第3章 不思議の国の道化師 (1)

 結局、その日、ジェスは半日部屋に篭りきりになってしまった。ベッドの上であぐらをかき、午後の海を映し出すモニターをぼんやりと眺めながらジェスは、おそらく待っていてくれただろう連幸に「悪いことをした」と思った。チェストの上の時計に目をやると、針は――そう、なんとこの時計、デジタルではなくアナログである――午後一時を回ったところだった。まだはっきりとしない頭を、ぶるん、とおおきく振り、頬を両手でぴしゃりと叩く。両腕を頭上に大きく伸びをすると、肩甲骨の辺りで関節が小さくない音をたてた。体のあちらこちらで、硬くなっていた関節がぴしぴし、みしみしときしむ。深呼吸かあくびか、当の本人でさえ判別の難しい呼吸。
 連幸がこの部屋を出て行ったのが七時半頃だとして、六時間ばかり眠っていたらしい。この歳になって泣き寝入りとは、と照れくささを感じて、頭を掻く。
 ひとしきりストレッチをすませ、ジェスはまだ寝たりないと感じていることに驚いた。昨日もほぼ半日気絶していたというのに。そして当然かもしれないな、とひとり笑う。なにせこの三ヶ月、まともに眠れたことなど無かったのだから、と。
 今朝、翠燕に眠れなかったのかと聞かれたとき、危うくいつものことだと答えてしまいそうになった。
 花紫も迷惑したことだろう。そうそういないのではなかろうか。他に何をするでもなく飲みつづける客など。いいかげん飽きてきたのか、夜半をまわるころ、禿(かむろ)の少女が小さくあくびをした。花紫は小さく笑って少女を下がらせると、
「無理はあきまへんえ」
 俺の手酌をそっと止めた。
「そないにいそいで飲まはったら、お酒も気の毒どす」
 相手にされへんこの花紫も、かわいそうやおへんか。
 花紫は俺の手から銚子をうけとると、杯にゆっくりと注ぐ。そしてその酒がどこでどうして造られているものか、話してくれた。
「詳しいね」
「うちの弟が、造ったお酒ですもの。近頃は席に出せるようなりましたけど、はじめはうちでさえ仰天するようなしろものでしたんえ。これお酢やないの、て」
 艶やかな笑みが花紫の顔に浮かぶ。
「ディーン様、お仕事ではあちこち行かはったんでしょう。どこのお酒が、一番? うちは梨壺の月明かりが好き」
 そうして、延々と酒談義と飲み比べが続く。
 当然かもしれないが、酒造家の娘は驚くほど酒に強く、朝方様子を見に来た城の主人の前で、だらしなく酔い潰れていたのは俺の方だった。
 思い出して、ジェスはくす、と笑った。
 ひたすら平身低頭、詫びる主の後ろから花紫がにこりと笑う。声を出さず唇だけを動かした。「またね」
 ありがたいな、と思った。彼女が酔い潰してくれたおかげで、恥をかかずに済んだ。城に泊まって姫を買い、枕も交わさず朝を迎えたなど、さすがに体裁が悪いのだ。
「お世話になりっぱなしぃやし、昨夜の失礼もあるし、今度はうちのおごり。これに懲りんと、また遊びにきてや」
 目を三角にする主人に首を竦めながら、花紫は笑う。愛嬌がこぼれる。愛しいと、感じた。
 連幸――いや花散里か――にしても、花紫にしても、さても城の姫君たちは素晴らしい。

 酔って前後不覚にでもならなければ眠れない状況が三月も続けば、いい加減限界だったのだろう。眠り足りないのはきっともう少し、体を休めたいからだ。それじゃなんで目が覚めたんだ、と首を傾げ、そして原因がわかった。

 ジェスの目を覚ましたのは、ドアの外の騒々しい気配だった。

「何かあったのか」
 手早く着替えドアを開け、ちょうどそこにいた男にジェスは事情を問う。慌しく行き交う一人を捕まえて単刀直入に問いを放った彼に、その男は――部外者であるはずのジェスの問いに、あるいはジェスが部外者であることさえ認識していないのか、後日あまりにも軽率であったと赤面するほど素直に――答えた。
「白王獅子の回収に向かった連中が、待ち伏せに遭った」
「待ち伏せ?」
「詳しいことは、まだわからない。……口を利けるやつが、少ないんでな」
 口を利けるやつが少ない、ということばに含まれる意味をジェスが量っている僅かの間に、男は忙しそうに立ち去ってしまった。見送るジェスを押しのけるようにして十数人が走っていく。それぞれに負傷者を抱えいる。
 通りすがりにちらりと見るだけで、その傷が軽くないことが分かった。意識があったのはたった一人だけで、それもかろうじて、である。苦痛に顔をゆがませて、ただひたすらに声を出さぬようにしていた。あの様子では、きっと口を開いても呻き声しかでないだろう。額を割られ血まみれになっている者、背中一面に小さくない金属片を突き刺している者。爆発に巻き込まれたらしい一人は、両足を失っていた。
 充満する血と硝煙の臭い。血痕はてんてんと、と表現するには多すぎる。
 こみ上げる吐き気を飲み下し、熱くなった胃の辺りを押さえ、ジェスはつぶやいた。
「どういうことだ?」
 そう、ことばにしてみると、不可解なことだらけだった。
 待ち伏せ、ということは花竜がそこに来ることをそいつは知っていたということ。あるいは来るかもしれないという推察か。しかし、白王獅子がそこにあることを知っていたとして、それを花竜が回収に来ることを予測できるのか。そもそも待ち伏せをしていたのは、何者か。仮に誰かが来ること想定して、当てずっぽうで待ち伏せた可能性はあるのか。いや、花竜の手勢がこれだけ叩かれるほどの戦力を、来るかどうかも分からないどこかの誰かのために用意などしない。花竜が奇襲に遭ったということは、それ相応の装備と計画があったはずだ。
 偶然ではありえない。
 考えている間は血の臭いから意識をいくらか逸らすことができるらしいことに気付いて、ジェスがわずかに笑う。皮肉な笑いがジェスの顔の傷を引っ張った。攣れる傷跡にジェスは指で触れる。
 現実逃避であっても、この方がよほどマシというものだ。ユリアのことを思い出してひっくり返るよりは。
 さて、とジェスは再び考察に入る。
 偶然でなければ、それは必然。確実に、花竜を、そうでなければ花竜の組織の誰か(特定の者か、あるいは誰でもよかったのか)、もしくは組織そのものを狙って仕組まれたことだ。つまりそいつは、花竜をしとめてくれという依頼を受けたか、結果的に花竜の利益と相反する依頼を受けたということになる。そうでなければ、最終的に花竜の利益と対立することを察して先制攻撃に出た、か。攻撃は最大の防御とはいうが。……理由を絞るのは先でいい。まずは現状の把握だ。
 では、いつ仕組まれたのだろう。
 白王獅子が落ちてから、丸一日。たったそれだけの時間で、花竜を襲う準備ができるのか。花竜の戦力は、総動員すればかなりのものだと聞く。そして、白王獅子の墜落地点は花竜の本拠地であるここから歩いて小一時間。いってみれば庭先までそいつらは踏み込んだことになる。常に少数精鋭での仕事を請け負っているとはいえ、花竜の正確な戦力がどれほどのものなのかそいつは知っているのか。何人の集団で、どれほどの装備を整えて回収にくるか分からない花竜と戦うつもりで戦力を整えるなら……そうだ、俺なら二ヶ月は必要だ。急に思い立っての行動ではない。……花竜を叩く機会を、辛抱強く待っていたのか。それではいつとも知れぬ「納期」を、依頼主は待ちつづけたことになる。そうまでして花竜をつぶそうと思う人間がいるのだろうか。あまりにも効率が悪い。そもそも幻のような花竜の存在を確信し、なおかつその存在を抹消しようと決意する必要性を誰がもつのか。それとも不経済な取引を容認できる経済力をもつ者が背後にいるということか。と、すれば、考えられるところでは、AG’か、AG本家……まるきり皆無ではないだろうが、可能性は低い。わずかばかりの可能性にこだわってもこの場合無意味だろう。
 では、白王獅子が落ちたこと、それがすでに計画の一部であったなら……? 落ちたのではなく、落としたのであれば説明もつく……。
 いや、待て。どうしてじいさんが谷に向かう時機を知ることができる? 落ちる先は、もちろん谷でなければならない。そうでなくては花竜は回収に向かえない。しかし、谷に向かう白王獅子が、指定した地点に――なぜなら、花竜が回収でき、かつ花竜を攻撃できる地点を厳選しなくてはならないので――落ちるよう仕掛けを施すことが、可能なのか。
 あのとき、じいさんが谷に向かうことを知っていたのは、俺とじいさんと花紫。あとは、いるかどうか知らないが、じいさんの身内くらいか。他には、いないだろう。じいさん自身が身を賭してまで、花竜を片付けたいと思っていたようには見えなかった。花紫にしても、花竜が痛手を受けて利を得られる立場ではない。まさか内通者がいる? 誰だろう。誰が……。
 二ヶ月がかりで計画を立て、実行する。それでも白王獅子の航行予定をどうやって知るのだ。二ヶ月……?
 二ヶ月という符号に、ジェスはごくりと喉を鳴らした。顔の産毛までがよだつような寒気を感じ、ジェスは左手で見えない左目を押さえた。手が震えているのか、合わない歯の根が顔を震わせているのか。
 違う、もう一人いる。
 二ヶ月前から、白王獅子がここに来ることを知っている人物が。
 ユリア。
 俺が追ってくることを、あいつは知っている。それは推測ではない。既存の事実として、あれは俺が谷に来ることを知っている。おそらく、雍焔を叩き潰すためのパートナーとして花竜を選択することさえも、おそらく。あれは、俺のすべてを予見する。俺が、何を思い、どんな手段を講じ、どのように行動するか……。
 知っているのだ。
 ぐにゃり、と眼前の光景が歪む。同時に視界が暗転した。平衡感覚をなくしたジェスは壁に背をもたれかけさせ、なんとか転倒を免れる。自分の鼓動のほかには耳鳴りしか聞こえない。じとり、と額に汗が滲んだ。
 懸命に呼吸を整えながら、彼は再び思考の構築を試みた。
 ユリアは知っていた。それはユリアを手中にした雍焔も知っていた、ということ。
 花竜が、あの谷に出向くことを。花竜が……?
 ちがう、俺だ。ユリアは、俺の行動を知っている。そして雍焔はそれを利用した。
 俺がエリシュシオンを訪れることを知っているならば、宇宙港を見張ればいい。俺を見つけることは簡単だ。ユリアがいる。ユリアが俺を見まちがえることはない。俺がこの星を訪れる、それが計画の始動を示す狼煙。
「どうして」
 どうしてそのことに気づかなかった。迂闊すぎる。ひきつけを起こしたように不規則で激しい鼓動に、右手でジェスは胸を押さえる。痛むのは心臓という臓器なのか、それとも魂だろうか。固く目を瞑り、背を壁に預けたまま、ジェスはずるずると座り込んだ。
 雍焔の利益は結果的に花竜と対立する。俺と、ユリアをはさんで。
 やつはユリアを手放しはしない。それはユリアの外見ゆえではない。もちろん若く美しい女というだけでも、この谷では価値が高い。だが、なによりユリア・アリオールの名前に付随する名声が、やつの仕事を助ける。雍焔は暗殺――ターゲット一人のために旅客船ごと爆破する派手なやり口を暗殺といってよいのなら――を好んで請け負うと聞いた。いままではその標的とできうる者は新進気鋭の青年代議士や、若手の実業家という未来の要人であったが、ユリアを手にすることで既存の要人をも標的に加えることができるだろう。
 ユリア・アリオールはたとえ要人であっても個人の私的な宴席に侍ることはない。なぜなら彼女は歌姫と呼ばれていても職業歌手であり、城に籍を持つ姫ではないからだ。しかし彼女を姫として侍らせたいと思うものは多い。そういう標的に「秘密にしていただけるなら」と彼女を近づける。ユリア自身に手を下させてもよいし、手引きをさせるだけでもよい。利用価値が高いから、雍焔は彼女を生かしておいたのだし、まして手放す気がないことは明らかだ。
 ジェスは罪と汚辱に塗れるユリアを想像し、呼吸ができなくなるほどの衝撃を受けた。
 ユリアが!? いやだ、だめだ!
「ジェス」
 声をかけられたことを認識しても、即座に反応できない。薄目を開き視界に入ったすらりとした脚をのろのろと上にたどる。連幸が心配そうに覗き込んでいる。立ち上がる気力さえないまま、ジェスはたずねた。問いかけられたくはなかった。
「待ち伏せに遭ったって?」
 連幸は、きれいな顔をすこし翳らせて頷いた。彼は頷いたときに頬にかかった髪を手のひらでさっとかきあげた。真珠色の髪の動きが残像をともなってジェスの右目に映る。
「ええ。詳しいことがわかるには、まだしばらく時間が必要でしょう。もう少し、休んだ方がいいですよ」
「いや、そうも言ってられないよ。俺は、なんともないんだから」
 俺は、なんともないんだから、とジェスは二度くりかえし、ことばを切った。
 ジェスの沈黙は不自然に長い。視線を床に落としたジェスに連幸が訝しげに声をかける。
「ジェス?」
「落ちるはず、なかったんだ」
 ぽつりとつぶやいたジェスのことばに脈絡を見つけられなかったのだろう、連幸はとまどったように瞬きをした。
「自然に落ちるはずなんて、なかったんだ。誰かが、故意に落とそうとしなければ、白王獅子は落ちなかった。それなのに、どうして……」
 どうして、気付けなかったんだ。
 ジェスはそうつぶやいた。そのまま膝に顔を埋める。
 あの気のいいじいさんを死に追いやったのは、俺だ。俺の油断が、じいさんを殺し、あの負傷者を生んだ。
「ごめん」
「……本調子じゃないんだから、仕方がないですよ。言ったでしょう、表から見えない傷のほうが、影響は大きいんです」
 穏やかな連幸の声に、ジェスを責める響きはまるでない。あれだけの損害を被ってなお、気付かなかったのはお互い様ですから、と彼はジェスに語る。
「少なくとも花紫から報告を受けた時点で、本来なら、俺はこの事態を予測できなくてはなりませんでした。まるきり思いもよらなかった、とは言いませんが、こちらの予想をはるかに上回る事態です。これまでの状況から、雍焔が攻撃を仕掛けてくるまでに、四、五日の間はあるだろうと思っていましたからね。油断があったことは否めません。お詫びするのはこちらですよ。すみません」
 それがすべて真実だと信じるほどジェスは愚かではなく、けれどその心遣いに敢えて礼を述べるほど野暮でもなく、ただ彼は小さく笑って頷いた。
「斐竜は無事なのか」
「王虎と路英(ルーイェン)のおかげで。路英の……脚と引き換えですね」
 白王獅子の機体を簡単に調査し、その操縦席に斐竜たちが入り込んだ直後、崖の上からの集中砲火を浴びたらしいです、と連幸が言う。
 きっと、ここを運ばれていったあの青年だ、とジェスはその姿を思い出す。両足を失っていたため、随分小さく見えた。鉛色の髪も、グレーのコンバットスーツも、すべてが血の色に染まっていた。
 連幸はそのときの状況を、わかっている範囲で教えてくれた。
 斐竜が何かに気付き、あたりを見回した。不審な気配を感じたという。その気配を、数瞬遅れで王虎が察知した。操縦席の強化ガラスを王虎の左腕が叩き割る。彼が右手で斐竜の襟首を掴んで機体の外に投げ出した瞬間、白王獅子はガラス細工が内側からはじけ飛ぶように砕けた。斐竜は受身を取る間も与えられず地面に投げ出される。飛び散る破片から身を守りながら、地面を二度三度と転がりどうにかして起き上がると同時に気付く。目の前の旧式手榴弾に。一瞬の間をおいて白くそれは閃光を放つ。吹き飛ばされた斐竜は背中をもう一度地面に打ちつけた。目を閉じた斐竜が次に目を開けたとき、路英の体が斐竜の上に覆い被さっていた。とっさに路英は斐竜をかばったらしいが、路英の脚は爆発に巻き込まれちぎれとんだようだった。小さくなった路英の体を抱きかかえる斐竜を混乱の中やっと見つけ出した翠燕が二人を両脇に抱えて比較的安全な場所に避難する。そのころ業火の中、石涼と白狼は白王獅子のB・B(ブラックボックス)と基幹プログラムを手に入れる。退去する際船内にいた数人の負傷者を引きずり出したが、石涼はそこで動けなくなった。負傷者の援護をしながら白狼が石涼を引きずって退避する。
 かろうじて敵の奇襲をやり過ごしたあと、一時間の道のりを、第二の攻撃を警戒しながら負傷者を連れて、三時間かけ退却したらしい。攻撃されていた時間はおよそ三十分ということだった。敵は実に手際よく奇襲し、引き上げていった。どうしてそこまで優位を取りながら相手は花竜の一党を殲滅しなかったのか、と問うジェスに連幸が笑った。
「花竜がそこにいることを知らなかったからでしょうね。知っていたなら、こんな小手先の攻撃だけで済ませることはないでしょう? これは挨拶ですよ。派手好きな擁炎らしいデモンストレーション。でも」
 連幸はそこで口を噤んだ。
「でも?」
「愚かです」
 一言で答えた連幸に、ジェスは二、三度まばたきをし、何と返したものかと考え、結局「ああ、そうかもしれないね」と言うだけに留めた。連幸のことばがあまりにも簡潔で、具体的に擁焔らの何を指して愚かだと言うのか分かりかねたからだ。
「それで、みんなの具合はどうなんだい?」
「王虎の破損の具合から考えれば、路英が生きているのは僥倖でしょうね。みんな興奮状態なのか、記憶がそれぞれスポットになってしまっているようで、詳細は不明です。今お話したことも、俺がそれぞれの目撃証言から組み立てた推論に過ぎません。加えて、斐竜は細かいことを語るのに不向きですし、翠燕は多くを語らない……おまけに二人とも戻るなり、十人くらい引き連れて飛び出して行っちゃいましたし。敵情視察って言ってましたけど、さて、視察で済むかどうか」
 ふっとため息をついた連幸は、肩をすくめてジェスを見た。
「そいつは大変だな」
 飛び出していったのは斐竜で、翠燕は斐竜が飛び出していったので仕方なく護衛についたのだろう。ほか十数名は、血気盛んな若者だという。事後処理のほとんどを任されてしまった連幸と、お守り役の翠燕の苦労を思い、ジェスもため息をついた。
 新人研修を思い出す。
 自信満々、実力散々。そんな相手との苦難の日々。かつての自分が彼なのだと、懸命に自らを納得させて共に過ごした。どちらかといえば、俺のほうがよほど可愛げのある見習だったと自覚するが。
 格好だけは一人前で、撃てもしないのに銃を片手でかまえるのが好きだった。やつの膂力では銃の反動を殺せない。発砲した瞬間にも狙いが外れる。だが、やつは俺の忠告など聞き入れもしなかった。そのせいで無関係な人間を撃つことがなかったのは幸いだが、跳弾で割れたショーウィンドウの破片が通行人を傷つけた。そして始末書を書かされたのは、いつも俺。表題は「監督不行き届き」だ。ああいう人間を無鉄砲と表現するが、やつはまさに人間鉄砲玉だった。勇気凛々、飛び出して行き、何かにあたるまで止まらない。その何かがターゲット以外であったことなど気にも留めない。その割りに当人の負傷は少ないのだが、偶然その場に居合わせただけの善良な市民を危険にさらすこと数回。
 運というものが、仮に空気中の成分の一つなら、あいつが全部吸い取ってしまうのだろう。そのため周囲はパニックに陥る。やつの調子が乗れば乗るほど、周囲の損害は甚大だ。だがやつの糧となる強運の成分が手近にないことも、この世にはままある。そういうときは仕方がないから俺がフォローする。しかし俺が命を救ってやったことさえ、やつは気付くはもちろん、考えもしなかったようだ。それも一度や二度ではないというのに。ちくしょう。
 まあ、俺も良き師ではなかったが。
 実のところ任務執行妨害でターゲットもろとも始末してやろうかと考えたことも一度ならずあった。これは冗談でなく本気である。実行しなかったのは良心の働きではなく、そんな悪巧みをする余裕もないくらいターゲットが弱かったからだ。研修生をつれての仕事に、さほど難しい仕事がくるはずもない。それを「案外、簡単なものですね。でも、まあ、こんなものかな」とやつは言ってくれた。怒りを通りこして、脱力してしまったのは言うまでもない。「お疲れのようですね」と、俺のその表情を見てやつは言い、「御歳ですか」と聞いた。いったいどういう環境で暮らすと、ああ育つのか、いまでも疑問だ。
 思い出すだけで苦味が胸中に満ちる。だが。
 ジェスがAG’を裏切って逃走したという情報を聞きつけた彼は、一番初めにジェスの足取りをつかみ、最後までジェスを追ってきた。進路をふさぐように立ちふさがり、銃口をジェスに向けていた。ジェスに教えられたとおり両手でしっかり握って。
 セーフティがかかったままだったのだが……阿呆。
「理由があるなら、話してください。俺にだってできることが、あるはずだ」
 次第によっては共にAG’を抜けてもいい、と言外に叫ぶ彼を、俺は置き去りにした。訳は話せないと俺が答えると、傷ついた子供のような表情で唇を噛んでいた。そして背を向けた俺を、やつは撃たなかった。前方のショーウィンドウに映ったやつは、銃を下げ視線だけを真っ直ぐ俺の背に向けていた。馬鹿め。振り返りざまに撃たれたらどうするんだ。
 実際やつは子供だった。AG’エージェントの養成学校を四級スキップしたというから、まだ二十歳か。AG’を抜けることの重要性を認識できなくても、無理はない。AG’を裏切るということが、そのままテラを裏切ることになるのだとは、例によって考えもしないのだろう。元気でいるんだろうか。
 懐かしい人物を思い出したためか、こわばっていたジェスの表情が多少やわらいだ。
 過去のことはこの一件を解決しない限り、素直に懐かしむことのできる記憶にはならないけれど。
 ジェスはゆっくりと息を吸い込み、倍の時間をかけて吐ききった。
「……無事にもどってくると、いいけどな」
 まだ少し青ざめてはいるが、ジェスの顔色はずいぶん回復した。連幸がその様子を確認して、今度はほっとしたように小さく息を吐く。
「まあ、敵さんも、いつまでも戦場跡で祝杯あげたりなんて、してないでしょうしね。大丈夫だと思います。でも誰もいないとなるとそれも困りますね。斐竜の癇癪のぶつけ先が必要ですから」
 もういちど肩をすくめた連幸は、ジェスの気持ちを引き立てるようにおどけて見せた。その口調と表情が、本当は自分も一緒に行きたかったのだと告げる。
「どうして君は残ったんだ?」
 家族そろってのピクニックに、ひとり置いてけぼりを食わされた子供のような顔をのぞかせた連幸に、ジェスはくすり、と笑った。
「やるべきことがあったので」
 代理を立てられるなら、良かったんですけどね。仕方がありません、と、さも残念そうに連幸はため息をつく。その様子だけを見ていると、連幸が参加したかったのは敵情視察にかこつけた報復だったということを忘れそうになる。苦笑しつつ、ジェスは壁をつかんで立ち上がった。
「気付くべきだった。雍焔が、俺をマークしてることに。気付いていれば、先手はこっちが撃てた。……と」
 よろめいたジェスを連幸が意外なほど力強く支える。華奢に見えても連幸は花竜の精鋭だ。
「大丈夫だよ。ごめんな。……手伝えること、あるかい。負傷者の応急手当てとか。これでも一応ハンターだし、軍医の免許も持ってるよ」
 ハンターはAG’のエージェントの区分である。主に単独で事件の処理に当たるため、戦時に必要なあらゆる知識を有している。笑いながら、連幸はジェスを見た。
「元ハンターでしょ?」
 そしてこう付け足した。
「医師免許の話は内緒にしておいてください。ここの医者はモグリですから。それに会えばわかると思いますけど、それはそれは、恐いんです。あの王虎でさえ、尻込みするんだもの。医務室は地獄の門なんて噂されてるくらいだから、あなたが医師だって知れたら、前に長蛇ができてしまいますよ」