、ささってるトゲトゲ、全部抜いて。皮膚の下に入り込んでるやつもあると思うから、気をつけて。抜けないようなら切開して取って。切開処置、できる? そう、じゃ、君にまかせる。無理に引き抜くなよ。神経を傷つける。難しいようなら、すぐに言って。俺がやる。傷口は洗って、抗生物質か化膿止め……ある? そう、それそれ。八時間ごとに飲むように。冷やしておく方が、痛みはやわらぐと思う。でも冷やしすぎないように。治りが悪くなるから。それと、ああ、これは骨折だね。みごとにポキリか。骨の位置をもどして固定して。肉が削げちゃってる部分は落ち着いたら再生槽、はないのか、じゃあ移植だな。それまでは骨が乾かないようにジェルで保護しておいてくれ。で、こっちの人は……額の傷は縫合する必要はないな。傷跡が残るかもしれないけど、傷口が塞がってから考えようか。消毒は……済んだ? じゃ、肩の方診るよ。脱臼だな。戻すよ。ちょっと痛いけど我慢してくれ。……っと、よし。しばらくは固定しといて。ん? ああ、本当だ。これは嫌な位置にあるね。痛いけど傷口を鉗子で広げて取るんだ。体ごと押さえつけてやって。暴れると他の組織を傷つける可能性もあるから。ええっと君は……ああ、これの縫合は、痛いかもなあ。頑張れる?」
 複数の患者を同時に扱うジェスの診察に、助手たちが唖然とする。
 ジェスが正式なハンターに任命される以前、軍医として従軍した戦闘では常に患者は一人ではなく、また優先順位をつけられない状況が多かったため、ジェスは一対多の診療方法を身につけていた。また、医療設備も充分とは言いがたく、あるものでなんとかすることを、彼はまず始めに学んでいた。通常、負傷兵が戦線に復帰することは稀だ。負傷の程度にもよるが、重傷者を戦線に再び送り出すような戦況は、すでに敗戦と同義である。ようするに戦闘能力を失った者を死なないように処置をして本国へ無事送り返すという役目が、前線に派遣された医師の役目だ。死なないように処置すればよいので、負傷兵をずらっと並べて分類し、片っ端から診療してゆく。もっともジェスの任された診療は応急手当がほとんどで、その後の治療は専門医に任せることが常だった。なぜなら応急手当がすむと彼らはジェスの手を離れ、本国へと送り返されるので。
「連幸」
 右の二の腕に裂傷を負った患者を励ましつつ縫合を始めたジェスは、視線を手元から離すことなく連幸を呼んだ。ぞんざいにも感じられるその呼びかけに、スタッフのうち数人がギョッとしたようにジェスを見、おそるおそる連幸に視線を転じたが、ジェスは気付かなかった。
「なんでしょう?」
 助手の一人が用意した丸い回転椅子に座った連幸が答えた。
「城経由で物資が届くのはいつだ」
「そろそろ第一便は届きますよ。ただ、量的に充分とは言いがたいでしょうね」
 目立つことは避けたいのです、と連幸は苦笑する。
「花竜後宮と呼ばれてはいても、城は合法的な存在です。花竜との関わりは、あくまでも噂でなくてはなりませんから」
「小分けして運ぶしかないってことか」
「ええ。それと、白王獅子よりずっと小型の飛行艇しか用意できないので。でも、重傷者は首都の病院に入院させますから、三往復もすれば充分です」
「入院? 当てはあるのか? あ、それとも花竜の御典医?」
「いえ、今のところ花竜と直接の関わりはありません。花散里の知り合いで何とかできそうな人がいたので、お願いしてみました」
 瞬間、ジェスの脳裏にアンティークのティーカップがひらめいた。ロマンチックな赤いオールドローズの絵柄。
 縫合を済ませたジェスは傷口の具合を確かめ、包帯をして治療を終えた。
「もしかして、贈り物の主……」
「随分と花散里に入れ込んでいるようですからねえ。たぶん聞いてくださるでしょうよ」
「どう頼んだのか、聞いてもいいかい」
 連幸はたたんだ紙を胸ポケットから取り出してジェスに向かって投げる。折りたたまれた紙はくるくると回りながら、一直線にジェスの手元に届いた。三つ折にされた数枚のそれをジェスが開く。
「下書きですけど」
 手紙、だった。筆でつづられたそれを見てジェスは感動する。
「花散里の直筆? すごいね。これは見事だ」
 その手紙は、「書」という芸術だった。ジェスも幼いころ母親の勧めで少しばかり試してみたが、やわらかな毛筆で文字をつづることの難しさを思い知らされただけで終わってしまった。ちなみに筆圧の高いジェスはペン先も割ってしまうので、自らが使う筆記用具は先のつぶれないボールペンだけである。味のないことこの上ないが、そもそも紙に文字を書くことなど身分証明のためのサインか、ごく私的なメモくらいだ。サインも半ば形骸化した儀式のようなもの。本人確認は最終的には網膜パターンや指紋や、DNA読取りで行われるのが普通である。もちろん、電子データと違い改竄の難しい直筆書の信用は今でも高いし、芸術や文化としての書は上流階級のたしなみとして広く受け入れられているが。
 文面を読み進めると、これまた素晴らしい。ちいさな声でジェスは手紙を読みあげた。
「急啓 蔡先生。突然の手紙、さぞかし驚かれましたでしょう。本来ならば、このような失礼をお許しいただけることではございませんが、他に頼ることのできる方もなく、恥をしのんで筆をとりました。私の務めます城が、花竜後宮とあだ名される酒楼であることは、先生もご存知かと思います。お話は、そのことでございます。
 花竜後宮とよばれる城のうち、花竜様が主である城がいくつあるのか、わたくしは存じあげません。けれど、わたくしの務める城、先生も度々お運びいただきましたここが、花竜様の持ち物であることは真実でございます。わたくしは、花竜様の持ち物でございます。そして、わたくしの弟も。……
 さきほど、花竜様からご連絡をいただき、弟が重傷を負ったことを知りました。詳しい経緯はお話しいただけませんでしたが、両の脚を付け根から切断する大怪我とか。このままでは、命とにもかかわると聞き、身の震えが止まりません。
 世の人々から鬼のように恐れられている花竜の郎党のひとりである弟ですが、わたくしにとってはただひとりのかけがえのない大切な弟でございます。どうぞ弟をお救いくださいませ、か。……いや、すごい。特にこの、頼りは蔡さまのみ、とかね」
 花散里に思いを寄せる蔡氏が、これを読んでどうするかなど映像をともなって想像できてしまう。おそらく手紙を読み終えると同時に城の花散里に連絡を取り、然るべく行動するだろう。つまり、花散里のために彼女の弟の命を救おうと、花竜に病室の提供と執刀を申し出るに違いない。
「なるほどね」
「そういうことです。花散里は心労で臥せってることになっているので、蔡氏と実質の話をつけるのは名代の六花です」
「連幸さま、六花さまから、ご連絡がはいりました。蔡医師のもとへ、蛍が出向いたそうです」
「ほら、きた」
 ジェスを見て、連幸はにやりと笑う。そういう笑い方をしても美しいことに変わりはない。しかし小悪魔的というにはあまりにも屈託のあるこの表情をお人よしの蔡氏に見せてやりたいなあ、とジェスは苦笑した。
「蔡氏が城を訪ねてきたらゆっくりともてなすように、六花に伝えてください。丁重にね。さて、一通りの手当ては終わりましたね。じゃ、ジェス。もう一つ手伝っていただけませんか」
 お客さまなのにすみません、と連幸が言う。
「稼動人員の二割強が負傷してしまったので人手不足なんです」
 二割強と聞いて、ジェスは考え込む。
 重体が三人、重傷が四人、重傷ではないが軽傷とも言いがたい負傷者が先の六人。この十三人は確実に戦力外に数えられるだろう。それから、王虎と同じようなドールたち。彼らも整備が済むまでは戦力に含むことはできない。そういった人数が負傷者と同じ数いるとしても、全部で二十人を上回る程度。翠燕は総勢で二百人だといった。二十人が二割だとすると、稼動人員は百人。残りの百人はなんだ?
「残りの百人は、研修生ですよ。実戦に投入できるのは、まだ先のことです」
 疑問が顔に表れたのか、連幸が説明する。どうもここのところ思考が顔に出やすいようだ、とジェスは気付き、それも仕方がないか、と思う。なぜなら連幸は花散里だ。姫は客の表情や仕種、呼吸からもその思考を読む。その総元締めにあたる連幸が人心に聡いのは当たり前で、自然なことのように思われた。
連幸はいい事例を探すために少し考えた後、続けた。
「今朝、会った子、覚えてますか」
「ああ、ブロンドの……たしかイオン、だったか」
「そうです。彼も、その一人です。実際の運営に携われるようになるまでに、もちろん、配属先にもよりますが、最低でも一年は下積みです。能力的に不安のある状態で実戦に投入するのは、本人の命にも関わりますし、何より組織の質が落ちてしまいますので。だから少数精鋭なんていうと聞こえはいいんですが、実のところ動かせるのは常に少数なんです。最近はちょっと見習の数が増えすぎて財政を圧迫しつつあるんですけど、斐竜が拾ってくる以上、仕方がないですね。使い物になるかならないかは、本人の資質より指導如何ですから、のんびり育てます。子育てに経費と手間がかかるのは当たり前のことですからね」
「財政を圧迫する、か。うん、でも、AG’も昔はそうだったって聞いてるぜ。場合によっては何年も助手として修業して、やっと一人前になったってさ。だからこそ、稼ぎ頭のハンターが憧れの職業だった、ってな。最近じゃハンターもスクール育ちのエリートばかりだけどね。俺も含めて」
「ああ、それで最近上手く解決しない事件が増えてるんですね……と、失礼」
 連幸が人差し指と中指の二本で口元を押さえる。不意に飛び出してしまった失言を封じ込めようとでもするかのように。
 ジェスはその様子を見、苦い思いで笑った。
「構わないよ。俺もそう思ってるから。犯罪検挙率よりも被疑者の死亡率が高いってのは、異常だよ。どう考えても。……被疑者は、まだ罪を犯したって決定してるわけじゃない。検挙されて、司法の場で判決が下されて、初めて犯した罪に相応しい罰を受けることができるんだ。罰を受けるというのは犯罪者の権利のひとつだろ。その罰にしても、死刑が適用されるとは限らない。どんな凶悪犯罪でもね。……それを、安易に殺してしまうなんて、どうかしてるぜ」
「そうですね。でも、それはもしかしたら、テラの思惑かもしれません。スクール生を敢えてそのように育てるんです。被疑者=犯罪者=法の保護範囲外(アウトロー)=殺しても構わない、って随分簡単でしょう。思考能力なんてかけらもいらないですもの。善か悪か、白か黒か、0か1か、オール・オア・ナッシング。二者択一って好きなんですよね、人工知能は」
 言ったあと、瞬きをひとつして、連幸は言い直した。完成されていない知性は、かな、と。
「唯一にして絶対の正義を求めてしまうこと自体が、未熟な精神の現われのように思えるんですけど、どうなんでしょう?」
 連幸は深刻な問いを放つ。ここはテラから完全に独立しているから、そんな発言が許されるのだろう。テラの管轄内でこんな疑問を発したら、まず間違いなく反逆者として始末されてしまう。スクール育ちのAG’エージェントに。なぜならテラは「唯一にして絶対」の存在だから。
「と、いうわけで、手伝っていただけますよね」
 表情も口調もからりと変えて連幸はジェスに確認を取る。それは先ほどの発言が、ここではさほど重大な意味をもつものではないことを示している。何の気負いもなく、自然に思ったことを自由に発言できる花竜の組織の姿を見て、うらやましいとジェスは思う。同時に、自由な言論が知らず知らずのうちに封じられているAGの環境をはっきりと意識させられた。
「人手が余ってたって、やるさ。俺だって当事者だからな」
「そう言っていただけると思っていました」
「で、何をすればいいんだい?」
「ええ、その前に」
 と、連幸は数秒の間に、五つか六つの指示をすばやく出した。あまりの速さに――指示がエリシュシオン語だったこともあって――いくつかの指示は、ジェスには聞き取れなかった。
「飛熊、翠燕に遠足は終わりって、連絡してください。至急戻ってください、と」
 スタッフの一人が軽く頭を垂れて、部屋を出て行った。
「日烏、石涼の整備が終わるまでの時間はどのくらいですか」
「今すぐ初めて四、五時間ってとこだね」
 カーテンを少し開けて顔を見せた日烏に、連幸は当たり前のことを告げるように命じた。
「三時間で仕上げてください」
「……了解」
「整備が終わったら、白狼(パイラン)といっしょにシティへ向かう準備をするよう、伝えてくださいね。出発予定は三時間半後、午後六時です」
 そしたら、俺は後回しか、とつぶやいた王虎の声を聞きとめて、連幸がにっこりと笑った。
「もちろん、王虎も六時間以内で動けるようにしてください、日烏」
「……簡単に言ってくれるじゃないか。このスクラップを動くようにだって?」
 半ば怒りを含んだ語調は、日烏の落ち着いた声音との相乗効果で、気の弱いものなら失神しかねない迫力を伴っていたが、連幸はまったく動じなかった。それどころか穏やかに微笑み、
「できませんか?」
 と、あくまでも優しく連幸は問う。しかしそのダイヤモンドのような瞳は日烏の黄金の瞳を射貫いた。
「……やるよ。やればいいんだろう? やってみせるさ。ああ!」
 噛み付くように怒鳴った日烏は、「結構」と鷹揚に頷いた連幸に何か言い返そうとしたようだったが、ことばを探すうちに諦めてしまったようだ。唇をきつく引き結び、連幸の視線を真っ向から見つめ返す。が、一瞬だけ日烏の視線は左右に揺れる。連幸の瞳を見返すことに躊躇があるのか。
「よろしくお願いします。手伝いに白狼を遣しましょう」
 日烏をからかうように連幸は頭を下げ、ジェスを促して医務室の外に出た。
 扉が閉まる。刹那、扉にメスの一本でも突き立ったらしい音が聞こえた。そして日烏が咆えた。
「こんちくしょう」
 と。